【七十三.暗いワゴン車の中で・五】

 ワゴン車の中は、薄暗く、窮屈だ。

 ここはどこ? どこかの山の中に、くるまは停められているようだ。ひどいタバコの匂いで、うまく息が出来ない。頼りのお母さんもお父さんもいない。そして中にいる小さな頃のわたしは、裸んぼにされている。窓に小さな手をついて外に向かって叫んでいる。窓ガラスの、温度のないひんやりとした感覚が手に伝わる。窓の向こうには、四歳のおとうとと、お母さんが居る。ふたりを呼んでいるのだ。助けて。助けて……と。

 もちろん、わたしはその子が誰か知っている。長めの黒髪のウルフカットにピンクのくまのワンビースが可愛い、わたしのたったひとりの大切なおとうとと、その手を引くお母さんが、背を向けて歩いている。襟足がとても綺麗で、大好きだった。けれど今は、どうしてわたしに気付かないのか、わからない。


「かいちゃん、かいちゃん! おかーさん!」


 それでもわたしは、窓ガラス一枚を隔てた先にいる、おとうとを呼ぶ。助けて欲しくて。大事な、世界一大切なおとうと。ずっとずっと愛してきたおとうと。わたしはずっとかいちゃんといっしょに生きてきた。四年間、守ってきた。だからかいちゃんなら、分かってくれるよね? わたし、怖いの。ここ、すごく嫌なの。助けて。お願い。わたしは、どうしてもおとうとに助けて欲しくて何度も窓ガラスを叩く。


「たすけて、たすけてえ」


 でも、振り返ったピンクのくまのワンピースを着たその子は、かいちゃんじゃ無い……「わたし」だった。


「まだ、思い出せないの?」

「おもいだすって、なに?」

「思い出せると、いいですね、先輩」


 そう言うと、「わたし」はお母さんから引かれて、遠くに行ってしまう。


「まって、たすけて、たすけてえ!」


 けれどわたしは、窓から引き剥がされて、またワゴン車の座席に顔を押しつけられた。


 むだむだ、聞こえるわけないって。

 お母さん、行っちゃったね?

 弟君の方が大事だったりして!


 何人ものお兄さんの笑い声が聞こえる。


「おねえちゃんだもんな。守れるよな? おとうとのこと」


 知らない男のひとの声がわたしの耳元でささやく。

 びくん。

 わたしは身体を強ばらせた。


「大事なおとうとだもんなあ? 同じ目に、合わせたくないだろ」


 こくこく。わたしは涙を流しながら頷いた。


「じゃあ、もう少し辛抱だ。これしてれば、怖くないから」


 そう言って、また真っ黒な布を、わたしの目に巻いた。


「やだ、やだあ!」


 やっぱり怖くなって逃げようとしたけど、ほっぺたをびんたされて、座席に叩きつけられた。

 黒い布がずれる。

 ズボンを脱いだお兄さんが、また、のしかかってくるのが見えた。


 おかーさん。おかーさん。……かいちゃん……たすけて……


 また気持ちの悪い笑い声を遠くで聴きながら、わたしはあまりの痛みで気を失った。

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