異端者

@nanakusayuu

一話(完)

 立て続けに発生した自然災害によって、村は崩壊の危機に直面していた。古い建物は地震で崩れ、そのあとに襲った津波で海沿いの建物は半壊状態だ。台風による暴風や大雨の影響で畑にも被害が及び、食料も備蓄を頼らざるを得なくなった。

 そしてその村では、古くから伝わる言い伝えが人々の心を支配していた。

 災害は神の怒りの表れだ、祟りだ。生贄を差し出せばすべて収まるだろう。

 今朝の集会で長老が言った言葉を頭の中で反芻しながら、生贄に選ばれた少年は小さく舌打ちをした。そんなことで被害が収まる訳では無いのに。どうしてそんなことで自分が殺されなければいけないのだろう。

 明後日殺されることが決まっているというのに、彼に絶望した様子は見えなかった。ただ静かに憤って、時折かすかな舌打ちを小さな部屋に響かせた。

 まあ、大人しく殺される気は全くないが。

 少年はこの村が嫌いだ。彼はここ以外の場所を知らなかったが、それでも強い嫌悪感を覚えた。小さいことから聞かされてきたこの村の言い伝えも、困ったことが起きると必ず差し出す生贄の文化も。そして死ぬことは自由になることである、という考え方も、何もかもが嫌いで、信じることができなかった。

 少年が住む村は、海に浮かぶ小さな島にある唯一の村だった。それでも住人は百数十人しか居ない。

 言い伝えによれば、この村の外に人間は居らず、海の向こうには楽園があるのだという。肉体が滅びたとき初めて魂は解き放たれ、楽園に行くことができる。…なんて話、もちろん少年は毛ほども信じていなかったが。

 だが、彼の母親も含め、村の全員がそれを信じて、心の拠り所としていた。

 一人だけ違う考えを持つ少年は、この村にとっては異端者でしかなかった。

 そして、少年は他の住人とは少し違う容姿をしていた。茶色の髪の毛と目が一般的だったが、彼は闇を溶かしたような漆黒の髪に深い緑の瞳を持っていた。もちろん住人も、そして母親さえも少年を気味悪がった。まるで彼がこの村の出身ではなく、島に流れ着いた異邦人のように。

 ふと、生贄に選ばれたもう一人の少女のことが頭をよぎった。そういえば彼女も特殊な髪と瞳を持っていたはずだ。

 もしかすると、二人が生贄に選ばれたのはそのせいなのかもしれない。気味の悪い存在を排除するために。

 こういうところが嫌いなんだ。少年は眉間にシワを寄せてため息をついた。

 少女とは特別仲がいいわけではなかったが、顔は知っていた。なにせ小さな村だ。顔を知らない人など居ない。

 ただ、なぜか瞳の色だけが思い出せない。

 彼女はこの理不尽な運命をすんなり受け入れてしまうのか。それとも抵抗するのか。

 なんとなく尋ねてみようと思い立って、少年はゆっくりと立ち上がった。暇だし、いい暇つぶしになりそうだ。

 家の奥には母親がいるが、何も言わずに玄関に向かう。

 すると、後ろから疲れたような声がかかった。

「あなた、ねえ、逃げようなんて考えないでよ。お願いだから。わかるでしょう?」

 あなたが死ななければこの村はもう終わりよ、あなたは生贄に選ばれたんだもの。

 少年は返事をせずに外に出た。後ろから声は追ってこなかった。

 言い伝えを信じていない少年の目に、信者たちはひどくばかばかしく映っていた。生贄をささげても、そのおかげで解決することなどないのははっきりしていたし、それは皆分かっていることなのかもしれない。それでもこの百人程度のコミュニティの中で、なにかに縋らずに生きる方法を彼らは知らないのだろう。

 人はなにかにすがらなければ生きていけないのだ。

 そして、そうしなくても生きていられる少年は、完全な異端者だった。

 少年は周りからの視線を無視しながら、まっすぐに彼女の家へと向かった。

 全員生まれたときから知っていて、なにをしても噂は筒抜けだ。集会でも情報交換が行われるし、プライバシーもなにもあったものじゃない。

 ほとんどすべての家の構造が同じで、皆瞳の色も髪の毛も一緒で…。まるで個性がない。そういうところも、少年は大嫌いだった。

 ほかの家と区別もつかないような建物の扉を叩く。生贄の少女は家にいるのだろうか。儀式は明日の夜だ、遠慮をしている暇はなかった。

 ところが中から返事はなく、その代わりにお目当ての人物は少年の後ろから現れた。

「あの、うちになにか用ですか?母さんは今出かけてます…」

 振り向くと、その少女は不思議そうに首を傾げていた。背中まである濡鴉の髪に、……思い出した、紫色の神秘的な瞳。

「あれ、もしかして。その…生贄の」

「そう。今時間は?」

 愛想のない喋り方はもともとだ。少年はまっすぐに少女を見つめた。見れば見るほど吸い込まれそうな目。

 そしてその瞳には戸惑いの表情が濃く見える。

「別に、ありますけど」

 ならよかった、と少年は頷いて一歩彼女に近づいた。

「俺は生贄なんかになりたくないから逃げて自由になるけど、お前は」

 率直にいうと、少女は驚愕の表情を浮かべた。そんなこと考えもしなかったと言わんばかりだ。

 村から出ようとすることが禁じられているので当たり前だが、今までの生贄で逃げ出した者はいなかった。驚くのは当然だ。

 数秒の沈黙の末、彼女は言葉を探すようにゆっくりと口を開いた。

「えっと…私は……私は、このままでいいわ。生贄として殺されても、別にいい。…でも、あなたが逃げるのなら止めはしないわ」

「誰かに死に方を決められても平気なのか」

 怒鳴るように言うと、彼女は怯えたように目を伏せた。長いまつげが影を作って美しい顔が憂いを帯びる。

「それは…」

 情がない、と言われる理由はきっとここだ。彼はそんなこと気に留めたこともないが。

「なんの得にもならないのに殺されて、そんなのでいいのかよ!?」





 少女の家は、昔から貧乏だった。父親が事故で片腕をなくし、働くことができなかったからだ。

 生活するために、少女もその母親も必死に働いた。

 父親は、少女の傷だらけの手を見ていつも謝っていた。ごめんな、こんな思いさせてしまって。

 彼は自分のことを不甲斐ない、酷い親だと思っていたのかもしれない。だが、少女は父親がだれよりも好きだった。この世で一番、優しい人だと思った。

 父親には恵まれていたが、母親は、異様な外見をしている少女を気味悪がった。父親も母親も茶色の髪と瞳を持っていたのだが、なぜか少女は違ったのだ。

 少女がその紫色の瞳で母親を見つめると、彼女は決まってひどく怯える。

『どうしてアンタはそんな色なの!?気味が悪いわ、その目で見ないで頂戴!』

 まるで少女が彼女の子供ではないように扱った。

 その点、父親はその瞳の色や髪の色をよく褒めてくれた。

 いつの日だったか、母親を怖がらせないようにと髪で顔を隠していると、彼は片手で少女の漆黒の髪の毛を片手でそっと持ち上げ、瞳を覗き込んだ事があった。

『どうして隠すんだ。きれいなのに、もったいないだろう。父さんや母さんの色と違ったっていいじゃないか。父さんはその色、好きだぞ』

 優しく微笑むその顔が忘れられなくて、未だに夢に見る。…もう、彼は居ないというのに。

 


 少年が少女の家から帰り始めたとき、もう日が傾き始めていた。

 先ほど少女と交わした会話を思い出す。

『なんの得にもならないのに殺されて、そんなのでいいのかよ!?』

 思わず怒鳴った少年に釣られたのか、少女も声を荒げてまくし立てた。最初は弱々しくみえたが、それは違ったようだ。

『私はそれでいいの!誰かに死に方を決められるのはもちろん嫌よ、でも抵抗する術を私は知らないもの。この村の言い伝えは信じない、災害が神のせいだとも思わない、もちろん生贄で解決するなんて絶対にあり得ない。わかってるの、そのぐらい!』

 馬鹿にしないでよ、と彼女は涙を拭った。

『私はあなたみたいに強くない、だから逃げない。あなただけで逃げればいいわ』

 どうして彼女があんなに怒ったのか、少年には分からなかった。そして、どうして彼女が少年のことを強いと言ったのかも、理解できない。自分はただやりたいようにしているだけなのに。

 彼は昔からよく頭がいいと言われていたが、人の気持ちを察したり、コミュニケーションすることが苦手だ。そのため、思ったことを言うと酷く傷つけたり、怒らせたり、ということが多々あった。

 母親との仲が良くなかったのも、そのせいなのかもしれない。

 母親は昔から感情の波が激しい人だった。殴ったりすることはなかったし、少年をきちんと育ててくれはしたが、愛情があったのかと聞かれれば頷くことはできなかった。

 特に、少年の父親が殺されてからは。

 どうして父親が殺されたのか、少年は聞かされていない。そして、聞いてみたいと思ったこともなかった。十三年前に父親が死んだ前日の夜、何故かその日は早く寝かされて、そして朝起きたらもう父親は家から姿を消していた。母親はリビングで机に伏して泣いていて、少年は、彼がもう帰ってこないのだと察した。開け放たれた窓からは煙の匂いがして。

 そしてその通り、彼が帰ってくることはなかった。

 顔の記憶はもう薄れてしまっているが、唯一覚えているのは、…少年と同じ黒い髪に緑の瞳を持っていたことだ。

 まだ幼い内だったのでその時のことはあまりよく覚えていない、しかし、たしかひどい災害が起きて村が壊れかけていたときだった気がする。

 そしてその日から母親は、少年に関心を持たなくなった。

 とはいえ、少年も母親に愛情がある訳では無い。もちろん感謝はしているが。

 だからお互い様だ。

 その時、近くの家から話し声が聞こえてきた。ささやくような、…これは噂話の声だ。

「…お気の毒にねぇ。旦那さんに続いて息子さんまで生贄に選ばれるなんて」

 心臓が凍りついた気がした。矛盾しているが、やけに心臓の鼓動がひどく大きく聞こえる。足が震えて、その場から逃げたいのに動かない。集団は確実に少年と父親の話をしている。

…父さんが、生贄として殺された?

 その時少年の心を支配していたのは、他でもない怒りの感情だった。

「仕方ないわよ、気味が悪いじゃないの。いつまでも生かしておくわけには行かないじゃないの、異端者よ?あの髪に瞳、きっと人間じゃない、悪魔よ。殺して正解なの」

 少年は必死になって足を動かした。ガクガクと震えているが、早く逃げてこれ以上聞かなければ。

 聞きさえしなければ、なにを言われても少年にとって無害だ。

 ただ、こんな形で知らされたくなかっただけ。

 もし、本当に自分が髪と瞳の色のせいで殺されるのなら、そして父さんもそのせいで殺されたのなら。それが本当に本当なら、

 ……俺はこの村を永遠に許さない。


 もしかしたら村の言い伝えは本物なのかもしれない。

 生贄を捧げることですべてが収まるかもしれない。


 もし逃げたら村が本当に全滅するかもしれない。


 少年は唇を釣り上げた。


 ああ、言い伝えが本物であってほしいと願ったのは今日が初めてだ。




 儀式の前夜に、村から逃げて自由になる。それは少年の中で既に決定されたことだった。

 もともと1人で逃げるつもりでいた。だから、別にあの少女が逃げるのを拒もうが構わず逃げる。

 そのはずだった。一人のほうが逃げやすいのは確実だし、

 その日の夜、こっそり寝室の窓から抜け出した少年は、村を囲う海に向かおうと足を進めた。村は深い海に囲われているので、特に監視の目もなかった。

 そこらへんにあるボートを1つ拝借すれば十分だ。

 それが計画だったのだが、向かう途中に彼はぴたりと足を止めた。

 あの少女のことが、妙に引っかかる。

 彼女が殺されようが殺されまいが、少年の知ったことではない。生贄として殺されることを、彼女は受け入れている。だから、なにも助ける理由はない。

 ……それでも、なんとかしたいと思ってしまうのは何故だろう。

 生贄を選ぶ基準を知ってしまったから?いや。きっと違う。

 気づけば、少年は少女の家へと走っていた。住人にバレないように、足音をたてないように。

 俺はバカだ、家に向かったところであいつを連れ出せるかわからない。バレたら俺はきっとすぐに殺される。

 何度も足を止めそうになりながらも、少年は必死に走った。

 自分だけ自由になるのはなんだか後味が悪いし、他人の言いなりになってるやつを見るのはイラつくし、それに、……。

 奥歯を噛み締めながら、少年は頭のなかで無意味な言い訳を並べ立てた。

 もう住人はほとんど寝ているのだろう。家の窓から見える光はなかった。自分の呼吸音だけが聞こえる。こんな夜中に出歩いたのは初めてだったが、不思議とその事への高揚は感じられなかった。

 心は静かに凪いでいる。まるで真夜中の水面のように。

 もう少しで少女の家に着く。少年はどこか祈るような気持ちを覚えた。彼女を連れ出せるのか、それとも。

 もし無理なら、完全な無駄足になってしまう。

 そもそも普通に考えれば、彼女は眠っているだろう。一見儚げな印象だったが、彼女は恐怖に屈しない強さを持ち合わせている。少年の人を見る目は確かだ。

 それでも、もう来てしまったものは仕方がない。少年は目の前の小さな家を見つめた。どこが彼女の部屋だろうか。

 足音を潜めて家に近づく。他の家と同様、なんの物音もしなければ光も漏れていない。少年は家を一周しようと横に回った。

 その時、静かにすすり泣く声が聞こえた。少年は不可解に思いながらも足を進める。聞き覚えのある美しい声。しかも記憶に新しい。

 この声は、

「…おい、お前、こんなところでなにしてんだ」

 声を掛けると、地面にしゃがみこんでいた少女……生贄の少女が怯えた様子で少年を見上げた。

「え…どうしてここに?」

「こっちのセリフだ」

 冷たく言うと、彼女は目を逸らしてうつむいた。なにやら必死に手で足を隠そうとしていて、不審に思った少年はむりやり彼女の手を掴んで引っ張り上げた。傍から見ると少々、というかかなり乱暴だったが、彼は全く気に停めない。

 …そして、少年は彼女が必死に隠していたそれを見て絶句するしかなかった。

「鎖…?おまえ、なにつけられてんの。家族にやられたのか?」

 少女の細い足首につけられた鎖。かなり古いようで、真っ黒に錆びついていた。

 彼女は顔をそむけると、苦しげに小さくつぶやく。

「母さんは、私が生贄に選ばれてとても喜んでた。これで厄介者が減るって、もう気味が悪いやつがが居なくなるって」

 …もうどうでもいいけれど。

 それきり黙った少女から視線を外すと、少年はおもむろに懐から小さなナイフを取り出した。護身用のそれを少女の足につけられている鎖に振り下ろす。

 彼女は驚いたように目を見開いた。

「なにを…」

「黙ってろ。ほら、すぐ取れるだろ」

 少年が鎖を手に取ると、すぐにそれはポロポロと崩れた。かなり錆びついていたから、小さなナイフでも砕けるのだろう。

 少女はあっけに取られた様子で粉々になった鎖を見つめた。その様子だと、壊すという発想すらなかったのだろう。

 その時、家の灯りがつき、中からヒステリックな奇声のようなものが聞こえてきた。鎖を斬る音で住人が目を覚ましたようだ。もし見つかれば脱出は不可能になる。

 少年はとっさに少女の手首をつかんで引っ張った。小さな悲鳴をあげた少女に構わず海の方に走り出す。

 後ろから甲高い叫び声が聞こえる。少女の母親だろうか。少年は振り返らずに走りながら言った。

「前、お前は誰かに生き方を決められてもいいって言ったよな!?」

 ええ、と答える彼女はもう息が上がっている。数時間は外に放り出されていたのだろう。体力がすり減るのは当然だ。

「なら、俺が決めてやる!お前は俺と一緒に自由になるんだ。なかなかいい案だろ!」

 少女は虚を突かれたような表情をしてから、そしてその美しい瞳を細めて柔らかく微笑んだ。



 村を囲う海に、二人が乗った小さなボートだけが浮かんでいた。月の光が水面に反射していて、神秘的に輝く。少女は魂が抜けたように海を見つめていた。

 あのあと、なんとか少女の母親を撒いた彼らは、浜辺に放棄されていた小さなボートに乗り込んだ。かなり古いものだったが、とりあえずは問題ないだろう。

 村の人間は、魚を釣るために海へ出ることはあるが、村がある小さな島からどこかへ移ろうとは決してなかった。「出ようとすると楽園にはいけない」のだそうだ。

 それを信じていたわけではなかったが、少年が村を出ようとするのは初めてのことだった。

それも深夜に。

 だが、何があるのか分からない場所に行くことへの恐怖はなかった。

 村を振り返ると、災害で壊れてしまった建物の残骸が見えた。それを見て少し気の毒に思ったが、それでも自分が殺される筋合いはない。もう彼の心はすっかり村から離れてしまっていた。

 横でしゃがんでいる少女は、陸を離れてからずっと海を眺めていた。

 少年もつられて輝く水面に視線を移す。その美しくも不思議な色は、なんだか少女の瞳に似ていた。

 ボートはゆっくりと、しかし着実に島から離れていく。寂しさはなかった。

 ただ、真っ暗な村をみるのは、なんだか悲くて。だから少年は島を見なかった。



 どのくらい時間が経ったのだろう。ふと村の方を見ると、もう随分離れていた。月も傾いていて、少し空が白み始めている。

「ねえ」

 ずっと微動だにしなかった少女が澄んだ目を向けて言った。

「きれいね、夜の海って。私、ずっと怖かったの、海が。でも、すごく好きになったわ。……だから、早く自由になりましょう。夜が明けないうちに」

 言うと、彼女はボートの縁に腰をかけて細い足を水に入れた。まだ鎖に繋がれていた部分が赤い。

「ねえ、あなたって、村の言い伝え信じてないのよね?」

 唐突な質問に驚きながらも、少年も少女の隣に座って足を水に付けた。海の水は生暖かくて、少年たちを優しく包んでくれそうだ。

 そして同時に、真っ暗で底は見えない、酷く孤独な場所のように思えた。

「信じていない」

「そう。じゃあ、神さまの存在も信じてないのね」

 聞かれて、少年は首を横に振った。

「俺の神さまは、俺自身だから。自分の未来を決められるのは自分しかいないだろ」

 少女はそれを聞いて目を見開いた。夜風が吹いて、彼女の豊かな黒髪を靡かせる。

 村でそんなことを言えば今よりも更にはじかれてしまうだろうが、今はそんなこと気にならなかった。静かな海に耳はない。

 少しの間、少女は何も言わなかったが、しばらくすると幸せそうに笑った。

「…なら、私の神さまはあなたね。……ありがとう」

 少女は目を伏せて呟いた。それは独り言のような小さくて闇に吸い込まれそうなほどに儚いものだったが、少年の耳にしっかりと届いた。

「ありがとう、連れ出してくれて。助けてくれて。海の美しさを、夜空の美しさを教えてくれて。ほんとうにありがとう。嬉しかったし、きっと私たち自由になれると思うの」

 ああ、とまた少年は答えた。

 少女は優しく笑った。



 広い海に、小さな水しぶきがあがった。

 そして、新しい太陽の光に照らされて爛漫に光る水面には、主を失った小さなボートだけが残された。


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