十六歳、薄縹
あの時好きな人の幸せを願えなかった私は、まだのうのうと生きていた。早く死ねばいいのになんて思いながら大それた自殺もできない自分に、更に嫌気が差した。
私はいつの間にか高校生になっていた。高校生。その文字を見る度足元がぐらついて、背筋がぞっとした。私の魂は、今でもあの海にあるのに。一歩ずつ着実に、大人に近づいていく自分。鏡に映る生気のない顔を見て、唇を噛むと血が滲んだ。
◇
「付き合ってください。入学式から、ずっと好きでした」
耳を疑った。放課後の教室、カーテンが揺れる。窓から覗く空は薄っすらと赤みがかっていて、小説の中に入り込んでしまったみたいだった。目の前にいるのは、ただのクラスメイトだったはずの男子。何が起こっているのか、よく状況を掴めない。
どうやら私は今、彼に愛の告白を受けているようだった。彼の頬は夕日に照らされてほんのりと色づき、眼鏡の落とす影が濃くなっていく。
「あぁうん、いいよ。えっと、私でよければ」
口が勝手にそう動いた。心残りばかりの初恋から卒業して、これで私も晴れ晴れとした恋ができるはず。それは、この上なく素晴らしいことだと思った。
「え……嬉しい」
彼は下を向き、そう呟く。不覚にも可愛いと思った。そう感じることのできた自分自身に対し、喜びが沸き上がる。くすんだラムネ色なんて忘れて、私の心を彼色で塗り替えてしまおう。彼は私のことが好きなんだ。だったら私も、彼を愛せばいいだけ。そうすれば私たちは、どこからどう見たとしても、青春真っただ中の恋人になれる。望んでいた幸せが、全て自分のものになると思った。
中原絢人。黒縁眼鏡のよく似合う、知的で格好いい人だった。趣味は音楽鑑賞、私服がとってもお洒落。ちょっと強引なところはあるけれど、こんな人と付き合えた私はつくづく運が良かったと思う。私たちが付き合いだしたことは、すぐにクラス中に広まってしまった。友達はみんな私のことを羨ましがり、いいなぁと口々に言った。
付き合ってから初めて出掛けたのは、隣町の大きな図書館。信じられないほど暑い日だったのを覚えている。帰りには綺麗なカフェに寄り道し、一緒にアイスを食べた。焼き付いて離れなくなったあの夏から、もう一年が過ぎていた。その後も家で勉強会をしたりと、良好な関係が続いた。絵に描いたように鮮やかな日々だった。
「ねぇ、あのさ。今度の、夏祭り」
夏休み、講習からの帰り道。彼がそこまで零したが、続く言葉は分かっていた。
「うん、一緒に行く?」
そう言うと彼は青空の下、満面の笑みを見せてくれた。そんなに楽しみにしてくれているのなら、私もそれに応えなくてはいけない。当日は、浴衣を着ていくことに決めた。
花柄の髪留めを買い、花火大会に浴衣を着ていくことを母に伝える。母は何かを察したように微笑み、着付けの仕方も教えてくれた。
そして迎えた、花火大会の日。地方とはいえ大きなお祭りなので、駅からの道はとても多くの人で賑わっている。待ち合わせ場所に現れた彼は袴を着ていた。格好いいねと褒めると、彼はアスファルトを見つめ、照れたような素振りを見せた。
次々に打ち上げられていく火の花が私たちを照らし、夏の色に染めていく。綺麗だね、そうだねと言葉を交わしながら、ただただ夜空を見上げ続けた。
花火が終盤に差し掛かったころ、彼の手が私の手に触れた。彼の大きな手。異性と手をつないだのなんて、幼稚園の時以来だろう。
ふと、彼が私の顔を見た。数秒間見つめ合い、ああ、これはそういう雰囲気なんだ、と悟る。空気に身を任せて目を瞑ると、彼の指が私の頬を触る。心を落ち着かせて、次の瞬間を待つ。
「え」
耳元で響いたその声に、私は目を見開く。彼の瞳に映る自分が、やけに遠く感じられた。何が起きているのか分からない。途端頭がぐちゃぐちゃになって、首筋から汗が伝う。
「ごめん」
私が立っているのは、さっきまでとは一歩下がった場所だった。はっきりと状況を飲み込めないまま、震えた唇を動かす。大きな花火の残響が耳に届いて、そこから逃げるように走り去った。
駆け込んだ先の路地で息を吐くと、べたついた暑さに襲われる。私はさっき、何をした?どこで何を間違えた?どうすればよかった?なぜ彼に、私の全てを預けることができなかった?今まで紡いできた、日々のページをめくっていく。フラッシュバックする、彩度の高い思い出たち。数秒考えたところで、決定的な、最悪な事実に気が付いてしまった。
あぁ、私。一度も、彼を愛したことがなかったんだ。だから私の身体は、彼のくちづけを本能的に拒否した。彼は私のことを、あんなに好きだと言ってくれたのに。やっぱり駄目だった。愛せなかった。どうしてかなんて、もう知っていた。私には、異性を好きになるなんて最初から無理だったのだ。最低最悪。死ねばいい。あの時もそう思ったのに、私、なんでまだ生きてるんだよ。早く死ねよ。不覚にも笑みがこぼれた。全てを諦めたような、乾いた笑いだった。
「藍、なんで」
後ろを振り返ると、走ってきたのか、肩で息をする彼がいた。どうして今、ここに来たんだよ。私にはもう、何も残ってないよ。ごめんね、私、中原くんのこと好きなのに。ちゃんと好きなんだよ。でもごめん、キスは無理だった。きみのことは好きだけど、そういう好きじゃないんだ。そういう目で見ること、それだけができない。話すのも楽しかったし、笑った時に目が細くなるのも好きだったよ。でもね、それでもね、無理なものは、無理なんだ。
感情が滝のように流れ出す。言葉にできない不発弾が、心の中で暴れはじめる。気付いてしまったからには、もうどうすることもできない。壊れても飛び散っても、そんなのどうでもいいと思った。
「あのさ。ごめん、私、女の子が好きなんだ」
「は」
刹那、空気が止まる。
「何それ」
彼が顔をしかめる。明らかに嫌悪の色を示していた。
「だからさ、ごめん、もう無理だと思う」
「……」
何だよそれ、じゃあどうして告白を受け入れたんだよ、彼はそんな目で私を見ていた。それでも彼は何も言わなかった。ただ口を噤んで、強い瞳を私に向けた。
全部自分が悪い。異性を愛せないと分かっていながら付き合った、自分が悪い。私が騙してたんだ。
その後、彼とは一度も話さなかった。音沙汰もなく、ただ日々が流れていく。でも、それでも。誰のことを考えても、頭にちらつくのはきみの横顔だった。涼音、きみのことなんてはやく忘れたいのに、あぁもう全部、染み付いて離れないの。海で抱きしめられた時、あの瞬間から、私の心は動かなくなちゃったみたいで。そこからは、もう、駄目だったんだ。
あまりにも美しいラムネ色の記憶が、ただただ私の首を絞める。
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