10 盃

 宴の最終日、客人の前に姿を現したセシルは今までとは違って見えた。

 この地域に古くから伝わる樹液で染めたドレスをまとっていた。それは豊かに波打つ金髪とそっと寄り添い、まるでセシルを黄金の枝葉をちりばめた宝石の樹のように見せていた。

 セルヴィウスに手を引かれて、自分の足で天幕から歩みだしたセシルは、客人の前で衣擦れの音もなく礼を取ると、ふわりとドレスの裾を流して坐す。誰よりも皇帝に通じる高貴な仕草に、客人は声もなくみつめていることしかできなかった。

 宴が始まってからも、セシルの変化は如実だった。今まで一切声を聞かせなかったセシルが、皇帝のささやきに相槌を打ち、時には風の音のような笑い声をこぼす。さすがに皇帝の前で直接子弟に声をかけることはないが、子弟の言葉に、小さくうなずくようになった。

 セルヴィウスはその変化を喜び、セシルに声をかける。

「体はつらくないか?」

 セシルは首を横に振って、そっと頭上を示す。

「いいえ。それよりごらんください、兄上。りんごの花がもう……」

 陽光の差す中、つぼみが綻び、白い花びらがこぼれてきそうだった。

 セルヴィウスは優しく言葉を返す。

「そなたは知らなかったのだな。この庭にりんごの花は無いのだ」

「ああ……ごめんなさい。見間違えてしまいました」

 セシルはうなずいて、柔らかくほほえむ。

 セシルの眼前には、視界を覆うほどのりんごの花が見えていた。甘い香りが満ちて、セシルを抱いていた。

 セルヴィウスの言葉の方が正しいのも、セシルはわかっていた。セシルはメティスを訪ねたとき、この木が切られたときを見ている。りんごの花は滅びた隣国の象徴で、セルヴィウスが隣国を滅ぼしたときにメティスが切らせたのだ。

 ただ、確かめたかったのだ。命の無い世界にセルヴィウスが呼ばれていないかと。セルヴィウスが見えていないと知って、セシルは心からの安堵を感じた。

 セルヴィウスは少し意外そうに声を上げる。

「りんごの花が好きだったか? ではそなたの庭に植えて育てさせよう」

 セシルはその言葉に、柔く首を横に振って返す。

「月の庭は、じきに私のものではなくなります。新しい主の御心に沿うように」

「あの宮と庭はずっとそなたのものだ」

 セルヴィウスは蒼い瞳にセシルを映して言う。

「いつでも戻って来てよいのだ。そなたが動けぬなら迎えに行こう。私はどんなときでもそなたの味方でいる」

 セシルの肩を滑ったショールを手に取って、セルヴィウスはそれに口づける。

「……だから、時々でよい。私を求めてくれ、セシル」

 目を伏せてつぶやいたセルヴィウスと、セシルは同じ表情をしていた。

(兄上、私には命の無い世界の方が近いのです)

 言葉には出せずに、セシルは哀しい思いで目を伏せる。

(このままでは、何も生み出すことなく終わっていくのです)

 幼い日から、血と汗と汚物ばかり流していた自分の体が、セシルは厭わしかった。

 セルヴィウスの父王がセシルを奴隷のように踏みにじろうとしていたのも、その目の色で伝わっていた。けれどセシルはそれでいいと思っていた。自分の体はそれくらいしか役に立つまい。おそらく自分は数度の出産には耐えられないだろうから、彼の君を満足させられるのはほんの数年だろうと思ったくらいだった。

 そんな自分と、セルヴィウスは違っていた。命の輝きに満ちていた。

 何かを切り捨ててでも前に進む意思、生き抜こうとする強さ。いつも眩しくて、セシルにとって一番美しい存在だった。

 彼が病弱で何の役にも立たない自分を、二十三歳まで長らえさせてくれた理由がわからなかった。セシルのことを愛しいと告げ、求めるのが、どうしても理解できなかった。

 ずっとわからなかったが、他国に嫁ぐことで、やっと一つだけセルヴィウスに与えることが出来る気がするのだ。

「兄上のお役に立つ子を産めるように……」

 言いかけて、セシルは口をつぐんだ。セルヴィウスには既に正妃との間に三人の皇子がいる。自分のような病弱な母から生まれた子が、格別セルヴィウスの力になれるとは思えない。

 けれどすべてを告げなかったセシルの言葉を、セルヴィウスは聞き取っていたようだった。彼は苦い笑みを刻んで優しく言う。

「私はそなたが健やかであってくれればよい。世継ぎのことは何も心配要らぬ」

 セルヴィウスは黙って、ふと遠いところを仰ぐような目をして言った。

「……だが私とて想像したことなら何度もあるのだ。そなたの子、それはきっと胸がつぶれるほど愛おしいに違いないのだろう」

 目を見張ったセシルに、セルヴィウスは告げる。

「一目見たら、後宮に幽閉してしまうであろうと」

「男児かもしれません」

「同じだ。男でも女でも、そなたの子だ」

 セルヴィウスは夢見るように言葉を続ける。

「もしそなたが遠いところにいても、その子をみつめてはそなたがいた日々を想うことができる。それはどれほど幸せなことだろう」

 セシルが瞳を揺らすと、セルヴィウスは首を横に振る。

「……冗談だ。忘れてくれ」

 春が祝福するように草木の香りを漂わせ、花びらが舞い落ちる。

 セシルはセルヴィウスの隣に座っているのが心地よかった。このまま眠りについて息絶えてもいいような気がした。

 ふいにセルヴィウスの目が何かを捉え、鋭さを帯びる。セシルが視線の先を追うと、客人の中から一人の女性が進み出てきた。

「ご温情に痛み入ります、陛下」

 それはもう十年間顔を合わせていない、セシルの母だった。

 セルヴィウスが父王を玉座から下ろしたとき、セルヴィウスは彼女も廃位に追い込んだ。国費を使い込み、父王の愛妾たちをいじめ抜いた彼女を後宮から追い出すのは、セルヴィウスが苦心した他の様々な変革に比べればずいぶんたやすかった。

 セルヴィウスの父王に溺愛されていたセシルも、幼い頃、吹雪の夜に母の命令で庭木に縛り付けられたことがあるらしい。ただセシルには、母とその虐待が結びつかなかった。母はいつもセシルに無関心で、ほとんど言葉を交わしたこともない。本当に実の母なのかも、実感がわかなかった。

 母は力ない目でセシルを見て声をかける。

「姫宮も、お元気そうで」

 母はまだ四十代のはずだが、それより一回りも老けて見えた。化粧もほとんどせず、とうに流行が過ぎた型の古いドレスをまとっていた。

 母は廃位後すぐに再婚したらしいが、じきに病を得て実家に戻ったと聞いていた。今目の前で膝をついている女性を見ると、それも無理らしからぬように思える。

 母はセシルを見て言葉を告げる。

「ごあいさつをさせてください。……私は遠いところに発つことになりました」

 はっとセシルは息を呑む。彼女の後ろに、セルヴィウスに生き写しの青年が立っていた。

 けれど今までと違い、セルヴィウスは彼が見えていないようだった。

 青年は一歩歩み寄って、母の肩に手を触れる。母はそれに気づいていないのか、セシルの方を見たまま言葉を続けた。

「せめてお別れを、と」

 母は従者から酒杯を受け取って、セシルに勧める。セルヴィウスが不愉快そうに目を細めて言った。

「結構。セシルは酒が飲めぬ」

「厭われているのは承知。けれどもう、実の娘に二度とお会いできぬのです」

 母は盃に自ら酒を注ぎ、それを一気に飲み干す。青年は母を後ろから抱き寄せると、ほほえんでうなずいた。

 母はもう一度セシルに勧める。

「哀しい母の思いを、どうかお受けください。姫宮」

 そのときセシルは、恐ろしい気配に気づいていた。

 魔と呼ばれる存在が背後にひそんだ、その酒杯。人より人でないものの気配に敏感なセシルには、それが常ではない結果になるのは承知していた。

 けれど母の別れの言葉の真の意味も、気づいてしまった。何度も生きたものの世界から逃れようとしたセシルには、母がどこに旅立とうとしているのかわかってしまった。

 セシルは引き寄せられるように、母の手から杯を受け取った。セルヴィウスが止める前に、一口喉に通す。

 焼けつくような強い酒が喉を伝っていった。

 瞬間、母は狂人のように笑いだす。

「ふふ……あははは!」

 母は禍々しい笑みを浮かべたままセシルを指さし、侮辱の言葉を浴びせた。

「後宮の娼婦め。王の子など産ませはしない」

 セルヴィウスは顔色を変えて、セシルの手から杯を叩き落とす。

「何を飲ませた! セシル、吐き出せ!」

「ははは!」

 母は高らかに笑って、口から血を吐き出す。

 セシルの中で何かが膨張するような衝撃があった。

 セシルは体内を走る激痛のような悪意を感じながら、ぐらりと倒れた。

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