第9回 キーワード:クラクション
異世界クラクション
カチッ。
俺は無意識のうちに、ハンドルの左側にある小さなレバーを引いていた。その瞬間、世界が一変した。
「えっ?」
目の前に広がっていたはずの東京の喧騒は消え失せ、代わりに見知らぬ森の中にいる自分を発見した。車内にいるはずなのに、周りには鬱蒼とした木々が生い茂り、どこからともなく鳥のさえずりが聞こえてくる。
「何だこれ…」
慌てて周りを見回すと、確かに俺はまだ車の中にいた。しかし、車の外は完全に異なる世界だった。アスファルトの道路は消え、代わりに土の道が伸びている。空には見たこともない鳥が飛んでいて、遠くには奇妙な形をした山々が連なっていた。
「まさか…異世界?」
そんな馬鹿な話があるわけない。俺、佐藤康平、25歳。平凡なサラリーマンが異世界に来るなんて、ネットの小説でしか起こり得ないはずだ。
でも、目の前の光景は紛れもない現実だった。
「とりあえず、落ち着こう」
深呼吸をして、状況を整理する。たった今まで、俺は東京の渋滞に巻き込まれていた。いつもの帰り道、隣の車線から無理やり割り込んでくる車に対して、思わずクラクションを鳴らそうとしたんだ。そして、レバーを引いた瞬間…ここに来た。
「まさか…クラクションが原因?」
そう考えると、もう一度レバーに手をかけた。でも、何も起こらない。いくら引いても、普通のクラクションが鳴るだけだった。
「くそっ、どうすりゃいいんだ…」
パニックになりそうな気持ちを抑えつつ、車を降りることにした。ドアを開けると、新鮮な空気が流れ込んでくる。都会の排気ガスや喧騒とは無縁の、澄んだ空気だった。
「とにかく、人を探さないと」
車から離れるのは怖かったが、このまま座っているだけでは何も始まらない。エンジンを切り、鍵を持って車を降りた。
森の中を歩き始めて数分、不思議なことに気づいた。この世界では、自分の足音以外の音が全く聞こえないのだ。鳥のさえずりも、虫の音も、風の音さえも。まるで、世界から音が消えてしまったかのようだった。
「何かおかしい…」
不安が募る中、ふと目に入ったのは、道端に咲く見たこともない花だった。青と紫が混ざったような色をしていて、花びらは半透明。近づいてよく見ると、花びらが微かに振動しているのが分かった。
「これは…音を出しているのか?」
耳を近づけてみると、かすかに「ピーン」という音が聞こえた。その瞬間、世界に色が戻ったような気がした。鳥の鳴き声、葉ずれの音、遠くで流れる川のせせらぎ。すべての音が一斉に戻ってきたのだ。
「なんだ…音を聞くための花?」
混乱する頭で必死に状況を理解しようとしていると、突然、背後から声が聞こえた。
「おや、珍しい服装の方だね。どちらから来られた?」
振り返ると、そこには長い白髪と髭を蓄えた老人が立っていた。着ているのは、まるで魔法使いのような長い青いローブ。手には木でできた杖を持っている。
「あの…ここはどこですか?」
老人は不思議そうな顔をして首をかしげた。
「ここは静寂の森さ。音を失った者たちが集まる場所だよ」
「音を失った…?」
「そう。この世界では、音は貴重なものなんだ。音を操る力を持つ者もいれば、音を失ってしまった者もいる。君は…どちらかな?」
老人の言葉に、さらに混乱が深まる。音を操る力?音を失う?何を言っているのか、さっぱり分からない。
「すみません、私はよく分からないんです。たった今まで東京にいて、気づいたらここにいて…」
老人の目が大きく見開かれた。
「東京?ああ、伝説の異世界か。君は召喚されたのかもしれないね」
「召喚?」
「そう。この世界には、時々他の世界から人が呼ばれてくることがある。彼らは特別な力を持っていることが多いんだ。君も何か特別な力を…」
老人の言葉が途切れた。彼の目は、俺の手に握られたままの車の鍵に釘付けになっていた。
「その…なんだ?」
「これですか?車の鍵です」
「車?ああ、異世界の乗り物か。それで、その…車は、どこにある?」
俺は来た道を指さした。
「あっちの方に止めてあります」
老人の顔が突然明るくなった。
「それは素晴らしい!もしかしたら、君の車が我々の世界を救う鍵になるかもしれない」
「え?どういうことですか?」
老人は周りを見回してから、小声で話し始めた。
「実はね、この世界は今、大きな危機に直面しているんだ。音の魔王が現れて、世界中の音を奪おうとしている。彼の野望が成功すれば、この世界は永遠の静寂に包まれてしまう」
「音の魔王?」
「そう。彼は音を操る力を持つ者たちの頂点に立つ存在だ。だが、その力を悪用し、すべての音を支配しようとしている。我々には、彼を止める手段がない」
老人は俺の顔をじっと見つめた。
「だが、君の車にはクラクションがあるんだろう?」
「ええ、まあ…」
「それが我々の救いになるかもしれない。異世界の音、しかも大きな音は、魔王の力を打ち消す可能性がある」
俺は唖然とした。まさか、クラクションで世界を救うなんて…。
「ちょっと待ってください。私はただのサラリーマンです。世界を救うなんて…」
老人は優しく微笑んだ。
「君が召喚されたのには理由があるはずだ。この世界には、偶然なんてものはないからね」
その瞬間、遠くで大きな轟音が聞こえた。地面が揺れ、木々がざわめく。
老人の顔が険しくなる。
「魔王の軍勢が近づいてきている。彼らは君の存在に気づいたようだ」
「え?私の存在?」
「異世界から来た者の力を恐れているんだろう。さあ、急いで車のところに戻るんだ。私が魔王の軍勢を引き付けている間に、君は車で逃げるんだ」
「でも…」
「心配するな。この杖で、しばらくは彼らを足止めできる。君は南に向かって走るんだ。そこには我々の同盟軍がいる。彼らに会えば、次の行動が分かるはずだ」
老人の真剣な表情に、俺は言葉を失った。これが現実なのか、夢なのか。でも、今はそんなことを考えている場合ではない。
「分かりました。気をつけてください」
老人にうなずき、俺は全力で車に向かって走り出した。背後では、すでに戦いの音が聞こえ始めていた。
車に飛び乗り、エンジンをかける。ガソリンはまだ十分にある。南に向かって全速力で走り出した時、バックミラーに老人の姿が見えた。杖を振り回し、黒い影のような存在と戦っている。
「くそっ…」
俺は思わずクラクションを鳴らした。するとどうだろう。黒い影が一瞬怯んだように見えた。
「まさか…本当に効くのか?」
疑問が頭をよぎる間もなく、俺は全力でアクセルを踏み込んだ。未知の世界を、未知の運命に向かって走り続ける。
クラクションが鳴り響く中、俺の新たな冒険が始まったのだった。
南へ走ること数時間。ガソリンゲージが赤信号を点滅させ始めた頃、遠くに城塞のような建物が見えてきた。
「あれが同盟軍の拠点か…」
近づくにつれ、城塞の周りに広がる巨大な障壁が目に入った。それは半透明で、まるで音波が目に見える形になったかのようだった。
城門の前で車を止めると、すぐに警備兵たちが駆け寄ってきた。彼らは俺の姿を見て驚いた表情を浮かべている。
「お前は…異世界から来たのか?」
一人の兵士が尋ねた。俺がうなずくと、彼らは急いで城内に連絡を取り始めた。
しばらくして、一人の女性が現れた。長い銀髪を後ろで束ね、青い瞳が強い意志を感じさせる。
「私はリディア。この要塞の司令官だ。老賢者から連絡があった。君が異世界から来た救世主というわけだな」
「いえ、私は…」
言葉を濁す俺に、リディアは厳しい目を向けた。
「状況を説明しよう。魔王の軍勢はすでにこの要塞の外まで迫っている。我々の音の障壁も、もはや限界だ。君の力が必要なんだ」
リディアは俺を城内へと案内した。そこには大きな広場があり、中央には巨大な鐘が据え付けられていた。
「これは音律の鐘。かつては世界中に響き渡る音を奏でていたが、今は魔王の呪いで音が出なくなってしまった」
リディアは俺の車を指差した。
「君の車のクラクションで、この鐘を鳴らすことができれば、魔王の呪いを打ち破れるかもしれない」
「でも、どうやって?」
「我々の音響技師が特殊な装置を作った。君の車とこの鐘をつなげば、クラクションの音を増幅できるはずだ」
その時、突然の轟音が響き渡った。地面が揺れ、城壁が軋む音が聞こえる。
「魔王の攻撃が始まった!急いで準備を!」
リディアの号令で、兵士たちが慌ただしく動き始めた。
技師たちが急いで装置を設置する中、俺は車を鐘の前に移動させた。ケーブルが車のクラクションに接続され、もう一方は鐘につながれた。
「準備完了です!」
技師の声に、リディアが頷いた。
「行け!クラクションを鳴らすんだ!」
深呼吸をして、俺はレバーに手をかけた。
カチッ。
最初は何も起こらなかった。しかし次の瞬間、鐘が微かに震え始めた。
「もう一度だ!」
リディアの声に促され、再びレバーを引く。
今度は、かすかな音が鐘から漏れ出た。
「続けろ!」
何度もクラクションを鳴らし続ける。徐々に、鐘の音が大きくなっていく。
そして――
ゴーーーーーン!
突如、鐘が轟音を響かせた。その音は城塞を越え、遥か彼方まで届いたように感じられた。
「やった!」リディアが歓喜の声を上げる。
しかし、喜びもつかの間。突如、空が真っ黒に染まった。
「魔王だ!」
リディアの叫びと同時に、巨大な影が城塞に覆いかぶさってきた。それは人の形をしているが、全身が黒い霧のようなもので覆われている。
「愚かな…ッ!」魔王の声が響き渡る。「たかがクラクションごときで、この私を倒せると思ったか?」
魔王の手が伸び、鐘に触れた瞬間、鐘の音が途絶えた。
「見たか?これが音を支配する力だ。お前たちの希望など、簡単に消し去ってやる!」
絶望が広がる中、俺は必死に考えた。
「そうだ…音じゃない。振動だ!」
「何?」リディアが不思議そうに俺を見る。
「クラクションは音を出しているんじゃない。振動を作り出しているんだ。だから、音を奪われても…」
言葉を終える前に、俺は車に飛び乗った。エンジンをかけ、アクセルを思い切り踏み込む。
車が唸りを上げ、激しく振動し始めた。その振動が装置を通じて鐘に伝わる。
ゴォォォォォン…
鐘が再び鳴り始めた。しかし今度は、音ではなく振動だった。
「な…何だと!?」魔王が驚きの声を上げる。
振動は次第に強くなり、城塞全体に広がっていく。
「くっ…止めろ!」
魔王が再び手を伸ばすが、もはや振動を止めることはできない。
振動は魔王の体を貫き、黒い霧が揺らめき始めた。
「ば…馬鹿な…こんなもので…」
魔王の姿が徐々に霧散していく。
「今だ!」リディアが叫ぶ。「みんな、声を出すんだ!」
兵士たち、そして城塞にいた全ての人々が一斉に声を上げ始めた。
その声が振動と共鳴し、巨大な音の波となって魔王に襲いかかる。
「ぐあああああっ!」
魔王の絶叫と共に、黒い霧が完全に消え去った。
静寂が訪れる。
そして――
「やった!」
「勝ったぞ!」
「魔王を倒したぞ!」
歓喜の声が城塞中に響き渡る。
リディアが俺に近づいてきた。
「本当にありがとう。君のおかげで、世界は救われた」
照れくさそうに頭を掻きながら、俺は答えた。
「いえ…みんなで力を合わせたからですよ」
その時、空から光が降り注ぎ始めた。
「これは…」リディアが驚いた表情を浮かべる。
光は俺の体を包み込み、次第に足元から透明になっていく。
「どうやら、君の役目は終わったようだね」リディアが寂しそうに微笑んだ。
「ええ…そのようですね」
消えゆく体を見ながら、俺は静かに告げた。
「さようなら。そして…ありがとう」
光に包まれ、意識が遠のいていく。
目を開けると、そこは渋滞に巻き込まれた東京の街中だった。
「夢…だったのか?」
しかし、ハンドル横のレバーを見た時、俺は確信した。これは夢ではない。確かに起こった出来事だと。
クラクションを鳴らそうとした瞬間、隣の車線から「すみません!」と声がした。無理に割り込もうとしていた車が、慌てて元の車線に戻っていく。
俺は思わず笑みがこぼれた。
「クラクションか…ここでも役に立つもんだな」
車を発進させながら、俺は決意した。これからは、クラクションの使い方をもっと慎重に考えよう。それは単なる警告の道具ではない。時として、世界を変える力を持つものなのだから。
そう、たとえそれが異世界であっても――。
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