Act.3:血雨の邂逅
一度は人生の終わりまで覚悟したカルテルの事務所での
現在市内でカーチェイスをやらかしている連中が何者なのかも、そこにどうやって割って入るかも、すべてがノープランだ。まさかレースに加わって一等賞を狙いに行くわけにもいくまい。
ただでさえ現時点でこれだけのケチが付いた仕事で、この上カルテルの車まで廃車にしようものなら、賠償金が今回のペイをぶっちぎって負債にさえなりかねなかった。汗水流して働く身としてこんな馬鹿馬鹿しい話もありはしないだろう。
かといって、もたもたしていたら標的が街の外に出てしまいかねない。そうなったら今度こそ終わりだ。筋を通せなかったデュールは弁解の余地もなく穴だらけにされ、人生最悪の気分を味わいながら豚の餌として一生を終えることになる。
「冗談じゃねえぞ。こんなつまんねえ仕事でくたばってたまるか!」
ステアリングを握るデュールの手に力がこもる。どうするべきかを考える上で、必要なのはとにもかくにも情報だ。いちいち車を停めて聞き込みなんて悠長をかましている暇もないので、より即効性の高いリアルタイムの情報を入手する必要があった。
デュールが知る限りにおいて、それを可能にする業者は一つしかありえない。デュールは片手でステアリングを操作しながら、空いた手で携帯電話を取り出すと、登録してあったナンバーにコールする。
この時間ならまだギリギリ営業時間だ、頼むから出てくれ。デュールは祈るような気持ちでコール音を聞き続ける。
『はい、プロヴィデンス・ヒューマンネットワーク』
「便利屋のデュールだ。悪いがオクトラスに繋いでくれないか」
『なんだデュールさんか。お久しぶりだね、ボスならちょうどいま帰るだけど』
「呼び戻せ! 緊急なんだ。俺の命が懸かってる!」
『はいはいっと……おーい、オクトラスさーん、デュールさんが死にそうなんだって~。え? 死んでから連絡しろ? だそうですけど、どうしますか?』
「てめえからぶっ殺してあの世に配達してやろうか!?
『も~うるさいなあ──うん、そう、今すぐ代われって──はいはい、お電話代わりました。PHNのオクトラスです』
このやり取りの間に一体何分の時間を無駄にしたやら。どうにかこうにか目的の相手を電話口まで引きずり出したデュールは、挨拶もなしに用件をまくしたてる。
「オクトラス、今すぐお前の視覚を買いたい。場所はメイザース南東部。そこで車両二台のカーチェイスがあったはずだ」
『これまた急な……。はいはい南東部南東部っと……あ~やってますねえ。今はまた北上しているみたいですが、追跡プランに切り替えてリアルタイムアシストにしますか?』
「頼む」
『サイコネクトサポートは?』
「今回は要らん。連中がどこに向かっているかだけ分かればいい。請求は後で事務所に送ってくれ」
『委細承知、ナビゲーション始めます』
電話の主、プロヴィデンス・ヒューマンネットワーク社の社長ことオクトラスは、通話を子機に切り替えて八階建てのオフィスの屋上へと上がると、かけていたラウンドシェイプの眼鏡を外す。
「
すると今までブラウン一色だった左右の瞳は、それぞれ赤とオレンジのそれへと変わり、その視界が尋常のそれから一気に拡張された。オクトラスがその瞳に宿す魔導の力は千里眼。術式に
今オクトラスの目は、市内を爆走する二台の車両と、現場に向かうデュールの車を同時に補足し、障害物による死角を無視して追跡している。
それだけではなく、両者の進行方向にある交通状況、信号の色も補足範囲内であり、これらの複数の視覚情報を用い、オクトラスは最短の距離を最適なルートで顧客に提供することを可能にしている。さらにその視野が及ぶ範囲は、出力を透視と望遠に絞った状態であればメイザースの繁華街全域をカバーできるほどに広大だ。
「逃走車、イーストエリア六番街を北東に向けて進路を変えています。追手はその二百メートル後方に追従」
『商業施設の方か。その先には何がある?』
「道なりに進めばメイザース大橋へと繋がりますが、連中がまた街の中に戻るとは考えづらいです。道を外れてでも郊外への脱出を試みるでしょうね」
『奴らのルート選択に何か特徴は?』
「裏道をほとんど使っていません。もしかしたらここらに対して土地勘がないのかも」
『猫も
「結構難しいこと言いますね。料金上乗せしていいですか?」
『これ以上阿漕やってっと目玉
「嫌なら他を当たってください」
『この
「毎度ありがとうございまーす!」
快活に言ってのけると、オクトラスは一度千里眼を切り、事務所から持ってきていた地図を広げる。驚異的な視野を誇る彼がこの手のアナログに頼るのは、彼が持つ八つの視覚能力の制約にあった。同時に起動する視覚が増えれば増えるほど、その効果が及ぶ範囲は狭まっていき、八つすべての視覚を起動したときに得られる効果範囲は、自身を中心とした半径二十メートルそこらである。
それでも十分驚異に値する視野であることに変わりはないが、今回のような街全体規模での追跡となると、扱えるのはせいぜい望遠と透視によるピンポイント追跡、それをこなしながらエリア全体を俯瞰する広角視を加えるとなると、対象との位置関係はギリギリ彼の補足範囲の外側になってしまうのだった。
故にオクトラスは、魔眼に依らない手段を用いて能力のリソースを最大限に維持することで、結果として魔眼の出力以上の視野を確保することができるのである。
「北北東エリア、スラム街に続く道。そこが最初の
『まあまあだな。爆破系のリソースはそんなに多くない。というより使えない。カルテルの荷物の中身も考慮に入れるとなれば、連中を車ごとウェルダンにするのは悪手になりえる。今はあくまでも先回りからの
「追手の方の車に関しては?」
『そっちに関しては特に制約はない。しつこいようなら行き掛けの
「わかりました、ではまずそちらを片付けましょう。連中の進行方向に大型トレーラーが走ってるのでそれを足止めし、連中の進路を誘導します。そこで追手側に一撃を加え、首尾よくを沈黙させられれば、後の仕事は楽でしょう」
『オーケーだ』
カーチェイスが行われているエリアにまでたどり着いたデュールの視界に、オクトラスが言っていた大型トレーラーがまさに今交差点を直進しようとする光景が映し出されていた。
デュールはアクセルを踏み込み、トレーラーの進路に入り込んで急ブレーキを促すと同時に、自身はトレーラーと接触寸前のところで一気に切り返し、車体を
タイヤの破裂により突如として制動を失ったトレーラーは、荷台を大きく振り回しながらスリップし、金切り声を上げながら交差点のど真ん中を塞ぐように停止する。
『お見事。十秒後に一台目、その八秒後に二台目が交差点に差し掛かります』
オクトラスの宣言通り、トレーラーの事故によってすし詰め状態の交差点に構うことなく突っ込んでくる逃走車が仕込み通りに左折した。
続く二台目の追手をどう処理するかだが、デュールは呪符の束から数枚を引きちぎって無造作に天に放っただけで、後は何をするでもなく車を発進させ、一台目の車を追い始めた。デュールの存在にはまだ気づいていない謎の追手は、進行方向で何やらひらひらと舞っている紙に警戒する神経など持ち合わせてはいなかった。
どうせ事故を起こしたトレーラーから飛散した紙ごみか書類だろうと、その程度の認識しかなかったし、事前情報がなければそう考えるのが当たり前だ。たとえその紙がそれぞれ釣り糸で繋がっていて、あらかじめここを通過する車に絡みつくような細工がされていたのだとしても、前を走る逃走車の追跡に必死だった彼らには、やはり警戒心など持ちようなどなかった。
「──術式展開」
デュールの詠唱に反応し、車体に絡みついた呪符が一斉にコードを実行する。符術によって召喚されたのは釣り糸がピンに繋がれた手榴弾。ご丁寧にも投擲用ではなく罠専用の、ピンが抜けると即座に起爆するタイプのモデルだ。
突如として目の前に出現し、走行風とカーブの遠心力を受けて弾体からピンが抜ける光景を目の当たりにした時の彼らの絶望たるや。弾体が炸裂し、爆豪による急激な加圧と熱で意識を
計算通りに追手が爆散するのをバックミラー越しに確認したデュールは、感慨に
「オクトラス、追手は片付いた」
『こちらでも追手の沈黙を確認しました。それにしても、相変わらず変な戦い方しますね』
「俺は喧嘩弱いからな。この世界で生き残るための知恵ってやつだよ」
デュールが用いる符術の通常の用途は、呪符に書き込まれた術式の効果で対象を拘束したり、周囲に結界を張って侵入を拒むなどが主であり、即席の召喚や攻撃の用途では費用対効果の面でパフォーマンスを発揮しきれない。
しかし、それが無機物であり、なおかつあらかじめ転送先の指定がされていた場合は話は別だ。符術の本質は書き込んだ術式を発動前の状態で待機させる点にある。デュールは事前に用意した武器庫に銃器と転送術式を設置し、転送先に手持ちの呪符を指定している。
これにより、デュールは解号一つでいつでも好きな装備をその場に呼び寄せ、最適な戦略を選択することを可能にしていた。多くの場合、魔術師は持ち前の術式だけで火力を確保しがちであり、事実として符術はまるで戦闘には向いていない。
そういった
『なるほどね。まあ、せっかくなので最後まで見物させてもらいますよ』
「別に構わんが、請求書ちょろまかしたら事務所に火つけるからな」
『そこまで
言外にサービスの終了を告げたオクトラスとの通話を切り、改めてデュールは先行する逃走車に照準を合わせた。ともあれ、ここから先はただの一対一の追走劇だ。ここにきてようやく、隣ですやすや健康的に眠っている少女が役に立つ時が来たとばかりに、デュールはスピードを上げて逃げ惑う車の側面に付けた。
「おいこら、そこのクソボケ! てめーらんとこの落とし物だチクショウ」
窓を開けて
「て、てめえ! なんでガキがそこにいんだよ」
「おめーらがうちの荷物と取り違えたんだよ。いいからさっさと車停めろ! もたもたしてっと商品の顔撃っちまうぞ」
ようやく解決の
「ったく、手間取らせやがって」
手近な裏路地を経由し簡単には逃げられないようなルートを使いながら、デュールは後続を誘導する。連中はこの街に対して土地勘がない。さっきからあちこちボディを擦ってるのがその証拠だ。このまま適当なところに停めて、荷物を交換するついでに奴らが何に関わってしまったのかを聞き出す。それが現時点でのデュールの目的だった。
「おい、起きろ。いつまで寝てんだお前」
しばらく転がした先にあった手ごろな広場に車を停め、助手席の少女の頬を小突きながら起こそうとするが、少女はまるで目を覚ます気配がない。そもそも起きて立ち上がるだけの意識の持ち合わせがあるのかさえ、この際疑わしくなってきたが、よくよく考えればこれは連中の荷物。お手手つないで引率するほどの義理もないことに気付き、デュールはあきらめてその身を抱え上げ、両手が塞がっていることをアピールしつつ連中と単身向かい合った。
人気のない周囲は街明かりも差し込まない上、いつのまにか低く垂れこめてきた曇天がぽつりぽつりと雨粒を落とし始めていた。
それはまともに整備もされずに枯れ果てた広場中央の噴水に代わるかのように、しとりと辺りを濡らし、広場の反対側ではこの事態の発端とも言える当て逃げ犯の男たちが三人、訝るような様子で並んで立っていた。
雨音が占める沈黙の中、デュールの問いが切り出される。
「お前ら、この辺の人間じゃないだろ」
「俺たちは通りすがりの
運転手の男は、隠しきれない怯えを三対一という数的有利を頼みにした
「やっぱりな。そんで、誰を怒らせてこんな地の果てまで追っかけられる羽目になったんだ?」
「そのガキはたまたま川で拾ったんだ。汚れちゃいるが見ての通りの上玉だ。売春窟に売っ払えばそれなりの金になると思ってこのメイザースにまで運んできたんだよ。そしたらあいつら、どこの誰かも知んねえけど、いきなり現れたと思ったら血相変えて追いかけてきやがった」
「たまたま……ねえ」
どうにもふわふわした説明ではあるが、一応筋は通っている。あの時ゴールデンアークストリートでデュールの車とぶつかったのもただの事故。相当執拗に追いかけられていたと考えるべきだろう。それこそ荷物の取り違えに気付かないほどに。
そして連中は、この少女の価値について適切な判断を下せていない。もしそれが分かっていれば、今こうしてデュールが抱きかかえている状況で話すことを許すはずがないのだ。つまりこいつらは、本当に彼女のことをただの転売用の荷物としか見ていない。故に、川かどうかはともかくたまたま拾ったというのも本当の事なのだろうと推測できた。
残る謎は誘拐屋を追いかけていた連中が何者なのかという事だが、それはついさっきデュールが黒焦げにローストしてしまったため、大した手掛かりは期待できない。
こいつらから引っ張れる情報はここまでか。
「まあいいや。とにかく俺の用はお前らが取り違えた荷物の方だ。お互いに一人ずつ、同時に歩いて広場の真ん中まで荷物を運ぶ。荷物を交換したら、また同時に後ろ歩きで下がっていき、元の場所まで戻る。これで問題ないな?」
「ああ、それでいい。おい、ケース持ってきてやんな」
デュールの提案を素直に飲んだ男たちが、足早に準備を整え、交換役の男が一人、デュールの対角側へと佇立した。
「歩け」
号令とともに歩き出す両者が、ゆっくりと彼我の距離を縮めていく。簡単な配達業務が、どう転べばここまで面倒な事態に発展するのやら。おかげで今回のペイの三分の一は事態解決のための支出に化けてしまう羽目になった。どれだけ働いても金ばかり出ていき、この世界は実に割に合わない。
そう、こいつらが運転をトチってデュールの車をぶっ壊しさえしなければ、こんなことにはならなかったのだ。
それに対するケジメを、この男は決して忘れてはいなかった。
広場の中央にまでたどり着いた二人がお互いに荷物を交換し、視線を外さないままゆっくりと後ろに下がっていく。
一見それは、互いのリスクを最小限に抑えた公平な取引にも思われたが、この後ろ歩きで元の場所に戻るという点において、デュールが圧倒的なアドバンテージを得ていたことに、この三人は終ぞ気づくことができなかった。
「──術式展開」
低く短く、ここに来てデュールの詠唱が三度目の閃きを見せた。誘拐屋の男の進行方向に突如として現れたのは、反射除けのグリースが塗られた黒いワイヤーだった。
男はそれに気づかず見事に足を引っかけ、そのまま後方に転倒する。その時に生じた一瞬の隙を、待ち構えていたデュールは決して見逃さなかった。視線が男に集中したのを見計らったデュールは目にも止まらぬ早撃ちで後方に控えていた二人を撃ち殺して駆け出すと、そのまま転倒から復帰した男の顔を思い切り蹴り上げる。
「ゴハッ……」
完全な不意打ちに理解が追い付かない誘拐屋は、血を流しながら目を白黒させていた。この期に及んでまだ豆食い面とはまったくもって鈍いことだと、デュールは心の底から呆れつつ銃口をもって男を睥睨した。
「名刺の交換じゃねえんだよ。テメーら人様の車にカマ
「て、てめえ騙しやがったな……」
濡れたコンクリに頭を
「
その言葉を最後に、男の意識は完全に途絶えた。硝煙と、焼け焦げた肉の匂いと、爆ぜた額から噴き出した血が雨となって降り注ぐ。
その濃密な死と闇の匂いが、デュールの与り知らぬところでとある記憶を呼び覚ます。
――
雨粒が跳ね返って漂うペトリコールに混じり、鉄錆のような血の匂いと、
今の今まで目を覚ますことがなかった少女が、血の雨のさなかで身を起こす。唐突な覚醒に意表を突かれ後ずさりしたデュールの碧眼と、血のような少女の深紅の瞳が、噎せ返るような闇の中で交錯した。
「寒い……」
震える肩を抱えながら、少女は消え入るようにそう言った。それが雨に打たれてのものなのか、温もりを知り得ぬ故だったのか、それは彼女にも分からなかった。
ただ、その凍えるほどに真っ白な美しさがどれだけの衝撃をデュールにもたらしたのか、それは彼自身にしか分からなかった。
それが、男と少女の出会い。
この悪徳栄える都の片隅で、運命の最初の歯車が静かに動き出した瞬間だった。
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