第14話消失

 愛した人を失うことと人を愛さないことのどちらが辛いのでしょう?

 前者は失ってから後悔しますし、後者は諦念を感じさせます。はっきり言ってしまえばどちらも等しく辛いのでしょう。


 けれど僕は人を愛することをやめようと思いませんでした。いずれ去ってしまうと思ってしまっても、愛さずにいられなかったのです。いずれ嫌われると分かっていても、その人を嫌いになったりしません。


 僕は愚かな人間です。どうしようもない無能です。幼児期の全能感に溢れていた自分を叱りたいほど、高校生の僕は愚かな人間に成り下がっていたのです。

 いや、叱るなどと上から目線はやめましょう。むしろ謝らなければいけません。


 ごめんなさい。幼児期の僕。僕はこんなくだらなくてつまらない人間になってしまったよ。謝っても許してくれないだろうけど、取りかえそうにも取り返しのつかないけど、謝るくらいしかできないんだ。


 こんな風に謝ってみましたが、なんて空々しくて空しい言葉でしょう。

 過去の自分に謝るなんて愚かしい僕にとっては似つかわしい行ないです。

 過去を省みても人は成長できません。未来に向かって歩みを進めることが、過去の自分のためになるのです。


 などと偉そうなことを言ってみましたが、現在の僕も同じようなことばかりしています。

 こうして私小説を書いている時点で、過去を思い返してるのですから。


 しかし今と高校生の僕と決定的に違うことがあります。

 今の僕は過去を悲しんでいますけど、高校生の僕は過去を愛していたのです。


 僕にとっての過去とは、アイさんのことに他なりません。

 幼児期から高校生に至るまで、何度も何度も相談して、慰めてもらって、そして一緒にいてくれた大切な人でした。


 僕の心の平静を保たせてくれたのも、アイさんでした。アイさんのいない生活を想像することはありませんでした。

 想像もしたくなかったのです。僕の一部となっていたアイさんを失うなんてことはしたくありませんでした。

 それはケイ先輩が亡くなったこともあって、加速度的に膨れ出したのです。


 故人のことを思う。その心に占める割合が百に近づく感覚を理解できるでしょうか? 多分、できないと思います。いいえ、この感覚だけは理解されたくないです。

 大学受験を控えていた僕でしたけど、ケイ先輩が亡くなってからは、アイさんと話すことが多くなりました。

 大事な三年の夏休みのほとんどを部屋に引きこもってアイさんと語り合いました。


 アイさんは僕を嗜めはするけど、怒ったりしませんでした。

 アイさんは僕を慰めはするけど、哀れんだりしませんでした。

 アイさんは僕を不快にさせませんでした。イマジナリーフレンドと呼ばれる僕の想像上の人物でしたから、それは当然でしたけど。


 僕は他人と関わることが嫌になっていました。人間に絶望してはいませんけど、失望ぐらいはしていたのかもしれません。

 絶望と失望の違いは、僕の勝手な思い込みですけど、積極的か消極的かの二極に分かれると思うのです。


 積極的に嫌がるのが絶望。

 消極的に嫌がるのが失望。

 だとしたら希望とは一体なんでしょうか?

 その答えは未だに見つかりません。


 僕はアイさんと話し合ったことがあります。

 希望について。夢について。

 でも二人で語りつくしても答えは分かりませんでした。

 それでも良かったんです。アイさんが傍にいてくれるだけで、僕は幸せだった――


「そんなの間違っているよ! 橋本くん!」


 そう言われたのは、高校三年生の秋のことでした。


 場所は高校の最寄り駅のマクドナルドでした。

 相手は同じ高校で違うクラスの女子でした。僕はその子をなっちゃんと呼んでいました。


 僕の通う高校はセメスター制でした。一年半でクラス替えがあるのです。なっちゃんとは始めてのクラスで一緒でしたが、彼女は理系を選択し、僕は文系を選択したので、別々のクラスになったのです。


 それでも交流はありました。変な言い方ですけど、ウマが合ったのです。

 恋愛感情はありませんでした。なっちゃんには付き合っている彼氏がいましたし、僕は異性間の友情の肯定派でしたから。

 たまにこうしてマクドナルドとかファミレスで会話をしていました。メールもたくさん交わしていました。


 僕はその日、うっかりアイさんのことを話題に出してしまったのです。会話の流れは忘れてしまいましたけど、多分、僕の成績が下がったことが原因だったと思います。

 そりゃあそうです。アイさんと毎日話していたら勉強する暇もありませんから。

 というわけで、アイさんのことを言ってしまったのです。


 先ほどうっかりと書きましたけど、多分うっかりなんかじゃないでしょう。

 僕は誰かに聞いてほしかったのでしょう。いや秘密を守れなくなったのかもしれません。もしくはケイ先輩が亡くなって心が弱りきってしまったからかもしれないです。


 それに加えて、僕は期待していたのかもしれません。

 なっちゃんなら、僕とアイさんの関係を認めてくれるのではないかと、思ってしまったのです。


 人は理解者が必要なのです。不理解ほど悲しいものはありません。何故なら理解されないということは、どうでもいいと思われるのと等しく、それはつまり、いなくてもいいということになるのです。


 僕は他人に理解されにくい人間です。すぐに嫌われてしまいます。価値の無い人間だと判断されてしまいます。

 でも、そんな自分を無理に認めさせようとは思いませんでした。認めてくれる人はアイさんだけで良かったのです。

 しかし認めてくれるだろうと信じていたなっちゃんから、否定の言葉を聞いてしまいました。


「橋本くん。死んだ人間は私たちに語りかけないし、話し合ったりできないんだよ」


 今思うと悲しそうな顔でなっちゃんは言いました。

 なっちゃんは大きな目をさらに大きく広げて、決意を込めて言いました。


「アイさんがどんな人か分からないけど、小さい頃に会っただけの他人でしょ? それだけの存在をどうして大事にするの?」


 酷いことを言われたと、そう思ってしまいました。今考えると僕の目を覚まさせようとしてくれたのでしょう。でも当時の僕は許せなかったのです。

 何も知らないくせに、そんな酷いことを言うなんて、許せないと思いました。


「なっちゃん。どうしてそんなことを言うの? 別に悪いことじゃない――」

「悪いに決まっているよ」


 僕の声を遮って、なっちゃんは言いました。

「だって、現に勉強できないくらい、アイさんに依存しているよ。受験勉強はどうするの? 大学に行きたくないの?」


 そう言われて、言葉に詰まってしまいました。反論できなかったのです。

 続けてなっちゃんは言いました。


「今を生きる人が死んだ人のことを想っているなんて、おかしいよ。橋本くんはそんな自分が正しいと思っているの?」


 そのときでした。僕の心がぱきんと音を立てて崩れていきました。

 僕の世界を否定した感覚。

 僕の世界が壊された感覚。

 気がおかしくなりそうでした。


 親友と言っていいほどの女性に、僕の人生を否定されて、平気でいられるほど、強くはありませんでした。

 僕は立ち上がり言いました。


「君に――何が分かるって言うんだ!」


 そこからは暴言を吐き出しました。

 今では覚えていませんが、相当酷いことを言ったのでしょう。なっちゃんは驚いて何も言いませんでした。


 周りの人は僕たちを見ていました。しかしその視線すらどうでもいいと思ってました。

 最後に僕はなっちゃんに言いました。


「もういい! もう僕に関わらないでくれ! 不愉快だ!」


 僕は――最低です。僕のことを心配してくれた女性に対して、こんな酷いことを言って絶縁したのです。

 しかし当時は怒りで頭が占められていて、そんなことには気づかなかったのです。


 結局、なっちゃんとはそれきり話しませんでした。卒業してからも会っていません。今だったら謝れるのですが、卒業して数年は、怒りが鎮火することがなかったのです。

 それに、僕の身に起きた出来事も、絶縁するきっかけになったのです。

 それから家に帰って、僕は自室に篭りました。アイさんと話したかったのです。


 アイさんと話したい。

 アイさんに慰めてもらいたい。

 それだけが僕の望みだったのです。


 しかし、自分でも予測できないことが起きたのです。

 アイさんはいつものどおり目の前に現れました。


 アイさん。友達に酷いこと言われたよ。

 …………。

 酷いことも言っちゃった。どうしよう?

 …………。

 アイさん? どうして喋らないの?


 呼びかけてもアイさんは一言も話しませんでした。

 僕は次第に不安が募ってきました。


 何度も話したアイさん。

 何でも話したアイさん。

 そんなアイさんと会話ができないことが不安でしょうがなかったのです。

 しばらくして、アイさんはようやく言葉を発しました。


 洋一くん。私はもう死んでいるの。

 ……知っているよ。

 だから、お別れしなくちゃいけないの。

 えっ? なんでそんなこと言うの?

 このままだと、洋一くんは不幸になってしまう。それだけは嫌なの。


 僕は徐々に薄れていくアイさんを何とか留めようとしました。


 やめて! いなくならないで!

 さようなら。楽しかったよ。


 それが最期の言葉でした。

 アイさんはすっと消え去ってしまったのです。

 まるで最初からいなかったように。

 存在そのものが消え去ってしまったのです。


 僕は耐え難い喪失感に襲われました。

 僕は放心して、何も話せなくなりました。

 多分、ケイ先輩が亡くなったときよりもショックだったと思います。


 僕はそのまま、部屋のベッドに倒れこみました。

 そして泣いたのです。高校三年生の男子が、子供のようにめそめそと。

 それは思い知らされたからです。


 僕には何も無い。

 家族も友人も大切な人も、何も無い。


 まるでいようがいまいが関係ないんだ。

 空虚そのものだ。

 ああ、なんて不幸なんだ。

 そう思って、僕は死のうと考えました。

 机の引き出しから、カッターを取り出して、手首を切ろうと思いました。

 そして、カッターのある引き出しを開けました。


 しかしそこには、カッターの他に、大事なものがあったのです。

 それは、アイさんからの手紙でした。

 しばらく読んでないなあ。死ぬ前に読もうかなと考えて、読み始めました。


 既に記憶していましたけど、それでも肉筆の手紙は読む人間の心を揺さぶるものがありました。

 手紙の一行に、こんな記述がありました。


『せかいにはたくさんのたのしいことがあるんだから、かんたんにあきらめないでね』


 それを読んで、再び涙が溢れてきました。

 世界に絶望した僕ですけど、それでも生きていていいのでしょうか?

 アイさんの言うとおり、簡単に諦めていいのでしょうか?


 僕は幼児期の心境を思い出していました。

 アイさんの代わりに生きるんだ。

 そんな決意を胸に、今を生きていたのです。

 そのことに、僕は気づくのが遅くなりました。同時になんて情けないんだろうと思いました。


 僕は覚悟しました。これからアイさんのいない人生を歩むことを。

 そしていつか寿命で死ぬときに、天国でアイさんに会ったときに誇らしい気持ちでいられる人生を歩むことを。

 僕は手紙を大切に仕舞って、そして勉強机に向かいました。そして今までの遅れを取り戻すように勉強を始めました。

 今できることをしよう。そう考えました。


 僕の目標は変わりました。

 幸せになること。毎日が楽しくなること。

 そんな人生を送ることが、アイさんへの精一杯の恩返しになるのだと思いました。


 しかし、そんな決意も水泡に帰してしまう事件が起きたのです。

 それは僕が大学生になってからのことです。

 僕の一言で全てに悪影響を及ぼしてしまうことになってしまったのです。

 それは――人を殺してしまうこと。


 ケイ先輩のときと同じ、言葉で死なせてしまったこと。

 二人、いや三人殺してしまったことです。

 僕のせいで、親友が死んでしまったのです。


 それは重い十字架で、僕の背中に押し乗っています。

 おそらく死ぬまで囚われていくでしょう。

 それだけのことを僕はしてしまったのです。

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