第13話言葉の重み
世界は言葉で構成されています。何気ない一言が人を救うように。容赦ない一言が人を殺すように。言葉によって僕たちの生活が成り立っています。
そのことに気づいたのは小学生くらいでした。言葉で人を操ろうと画策していた愚かな時代のことです。
しかし、気づいただけで本質は分かっていなかったのです。それは自分という人間を分かっていなかったのと同じでした。
それを無理矢理に理解させられたのは、高校三年生の春のことでした。
忘れもしない五月の頃です。おぼろげながら受験勉強をし始めていました。しかし塾に通わず自宅で勉強していました。
部活は既にやめていましたので、やることがゲームと勉強くらいしかなかったのです。この頃、友人はほとんどおらず、休日に遊ぶということはしませんでした。数少ない友人は、三年生の最後の大会に向けて練習に精を出していましたし、本当に一人きりでした。
しかしこの頃はそんな関係性のなさに、ある種の快感を覚えていました。こんなにも広い世界に一人きりという錯覚に溺れていたのです。
僕はそのとき現代文を勉強していました。選択肢を二つまで絞って、そこから悩んでいたときに、突然、ケータイが鳴りました。
誰だろう、こんな時間にと思いました。時刻は夜の九時を回っていました。
着信を見ると、懐かしい名前が表示されていました。
中学時代にお世話になった、バドミントン部の部長のケイ先輩でした。
懐かしさのあまり、誰だか分かりませんでしたが、僕は一瞬だけ躊躇して、通話ボタンを押しました。
「あ、橋本。久しぶり。何年ぶりかな」
すっかり大人になった声。だけど聞き慣れた名字呼びのケイ先輩でした。
「久しぶりですね。ケイ先輩。どうかしたんですか?」
軽い緊張を覚えながら、僕が答えるとケイ先輩は「どうもしないよ。ただ声が聞きたかったから電話しただけ」と言います。
そんなしおらしいことを言う人じゃなかったので、違和感を覚えました。しかし僕は照れて「本当は何かあるでしょう?」と意地の悪いことを言いました。
「うん。ちょっと話したいことがあって。ねえ、明日会えない?」
唐突な要望に僕は考える間もなく「ええ、いいですよ」と言ってしまいました。
ちなみに明日は土曜日でした。
「そう。良かった。断られたらどうしようと思ってたよ」
それから、ケイ先輩は待ち合わせ場所を言いました。それは地元の駅の喫茶店でした。
僕は内心ドキドキしていました。一度恋をした女の子に呼び出されるなんて経験は、今までありませんでしたから。
「それじゃあ、明日待ってるから」
この時点では気づきませんでした。しかし後々思い出すと、どこか変だと気づいても良かったのです。
声が少しだけかすれていたこと。それに気づくことができませんでした。
そして、土曜日。僕は待ち合わせの三十分に喫茶店に着きました。女性を待たせるわけにはいきませんから。
しかし、喫茶店に入るとすぐに「橋本! こっちこっち!」という元気な声がしたのです。
声のしたほうを見ると、そこには大人になったケイ先輩がいたのです。
中学生の頃はショートヘアだったのが、腰まで伸ばしていて、なんていうか、大人な女性だなあと感じました。
しかし、中学生当時の面影は残っていて、ケイ先輩だと確信できたのです。
僕はケイ先輩が座っている席に向かいました。
「久しぶりだね橋本。中学の卒業式以来かな?」
「先輩もすっかり大人になりましたね」
「そりゃあ十九歳だよ。後一年でお酒が呑めるし」
「そんなこと言って、先輩はもうとっくに呑んでいるんじゃないですか?」
僕が意地悪で訊ねると「まあね」と余裕で返されました。これが大人の余裕なのか。一歳違うだけでこんなにもかと感心してしまいました。
それからしばらく他愛も無い会話をしました。先輩の高校時代の話。僕の現状。先輩が合格した大学のこと。僕のくだらない日常。
「それで、先輩。用ってなんですか?」
「うん? いや、久しぶりに橋本と話したかっただけだよ」
僕は拍子抜けしてしまいました。てっきりケイ先輩には重要な話があるのだと思っていましたから。
しかし、このとき僕はまたしても気づかなかったのです。ケイ先輩の様子がおかしいことに。
よくよく思い出してみると、何かを言いたいような、言いたくないような空気を醸し出していた気がします。
「ねえ。橋本。一つだけ訊いていい?」
ケイ先輩は突然、そう切り出しました。
「なんですか? 僕に答えられることなら、何でも言っていいですよ」
僕は紅茶を啜りながら、軽い気持ちで応じました。
「じゃあ、訊くけど――」
ケイ先輩は、一瞬深呼吸して、そして言いました。
「――同性愛について、どう思う?」
僕は質問の意図は分からずに、聞き返しました。
「同性愛って、ゲイだとかレズだとか、そういう意味ですか?」
「うん。まあ、そうだけど」
僕は少しだけ考えました。深く考えませんでした。
「別に良いと思いますよ。僕は同性愛者じゃないから分かりませんけど、そういう人がいても、良いんじゃないですか?」
そう言ってしまったのです。
僕は同性愛を否定する人間ではありませんでした。かといって積極的に肯定するつもりもありませんけど。
それに他愛の無い会話の流れで訊かれたので、本当に深く考えませんでした。
またケイ先輩が何故そんなことを訊ねたのかも深く考えませんでした。
だって、僕は見たんですから。卒業式の日、男の先輩とキスするケイ先輩のことを。
同性愛者じゃないケイ先輩が訊く質問ではありませんでしたので、不思議に思いましたが、気にすることはありませんでした。
「そう……ありがとう」
なぜかホッとした顔でお礼を言われた僕は奇妙に思いながらも「はあ……?」としか返せませんでした。
その後も会話をして、それで夕方から夜に変わりかけた時刻になって、ようやく別れました。
「それじゃあ、橋本。またね!」
明るい笑顔になったケイ先輩に見惚れながらも、僕は「また会いましょう」と言って、家に帰りました。
それがケイ先輩と交わした最後の会話でした。
それから十日ぐらい経った頃。
僕のケータイに見慣れない番号の着信がありました。
その日は金曜日で学校から帰った直後でした。
僕は内心、怖いと思いましたけど、無用心にも電話を取りました。
「はい。橋本ですけど」
「ああ、橋本洋一さんご本人ですか?」
僕のケータイなんだから本人に決まっていると思いましたけど、相手が誰だか分からないので、素直に「はい、橋本洋一です」と答えました。
「どなたですか?」
「私は警察の者です。××警察署の者です」
××には地元の地名が入ります。
「け、警察の人が何の用ですか?」
すっかり怯えてしまった僕に警察の人はこう言いました。
「ケイさんという人をご存知ですよね」
それはケイ先輩のフルネームでした。
「はい、知ってますけど……」
「その方について、お話をお聞きしたいので、一度××警察署までお越し願いますか?」
僕は「何かあったのですか?」と訊ねましたが、詳しいことは直接話しますと言われてしまったので、僕は仕方なく警察署に向かいました。
警察署に着いて、総合案内の人に訊ねて僕を呼び出した警察の人の元へ行きました。
しかし、着くなり狭い個室に案内されて、そこから質問をされました。
質問内容はケイ先輩のこと。
ケイ先輩とはどういう関係なのかなどを根掘り葉掘り訊かれました。
僕は勇気を振り絞って訊ねました。
「ケイ先輩が何かやったんですか?」
明らかに取り調べだったのです。僕は不安で一杯でした。ケイ先輩が何かやったのは考えなくても分かることでした。
警察の人は、二人組みでした。二人とも顔を見合わせて、何やら相談した後、僕に向き合って、言いました。
「他人に話さないと約束するなら、話してもいい。まあいずれ分かることだが」
僕は嫌な予感で胸が一杯になりました。吐き気もしてきて、気分が悪くなりました。
「いいか。しっかりと気を強く持つんだ」
警察の人は――言いました。
「ケイさんは、亡くなった。どうやら自殺したみたいだ」
ハンマーで頭をガンガン殴られた感覚。
衝撃が大きすぎて、理解できませんでした。
僕は――。
「嘘、ですよね? どうして、そんなことを言うんですか?」
僕は信じられませんでした。嘘だと思いたかったのです。
縋りつくように僕は警察の人に聞き返しました。
「なんで、どうして、ですか」
「原因は分かっている。心中だ。だけど、自殺の裏づけが欲しくて君を呼んだんだ」
心中? じゃあ、一人じゃないんだ。
ぼんやりとそんなことを思いました。他に思うことはあるはずなのに、それしか思えませんでした。
「心中相手以外に最後に電話したのは君なんだ。だからどうして自殺したのかを知りたいんだ」
僕は椅子から立ち上がれませんでした。力が一気に抜けてしまったのです。
だけど口だけは動きました。
「いつ、亡くなったんですか?」
「詳しいことは言えないが、一週間前のことだ」
「相手は、どんな男性ですか?」
僕は聞きたいことを訊ねました。
僕の知らない人なのに、知りたかったのです。
僕の好きだった先輩を殺した男性を知りたくて仕方がなかったんです。
「――じゃない」
言葉が耳に入りませんでした。
いや、理解を拒んだのです。
「な、なんて言ったんですか?」
愚かにも僕は聞き返してしまいました。
警察の人は、少し大きな声で再び言いました。
聞きたくなかったことを言いました。
「男性じゃない。女性だ。同じ大学の女生徒だ」
僕は、それを聞いて、十日前の最後の会話を思い出しました。
同性愛者? ケイ先輩が?
まさか、僕が肯定したから?
僕が認めたから?
あのとき、ホッとしたのは、そういうことだったのか?
お礼を言ったのも?
僕が、僕が、僕が――
僕が殺したんだ。
ケイ先輩も。
心中相手も。
僕があんなことを言わなければ――
「おい、君! 大丈夫か!?」
そう言われて、ハッとしました。
おそらく僕の表情は真っ青になってしまったのでしょう。
心配そうに覗き込んだ警察の人。
僕は、どうしていいのか、分からなくなりました。
「もしかして、自殺する原因を知っているのかい?」
警察の人の言葉に僕は震えました。
そして――答えました。
「いえ……知りません……」
僕は――最低です。
嘘を吐いたのは無意識のうちでした。
多分ですけど、僕は警察の人に自分が原因だと知られるのが怖かったのではなく、自分が人を二人殺したことを認めたくなかったから、嘘を吐いたのです。
だけど、僕が殺したんです。
僕が肯定しなければ、二人は今もこうして生きていたはずです。
ケイ先輩の相手が誰だか、今でも分からずじまいですけど、それでも死んでいい人ではなかったはずです。
だって、ケイ先輩が愛した人ですから。
僕はアイさんが死んだときと同じくらいの喪失感を覚えました。
もう二度と戻ってこない、大切な人との別れを僕は体験したのです。
このときからです。僕の精神に変調をきたし始めたのは。
いえ、もう既におかしかったのかもしれません。
アイさんやケイ先輩がいなくなった世界を僕は生きなくてはいけないと思うのは、耐え切れない考えでした。
だから、僕はどうでも良くなったのです。
世界に対して、諦めるようになったのです。
しかし世界は残酷でした。
なぜなら――僕から再びアイさんを奪ってしまうからです。
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