第7話悪意の種
人を唆すということは簡単ではありません。
何故なら、人は自分の思うどおりに動かないのです。コントロールすることができないということを心に留めておかねばなりません。
僕はそのことを何かの本で学びました。本の題名は忘れてしまいましたけど、多分小学生が読むような本ではなかったのでしょう。
いや大人でも読まないでしょう。
人を唆すなんて不道徳なことは学ぶべきことではありませんから。
僕がその本と出会ったのは、偶然でした。市立図書館の奥深いところにあったその本は僕の興味を引くのに十分なものでした。
その理由は、僕が人を救うことと同じくらい、人を唆して悪事を行なうことを望んでいたからです。
善人なのか悪人なのか自分でも分かりませんけど、おそらくは両方兼ね備えていたのでしょう。
幼さゆえの無邪気。無垢ゆえの悪意。
僕の小学生時代は混沌とした内心の欲望を満たしたくて仕方がなかったのです。
僕はその本の重要なところのみを記憶し吸収して脳に刻みました。
理論は知っていたので、後は実践でした。
実験場は学校。そして実験対象は同級生でした。
僕が六年生の頃の話です。
理科の実験で使われる理科室。そこは普段、鍵をかけられていました。もちろん薬品などを管理する棚も鍵をかけられていました。
しかしある日のことでした。理科室の掃除で中に入った僕は、とある棚に鍵がかけられていない棚を発見したのです。
それはアルコールランプを保管している棚でした。
その頃は毎日のようにアルコールランプを使っていたので、先生たちも鍵をかけるのが面倒くさくなっていたのでしょう。
なんていい加減な管理なんでしょうか。大人になった僕はもちろん、子供だった僕もこの杜撰さに情けなさを感じたのです。
だから、この悪事をすることを決めたのです。
僕はクラスメイトとは良好な関係を結んでいました。苛められたり、苛めたりしたことはありません。良い子だろうと悪ガキだろうと等しく付き合いを行なっていたのです。
交友関係のめっきりなくなった今では、信じられないことですけど、子供の頃は人付き合いが上手かったのです。
自分の知性を隠しつつ、他人を心の中で馬鹿にしながら、僕は上手にみんなの中に溶け込んでいたのです。
コミュニケーション能力が高いというわけではありません。子供の頃は友達になるのは簡単だと思うのです。それは世間の辛さを知らないからだと思います。
また苛められる要素を無くせば、苛めを受けることはないのです。僕はあまり容姿が整っている人間ではありませんけど、それでも苛められるほど不細工であったり、人への受け答えが変なところはありませんでした。
まあというわけで僕はみんなから一目を置かれていたのです。そう言っても、僕の言うことを無条件で聞くような人間はいませんけどね。
僕は人を選びました。アルコールランプを確実に悪事、いや悪戯と言い換えたほうがいいでしょう。それを行なう人間を選別したのです。
知性の欠片もなく、善悪の判断が欠如している子供。いわゆる悪ガキをターゲットにしたのです。
ある日の昼休みです。僕は悪ガキたちにアルコールランプの保管が杜撰なことを言いました。もちろん、午前中の理科の授業のときに、鍵がかかっていないことは確認済みでした。その点はぬかりがありませんでした。
悪ガキたちと書きましたが、僕は複数人にこっそりと言いました。一人だけだったら何も事件が起こらない可能性もあったので、なるべく多くの悪ガキに情報を伝えました。
僕はこの時点では、どんなことが起こるのか予想もしていませんでした。いや、予想を敢えてしなかったと言うべきですか。僕がこうしろああしろと言うよりも、悪ガキの発想力のほうがより面白くなるだろうと思っていました。
僕はこのとき、小火ぐらいにはなるかなとしか思いませんでした。アルコールランプぐらいだと、学校が全焼するわけがないだろうと高をくくっていたのです。
今から思えば、全焼する可能性はあるに決まっています。普通の建物より紙の類が多いのが小学校ですから。場所によっては大人数の生徒が犠牲になるかもしれなかったのです。
なんて浅はかなんでしょう。よくよく考えれば分かることなのに。僕には想像力がなかったのかもしれません。
最悪な状況を想定することを覚えたのは中学生の頃でしたので、このときは楽天的というか、自分が楽しむことしか考えていなかったのです。
最悪とまでは言いませんけど、邪悪であったことは間違いないでしょう。
さて。僕の情報を元に、昼休みに二人の悪ガキが理科室に忍び込み、見事に――いや不適切な表現だと知っていますけど、敢えて使います――アルコールランプを一つ盗んだのです。
もちろん、彼らはマッチも盗むことを忘れません。まあ僕が「マッチも必要」だとさりげなく言ったおかげですが。
彼らはアルコールランプでどのように遊ぶのか楽しそうに相談したそうです。ここからは伝聞の言葉が多くなってしまいますが、ご容赦ください。
彼らは掃除の時間に遊ぶことにしたそうです。彼らの担当は男子トイレでした。
悪ガキですから、真面目に掃除するわけがありません。普段もテキトーに時間が過ぎるまでお喋りしたり、ふざけあったりして遊んでいたのです。
そんな退屈な時間でアルコールランプを手に入れた彼らは、それを子供ならではの発想で遊ぶのです。
彼らはまず、トイレットペーパーを大量に巻いて大きなボール状にまとめました。
そして少量のアルコールをそのボールに染みこませました。
それで準備は整いました。
彼らはマッチを使って、紙でできたボールに火をつけたのです。
当然、アルコールの染みこんだボールは火達磨になったのです。
いや、火の玉と表現したほうがいいでしょう。
それを彼らは投げあいました。キャッチボールをし始めたのです。
その光景を実際に見たことはないので、想像で書くしかありませんけど、燃える球が飛び交う様は、まるで火事が起こっている現場のように写るものでしょう。
しかし、火の玉は当然に高温となっています。熱すぎてとてもキャッチボールできるものではありません。
彼らはキャッチボールを「熱い熱い」と言いながら続けていましたけど、次第に手ではなく、足で往復し始めたのです。
キャッチボールではなく、サッカーボールのようにパスを出し合い始めたのです。
それは思いのほか楽しいゲームだったみたいです。足元は上履きで守られていますから、全然熱くなかったみたいです。
一個目のボールが燃え尽きると、二つ目、三つ目と次々と作り出したのです。
彼らがそれを続けていると、突然、つんざくような音が鳴り響きました。
それは火災を報じるベルの音でした。
彼らは戸惑ったみたいですけど『まあ俺たちには関係ないだろう』と思って、愚かにもサッカーボールを続けたのです。
しばらくそうしていると、何やら外が騒がしくなったそうです。
けれど火の玉だけに熱中している彼らは気づかないみたいでした。
いきなりドアを開けるような音がしました。
彼らが振り返ると、いきなり水をかけられたのです。
「大丈夫か!? 二人とも!?」
大声で彼らの安否を訊ねたのは、教育実習生の若い男性だったのです。
彼らはきょとんとしました。
教育実習生もきょとんとしました。
お互い顔を見合わせて、呆然としたそうです。
簡単に説明しますと、女子トイレを掃除し終わった女生徒が、いつも真面目に掃除しない悪ガキを注意しようと男子トイレの前に来たことが原因でした。
男子トイレは窓ガラスが曇りガラスになっていて、中の様子を見ることはできませんでした。
しかし、変わっていたことがあります。
それは彼らが火の玉で遊んでいたことです。
単純な話、火の玉が曇りガラスに写っていたのです。
女生徒は反射的に「火事だ!」と思ったそうです。そして急いで近くで掃除の監督をしていた教育実習生へ報告したのです。
その教育実習生もトイレを確認して、燃えているように見えた部屋を火事だと判断してしまったのです。まあまだ若いから仕方がないことだと思いますけど。
パニックになった教育実習生は独断で火災報知機のベルを鳴らして、そして火事を止めようとバケツに水を容れて、トイレの中に入ったのです。
まあ火事を消そうとした根性だけは認められるでしょう。僕なら消防隊が来るまで、避難しますけどね。
その結果、ありもしない火事を消そうとして、悪ガキに水をかけてしまったのです。
その後の顛末を簡単に記します。
火事騒動を起こした悪ガキは校長先生、教頭先生、担任、両親にこっぴどく怒られたみたいです。まあ怒られたぐらいで済まされてラッキーと思うべきでしょう。小学校だから退学もないですけど、それぐらいのことはしたのですから。
教育実習生も厳重注意を受けたみたいです。現場を確認せずに、学校中に不安をもたらせたのですから、仕方のないことです。
その教育実習生は別の学校に異動となりました。可哀想だと素直に思います。
ああ、唆した僕に処分はありませんでした。悪ガキは僕の名前を出さなかったみたいです。
その理由は、僕の話し方によるものでした。
「理科室の管理もいい加減だね。アルコールランプだなんて、すぐに盗まれるよ。ああ、マッチも盗まないといけないけどね」
そんな風なことを悪ガキたちに言いました。
だから僕は唆したと思われない唆しをしたのです。自分でも何気ない誘導だと思います。
僕はその事件をこの眼で見てません。友達からの又聞きで知ったのです。
僕は内心、どきどきしました。それはこんなことが起こってしまったことへの恐れと自分の企みが上手くいったという興奮の二重のどきどきでした。
上手くいったと言っても、全てを予想していたわけではありません。だって、トイレで火の玉が飛び交うなんて、誰も予想できませんしね。
僕はこのときから人間に興味を持ち始めました。人間の悪意と発想は無限大の可能性があると思ったのです。
僕は小学校時代、いろいろな悪意の種を蒔きました。
学校にまつわる七不思議を広めたりしました。わざと備品を別の場所に移動させたりしました。苛められっ子に苛めっ子を害するようにけしかけました。
今では覚えていませんけど、小学六年生の間にいろんなことをしました。
それが芽吹くのに時間がかかりました。七不思議なんて、僕が卒業して二年後に開花したのです。
僕は思いました。人間を唆すのは容易くないし、自分でも予想できない行動をする。だけど、方向性を持たせることができるのだと。
僕の悪意は留まることを知りませんでした。
この悪意を広めたいと思うようになったのです。
それと同時に僕は人を救うことも好きになりました。矛盾するようですけど、僕の心の中には悪意と善意が内在していたのです。
勉強のできないクラスメイトに勉強を教えました。クラスで起こった問題も解決したこともたくさんあります。
感謝されたら嬉しいと普通に思いました。自分のい場所があるようで楽しかったのです。
表ではみんなを助ける優しい生徒。
裏では悪意をばら蒔く非情な生徒。
二つの顔を僕は持っていたのです。
今では善悪の区別のつく大人になりましたけど、今から思うと恐ろしい子供だと思いました。
一体僕は何をしたかったのでしょう? アイさんを失ってから、僕は救済と冒涜の欲望を胸に秘めておくことができませんでした。
年々肥大していく気持ちを偽ることができなかったのです。
その欲求がなくなるのは、思春期の終わりである中学卒業までかかりました。
アイさんはそんな僕を怒ることもありました。悲しむこともありました。
どうしてそんなことをするの? 人の気持ちが分からないの?
どうしてって、楽しいからですよ。人の気持ちなんて知りませんよ。
そんな問答を何度も繰り返しました。不毛な問答でした。それでもアイさんと話すと心が和らぎました。
兄に苛められて、気持ちが荒んでいた僕を癒してくれるのはアイさんしかいませんでした。代わりを探そうと思いませんでした。
そんな嫌な子供は、小学校を卒業することになりました。
そして中学生になった僕はたくさん、救済と悪意を行なうことになります。
思春期ならではの恋愛もすることになるのです。
それは結局失恋になってしまうのですが、まあ今思い返すと良い思い出でした。
次回はそのことを語りたいと思います。
ほろ苦い恋愛ですけど、語らなければいけません。
それが読んでくださる方に対する、僕なりの義務だと勝手に思うのです。
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