第2話転移
「この前取り除いたガンが検査の結果、悪性だったんだ。そしてもう転移しているの」
落ち着いたアイさんが小さな声でぼそりと言いました。普段では考えられない、弱々しい言い方でした。
僕はガンという単語は知っていましたが、『悪性』や『転移』という言葉は知りませんでした。
でも訊くことはできませんでした。
だって、多分悪いものだと子供ながら思いましたから。
説明させるのも悪い気がしました。
だから質問は控えました。
「余命ははっきりしないけど、そう長くないって言われたの。半年生きられたらいいって私は思う」
半年。それがアイさんの残された時間でした。僕は胸の奥が締め付けられるような、悲しい気持ちになりました。
その当時、死んだ人を見たことはありませんでした。友達や親戚で亡くなった人もいませんし、両親も健在だったのです。
自分の死は想像できました。小児喘息で苦しんでいましたから、それがハードになるようなものだと、考えていました。
僕は弱々しいアイさんを見て、悲しくなりました。
その悲しみは顔をつたう雫となって発露したのです。
いや、詩的な表現はやめましょう。
僕は泣いてしまったのです。
アイさんが驚いて目を見開いたのが、涙目越しに分かりました。
静かに流す涙ではなく、子供のように――いや、子供なんですけど――大声をあげて泣き始めたのです。
「アイさん、死なないでよ! 死んだら嫌だ! 生きていてほしいよ!」
子供が駄々をこねている泣き方でした。
ワガママをそのものを言ってしまいました。
そのくらい、僕の中でアイさんは大切な人でした。
「アイさんが死ぬなんて、信じたくない! 嘘なんでしょ!? そうだって、言ってよ! 全部嘘だって、言ってよ!」
確かこんなことを繰り返し言っていた記憶があります。
僕は今までたくさんの人の死を見てきましたけど、これが始まりだったのです。
このときの感情はひたすら悲しくてつらくてどうにもできない気持ちで一杯でした。
泣きやまない僕に、アイさんはもう一度抱きしめてくれました。
「ありがとう。こんな私のために、泣いてくれるんだね。嬉しいよ」
アイさんは僕を抱きしめながら、泣いていました。
二人が泣きやむまで時間が必要でした。涙が涸れるほど、泣きじゃくりました。
泣きやんだあと僕はアイさんの話を聞きました。
子供の頃からの夢は女優になることだったこと。
OLをやりながら演劇の勉強をしていること。
オーディションで何度も落ちたこと。
それでも諦められないこと。
そして病気が発覚してショックだったこと。
今でもアイさんが語った、アイさんの人生を覚えています。
それくらい、僕の心に刻まれたのです。
「私には彼氏がいるの。でもこんな病気になっちゃって、どうしたらいいのか分からないの。正直に言ったほうがいいかな?」
今から思うと子供にする質問ではありませんでしたけど、僕は「言ったほうが良いです」と言いました。
「彼氏さんの支えが、アイさんに必要だと思うから、絶対に言ったほうがいいです」
その言葉に、アイさんはホッとした顔をしました。
きっと彼氏さんに連絡取りたかったけど、誰かの後押しが必要だったのかもしれません。
たとえ子供でも、勇気を分けてくれる人が必要だったのです。
今から振り返ると、アイさんは強い人ではなく弱い人でした。
しっかりとした壁ではなく、脆い張りぼてのような人だったのです。
当時、ケータイ電話が普及していない時代でしたので、アイさんは病院の公衆電話を借りに、僕を連れて下まで降りていきました。
「ありがとう。洋一くん」
お礼を言われたけど、何に対してのありがとうなのか、当時は分かりませんでした。
彼氏さんの職場に電話をかけて、少し会話をしていました。
その間、ずっと僕の手を握っていました。時折、握る力が強くなっているのを感じました。
僕はそれに応えるように強く握り返しました。
会話が終わって、受話器を戻すと、アイさんは少し笑顔になりました。話がまとまったみたいです。
「洋一くん、病室に戻ろう。今日は新しい本を貸してあげる」
そう言われて、僕は頷きました。
病室に戻って、新しい本『ハックルベリー・フィンの冒険』を読ませてもらいました。
しかし、本に集中できるわけがなく、早々に読むのをやめてしまいました。
「洋一くん、ごめんね。悲しい話しちゃって」
僕は「そんなのことないです」と言いました。もちろん嘘でした。
僕の心を張り裂けるような、悲しい話でした。
もしもこれが小説だったら、こんなにも思ったりしないでしょう。
しかしこれは現実でした。
目の前にいる女性がいずれ死んでしまう。
そんなことは短い人生の中で初めてのことでした。
そして、死んでしまいそうな人に対して、「もうすぐ退院できるんです」と言えないということは子供ながら分かっていました。
「洋一くん、何か言いたいことがあるんじゃない?」
僕の心中を見抜いた一言でした。僕は反射的に「退院するんです」と言ってしまいました。
でもこのタイミングを逃してしまったら、言えなかったですから、ある意味助かりました。
「そっか。おめでとう。洋一くん」
そのときの笑顔を、僕は忘れることはできませんでした。
本当に心から喜んでいたのですが、どこか陰りがある笑顔。
初めて会ったときに見えた蔭りが今よりも濃くなっているように感じられました。
後から気づいたことですけど、その蔭りは『死相』だったのです。
これからたくさんの人の死を見てくるようになる僕が初めてみた『死相』はアイさんだったのです。
でも当時はそれが『死相』だと思いませんでした。ちょっと変だなとしか感じませんでした。
「洋一くん、もうここには来れないと思うから、今言っておくね。洋一くんのおかげで楽しく過ごせたよ。ありがとう」
そう言って、アイさんは僕の頬に軽くキスしてくれました。
僕の顔は真っ赤になってしまいました。女性にキスされる経験なんてなかったのです。
「うふふ。可愛いな、君は」
そんなことを言われてますます顔が真っ赤になってしまいました。
からかわれた経験もなかったので、どうしていいのか分からなくなって、僕は「も、もう帰ります!」と言って病室を出ました。
「さようなら。また会おうね」
その言葉に僕は返事もせずに病室を出ました。
それがアイさんとの最後の会話になりました。
その次の日に退院しました。その日に別れの挨拶をしようとしましたけど、アイさんの検査のために会うことができませんでした。
まあ、今度会えばいいか。そんな風に思っていました。
それから一週間後。僕は幼稚園の休みのときに病院を訪れました。病院は駅の近くにあって、当時の僕は電車の乗り方を知っていたので、見舞いに行くのは容易いことでした。
病院の受付でアイさんのことを訊いて、病室が変わっていることを知りました。
見舞い客用のバッヂを胸に着けてもらってから言われていた病室に行きました。
僕が通院していた病院は病棟が三棟ある立派な施設でした。僕とアイさんがいた病室は第三病棟でした。しかしアイさんは第一病棟へ移動になったのです。
僕は親から貰ったお小遣いで地元の駅前にある花屋で買ったお見舞い用の花束を持って、アイさんの病室の前に来ました。
ノックをします。しかし返事はありません。
僕はいないのかな? と思って何気なくドアノブを触りました。
病室の扉がゆっくりと開きました。
僕は驚きながら、病室の中に入りました。
そこには、アイさんが寝ていました。寝ているといっても上体を起こして、窓の外を見ていました。
「ああ、アイさん。いるなら返事してくださいよ。一体どうしたんですか――」
そう言って近づいて。
そして原因が分かりました。
アイさんの喉には、真新しい包帯が巻かれていたのです。
僕は花束を落としてしまいました。
振り返ってこちらを見るアイさん。
そして手元にあったメモ帳とボールペンで何やら書いてから、僕に見せました。
そこにはこう書かれていました。
『ごめんね。もう喋れなくなっちゃった』
僕は一週間前と同じくらい涙を流しました。
詳しい理由は分からないけど、アイさんはもう喋ることができない。
もう優しい声で語りかけてくれない。
もう分からない言葉を教えてくれない。
そう思うと悲しくて悔しくてやりきれない思いで一杯になりました。
アイさんは長い時間をかけて、筆談で説明してくれました。
ガンが転移して一番酷いところが声帯だったこと。いますぐ切除しないと半年も経たずに死んでしまうこと。
『だから、私は選んだの。生きるために喋れなくなることを』
僕はなんて言えば良かったのか、未だに分かりません。
元気出してよとも言えません。
同情なんかしたら、逆にショックを受けてしまうでしょう。
だから僕は近づいて、アイさんの手を握りました。
「大丈夫。僕はずっといてあげますから」
何の根拠もない言葉でした。
でも何かしないといけないとそのときは思いました。
アイさんの顔の蔭りはますます濃くなっていました。
『ありがとう。その気持ちだけで嬉しい』
そう書かれた文字は震えていました。
僕はアイさんのために、アイさんの分まで話しました。
久しぶりに行った幼稚園は変わりがなかったことや友達のことや家族のことを話しました。
それを笑顔でアイさんは聞いていました。
今だから言えることですけど、僕はアイさんのことが好きだったのです。しかし初恋とは違っていて、単純に好きだったという話です。人として尊敬できる立派な大人でした。
まあ優しくしてくれる大人が少なかったから好きになったのかもしれません。
アイさんも病院生活で退屈していたときに、たまたま出会っただけの縁である僕に依存していたわけではありません。アイさんには家族や彼氏さんもいましたし、支えてくれる人はたくさんいたのでしょう。
でもそんなことは当時の僕でも分かりきっていたのです。
いくら知能が高いと言っても、経験とか知識が足らない未熟者の僕にできることと言ったら、何もないのです。
自分の弱さや情けなさを実感する出来事だったのです。
生まれて初めての挫折でした。
僕は帰りの時間が近づくと「また来ます」と言いました。
『そっか。じゃあまたね。今日は会いに来てくれてありがとう』
丁寧な文字でそう綴るアイさん。僕はできる限りの笑顔で「はい! 絶対来ます」と返事したのです。
それから三ヶ月は土日に見舞いに行くことにしました。電車代は決して安くはありませんが、親に出してもらっていたので問題ありませんでした。
親は僕に負い目がありました。兄の面倒を見なければいけないとか、構っていないことを負い目に思っていたのです。
僕は自分の家が嫌いだったので、ちょうど良いといえばちょうど良かったのです。
僕はアイさんとの会話を楽しみました。会話と言っても僕が一方的に喋っているだけですけど、それでもアイさんは喜んでくれました。
そして三ヶ月が経って、僕の小児喘息が酷くなり始めました。
というより、死にかけたのです。
夜中に発作を起こして、親が車で病院まで連れて行ったのです。
後から聞いた話ですけど、本当に危険な状態だったみたいです。
意識不明の危篤状態のまま、三日が過ぎました。
そして目が覚めると、目の前にいたのは、父でも母でもなく、アイさんでした。
『良かった。良く頑張ったね』
そう書かれたメモを見せられました。
僕はアイさんに微笑みかけました。
だけど、すぐに意識が飛びました。
だからこれは現実なのか、夢なのか分かりませんでした。幻覚かもしれません。
でも僕はもう一度、アイさんに会わないといけないと思いました。
会ってアイさんと話したい。
それだけを胸に、僕は闘病生活を続けました。
女優を目指したアイさんは声を失い。
死にたがりの子供は死より苦しい思いをさせられた。
神様は残酷だなあって今でも思います。
僕が再び歩けるようになったのは、それからしばらく経ってのことでした
アイさんの宣告された余命まで、一ヶ月もありませんでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます