恥知らずな半生
橋本洋一
第1話小児喘息
僕は恥知らずな人生を歩んできました。
いや恥を知らないと言うよりも、自分の生き方や生き様を恥ずかしいと思ってなかったのかもしれません。
今となっては分別がようやく身について、社会性もそれなりに学んできたつもりです。
それでも、社交性だけは皆無の状態であるのは悲しいことですが。
大人になるにつれて、人との関わりがつまらなくなったのです。
一人でいるほうが、気楽ですし、気苦労も少ない。人を貶すこともなければ、人から馬鹿にされることもありません。
そう考えると、人と関わるメリットというものが見当もつかなくなったのです。
しかし、自分の意地汚さを露呈するようでこれも恥ずかしくて、恥知らずなことですが、孤独に生きるのは避けたいのです。
一人は好きだけど、孤独は嫌い。
なんてワガママな人間、浅ましい人間なのでしょう。
しかし――同じ言葉を繰り返す愚かさをどうか、気づかないフリをしてください――本当の意味で一人と孤独は違うのです。
愛と恋ほど違います。
青色と藍色くらい違うのです。
その違いを語るには、僕の語彙や表現力では難しいのですが、一応言っておきます。
世界で一人きりなのが一人。
世界でたった一人なのが孤独なのです。
だから僕はこうして、皆さんに小説を読んでもらっているのです。
一人でいるために。
孤独にならないように。
書いた小説を通して、僕は世界に関わっています。
さて。前置きはそれくらいにして、恥知らずな人生の始まりを語りだすことにしましょう。
それは僕が物心ついた瞬間から始まるのでした。
物心がついた瞬間、僕は違和感を覚えました。
何に対してなのか。それはこの世界と自分が噛み合わないことでした。
恥知らずな人間、厚顔無恥な子供。
そう言い換えても差し控えないのですが、僕はそう思ってしまったのです。
今だから言いますが、僕は幼少期にして、高校生くらいの知能を持っていました。
自分の立場、人種、性別、家庭環境を鑑みても、当時の自分が優れているのが、分かってしまったのです。
これは自慢ではなく、高慢でもありません。事実なのです。
幼少期から少し成長した小学校のとき、IQテストを受ける機会があり、軽い気持ちでやってみると、数値が142と出たのでした。
しかし小学生ながら、面倒なことになると思った僕は、次のテストをわざと間違えて、偶然だと思わせることにしました。
そしてそれは成功したのです。がっかりした先生の顔を、僕は今でも覚えています。
そんな嫌な小学生になる前の、幼少期の僕も本当に嫌な子供でした。
大人の考えていることが手に取るように分かったのです。
幼少期の僕は不思議に思っていたのです。
どうしてみんな、考えていることを表に出しているのだろう? 怖くないのかな?
そう思っていました。
僕にとって、世界はつまらないおもちゃのようでした。時代遅れのキャラクターのグッズと言えば伝わるでしょうか。
とにかく僕は退屈していたのです。二才か三才の段階で死にたいと思っていたのです。
なんと嫌な子供でしょう。吐き気がするほどの自己嫌悪で一杯です。
しかし、神様がその嫌な子供の願いを中途半端に叶えてしまいました。
僕が三才のとき、小児喘息になりました。以後それから二年間ほど、入院と通院を繰り返す闘病生活を送ることになりました。
このとき、僅か三才ほどから死を意識するようになった僕は、本当に楽になりたかったのです。
呼吸するだけで咳き込んでしまう。毎日注射を打たれる。何もかも嫌になるくらい苦しみが続いたのです。
死にたくて死にたくて死にたかったです。
なんで僕みたいな優秀な人間がこんな目に合わないといけないのか。自問自答の毎日が季節と共に巡ってきたのです。
これは罰なのでしょうか? 周りを見下していた結果でしょうか?
これは罪なのでしょうか? 優秀であるのが原因だったのでしょうか?
だとしたら幼少期の僕にしてみたら、重すぎる罪でした。
そして幼少期にして悟ったのです。
僕以外の人間は無能で、それはすなわち、世界は退屈なものなのだと。
今から思えば、なんて自分勝手な言い様なのでしょう。自分の思い通りにならないからと言って他者を蔑むのは、どうしようのない罪深いことであり、罰を受けても仕方のないことでした。
大人となった今では世界と人間の見方はだいぶ変わりましたが、幼少期のこの思いは、後々まで繋がっていくのです。
その悟りを胸に秘めて、僕は闘病生活を送っていくことになるのです。
現代医学では治せない、心の病までも発症しながら、周りには一生懸命小児喘息と戦っている子供としてです。
「子供なのに、可哀想――」
「なんであんな良い子が――」
「とても見てられない――」
そう言った声も雑音として、聞き流していました。
どうせ僕の苦しみなんて分からないと決め付けていたのです。
しかし、死を意識していても、人間は強い生き物だと思い知らされました。
苦しくて辛くても、僕は死ななかったのです。
まあ小児喘息で死ぬ確率はあまり高くないので、そこまでは大げさに言うことでもありませんけど。
僕は死を意識しながらも、それが分かっていなかったのです。
意識から認識へと変化していったのは、とあるきっかけがありました。
四才のある日、体調が少しだけ良好になって、病院の中庭を歩くことを許可されました。僕は久々に点滴や呼吸器から解放されたのです。
子供の頃は病院にいましたから体力がありませんでした。少し歩くだけでも、はあはあと息が切れました。喘息のせいで呼吸器官が弱っていたせいでもあります。
僕は中庭にあるベンチに座りました。一休みしたら、病室に戻るつもりでした。
座ってぼうっとしていると「ぼうや、ここに座っていいかな?」と声をかけられました。
はっとしてその声の主に目を向けると、やせ細った、枯れ枝のような若い女性が立っていました。
顔色は悪く、青白くて幽霊のような人でした。傍らに柳があれば、より幽霊らしくなるような印象を受けました。
顔は美人と言っても差し控えない容貌。髪が痛んでいますけど、それは仕方のないことです。症状によっては、お風呂に入るのを控えることもありました。
その人は病衣を着ていましたので、すぐに僕と同じ入院患者だということは分かりました。
「疲れちゃったから、君の隣に座っていいかな?」
気さくそうにそう言う女性に、僕は「いいですよ、どうぞ」と子供らしくない受け答えをして、席を空けました。
「ありがとう。君は一人なの?」
僕の両親は仕事と兄の面倒を看るのに忙しいので、大抵は一人の場合が多かったのです。
「そうですけど、えーと……」
「私はアイでいいよ」
流石に実名を言うのは良くないので、仮名で『アイ』を使いました。
「アイさんも一人だけ?」
「私は人気者じゃなくて、嫌われ者だからね。一緒に歩いてくれる友達もいないのさ」
当時の僕は友達が少なく、病院には顔見知りはいるものの、親しくなかったので、気持ちは痛いほど分かりました。
「アイさんはどうしてここにいるの?」
無邪気さゆえの質問でした。
本来ならタブーな質問です。
自分の罹患している病名を言うのは、誰だって嫌ですから。
「私はガンで入院しているんだよ。この前切って、ようやく歩けるようになったんだ」
なんでもないようなことを言うアイさん。僕は知識として『ガン』を知っていましたけど、実際に『ガン』の患者に会うのは初めてのことでした。
それから、いろいろと質問しました。
入院したのは一ヶ月前。
手術したのは二週間前。
OLであること。
年齢は二十七歳であること。
「君は――名前はなんだい?」
僕は正直に名乗ると「洋一くんか。よろしくね」と笑顔で言いました。
その笑顔に蔭りのようなものを感じました。
それが何なのか、理解するのに時間がかかりました。
「洋一くんは何の病気かな?」
「小児喘息です」
「そう。大変だね。でも小さい頃に治れば、大人になっても再発しないから」
大人になっても。僕はその言葉に一抹の不安を覚えました。
僕は、大人に、なれるのかな……?
それからも会話が続きました。アイさんの話を僕が聞いて、相槌を打ったりしました。
いろんな話をしてくれました。恋愛の話。高校時代の思い出。大学のときの苦い経験。
僕はアイさんの話を咀嚼して飲み込んで、自分の知識として蓄えました。
このことが後々に響いてくる――そんなことはありませんでした。小説ではないのですから、伏線なんて微塵もない現実の話ですから。
僕たちはすっかり仲良しになりました。
アイさんは聡明な人で、知性も知識もあって、知能だけしかない僕には魅力的に映りました。
僕たちは互いの病室を教えあいました。また会えるよう約束までしました。
病院に入院したことのある人なら、ピンと来ることですけど、患者の楽しみといったら誰かと会話するか、本を読んだりテレビを見たりすることぐらいでした。
食事は不味いし、寝ていたら夜眠れなくなりますし、本当にやることがないのです。
僕のいる病室は六人部屋ですけど、周りの子供は母親が一緒にいたので、僕と会話してくれる人はあまりいませんでした。
だから、アイさんと会話できるのは、素直に嬉しく思いました。
それから病室を訪ねたのは、僕のほうが先でした。その日の翌日のことだったと記憶しています。
僕が病室をノックして入ると、アイさんは嬉しそうに「来てくれたんだ」と言いました。
アイさんの病室は個人用でした。だから気兼ねなくお喋りすることができました。
アイさんからはいろんなことを学びました。勉強ではなく、主に読書についてでした。
アイさんは某大学の文学部の出身で、日本文学の専攻でした。だから本が大量にあったのです。
それまで僕はまったく本は読みませんでした。読書に興味がなかったのです。
三才の時点でひらがなとカタカナと簡単な漢字は読み書きできましたので、アイさんに分からない文字を教えてもらいながら、おすすめの本を読ませてもらいました。
一番好きだったのは、幻想的な小説でした。ファンタジーが好きになったのです。
その本の中で一番好きなのはミヒャエル・エンデの『モモ』でした。
「洋一くんはもっと世界を知ったほうがいいよ。そうすれば好きになれるから」
今から思えば、説教のようなものでした。
僕が入院はつまらないようと言うと、決まってアイさんは厳しいことを言いました。
「つまらないと言っても何も好転しないだろう? だったら楽しまなきゃいけないんだよ。これはポリアンナ効果って言うんだよ」
僕の知能が高いと分かってからは、そのような心理学用語を教え始めました。文学部で本好きという性格は、後々まで僕に影響を与えることになるのですが、今はまだ関係ありませんでした。
アイさんはこのようなことも言いました。
「まだ四才ぐらいの男の子が、世界をつまらないだなんて思うのは、良くないよ。自分がつまらない人間になっちゃうから。まだまだ楽しいこともたくさんあるんだから、失望しないで、希望を持とうよ」
その言葉は心に響くもので、脳に刻まれて離れませんでした。大人になっても覚えています。おそらく老人になっても覚えていることでしょう。
僕はすっかりアイさんのことが大好きになりました。
これは今でも同じですけど、簡単に人のことが好きになってしまう傾向があります。
一人が好きなはずなのに、矛盾していると自分でも思います。
アイさんと知り合って、一ヶ月が経ちました。
徐々に回復する僕と違って、アイさんは少しずつやせ細っていきました。
僕は容態のことを訊こうかどうか迷いました。嫌な予感がしたのです。
でも訊けませんでした。もし訊いたら、何かが壊れてしまうような気がしたのです。
そしてアイさんが退院する前に僕の退院が決まったのです。
そのことを報告しようと、僕はアイさんの病室を訪れました。
いつも通り、病室をノックしました。
アイさんの「……どうぞ」という返事で中に入りました。
挨拶をする前に気づきました。アイさんが――泣いていたことに。
僕は動揺してしまいました。大人が泣くところを初めてみました。だから、その場に固まって動けませんでした。
「洋一くん、ちょっとこっちに来てくれないかな?」
アイさんが泣きながら笑顔になって僕をそばに近寄らせました。
僕は言うとおりにしました。
言うことを聞かないといけない気がしたから。
「……ごめんね」
僕は――アイさんに抱きしめられました。
力強く、締め付けるように、抱きしめられたのです。
「洋一くん、私――死ぬかもしれないんだ」
そう言って、アイさんは泣き始めました。
僕は、何も言えずに、なすがままでいました。
ただただ、抱きしめられていました。
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