おはようなぎさちゃん。




「おはよー」

「おう、おはよ」

 朝、眠気眼をこすりながら階段を降り、廊下ですれ違うなぎさに挨拶を返す。リビングからキッチンに入り、コップを取り出し水道から水を汲むと、一気に呷った。

 乾いた喉に染み渡る。腹の底がじんわりと冷えるのを感じて、それを吐き出すつもりでため息をこぼした。

 少しだけ目が覚めて、なんとなく覚えた違和感に首を傾げる。

 それでもやはり朝はしっかりと食事を取らなくては。冷蔵庫を開けて食材を確認する。朝食のメニューはいつも計画することはなく、その日ある材料から適当に決めて作ることにしている。毎日メニューを計画するなんて七面倒なことは、夕食の一回だけで十分だ。

 とりあえず、卵料理を一品入れることだけは習慣化している。タンパク質は身体作りに欠かせない栄養素で、卵といえば完全栄養食品とも言われるくらいに他の栄養素も豊富なタンパク源だ。これを欠かさず食べときゃとりあえず間違いないだろ、なんて素人意見のもとそうしている。

 朝は忙しくて簡単なメニューしか、なんてのは平日の話。休日、特に兄妹二人がそろった場合なんかはその限りでなく、少しだけ豪勢に朝食を楽しむ。

 豪勢、というとちょっと語弊があるか。時間のかかる料理を解禁するってだけだ。

「まち、なんか食いたいもんあるか?」

 ちょうどリビングに入ってきたまちに尋ねれば、パジャマ姿の彼女はうーんと首をひねって考えた末、一つだけ料理を挙げてくれた。

「トマトスープがいい。お豆の!」

「はいよ」

 さすが妹、よくわかってる。

 煮込み料理は時間がかかる。……まぁ、まちの言う豆のトマトスープは、基本缶詰を使うからそこまでかかるわけじゃないけど、それでも俺が普段朝に作るものに比べればだ。

「なぎさはなんか嫌いなもんあったっけ?」

 いつものギャルらしい服装のなぎさは、まちから遅れて数秒でリビングに入ってきた。

「特に……あ、パクチーとか?」

「そもそも買ったことねぇなぁ」

「じゃあ大丈夫。わー、ほんとにキッチンにいるー」

 なんだか感心した様子のなぎさに、「何が楽しいんだか」と首を傾げる。

 ……首を傾げる。リビングを見る。

「……なぎさ!?」

「え、おっそ」

 なぎさがいる。パジャマ姿のまちと並んで、食卓について今か今かと俺の作る朝食を待っている。

 何が起こっているのかわからない。なんとなくパニックに陥った俺は、下を向いて自分の姿を確認し、だらしのないスウェット姿であることに羞恥を感じてしまった。

「きゃっ」

「え、悲鳴かわい」

「じゃねーよ! なんでいるんだよ!」

「まちが呼んだのー」

「呼んだのーじゃなくて!」

「朝から元気だなぁ」

「ねー。おにぃがこんなに元気な朝は初めてかも」

 どうしようツッコミが追いつかない。

 そうか、違和感の正体はこれか。廊下ですれ違った時、なんで気づかなかったんだろう。朝食もまだ、なんて時間になぎさがここにいるのがそもそもおかしい。なにしろ彼女は、家に来たこと自体が初めてなんだから。

 初めて家に招くのが朝食って、おかしいだろ。おかしいよな。おかしいって言ってくれ。

「前々からおにぃの料理が気になってたらしくてー。こないだの下平くんが食べたって聞いて、ジェラっちゃったって」

「そう、ジェラっちゃった」

「そうか……ジェラっちゃったんだな」

 そりゃあ仕方ない。

 ツッコミ疲れて思考を諦めた俺は、大人しく朝食を作り始めた。メニューはブロッコリーのスクランブルエッグに三種の豆のトマトスープ。それからトーストに、各自好きなものを塗って。

 玉ねぎ、ベーコン、じゃがいも、にんじんを一口大に切り、スープ用の鍋に熱したオリーブオイルで軽く炒める。水とコンソメを加えて煮立たせ、三種の豆が入った缶詰を開けて投入。ホールトマトを加えて木べらで粗めに潰し、塩コショウで味を整えながら中火で煮込んでいく。

 手が空いたら次はブロッコリーを湯がく。その間に卵を割ってマヨネーズと塩コショウ少々を加えてかき混ぜる。湯がいたブロッコリーを刻んで入れて、熱したフライパンでざっと焼けば完成だ。

 トーストはこの間手が空いた時にトースターに放り込んでおけばよし。

 煮込んでいたトマトスープの火を止め、これにてできあがり。ほかほかと立つ湯気と、トマトの酸味をかすかに含んだ甘い香り。食欲をそそる。

 盛り付けて、まちを呼んで運ばせれば準備完了。まちとなぎさが並んで二人、その向かいに俺という形で食卓に座る。

「めっちゃ手際いー」

「どうも。冷めないうちに」

「いただきまーす。めっちゃうまそー」

「あ、いちごジャム」

 大事なものを忘れてた、とまちが立ち上がって冷蔵庫に。

 それを尻目に、なぎさは一口目にトマトスープを選んだようだ。大きめのスプーンで具材ごと大きくすくい、大きく開いた口に運んでいく。

 口が閉じられ、スプーンが抜かれ、目を閉じてそれを味わうなぎさ。俺の手で作った料理が、目の前で推しに食べられている。そりゃあゼリーだって食べてもらったけれど、なんというか、これはまた違った印象だ。特別感のない日常の中にある「なぎさ」が、どこか不思議な心地で。

 開いたカーテンから入り込んでくる朝日が彼女を照らす。口の動きが止まる。唇が、目尻が微笑む。本当に、不思議だ。

「ん~、うまぁい」

「おぉ……よかった」

「まちこの日常だぁ。おいしいおいしいって言ってるのが、実感できるなぁ」

「うらやましいだろぉ。毎日だよー」

 戻ってきたまちはトーストにいちごジャムを塗りながら、なぎさに向かって不敵なドヤ顔だ。自分で作ったわけでもなかろうに、ずいぶんと偉そうなことで。

 でも、よくわかる。推しの日常って、特別だ。配信で見る彼女が「嘘」ってことはないだろう。それも一つの彼女だ、と少なくとも俺は思っている。けれど改めて、いや初めて彼女をリアルで見てみると、やっぱり少し違うというのがわかる。わかってしまう。

 もちろんそれが嫌ってわけじゃない。なぎさの、『なぎ。』の努力の証であり、それが目に見えたのは素直に嬉しい。

 なんというか、申し訳ないというか、そういう気後れする部分がどこかにあるんだ。

 まちを追いかけて引っ越しまでしてしまったなぎさには、そういうものはないんだろうか? もうまちとの会話にもだいぶ慣れてきて、それでも「いつもの」というにはまだ遠い彼女――その笑顔には、もう硬さはほとんどない。

「スクランブルエッグとろふわぁ。ブロッコリーのしゃっきり感がめっちゃ合うわー」

「ねー。あ、いちごジャムいる?」

「欲しい。まちこのいちごジャム、これかぁ」

 まさに推しの日常を満喫しているようである。

 全てのファンを置き去りにして、一人その喜びを享受する。甘受する。

 ただ俺となぎさの間には絶対的に異なる点が一つある。

 努力したか、していないか。

 なにしろまちを追いかけて引っ越しまでしてしまった。家賃くらいは自分で稼げと言われて、実際にそれを成し遂げた。同じ高校生とは思えないバイタリティだ。

 比べて俺は、たまたまなぎさが追いかけてきたアイドルの兄であったというだけ。何一つ成し遂げることなく推しと出会い、こうして朝食をとるまで至ってしまった。

 運が良い。それで片付けていいものかと、少しだけ。

 見当違いなのはわかってる。これをなぎさに話したところで一笑に付されるのがオチだろうし、なにより人との縁にケチをつけること自体失礼にも程がある。

 ……だから、どうでもいいことだよね。ほら、失礼だし。

 なぎさかわいい。

「いちごジャムついてるよぉ」

「あ、ごめ」

 口元のいちごジャムを、まちが指で拭ってそのままぺろりと舐め取る。

 悶えるなぎさ。と、俺。

 なんて素晴らしい光景なんだろう。愛する妹と愛すべき推しが、こうしてイチャイチャと戯れている様は、心が洗われるようじゃありませんか。

 なぎさの心情が手に取るように理解できる。

「手が止まってるよ」

「うん。たべるたべる」

 固まっていたなぎさが食事に戻ると、再び食卓はにぎやかになる。

 なんなら今まで友達としたことがないことまで、こうして一緒にしている。今一番仲の良い友達は? と聞かれたら、なぎさの名前を挙げてしまいそうなほどに。

 スクランブルエッグをパンに乗せて食べ、また会心の笑みを見せるなぎさに、口元がほころぶのを抑えられない。

「そういえばなーちゃん、今日泊まってくんだっけ?」

「……え」

「……は?」

 抑えられない口が、愕然と開かれる。

 今愛すべき我が妹のヤツ、何て言いやがった? というか見ろ、聞かれた本人が一番びっくりしてるじゃねぇか。

 そりゃまぁ、同性の友達の家に泊まるってくらいは、普通にあっていいイベントだ。何もおかしいことはない。

 でもどうだろうなぁ、世間的に。それを考えればほら、なぎさ、わかってるよな?

 頷かないよな? 断るよな?

「うん」

 いや、わかってたけどね。

 推しのために引っ越しまでするバイタリティあふれる我が推しは、緊張しながらもキョドりながらも、決してチャンスを逃さない女なのである。



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