第29話 誰かが幸せになるということは、それとは反対に誰かが不幸になるということ

 いや、まさか……いやいや、そんなはずはない。

 あり得ない。絶対にあり得ない。

 触れば触るほど大切な人の顔が浮かび上がるが、恐らく暫く会っていないからコートを触った瞬間そう思っているだけで、決して……。

「あ、そうそう。これも言い忘れていたわ」

 私が混濁こんだくしている最中に、ベニーが話し始めた。

 彼女は私の方には一切向かず、オーリンに向けて話していた。

「私とお父様が森で狩りをしている時に凶暴な熊が襲い掛かってきたの。

 すぐにお付きの兵士に頼んで退治してもらったけど……とても大きかったから皮を剝いで毛皮のコートに……」

「いやぁあああああああああ!!!」

 私は耳を塞いで叫ばずにはいられなかった。

 これ以上、聞くと頭がどうにかなってしまいそうだった。

 信じたくない。信じたくない。

 今、私が着ているのがアップルちゃんの毛皮なんて信じたくない。

 きっと私が住んでいた小屋の森ではない。

 どこか遠くの森で狩りをしに来ただけなんだ。

 そうだ。そうだ。絶対にそうだ。

 そうでないといけない。絶対に……。

「どうしたの? 急に大声なんか出したりして……大丈夫?」

 ベニーが心配そうに近寄って、私の背中を撫でていた。

 そして、くっついてしまいそうなくらい顔を近づいてきた。

「言ったよね? もしまた王子様に近づいたら芋虫を食べさせる程度ではすまないって……」

 この言葉で私が避けていた最悪な事態が本当になってしまった。

 私が着ているこのコートは間違いなくアップルちゃんだ。

 そう思った瞬間、呼吸が荒くなっていった。

 頭の中が今にもどうにかなってしまいそうだった。

 脳という狭い空間の中で悪臭漂うガスが充満していった。

 もしそこに火が灯れば、たちまち爆発して私の心肺は停止してしまうだろう。

 しかし、そこに火を放とうと言わんばかりにベニーは話し続けた。

「いいこと? 誰かが幸せになるという事は、それとは反対に誰かが不幸になるという事なの。

 あなたが王子様と幸せになった代わりに、あなたの事を大切に、大切に、たーーーいせつにまるで親みたいに面倒を見てくれた可愛い可愛い熊さんの命を奪う事になったの。

 でも、私を悪人みたいに思わないで。

 繰り返すように言うけど私が王子様と接触するのはやめろって言ったのに、あなたが約束を破ったから……当然の罰でしょ?」

 こいつは……姉は私とアップルちゃんの関係を知っていたんだ。

 恐らく兵士から情報を聞いたのだろう。

 アップルちゃんが私の家の見張りをしているという事を知ったベニーは私が王子様と接触した罰として彼を……彼を……。

 それ以上は考えたくなかった。

 ただ全身が震えているのが分かった。

 すると、ベニーは「本当に大丈夫? 極寒にいるみたいに顔が青いし身体が震えているわよ」とまた背中を撫でていた。

「熊の干し肉のシチュー、美味しかった?」

 口が裂けると言わんばかりに笑った後、ベニーは立ち上がってオーリンに手を振った。

「それじゃあ、また」

 ベニーは窓からそう言って別れを告げた。

 馬車は走っていった。

 私はベニーの最後に言い放った言葉が忘れられなかった。

――熊の干し肉のシチュー

 私が食事会に出された時、確かに干し肉らしきものがあった。

 でも、それは、いや……まさか。

「ユキさん、大丈夫ですか?」

 オーリンは座り込んでいる私に心配そうに声をかけてきた。

「……オーリン」

 私はか細い声で彼女の名前を呼んだ。

 オーリンは「はい、何ですか?」と応えた。

「今日、食事会に出されたシチューに使われた干し肉ってどこで手に入れたの?」

「え?」

 オーリンは返答に困っていたが、執事の一人が代わりに答えてくれた。

「はい。ベニー様がシェフに干し肉を提供したのを目撃……」

「おろろろろろろ」

 私は執事の話を聞き終える前に胃に残っていたシチューを吐き出してしまった。

「きゃあああ!!」

 すぐ近くにいたオーリンは立ち上がって、「誰か! 医者を!」と叫んでいた。

「アップルちゃん……アップルちゃん……」

 私は自分でぶちまけた吐瀉物としゃぶつの上で何度も大切な名前を呟きながら嗚咽おえつを漏らした。


 そこから先は覚えていない。

 たぶん召使い達に介抱されたのだろう。

 私はベッドの上に寝かされていた。

 けど、羽織っていたはずの毛皮のコートがどこにもなかった。

「コート……コート……」

 私はベッドから起き上がり、隅々まで探した。

 サイドテーブルの引き出しの中をあさり、テーブルをひっくり返したがなかった。

 枕と布団を放り投げて、マットの上を確認するがここにもなかった。

 じゃあ、その中だと思って枕のカバーを爪で剝いだ。

 しかし、出てくるのは白い綿で、赤い毛皮はなかった。

 布団も綿が散乱するだけで見つからなかった。

「コート……コート……私のコート!」

 私はそう叫びながらベッドを力任せに返した。

 出てきたのは隠れ家にしていた虫だけだった。

「返せ! 返せ! 返せ! 返せ!」

 私は逃げ惑う虫どもを追いかけ回しながら足や手で潰していった。

 すると、騒ぎを聞きつけてきたのか、ドアの前が騒がしかった。

「ユキさん?! どうしたんですか?」

 オーリンの声だ。

 私はすぐさまドアの方に向かい、ドアノブを捻った。

 が、開かなかった。

 どうやら外から鍵がかけられているらしい。

 何故とは思ったが、今は一刻を争う事態なのでドア越しに叫んだ。

「コートがないの! 赤いコート!」

「コート? あ、あぁ……あれは洗濯中です」

「洗濯? どうして?」

「えっと、あなたが覚えているかどうか分からないですが、食事会で食べた物を全部吐いた後、コートを脱いで拭き出したんです。

 私はすぐに止めましたが、『アップルちゃんの肉体を返さないと!』とか言って言う事を効かなくて……仕方なく私が眠らせる魔法をかけて、メイドに洗濯するように頼んだんです」 

 あぁ、そうだったんだ。

 全く覚えていないや。

「じゃあ、綺麗にしたらすぐに持ってきて。大切な形見だから」

 私が強めの口調で言うと、オーリンは「分かりました」と言った。

 足音が遠退き、辺りは再び静寂に支配されていった。

 私は部屋の隅っこでしゃがみ、膝を折り曲げた。

「アップルちゃん……アップルちゃん……」

 私は何度も呟きながら顔をうずめた。


つづく。

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