第13話 食べることは生きること

 ところで、ここまで「食べる」ということについての話が続いているが、「食べてはいけなかったのではないか」ということを考えてしまうとか、一見何かどこかが間違っているように思えてしまうかもしれない。

 それも当然のことだろう。なぜならば、無自覚な部分で行ってきている自らの「食べる」という行為によって発生している過去から現在までの物語を私たちは振り返るという体験しているからである。


「自責」という言葉がある。私たちは目を向けなかったことのはずのことを突然眼前に置かれると途端に自らを責めるという傾向があるようだ。地球という星に住む地球人の中で、日本人は特にその傾向が強いと思われた。


 NANAは毎回の個人のワークの現場で、相談の現場で、どなたにも同じような話をしていた。少人数が集う、とあるワークの現場でも同じように話していた。


「間違いなど無いのです。間違ってなどないのです」


 それでも人々は同じように言うのだった。


「でも、やっぱり、私が間違っていたのだと……思います」

「どうして食べてしまったのでしょう」

「食べさせられたせいで自分はこうなった、って思ってしまいます」

「私が悪いんですよね……」



「ええと、ですね。間違いだと感じてしまうことはある、確かにあるのです。ですが、実際には私たちは自分のこれまでの言動に気が付いていくという仕事をしていくことに大きな意味があって、意味に気が付いてしまった時点ではもう、間違いでは無くなっていくのです。だからまず体験するのは、一過性でのショックです。」


「えっ?」


 多くの人たちの反応は似ている。

 そこでNANAは繰り返しゆっくりと伝える。


「わかりにくいですよね。でも、そうなんです。自分のことを間違っている、間違ってきたと思う瞬間と出会うことで、そこから振り返るということが始まります。その間違いに見えていたものが何だったのか、何のためだったのか、何が隠れていたのか、無自覚なままだった自分の感情を見つけていくことで、自分に大きな解放がやってくることになります」


「解放……」


「ええ。解放です。無自覚に、自覚の無いままに閉じ込めて来てしまっていた自分の感情に出会うことになるのです。随分と長い間、長い時間ずっとひとりぼっちでいたのですから、持ち主が帰ってきて自分のことを発見することになるわけですから大きな出来事です。その固まって滞って閉じていたとある感情たちが、今度は帰るべきところを見つけて治まっていく、ようやく自分のお家に帰ることが出来るような、そんなことが自分の中で起きるわけです」


 さらにNANAは続ける。


「私たちは悪くなんて無い。でもそう思ってしまうことがある。それは確かですね。環境や社会で知ってしまった常識とか、親から受け継いだ考え方などから、何らかの正しさとか間違いというものに無自覚に縛られてしまっていることが多いのです。大きくは私たちは外に見るものからたくさんのことを借りて生きて来ているのですよね。そういうことを確認するチャンスが来たときには、それらの常識たちに引き続きよろしくなのか、もうさようならなのか、自分で選択して決めていくことになります。そこにあるのは、どちらを選ぶことになったとしても、ありがとうございますという思いです。さようならの場合には自分の中に新たな常識や考え方というものを作っていくチャンスとなります。占星術でいうと、サターンリターンという時期もそういう意味があります。今現在の空にある土星が自分が生まれた瞬間の土星の位置へと帰ってくるという約二十九年ほどの周期での自分の土台チェックです」


「はい……なるほど」


「私たちが環境の中で見てきたこと、自分の中に取り込んできたことに、間違いなど無かったのです。必要だった、その時それはそうするしか無かった、様々な理由で私たちは食べること自体には無自覚なまま『食べる』ということを行ってきました。その事実を知るっていうこと、自覚するっていうことが重要ですが。だからこそ無自覚に行ってきたことを間違いを犯した自分が悪いのだとか、許せないというように、自分という存在自体を否定したり反省する必要は無いんです。間違いはあったかもしれない、しかしそれに気が付いたなら、ショックを受けよう。ただし、それは一過性のショックであって、固定されるべきものではありません。新しい発見や意味を見つけることが起きたなら、その経験は起きる必要があった、起こす必要があったとことなのだと理解していくことが可能になるでしょう。これまでの考え方や善し悪しの決定の仕方という世界を選ぶのか、新しい世界の考え方や意味を発見していくという世界を選ぶのか、そのどちらかの世界観を選ぶ、選択するということが新たに必要になってくるだけなのです」


 いつかどこかの人生の場面において、それぞれが立ち止まり考えるというチャンスが訪れることを待っているのもまた自分なのだろう。おそらくはそれを「節目」と呼ぶ。


 毎度涼しい顔の参加者のT氏が言った。

「私はNANAさんのblogを時々読んで、地方から東京に出てくる思いを強くしました。だから夢を叶え続けていこうという今日があります。たとえばそういうことも食べるっていうことですよね」


 何人かの人たちは地方から関東に引越しをして、NANAのところに数ヶ月、一年に一回という程度の周期で通っている人たちもいた。自分の生きたいように生きることも実践したかったですし、NANAさんは直接話を聞いちゃった方が早いと思ったので、と彼らは言う。blogを読んでそういう決断をするっていうこと自体がNANAは不思議だった。結構大きな決断に思えた。だからといってNANAは何もしていない。数ヶ月や数年に一回会って話をするだけだ。その行動力とその後の言動に人生を「選ぶ」ということを逆に教えられている気さえしていた。


 地球という星で、たくさんの難関を乗り越えて今日という日を生きているのが私たちである。抱えすぎてきているものに気が付く時がやって来たなら、その荷物を降ろし、ゆっくりと自分からその荷物が解けて離れていくのを見ていく経験が待っているだろう。

 それが何のために自分の中にあり続けることになったのか、発見することが可能になっていく段階がやって来る。そこには意味があって、自分にとっての大切な意味があって、その意味という存在が、私という持ち主をただ黙って待ち続けていたのだ。それには理由があったのだ。

 それは大きな出会いの瞬間となるだろう。 私たちは間違ってなどいないのである。何かを発見し、気が付くことが起きたなら、そこから先は選ぶものを変える、変わるということは起きやすくなるだろう。


 私たちはこの地球上の生活の中で、自分が縁したものと出会う。出会い続ける。

 縁したものを食べていく。

 この地球に生まれる前のことも実感など無いが、母親のお腹の中に居た頃や、さらにその前の宇宙空間に居たころにも、その時々に縁のあった何かを食べていたのだろうと想像することは出来る。


 私という存在は「食べる」ことで作られていくようだ。

 同時にそこには「飲み込む」「消化する」「選択する」「吸収する」「排泄する」ということが含まれることになる。取り込んで、自分のものとなるものや排泄して捨てていくものがある。インプットとアウトプットということがセットになっている生き物なのだ。


 私たちは誰もが何かを「食べる」ことで生きている。それは地球での食べものという見えるものであったり、形に無い見えないものであったりしている。

「食べる」ということから始まった今回の旅はまだまだ続いていく。


 もしかしたら、食べることで虚弱になったり、栄養摂取では無く失うということもあるのかもしれない。それも当然のように思われる。

 身近なところにその風景が見えるからだ。例えば地球での日常生活の中で、自分に合わないものや、腐っているものなどを食べることで、私たちはそれぞれの免疫力や腸内環境の状態によって吐き出したり排泄することで食べたものからの影響力を手離そうとする。

 それは感情や環境から受け取って食べるものと同じことなのでは無いだろうか。「気あたり」という言い方がある。そこにあったであろう場所や人間などの「気」というものと合わなかったという場合に頭痛や寒気、吐き気、悪寒など、心身に症状が表れるのだ。

 怖い話では無い。その時の自分の状態と合わないものと出会ったということであって。良い悪いではない。好きか嫌いか、好みで考えた方がいいくらいだ。


 だれもがなんとなくそれは誰もが経験している。なんとなくいい気がしない、とか、なんとなくいい気分だ、など、私たちは日常の中で無自覚に「気」について当り前に語り続けているのだ。そういうことで、実は怖がる話では全く無い。














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