わたしが

あべせい

わたしが



「すぐ、戻ります」

 男がそう言うと、店から飛び出した。

 青森県の中心都市にある、シャレた喫茶店「パンタ」。

 9階建てビルの1階がパン屋、2階が喫茶「パンタ」で、3階から上がビジネスホテルになっている。

 その2階にあるテーブル席にいた30代半ばの男が、突然、顔色を変え、脱兎のごとく店外に出た。

 ウエイトレスの沙由記(さゆき)は呆然と見送ったが、万が一を考え、階段を駆け下りて、男の後を追った。

 男は、駅とは逆方向、店から10数メートルのところにいた。悄然として。

 沙由記は、店のドアを出て数歩のところで立ち止まると、男のようすを観察した。

 アイボリーの綿パンに同色のジャケット。髪は短く、スリムだ。彼が腰掛けていたテーブルには、これまた同色のデイバッグが置いてあった。

 旅行客だろう。沙由記がそう見て取ったとき、男がとぼとぼと店に戻ってきた。

「お客さん」

「エッ」

 男は沙由記の呼びかけに、我に返ったようすで、店のドア前にいる彼女を見た。

 2階の喫茶には、一旦1階のパン屋に入り、中に設けられた階段をあがる。

「どうされました。急なご用事でも……」

「ちょっと、知り合いに似たひとがいたものだから……」

「こちらに、お知り合いが、ですか?」

「でも、もういいンです。人違いだったみたいだから……」

「そう、ですか」

 男は沙由記が開けたドアから、力なく店内に入り、2階に上っていく。

 沙由記は考える。

 男はひとり旅。この青森に知り合いがいる。しかし、ことばのアクセントからみて、津軽の生まれではなさそう。男のテーブルは、窓際にあり、ガラス越しに下の歩道がよく見える。

 彼の知り合いが、店の前の歩道を通った。2階の窓際の席から、相手の顔が見えたのだから、その知り合いは、駅のほうからきた。ということは、男の知り合いは、この青森の住人の可能性が高い。だれだろう。

 沙由記はそこで、ハッとした。ドアのそばでぼんやりしていては、仕事にならない。この時間、2階の接客は彼女ひとりに任されている。

 沙由記は慌てて、2階のホールに戻った。

 男は、窓際のテーブル席にいる。コーヒーとタマゴサンドを注文して、コーヒーのお代わりをした直後に、外に飛び出した。

 コーヒーのお代わりは無料になっている。沙由記は、コーヒーピッチャーを持って、彼のテーブル席に行った。

 時刻は午後2時過ぎ。ほかにお客は4、5人しかいない。24人で満卓になるスペースだから、仕事は少ない。

「コーヒーのお代わりは、いかがですか」

 沙由記は、男の顔を覗き込むようにして、言った。

 男は、地図帳を見ている。青森のだ。

「ありがとう。まだ、いいです」

「いつでも、おっしゃってください」

 沙由記はそう言ってから、自分でもおかしくなった。そんなことをお客に向かって言ったのは、初めてだったから。

 男のことが気になっている。沙由記はそのことに初めて気がついた。

 沙由記が店内の定位置に戻ろうとすると、

「ちょっと、待ってください」

 男が呼び止める。

「はい」

 沙由記は振り返ると、うれしくなって、いつもより緊張した高い声で返事した。

「なんでしょうか」

「きょう、こちらに1泊しようと思うンですが、ホテルをご存知でしたら、教えていただけませんか」

 予定していなかった青森に、急遽、泊まるつもりなのだ。沙由記は、またまたうれしくなった。この気持ちをどう表現していいのか、わからないが、彼に対して、好意を持ち始めたのは確かだ。

 沙由記に、恋人はいない。これまでひとりだけいたが、一昨年交通事故で亡くなっている。一週間、涙が止まらなかった。立ち直ったあとは、すてきな男性を探しているが、いい出会いがない。

「このビルの上がホテルになっています。お値段もリーズナブルですから、ご満足いただけると思います」

 沙由記はそう説明した。

 そのビルの3階がホテルフロントで、4階から最上階の9階までが客室になっている。喫茶店もパン屋も同じ経営だ。

 沙由記は、手が足りないとき、ホテルの仕事を手伝うことがあるから、ようすはよく知っている。

「そうですか。すぐに予約しよう」

「お客さん、もしよろしければ、私がご予約いたしますが。従業員の紹介だと、少しお安くなります」

 それはウソだ。しかし、従業員の家族や親戚なら、繁忙期を除き、通常の2割引きで宿泊できる。だから、男を親戚にすればいい。沙由記はそう胸算用した。

「お願いします」

「では、ここにお名前とご住所、電話番号を書いていただけますか。それと、ご年齢も」

 沙由記はそう言って、ユニホームのポケットから、私的なメモ帳を取り出した。

 ドンピシャ! 沙由記の狙いは当たった。

 男は、東京に住む36才の男性だった。名前は、蒼井詳記(あおいしょうき)。出来れば、職業も知りたいが、そこまでやると、怪しまれる。

 沙由記はそのメモ書きで我慢して、フロントに蒼井の予約を入れた。

 

 喫茶「パンタ」は、午前10時に開店する。

 翌日、沙由記は、午前9時半に出勤した。シフトでは遅番だから、正午の出勤でいいのだが、早番の五月と交替してもらった。五月は、同い年で、いちばん気が合う同僚だ。

 早番にしてもらったのは、勿論蒼井のことが気になるからだ。

 彼が泊まったホテルの部屋番号はわかっている。携帯の番号も。彼がきょう一日、どんな行動をとるのか。

 ホテルのフロントは3階だが、店の表を監視していれば、ホテルに出入りする人間はチェックできる。ホテルを利用する者は、喫茶「パンタ」の前を通らなければならない構造になっているから。

 沙由記のいる2階からも、階段の上に立てば、「パンタ」の表は、アクリルのドア越しによく見える。

 沙由記は、ホールの掃除を終えると、階段上付近に立ち、表の歩道とホールを交互に見ながら仕事をすることにした。面倒だが、彼女は少しもそうは思わなかった。

 しかし、沙由記の気苦労も、杞憂に終わった。というのも、蒼井は、10時の開店と同時に、「パンタ」にやって来た。

 そして、歩道が見下ろせる窓際の、昨日と同じテーブル席についた。

「いらっしゃいませ。お早いンですね」

 沙由記は、水を入れたグラスを、彼のテーブルに置いてから言った。

「エッ」

 蒼井はそう言い、一旦、沙由記を振り仰いでから、

「おはよう。昨日の沙由記さんですね」

「エッ」

 こんどは、沙由記が驚いた。

 昨日、彼のためにホテルを予約するとき、彼から名前を聞かれたので、「白川」と、姓だけは教えたが、下の名前までは言っていない。

 だれに聞いたのだろう。ホテルのフロントにおしゃべり女がいる。蒼井から聞かれて、教えたに違いない。

「きょう、ぼくは……」

 蒼井は周りに目をやってから、

「しばらく、ここにいさせて欲しいンです」

 ほかにお客はいない。

「どうぞ。気のすむまで、いらっしてください」

「ありがとう、沙由記さん」

 二度まで、沙由記と呼ばれて、沙由記は胸のあたりがむずがゆくなった。快いのだ。

「どなたか、お探しなンですか」

 沙由記は一歩、蒼井に近寄った。彼までの距離約50センチ。

 しかし、彼は椅子に腰掛けている。沙由記は立っている。

「ひょっとしたら、昨日の?……」

 沙由記は少し腰を屈め、顔を蒼井に近づけながら、そう言った。二人の顔の間隔は、30センチまで近づいた。

 しかし、蒼井は気がつかないのか、下の歩道に目をやったまま、

「そうなンです。昨日は、すぐに追いかけたのだけれど、見失って……」

「大切な方なンですね」

「妻です」

「奥さんッ」

 沙由記は、声は抑えたが、

 このひと、奥さんに逃げられたの? 沙由記はそう思った。

 途端に、蒼井がつまらない男に見えてきた。

「去年の昨日、亡くなった妻です」

「亡くなった奥さまをお探しなのですか……」

 そんなわけがない。

 しかし、彼がロストシングルとわかり、彼に対する評価はすぐに回復した。むしろ、評価は以前よりも断然高くなっている。

「見ず知らずのあなたに、こんなことを話していいのか、どうか……」

「どうぞ、話してください。ほかにお客さまはおられません」

 沙由記は、蒼井に対する関心が、さらに深まったことを内心自覚した。

「この青森は、亡くなった妻の生まれ故郷です。それで、妻を散骨したいと思ってやって来ました」

「そうだったのですか」

「ところが、昨日八甲田山に行き、散骨を終えて、こちらに立ち寄り、こうして外を見ていたときです。妻にそっくりの女性がこの下の歩道を通り過ぎた。他人の空似でしょうが、ぼくは慌てて……」

 そういうことか。

「奥さまによく似た女性を見かけられたのですね。奥さまのお写真、いまお持ちですか」

 沙由記は、この男の妻の顔が見たくなった。カップルの3組に1組が離婚する時代だ。こうして亡妻に似た女性を探す男なら、きっと夫婦仲はよかったのだろう。

「待ってください。遺影用に準備した写真が鞄にあります。散骨のとき、そばに置くために持ってきたから」

 蒼井はそう言って、ショルダーバッグから、2Lサイズの写真を取り出した。

 沙由記は、思わず、蒼井から引っ手繰るようにして、その写真を手に取った。自分でも驚くような早技だった。

「アレ……」

 沙由記は、女性の容貌を確認したかっただけだが、写真を一目見た瞬間、どこかで見た顔だ、と感じた。

「沙由記さん、なにか」

 蒼井は下の歩道から、沙由記の顔に目を転じた。

「わたし、知っています。このひとなら……」

「待ってください。これは、私の妻です。昨年亡くなった」

「でも、そっくりなンですもの。このひと」

「本当ですかッ!」

 蒼井は、体を沙由記のほうに向け、目の前に立っている沙由記をまじまじと見つめた。

 妻は双子とは聞いていない。だから、そっくりの女性がいるはずがない。しかも、写真は10年も前のものだ。妻と結婚したばかりの、妻が24才のときの写真だ。

 世の中には、自分とよく似た人間は3人いる。蒼井はこれまで、そういう俗説を小バカにしていたが、本当なのかも知れない。そんな気持ちになりかけた。

「その方、どちらにおられますか。是非、会わせてください」

「待って。いま、思い出すから」

 沙由記はそう言ってから、内心、やりすぎたかなと感じ、心のなかで、チロッと舌を出した。

 全くのウソではない。写真に似た女はよく知っている。

 沙由記の同僚の五月だ。昨日は休みだが、きょうは遅番で、午後から来る。

 五月は沙由記以上の美形だ。五月が店にいるときは、男性客の入りが、沙由記のときと比べると、はるかにいい。経営主も認めている。

 沙由記は、五月のことを言っていいものかどうか、迷った。

 似ているかどうかは、人によって見方が違う。それに、蒼井が五月に心を傾けやしないか。

「いいンです。やはり、私は昨日の方を待ちます」

 蒼井は、沙由記の思いとは裏腹に、気持ちを切り換え、視線を下の歩道に移した。

 昨日見た女性に執着しているようだ。

 そこへカップルのお客が現れ、沙由記は、蒼井のテーブルから離れた。

 お昼になり、蒼井はサンドイッチを注文して、昼食の代わりにした。

 その後、2階ホールは、客の出入りが激しくなり、沙由記は蒼井にかまっていられなくなった。

 ふと気がつくと、蒼井がいない。

 沙由記は驚いて、彼がいたテーブルに駆け寄った。伝票は、飲みかけのコーヒーと一緒にテーブルにある。

 食い逃げ!? そんなバカなことをするはずがない。沙由記がちょっと目を離したすきに、出ていったのだろうが……。

 沙由記は急につまらなくなった。そして、心のなかにぽっかりと空洞が空いたように、たまらなく淋しくなった。

 しかし、ホールは満卓で、のんびりしてはいられない。たった一つ空いている蒼井のテーブル席をチラチラと見ながら、仕事を続けた。

 沙由記は、客足が落ち着いてホッとして壁の時計を見た。正午を少し過ぎている。遅番の五月がくる時刻だが、まだ来ていない。彼女が遅刻するようなことはいままでなかった。時間には正確な女性だ。何か、あったのだろうか。

 それに、蒼井のテーブルはもう2時間近く、空席になっている。

 そのとき、沙由記のスマホにメール着信を告げるライトが点滅した。勤務中にスマホをいじるのはご法度だ。

 沙由記は急いでトイレに入り、メールを開いた。

 五月からだ。

「ごめん。ちょっとカチャクチャナイことが起きているの。もう少しで行くから」

 かちゃくちゃない、って? 面倒でイライラするといった意味だが、いったい何が……。

 トイレから出ようとしたとき、こんどはスマホに着信音が鳴った。

 再び五月からだ。

 メールではなくて、電話。五月だって、わたしがいま勤務中だということは百も承知だろう。トイレに駆け込み、メールを見たことも、彼女のことだから、わかっているはずだ。

 沙由記はトイレのなかで、そっとスマホを耳に当てた。

「五月、どうしたの」

 沙由記がささやく。

「沙由記、あなた蒼井ってひと、知っているの」

「蒼井?……知っているわ。お客さんよ。いまはいないけれど」

 蒼井がどうしたンだ。沙由記はようやく、店から姿を消して2時間近くになる蒼井のことに思いが及んだ。

「その蒼井さん、いま、わたしの姉にプロポーズしてンの!」

「どういうことよ!」

 思わず声が大きくなり、沙由記は自分の手で口を抑えた。

 蒼井が心変わりしたのか。

 そう思うと、急に怒りが湧いた。彼女は無意識のうちに、蒼井が前々から自分の恋人のように感じている。

「だから、そういうことよ。蒼井さんが姉に結婚して欲しいと言っているの」

 五月は蒼井の亡妻に顔が似ている。当然、五月の姉も蒼井の亡妻に似ている。五月以上かも知れない。年齢も蒼井に似合いだ。

 昨日、蒼井は、「パンタ」の表を通り過ぎた五月の姉を見かけて、亡き妻が生き返ったと錯覚した。

「五月、あなたいま、どこにいるの」

「パンタの向かいの『プラザホテル』7階……」

 7階はブライダルホールだ。結婚式をあげているのか。

 冷静さをなくした沙由記の頭は、わけのわからないことを考えている。

「プロポーズと結婚式を一緒にするつもり!」

「バカ言ってンじゃないわ。姉はともだちの結婚披露宴に出席するためにここに来たンだけれど、あとから蒼井というひとがやってきて、無断で姉の隣に腰掛けてプロポーズを始めたというわけ」

「五月はどうして、そこにいるの」

「花婿がわたしの同級生だから、招待されたの。お店に出る時刻だから早めに切り上げるつもりだったのだけれど、姉に『助けて』って言われて、動けなくなった、わけ……」

 そのとき、沙由記は、重大なことに気がついた。

「あなたのお姉さんは結婚しているンじゃない。こどもはまだだけれど。立派なご主人がいるでしょ」

 五月の姉は結婚して、半年足らずだが、既婚者であることに変わりない。プロポーズされても、結婚ができるわけがない。

 沙由記は、不思議に、ホッとした気分になった。

「そうでもないの。姉は最近、結婚に失敗したとこぼしているの。こどもを作らないのも、そのせいなの。だから、彼のプロポーズに心がグラついている」

「初めて会ったひとでしょ。その蒼井ってひととは」

「それがそうでもないみたいなの」

「どういうことよ!」

 沙由記は事態がとんでもない方向に動いていると思わざるをえなくなった。

「その蒼井というひとの奥さん、昨年亡くなったらしいのだけれど……」

 それは知っている。だから、わたしは、彼に心が動いた。沙由記は、自分の心にそう確かめた。

「その蒼井の奥さんと、姉は高校の同級生で、大の仲良しだったの。それで、姉は一度上京して、蒼井さんにお墓を教えてもらって、お墓参りをしているの。彼はすっかり忘れていたみたい。奥さんが亡くなってすぐだったから、無理もないけれど……」

 エーッ! こんなことをしてはいられない。ようやく心ひかれる男性が現れたというのに。トンビに油揚げ、はないだろう。

「そこで待っていて。わたし、そこに行くから!」

「ここに来る、って。沙由記、あなたお店どうするの」

「五月、あなたが店に来なさい。あなた、勤務でしょ!」

 そりゃそうだが……。

「沙由記、あなただって勤務でしょ」

「わたしはたったいま、早退することに決めたの。お姉さんに言っといて。蒼井さんは頭がおかしいンだから、まともに相手をしたらダメだって。いいわね。わかったわね。すぐに行くからッ」

 沙由記は店の制服であるエプロンを外しながら、店長のいる1階の事務所に走った。

 昨日、彼が見た亡妻に似た美女は、五月の姉だった。そして、彼は、きょう再び、「パンタ」から下の歩道を見ていて、向かい側のプラザホテルに入る彼女を見つけて追いかけた。

 彼は運がいいのか。あるいは、わたしという女に見初められた彼は、運が悪いのか。

 沙由記は事務所に飛び込むなり、

「店長! たいへんです。母が倒れました。すぐに病院に行かせてください!」

 五月の姉が、蒼井のプロポーズを受け入れる前に、わたしは彼の心をガッチリ掴まなければならない。

「白川クン。落ち着いて」

「はァ?」

 店長は、おかしそうに微笑んでいる。

「キミのお母さんは、去年亡くなったと聞いたけれど」

「そうです。父です。倒れたのは……」

 沙由記は、店長の反応も確かめずに、向かいのビルに走っていた。

            (了)

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