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「日本の国歌“君が代”に決まっているじゃないですか」
そう言うと美波はカウンターの上にあった私のスケッチブックに何やら大きく英語と日本語でさらさらと書いて私達に示した。かと思えば、彼女は突然オペラ歌手のように英語で唄を朗々と歌い始めたのである。
「(君が代は)
Kiss me, girl, and your old one
【口づけをしておくれ。 そして君のその古臭いジョークにもね】
(千代に八千代に)
A tip you need, it is years till you're near this
【君に必要な忠告を あげよう】
(さざれ石の)
Sound of the dead “Will she know
【死者たちの声が君に届くまで 何年もかかったんだ】
(いわおとなりて)
She wants all to not really take
【彼女は本当に奪ってはならないものを欲しがるが そのことに気がつく日は来るのだろうか?】
(こけのむすまで)
Cold caves know moon is with whom mad and dead”」
【冷たい洞窟だって知ってるんだ。気が狂ったり死んでしまった人達を お月さまはいつも見てるっていうことをね】
皮膚に鳥肌が立っていた。彼女のネイティブな発音の良さと、意外すぎるハスキーな美声に聞き惚れたということもあるが、私と西園寺はしばし金縛りにあったように動けなかった。私よりも先に、その呪縛からいち早く脱出した西園寺が真相の一端に触れ、驚きの声をあげた。
「ああッ! なんてこった! 英訳すると意味が通じるのかよ! 英語なのに日本語で歌ってるように聞こえる! 空耳にしても、とんでもねぇ詩があったもんだぜ! ん…? 待てよ、待て待て! それじゃあ、これがあの薄気味悪い手記に書いてあったってことはよ……一体、何がどうなってんだ?」
「東城さん、これもまたあの謎の手記の断片のように見えますが、このマザーグースが最終的に見つかった場所には、誰が住んでいたんでしたっけ?」
「そうかッ! 被疑者のブレンダ・ルイス・ステファニーか! つまり外国人! この詩は外国人が関係しているというんだね! 彼女のいる保育園は外国人の子供達もいる保育園だ。その子供達に彼女は歌を教えていた。わらべ歌や手毬歌のように、怖い唄を子供の教育に使うというのは欧米でもよくあることだ。それでマザーグースの詩や英語や、その翻訳が唐突に、違和感もなく手記の中に紛れ込んでいたということなのか……。…ん? 待てよ。この替え歌の記述には翻訳となる部分がない。ということは……。ああぁっ! そういうことなのか! ま、まさか美波さん……。この手記は……。この腐臭の供儀を書いたのはッ!」
「お気付きになりまして? 文章の構成にはうるさい事件記者の東城さんなら或いはとは思いましたが、多分お察しの通りですわ。マザーグースを書いて残していたのは、容疑者のブレンダさんである。その部屋から死体が見つかった。最後に見つかったマザーグースには翻訳となる文章が書かれておらず、つまり未着手の状態だった。この部分の謎の解に至ると、一見バラバラにとっ散らかって混乱するだけだった謎の手記や事件のあらゆる情報が、スッキリと綺麗に同一線上に並ぶのです。数学の幾何の証明問題のようにね。この事件はまるで、惑星直列のようですわ。度重なる偶然の山積が余計な深さと広がりを持ち、情報の多さと偶然の連鎖に関係者は、ただただ混乱させられる。まさに空前絶後の偶然がもたらした、複雑怪奇なダークファンタジー! 探偵に求められる能力は、推理や行間を埋める想像力だけでなく、必要な情報の取捨選択と適切な情報の取り扱いとトリアージの仕方だという良い事例ですわね」
「おいおい、今回は俺が置いてきぼりか? 二人だけで納得するなよ。俺には未だにさっぱり、わけがわからないぜ」
「これはね、西園寺さん。例の手記に突然出てきたこの詩文やマザーグースの詩が、誰に向けて、何のために書かれていたものなのかを指し示す、重要な証拠になるのですわ。ひいては逮捕されたブレンダさんは事件とは何の関係もない、善良な無実の人で真犯人の工作に利用されたのだと証明するに足る物証になりえるものなのです。西園寺さんに東城さん、子供達のピュアな歌声は、何の冗談も誇張もなしに、こんな風にしてきっと世界を救う力がありましてよ。
日本に住む人種も国籍も関係ない子供達が先生に教えられ、みんなで歌っていた歌。先生が日本に早く馴染めるようにと、知恵を絞って子供達に教えていた歌。比類なき万世一系の厳かな日本の国歌のおかげで、私は事件の全貌を解き明かすことが出来たのですから。正に八百万の神々がこの国に住む異国の子供達に授けた光。私に天啓が舞い降りた瞬間でしたわ!」
「感動の話の腰を折って悪いんだがな、出来の悪い俺にわかるように言ってくれ」
「歌詞を日本語に直すと聞こえるこの唄がなぜブレンダさんの部屋にあったのか? マザーグースの唄が、なぜ得体の知れない手記の中に紛れこんでいたのか? そして、なぜブレンダさんの部屋で、その手記の元となる残りの書類は見つかっていないのか? その答えが導き出す解答は、マザーグースを書いてプリントアウトして残していた人物は、ブレンダさんではないからなのです。ブレンダさんの部屋からは、それ以外の手記は見つかっていないというところが胆要なのですわ。彼女はマザーグースを書いてはいます。ブレンダさんのキャリーバッグから見つかった手記を、彼女は見たこともないと供述しました。一見、矛盾するようですがあれは本当に嘘ではないんです。この供述と矛盾しない解答がたった一つだけあるんです」
「自分が書いて残してはいるが、見たことはない。つまり、どういうことだってんだ?」
「マザーグースに関係する以外の記述は、全て別人が書いている。一連の手記は、別人達の文章が混ざってしまっているのではないか、ということを示唆していることになるのです。そして、これが答え合わせの大前提になるのですわ。つまり、この腐臭の供儀と名付けるべき手記を、一番ややこしくしているのは肝心な部分が抜けている上に、これまた実際の順番と書いた作者と、書かれた目的や用途が全部バラバラな上に、勝手にそれらの文章が何者かによって都合よく並べ替えられ、主格となる部分が削除され、さらにプリントアウトまでされ、最後には書類になってあちこちに散らばっていたというところにあるのです。複数の人間がバラバラに、それぞれに文書ファイルに保存していた文章を、誰かがそれらしく一つに纏め、書類にしてしまったからこそ、この世に生まれることが出来た奇跡のダークファンタジー小説なのです。……大事なことなので、もう一回言っておきますわよ? キーワードは、“混ぜるな危険”です。複数の人間達が別々に書いた文書が何故か一つに纏まり、順番までそれらしく入れ違ってしまっていた。それ故に全体が捩れ曲がった、奇怪で恐ろしい印象を与える、一つの作品になってしまっていたということなのですわ」
「まったく別人同士の書いた文章が…?」
「混ざってしまっている……だと?」
ひたすらに困惑している私と西園寺の反応を眺めながら、再び事件の真相を語れる経験にワクワクしている様子の美波は続けた。
「もっと分かりやすく言いましょうか? 時折出てくる、文章のルールを無視した奇怪な語彙や表現をする人物。頭蓋骨に関する考察をしながら、真珠ナメクジの少女達や女神との不思議な会話を告白している人物。魔術の研究や儀式を説いている人物。死体の処理方法を思案していた人物。見世物小屋で奇怪な体験をした人物。獣憑きの文化人類学的考察をする人物。神憑りの心理学的考察と原理を説く人物。そして時折出てくる奇妙な詩とマザーグースを書いたのはブレンダさん、というようにあの手記を書いた人物は、全員がそれぞれ別人なのです」
「な、なにィ……じゃあアレは……」
「七人の文章が混ざっている、と?」
「ええ、この人々を繋ぐ共通点は、吉祥寺の周辺に住んでいるということ。そして、もう一つが、それぞれに何らかの文書を、自宅のパソコンに書いて残していた人物達であろうということです。これが推理をさらに進める上での材料になるのですわ。本来は、それぞれの人物が、それぞれの目的のために、自らのデスクトップやノートパソコンに文書ファイルとして残してあり、これまたその七人がそれぞれに保存してあっただけのものなのです。さらに不幸なことに、それらを書いて残していた人物同士には、ほとんど接点がないことだったのです」
「マジかよ……」
「では、なぜそんなバラバラな文書同士が一時に混ざってしまい、まとめて書類にされてしまうような、あり得ないミラクルが起こってしまったのか? ……西園寺さん、 吉祥寺の例の現場付近では妙な噂や事件に繋がりそうな情報が色々と転がっていましたわよね? 東城さんが集めてきてくれた情報ですわ。この際、それぞれの関連性や精査は度外視して、不可解な事象だけに目を向けてみましょう。東城さんが集めてくれた、街の噂という点と点を線で繋いでいくと何か見えてきませんか? そもそも、どんな噂がありましたか?」
西園寺は不可解な表情でちらり、と美波を見てから言った。
「あぁん……そりゃ車椅子バスケでバンバンスリーポイントを決める女だの、痴漢騒ぎだの、ターボババァや口裂け女みてえな怪人物ってのがあったか。パンチラみてぇなくだらねぇ噂だの、盗難品を狙いながら、ついでにパソコンのフォルダーからUSBメモリで情報も盗んでいくような空き巣の噂も……。ん? 犯人はおそらく丸の内警察署に出頭してきた泥棒で……。あ。……おいおい。まさか……。そういうことなのか? まさか、その訳のわからねぇバラバラの文章を繋いで、主格をぼやけさせて書類にしちまった奴っていうのは……」
「島谷俊彦! 丸の内警察署に奥さんと一緒に出頭してきた、泥棒の仕業か!」
私は思わずそう叫んでいた。美波は満足げに微笑んで頷いた。
「気づいたようですわね、その通り。ところが、この島谷俊彦という、吉祥寺一帯を狙ってUSBでパソコンの中の情報まで盗んでいく空き巣に、あるとんでもないハプニングが起こってしまったのです。おそらく、それは3月16日の夕方のことですわ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、美波さん。いつにもましてカッ飛ばしてるけど、何で君に日付や時間や泥棒の行動まで解るんだい?」
「簡単ですわ、東城さん。泥棒が盗んだ情報をまとめて書類にしていて、その書類がバラバラにバラ撒かれてしまい、それが混ざってしまったであろう決定的な証拠があるからです。西暦から、詳細な時間まで解りましてよ? 2014年の3月16日……つまり先週の日曜日の朝6時半から、明けて17日の午前3時半過ぎまでに限定できます。この日は今年度の日本の気象台で、春一番が観測された日であり、パンチラの盗撮画像の写真がネット上に派手に入り乱れた日でもあり、ついでに謎のターボ婆さんが突如出没した日でもあり、天井や建物が壊れる被害や電車のダイヤ乱れが都内、特に西東京を中心に相次いだ日でもあったのですわ」
「ああ、そういうことになるのか!」
「TwitterとFacebookにアップロードされた日付と時間と、情報を発信している人々を吉祥寺駅周辺に限定して、その情報をトリアージして繋いでいけば自然と引き出される結論なのです。まったく関係ない別人同士がそれぞれに書いて残していた文書ファイルの情報が盗まれ、それが混ざってしまうという華麗なるミラクルは、この日に起こったのですわ。ちなみにバラバラになった時間は、夕方の16時27分で、発信者は都内の女子高生でTwitterのアカウント名はユキチェル。Facebookでの本名では坂下由紀乃さんという人であることが、推理できます。彼女は行方不明となっている女子高生が吉祥寺にいるという噂を聞き知っていたのかもしれませんわね。よほど怖い体験だった上に、拾った書類が殺人事件を示唆しているような内容なので、正義感から誰かに知らせなくてはいけないと思ったのでしょう」
そこに繋がるのか。私と西園寺はお互いに息を呑み、彼女の言葉を例によって腹を空かせた仔猫のように、健気に見守ることしかできなかった。
「事もあろうに、盗みの成果にウッキウキで漫画喫茶で盗んだ文章の主格をぼやかし、書類をプリントアウトして帰宅しようとした泥棒の島谷俊彦は、風の恐ろしく強かった吉祥寺の街で、おそらくスマホでながら歩きをしていた女子高生の坂下由紀乃と盛大にぶつかってしまい、封筒に入れていた書類を地面に全て落として散らばせてしまったのです。この時に強風で原稿の一部が飛ばされてしまい、その書類の山には様々な抜けが生じてしまったのです」
「なんてこった……そうなるのか」
「慌てた島谷は強風と女子高生に痴漢に間違われそうになった焦りから、バラバラになってしまった盗んだ書類をとりあえずその場では回収したものの、中身の順番と構成が解らなくなってしまったのですわ。全体の文章が一見するとまとまった内容に見えて、その実、支離滅裂で滅茶苦茶な内容になっているのは、USBに保存していた情報を繋いで、彼が何らかの小説か何かにしようとしていたのでしょうね。つまり、朱が入るゲラどころか、まだ書きかけのプロットの段階にすら入っていない資料の原稿をプリントアウトしたということです」
「バラバラな状態なのは、先にプリントアウトしていたからだったんだね」
確かに作家ならば、資料を集めてプロットを組み、それから原稿を書くという手順を踏むはずである。ひたすら感心している私をよそに、美波は続けた。
「一連の文章に僕や私、彼や彼女といったように主格となる部分がないのは、元が他人のパソコンの個人フォルダの中の記録データから、USBで情報を窃盗したものであることを隠す為であり、文章の主格となる部分だけを、切り取っていた為だと考えられます。普通は東城さんのように、取材なりなんなりした後で原稿を執筆するのでしょうが、彼はそうしたプロセスの一切を省いて他人の書いた文章を、そのまま流用して自らの作品にしようとしたのです。坂下由紀乃とぶつかって慌てた彼が、それを後で組み替えてしまった結果でしょうね。言ってみれば、彼こそ奇跡の作品の公正作家ですわ。まあ、盗作どころか本当の泥棒なのですけれど」
「マジかよ……。ぶっ飛んでるぜ」
「呆れた……。ブリリアントな偶然だ」
「そう。ぶっ飛んだブリリアントな珍事が立て続けに起こってしまったのですわ。しかし世の中、偶然とはさらに恐ろしいもので、その場で回収されなかったものが数枚、転んだ坂下由紀乃のお尻の下に残ってしまったのですわ。坂下由紀乃がTwitterやFacebookやLINEを使って、その体験や奇怪な内容の文章を、ネット上で友人知人に派手に拡散して世間に広めてしまい、大型掲示板でさらに別の人々に拡散されてしまったので、原稿を書いた人物達と奪った島谷自身が一番驚いたことでしょうね。まあ、世間に拡散された原稿は、一部分でしかないのですけれどね。期せずして坂下由紀乃という一人の女子高生は、作者なき名作小説を世に広めた評論家や、小説大賞の審査員のような役割を果たしてしまったことになります」
実によく解る喩えである。私はひたすらに感嘆するしかなかった。
「しかし、現実のそんな混乱とは裏腹に事件はさらに驚きの展開を見せます。人の起こす事件というものはつくづく、本当に面白い動きを見せてくれるものです。時にとんでもない偶然をも呼び寄せてしまうようですわ。就職活動や作家活動どころか、泥棒にまで落ちて付近一帯を荒らし回っていたことを家族に隠していた旦那の島谷俊彦が、何か良からぬことをしている、浮気でもしているのではないかと疑っていた奥さんの島谷菜々子さんが問い質したのです。彼はおそらく奥さんに仕事をクビになってしまい、作家修行の為に盗作して漫画喫茶で原稿を書いていたのだという苦しい言い訳をしてしまったのです。彼女の名前も旦那の行動もFacebookの本名と残したメッセージで推測できます。旦那の苦しい言い訳を、おそらく奥さんは本気にせず、その矛盾や嘘を徹底的に追及したことでしょう。ついに彼は泥棒であり、電子記録媒体で人様の情報まで盗んでいたことを奥さんに白状しました。世間では既に奇怪な手記の内容が出回っているし、親族会議にかけられるしで、もう逃げ切れない、このままでは殺人の疑いまでかけられかねないと悟った彼は観念し、それで丸の内警察に奥さんと共に出頭してきたのでしょう」
「ド迷惑な野郎だぜ! よりによって丸の内警察に出頭してきやがるなんてよ。こちとら、訳のわからねぇ手記が送られてくるわブレンダは拘留されちまうわ、東城は訳のわからねぇ噂を吉祥寺の街でいいだけ拾ってくるわで、推理どころか、てんやわんやの状況だったんだぞ」
歯に衣着せぬ西園寺の物言いに、さすがの私も思わずカウンターから腰を浮かせた。
「そんな言い方はないだろ。そのおかげでこうして事件の全貌が美波さんのおかげで解ろうとしてるんじゃないか。僕や君は、ひたすら事件に関するデータを収集していたことになる訳だけどさ。どうしてこれをチームワークの勝利だと思えないのかな……」
「まぁまぁ。こんな風に日頃の行いには常に気をつけたいものですわねぇ。東城さん、気にすることありませんわ。今回の一件は、口の悪い刑事に盛大にバチが当たったのだと思って、大いに笑ってあげればよいのです。犬も歩けばバチに当たる」
「棒にあたるね。泥棒に当たった訳だけど」
「うまい! 感謝を言葉や形にできない人間にはなりたくないものですわよねぇ」
「まったくだねぇ。これだから、人に噛みつく獰猛な狂犬なんて呼ばれるのにねぇ」
「ンだとぉ、お前ら。だから誰が犬だ! ちっ……まぁ、今はとにかくややこしいヤマを一つ一つ片付けることにしようぜ。お互いチームの為に冷静になってな!」
「チームの為に冷静にねぇ……」
「はいはい。冷静に冷静に」
「チクショウ、奥歯に物の挟まる合いの手入れやがって……。まぁ、いいけどよ。だいたい島谷の奴は何だって丸の内警察に出頭してきたんだ? 盗難の被害額もおそらく相当なもんだろうし、それが盛大にバレた訳で、家族会議で親族に大いに責められ、吊し上げを食らった末での出頭劇だったんだろうとは予想がつくがよ」
私はその島谷俊彦の出頭に関して、一つだけ思い当たることがあった。
「確か一昨年の12月31日に、宗教テロの容疑者の一人が丸の内警察にいきなり出頭してきたっていうニュースがなかったかい? ほら年末年始にかけてさ。丸の内警察の前で立哨していた警官が最初は冗談だと思って本気にしなかったってやつ。それを受けてのリアクションだったんじゃない? ほら、窃盗の罪で出頭する泥棒側の身内の家族にしてみれば、被害にあった人達がすぐに解るようにっていう配慮なんじゃないかな。自責の念も含めて話題性を狙って、さらに減刑を望んでと考えれば吉祥寺じゃない理由にもある程度、説明がつくよ。丸の内なら、すぐに全国ニュースになるだろうし」
「アホか! 丸の内警察は犯罪者の駆け込み寺や広告の掲示板じゃねぇっつーの。住所が吉祥寺なら、地元の警察に出頭しやがれ!」
「僕にあたらないでよ。善良な一般市民に警察の管轄のことなんて解りようがないじゃないか。要するに世間に対して後ろめたかったんだろうから、そこはせめて同居の家族の気持ちを汲んであげようよ。これからいいだけ世間に叩かれることになるんだよ?」
「ったく…。呆れて物も言えねぇぜ。最初っから犯罪なんかに手ぇ出すな」
「しかし、これだけではまだ終わりじゃありませんわ。電子記録媒体による個人情報の窃盗行為自体は企業の個人情報の漏洩事件ならともかく、個人を対象とした明確な罰則規定はまだありませんしね。これはむしろ、その後の混乱の原因でしかなかった訳です。出来た彼の奥さんである菜々子さんは、親切にも唯一持ち主が判る、封筒の住所表記の場所に郵送で送り届けるという次なる悲劇が起こってしまったのです。彼女は言ってみれば出版社の代理人のような役割を果たして、作者なき名作を世に送り出した功労者ということになりますわ。結果的に旦那さんの窃盗や有罪を、立証してしまうことにもなってしまった訳ですが」
「なんてこった……」
「エクセレント……。偶然の連鎖だ……」
「しかし、住所の表記は文字が掠れていて、刑事の西園寺和也のいるマンションの一階の部屋に届いてしまったのですわ。ちなみに本来それを受け取るはずだった方は、おそらく手記の中では獣憑きに関する論考をしていた人物でもあります。その名前はFacebookによると
「マジかよ……。名字の
「あら、事実は小説よりも奇なり。縁は異なもの味なものと言うじゃありませんか。あいにく無茶苦茶な偶然が積み重なる出来事や可能性は、いつだってゼロではないのですわよ? 些か無責任な言い方ですけれど、この素敵な謎に巡り合えた奇跡は、私は神様がくれた素敵なプレゼントだと思いますわ。かくして『腐臭の供儀』と呼ぶべき前衛私小説と、憑依に関する論考と怪しげな儀式と、恐怖小説や官能小説が入り交じったような、世にもめずらしいダークファンタジー小説の断片が、大学生の西圜寺秋也君の下にでなく刑事の西園寺和也さんの手に渡ったのです。奇怪な謎の手記が丸の内のこのお店に現れ、怪奇に満ちた謎のフルコースが無料という破格さで事件記者の東城さんにも提供されることになってしまったのです」
呆れた偶然である。理路整然と説明されても、こんな荒唐無稽な話などまずない。
「これまたタイミングよく、その次の日に故も知らない誰かの頭蓋骨がキャリーバッグから見つかり、ブレンダさんの家からは白骨死体が発見されました。名状し難い謎の悪夢のような幻が、混迷する事件の渦中に突如出現して次々と世間を賑わす情報が錯綜し、事件とは何の関係もなく、子供達の為にマザーグースの唄を綴って、おそらくは父兄の方々への報告書にして文書を保存していたアメリカはオハイオ州出身の保育園の先生が殺人の疑いをかけられて警察に連行されてしまったのですわ。本人達がまったく知らないうちに共犯関係になり、合作のようになってしまっていたが故の悲劇だったという訳です」
「そうなると美波さん、改めて今さらという感じだけど、女子高生が殺害された事件は、関西にいたブレンダや彼氏の三上和彦の仕業ではないってことになるよね? 事件を巡る隠された事実関係や、背後の人間関係や動機が別にあって、その結果として殺害という凶行が成された訳であり、裏の様相は、まったく違っているということになる」
「それはもう全っ然違いますわ! 鎌倉とキャバクラくらい。戦隊モノのヒーローと変態モノのヒーローくらい違います。そのブレンド・ライス・ティファニーとかいう幼稚園の先生に一連の犯行は無理だからです!」
片桐美波は、人の名前をいつも正確に覚えない女である。どうも繰り返すと忘れるのか、話にノッてテンションが上がると微妙に間違うのだ。名前が合っていると、今度は職業や所属の方が見事に間違っていたりする。
本人はボケている訳ではないらしいのだが、この滅茶苦茶に語彙をいじくり回して生まれたようなちょっと変わった喩え(“美波のまぎらわシリーズ”である)といい、たまにバグが混じるような記憶の仕方といい、思考のパターンや記憶の回路が、どうにも常人とは一味違う持ち主なのである。
頭脳明晰なのだが、この辺りが少し変なのである。もちろん彼女を侮辱する意味で言っているわけではない。そんな彼女に西園寺がツッコミを入れた。
「ブレンダ・ルイス・ステファニーな。今回は名前は近いようだがな。……けどな美波、実際のとこ彼女以外に犯行が可能な人物はいないんじゃねぇのか? 殺人現場がブレンダと彼氏の部屋ってのは相当に重要で彼女にゃ悪いが相当に不利な状況だぞ? 次々に他殺の証拠が見つかっている上に、大阪から帰ってきたブレンダのキャリーバッグから何者かの頭蓋骨が見つかって、それで疑われているってのは動かしようのない事実だ。何らかの殺人行為やアリバイ工作の為に彼氏に付いていったと考えるのが、すこぶる自然な警察の見解なんだ」
確かに、今まではあくまで泥棒の悪質な手口と偶然が示されただけなのだ。警官である西園寺としては同じ犯罪でも、殺人事件を立証しなければならない。彼は続けた。
「どうやら、お前には真相が見えているようだが、この辺りをやたらと散らばったデータの中から論理的に実証してみせなきゃ、ブレンダは逆転無罪とはいかないんだぜ? 俺は今、お前のダチじゃなく、一人の刑事として訊いている。ブレンダをシロだと思いたいのは、俺もお前も東城も一緒で、全員一致のようだが、事は警察の捜査なんだ。間違いでしたや優しいブレンダ先生には犯行は無理ですじゃ済まされねぇんだ。その辺も、きっちり説明できるんだろうな?」
「ええ、わかっておりますわ、西園寺さん。探偵は全てのデータから答えを導き出す役目を負った重要なポジション。チェスならば王を守る為に縦横無尽に盤上を駆ける駒。探偵の一手に失敗は許されないのですわ。……大丈夫、ブレンダさんを子供達の元に戻してあげたい気持ちは私も同じなのですから、抜かりはありませんわよ」
この辺りがこの二人の頼もしいところである。二人をよく知る私は西園寺と美波をよく仲の悪い犬と猫にたとえるのだが、この二人はそんじょそこらの上品で利口なだけのペットの飼い犬や飼い猫ではない。普段のしょうもない煽り合いを演じている二人からは想像もつかないのだが、事件や謎と相対している時の二人はまるで別人である。それでも敢えて二人を犬や猫にたとえるならば、海千山千の犯罪者達を相手に一切怯まない獰猛なドーベルマンと静かに素早く忍び寄り、隙など一切見せずに獲物を狩るクロアシネコのようなものであろう。本気になった生粋の猟犬と野性の山猫の実力は計り知れない。
「彼女は少なくとも殺人犯では絶対にあり得ないのです。不在にしていた彼女の部屋から彼女が不利になるような物的証拠が次々と都合よく見つかっている時点でも、それは明らかなのです。警察はおそらくブレンダさんのアリバイを崩す方向にシフトしていると思いますが、そのごり押しでは残念ながら真実には辿り着けないと思いますわ。ということで、謎の手記のからくりと謎の配列がより明瞭になってきたことで、私達には新たな道が開けましたわ。ここからが本番です。今度は
彼女の持つ銀色の杖が暖色系の黄色の照明を反射して、きらりと鏡に反射した。
「この事件は謎の所在が散らばってひたすらバラバラになっているだけで最初から問題は至ってシンプルだと考えられますわ。誰が、なぜ、何のために? どのようにして、どんな凶行が起きてしまったのか? 謎の所在が不明確なのは、関わっている人物達の実体が掴めなかったからです。誰が書いたものなのかまでスッキリできるのなら、後はとっ散らかった情報を繋げていけばよいということですわ。つまり女子高生の並木洋子は誰によって、なぜ殺され、なぜ死体が白骨に変えられてしまったのか? 最終的には、この謎を解けばよいということなのです。偶然が積み重なった、この事件の混乱を収拾する手段もまたシンプルですわ。要は、もやもやの中に隠された真相を補完できるだけの、謎の核となる論理や部品があれば、すべてスッキリ説明できるということ。設計図とパーツとなる部品を、全て元の形に集め直して復元し、組み立てていけば、この事件という構造物は完成できるということです」
「隠された真相を補完する論理を、今ある材料だけで見つけろと? おいおい、いくらなんでもそりゃ無理だろ? 例の手記を思い出してみろ。真珠ナメクジだの女神の幼生だの、すこぶる個人的な言い回しまでしている、訳のわからねぇ内容まで混ざってるんだぜ。設計図に喩えたがプラモデルだって、いきなり部品がバラバラにされてたら、組み立てようがねぇ。この謎を辿れってのは無理だ」
「そう、西園寺の言う通りだ。ジグソーパズルだって四隅の角となるパーツが欠けていたら、完成させようがない。美波さん、あの手記が複数人が書いていたっていうのはおそらく間違いないんだろうけど、その内容が荒唐無稽で欠けたピースの部分があるのはもう疑いようがないよ。間違いを探すにしても、前提となっている文章が滅茶苦茶で、設計図となる手記まで散らばって不明じゃ、組み立てようがないよ。まだデータが足りない」
「あら、それでは探偵を名乗るにはチンチラおかしくて、ゲソが茶を沸かすと言わせていただきますわ」
「ちゃんちゃらおかしい、ね」
「
「ふっ、
美波もまたミステリと呼ばれるジャンルには西園寺と同様に一家言持っている。世の中の書評家や評論家という人々に対して、彼女は西園寺に負けず劣らず毒舌的なところがある。過去に何か気に障るようなことでも言われたのかもしれない。意外にナイーブなところもある滅茶苦茶な探偵は続けた。
「つまり、ここで大事なのは、手記に書かれている内容はけして創作や嘘ではなく、作者の実体験なり論説文なり、原稿の元となる出来事があったということ。これは逆に言えば反証になりえるということです。設計図もパーツもバラバラじゃ組み立てようがない? 果たしてそうでしょうか? 東城さんに西園寺さん。忘れてもらっては困りますわよ。原稿はそもそも盗難にあった人々のオリジナルが存在しているということを。そのオリジナルは、島谷が盗んで
「あ、そういうことか。原稿を書いた本人か」
「盗難の被害者達の中に、該当する人物はいるはずだってことか」
「ええ、最終的には人間が描かれる、というのもまた暗喩的ではありませんか。現実はミステリでも論理ではかれるパズルでもないのですからね。一見、突拍子もない謎の手記ですが、それらすべての内容は実は本当のことで現実の人間が書いていると仮定し、主格が島谷によって消されているという一連のルールに則って己の持つ知識を総動員して推理していけば、謎など実はなくなります。与えられた内容に偏った見解を加えず、まずは全てを信用してみれば、謎など何もなく、幻の世界を人の力で
「しかし、真珠ナメクジなんてキーワードじゃ辿りようがない」
「そんなことありません。だって真珠ナメクジの幼生の正体は、ヒルなのですから」
「はぁ!? ヒルだぁ?」
「蛭? アレは人間じゃないのかい!? 」
「そう! ヒルなんです!」
「お昼の情報番組みたいなイントネーション使うんじゃねぇよ! ただでさえ色々と紛らわしい事件なんだからよ」
「ヒルって……あの血を吸う蛭かい?」
「そう。あの手記の中に時折出てくる、奇妙な文章を思い出してほしいのです。主人公の身体的な特徴を決定づけている独特の文章で、その文章が現れる時には、決まって真珠ナメクジの女神という奇妙な表現と彼と一緒にいると思われる、女神の幼生という体裁の少女達の影がチラホラ見え隠れしたりする……そんな特徴的な文章がありましたわよね?」
「 “頭の震えが止まらない”!」
「ああッ! あれは比喩でもなんでもなかったってのか! 原稿を盗まれた奴の中に何らかの事故か何かの後遺症を持った奴がいるっていうことになるのか!」
「ヒル……蛭……? ああッ! そうか! そういうことなのか! 僕にも解ったぞ! ヒルジン! ヒルジンなんだね? アレは左腕を切断するような何らかの事故を負って、ヒル治療をしていた人物が書いた文章ってことになるのか! つまり、あの記述が出てくる部分は、全て日記の文章だったということか!」
「アレが日記だと? おい、何だ、そのヒルジンってのは? 東城、お前は知ってるみてぇだな。そのヒルジンってのは一体、何だ?」
「ヒルを原料とした薬のことさ。指や四肢を切断するような事故や怪我を負った人に主に用いられる薬だよ。海外の医療技術を指す場合は、ヒルそのものを使った医療行為であり、外科手術でもある。大出血を伴った患者の神経や切断部位の縫合の際に、大量のヒルに血を吸わせることで、元通りに接合することが可能になるんだ。指先や四肢の切断面や顔面など、整形外科や口腔外科の分野で用いられているんだ」
私は以前、科学雑誌で読んだ、その魔法のような医療技術の存在を西園寺に示した。
「患部に付着したヒルは、血を吸うにつれて体がむくむくと盛り上がってくる。そして、血を吸い終えると、患部からぽろっと剥がれ落ちるんだ。このヒルの習性を利用して、再び新しいヒルを患部にあてて吸血させる、というのを繰り返していくうちに創部の
私の言葉に美波は満足そうに、にっこり笑って大きく頷いた。
「ようやくたどり着いてもらえましたわね。その通りですわ。真珠ナメクジの女神の幼生達という謎のキーワードの答えは医療用ヒルなのです。自然界には抗凝固活性を示す物質がいくつか知られていますが、その一つとしてヒルの唾液腺分泌物に含まれる抗凝固物質があります。医療用ヒル(Hirudo medicinalis)は、実は1世紀以上も前から静脈性鬱血状態に使用されてきた歴史があるのです。1884年、Haycraftはこの抗凝固物質について初めて報告し、1904年、Jacobyによってヒルジンと命名されました。少し専門的なお話をすると、天然のヒルジンは65個のアミノ酸からなる分子量約7,000のポリペプチドでトロンビンと1:1複合体を形成することにより抗凝固活性を発輝します」
かなり専門的な知識になるが、美波は構わずに続けた。
「このヒルジンのように、ヒルを治療目的で使用するという行為自体は、実はかなり歴史が古く、世界中で行われてきたのですわ。ピラミッドの内壁に描かれていたり、中国最古の薬物書『神農本草経』には
「マジか……。ヒルなんざ、そう簡単に手に入るもんじゃねぇだろ? その日記を書いた奴は、ヒルをペットにでもしていたのか?」
「あら、ペットじゃありませんわ。少なくとも日記の主人公にとってはね。ヒルはインドネシアから医療用蛭を個人輸入できたりします。実際に医療用ヒルの画像を見てくださいな。ややグロテスクですが、実物を見てみると、そんなに抵抗感はなくて、全然かわいらしい印象なのですわ。……ほら、とてもコミカルでかわいらしい動きをしますでしょ? 」
美波は例によって手元のタブレットでデータを検索すると、動画で私達に見せてくれた。医療用ヒルという検索ワードで動画検索したようである。
「まるでセクシーなポールダンスのようですわね。蠱惑的に体をくねらせて。ほら、このコは跳びはねて。ほら、このコはまるで踊るように目の前でアピールしているみたいですわ」
その言葉で私は納得がいった。
「ああッ! そういうことなのか! あの文書の記述はヒルを擬人化して、その動きをセクシーでエロチックな、まるで女性であるかのように表現した文章だったのか!」
「そういうことですわ。盗まれた原稿にはっきりとそう表現されているのですから。これがストレスと原理は同じだといった理由ですわ。文章や情報は、読む者の受け取り方で時に意味合いがまったく違ったものになってしまいます。腕を切断された悲劇を負った人にとっては、ヒル達は命の恩人だったはずです」
「マジか……。真珠ナメクジの女神達ってのはそういう意味なのかよ……」
「しかし、ヒルを治療に使うだなんて……。僕も話には聞いたことがあるし、最先端の医療技術だと解っちゃいるけど……。こう言っちゃなんだけどさ、少し気持ちが悪いよね。人の血を吸わせるわけだろう? アマゾンのジャングルや沼地のイメージがあまりに強いよ。いや、偏見なのはわかってるんだけどさ。不衛生なイメージがあるし、それにかなり痛そうだ……」
「あら、それほど衝撃的なことですか? エステ業界では、ドクターフィッシュといってコイ亜科のかわいらしいガラ・ルファという小さな魚達に足の皮膚の古い角質を食べさせることで、美脚のマッサージに採用しているところもありますわよ? 感染症が懸念されるので、こまめに水を取り替えてあげる必要はあるのですけれどね。それに、近年の医療用ヒルは、接骨院や鍼灸医でも実際にお目にかかれますわ。首や肩が凝っている方の背中に蛭を乗せ、血行を良くする治療だって一部では行われていたりします。そんなに凄く這い回ったりはしないので、わずかな付着感やくすぐったさはありますが、慣れれば厭な感じもないのです。吸い付く際の痛みもなく、時々微かな切皮痛のような感覚が多少するくらいです。注射で刺されるよりも、痛くないらしいですわ。実際にペットにしている人もいます」
美波は素早くネットの記事を引用して、さらに説明した。
「1回に20匹程度使用したりもするようですわね。個人差はあるようですが、だいたい数分で終了することが多いようです。基本的には、首や肩の
こうした話題となると、もはや美波の独壇場である。彼女は知的好奇心を刺激するものは、とにかく好き嫌いせずに、マニアックなところまで掘り下げて吸収してしまうのである。
「ヒルジンの効果は実際の目的である鍼治療や鍼灸にプラスアルファを感じるくらいの感覚といいます。ぼんやりとした感覚が僅かな痛みと共に抜けるように血の巡りがよくなり、モヤモヤした頭の感覚がすっきりした感じが同時に味わえるので、治療には継続するのがよいといいます。ヒルに噛まれた痕は止血しにくく、抗凝固剤として用いることもあるのですが、これは日本ではまだ認可されていません。東城さんが仰ったように蛭から取られたヒルジンという薬が活躍しているのです」
美波は愛用のタブレットを手に取った。
「海外では、このヒル治療で実際に助かった人の事例もあります。このヒル治療で、手の切断を免れた人がいるのですわ。米国イリノイ州で、左手を機械に巻き込まれてしまった男性がいるのですが、損傷がひどい為に切断もやむなしとされたのですが、彼の左手を救ったのは、ヒトの血を吸うヒル約1400匹だったのです。これは海外のニュースや日本のドキュメンタリー番組でも紹介されたことがあります。こちらの方ですわ」
そう言うと、例によって美波は愛用のタブレットで画像データを引っ張ってきた。禿頭で年齢は40代ぐらいであろうか。髭の生えた痩せた外国人の男性が笑顔で写真に写っている画像が出てきた。
「これが実際の写真ですわ。このレオンさんは、機械オペレーターの仕事中に、ローラー型のプレス機に左手を巻き込まれて大怪我を負った方なのです。『手を失わないためだったら何だってする』と仰ったレオンさんは、約1カ月間、ヒルを取り換え続けながらヒルに血を吸わせていった結果、左手が一定の機能を取り戻していったといいますわ。記事によると治療に使ったヒルの総数は何と1482匹だったそうですわ。ヒルに人の血を吸わせて手術に用いた事例では世界一で、ギネス級の記録ですわね」
なんということだろう。見たところ、誇らしげに左手をカメラに向けている、気のよさそうな痩せ型の男性は、そんな障害を過去に負った人にはとても見えない。写真には担当した病院の医師と思われる人物が二人、一緒に写っていた。美波は続けた。
「地球に現存するヒルは400種類ほどいるのだそうですが、医療用に適したヒルは体節が102あるものに限定されるようですわ。ヒルの英語名リーチ(Leech)は、もともと医者の意味であり、チスイビルの学名(Hirudo)もラテン語で医者を意味する、とあります。東城さんが仰ったように近年、ヒルを用いた
彼女は医療用ヒルを紹介している医師の記事を私たちに見せてくれた。以下は、その記述を抜粋させてもらった内容である。
切断指の再接着手術(replantation of finger)という医療分野がある。切断された指を元に戻す技術は現在、整形外科の中の“手外科”を専門とする医師と、形成外科医の一部が行っている。骨を接合し、腱を縫合し、動脈・静脈を
血管と神経は、直径1mm程度で、顕微鏡で拡大して、10-0ナイロン糸という肉眼では見えない直径100μmの糸で縫合する。指一本つなぐのに、状態がよければ2時間くらい、手首あたりだと5~10時間くらいかかるのだという。包丁などの鋭い刃物で切断され、切断指の保存状態が良く、受傷から手術まで8時間以内のゴールデンタイム内であれば、生着率は90%以上。この分野は、世界的に見ても日本のお家芸で世界初の再接着手術は、奈良県立医大の玉井医師が1960年代に先駆けている。日本人の器用さと真面目さのおかげで、日本中のどこで切断しても安定した再接着率が得られているのだそうだ。
しかしながら、切断指・切断肢の多くは労災事故でベルトコンベアーに巻き込まれたとか、ワイヤーが巻きついてちぎれたとか、ローラーに巻き込まれたとか、プレス機に挟まれたなどのきわめてクリアーでない切断のようである。これらの状態の悪い切断指では、手術を行っても接合する可能性が低いため、熟練した医師になるほど最初から手術を行わなくなるようだ。
医師としては患者の心情的にも、なんとか繋いで、手指を残してあげたいのだろうが、なかなかうまくはいかないようである。繋いだ動脈に血栓ができて血行が悪くなると患部は青白くなり、その後黒くなって干からびたようになる。動脈に血流があっても、静脈から血が還ってこれない場合は、赤紫色になる還流障害が起き、患部が
これを解決するのが医療用のヒルなのだ。医療用ヒルに、鬱血して血管や患部やその周辺に詰まった流れの悪い血を吸わせることで、血流の循環を元の状態に戻し、完全に切断された手指を治癒することが可能になる。人の血が人に還り、再び正常な循環へと復帰する。
私たちは謎の手記が導いたその真相に、ただただ驚きのため息を漏らした。美波は改めて、そんな私たちに向けて説明を続けた。
「もちろん、こうした医療用ヒルは衛生面に注意されて飼育されているもので、この写真で飼育されているのもまた、この医療用ヒルです。医療に使用されるのは、無菌で飼育されたヒルに限られるのですわ」
「改めて確認するが、あの手記を書いた奴は左腕を何らかの事故で失い、何らかの後遺症や障害を負ったが、ヒル治療で助かった人物ってことになるんだな? そして、そいつの書いた日記の文章には抜けがあり、これもまた主格となる部分が削除されていた」
「そう。彼が左腕を失ったと思われる文章は至るところにありましたわ。彼は“巨大な暴力のような災い”と表現していましたわ。おそらくは、東日本大震災で彼は左腕の機能を失った男性だと思われるのです。事故の後遺症と、世間の人々の心ない言葉で、頭の震えが止まらなくなるほどの彼の命を救ってくれたのは医療用のヒル達であり、彼にとっては彼女達は擬人化するほどに、自分の命を救ってくれた命の恩人で、彼が崇拝に近い感情を抱いているところの、真珠ナメクジの女神と称する美女の幼生達のような存在であり、それをおそらくは彼は買い取ったと思われるのです。同時に、彼は命の恩人である彼女達に可能な限り、自分の血で飢えを満たしてあげていたのですわ。その記録が、あの手記の二番目の部分なのです。彼はペットというより彼女達を擬人化するほどに恩義を感じたパートナーであり、彼と彼女達は互いに共生関係にあり、孤独な彼にとってはまるで愛しい彼女達と性交しているような感覚だったということですわね。……もっとも、ヒルは種によっては交尾の仕方が異なる上に、
美波はそう言って微笑むと、私と西園寺の方へタブレットを差し出した。
「…さあ、気持ち悪がらずに、もう一度ご覧になってみてください。これが敬意と感謝を込めて、彼が真珠ナメクジと呼んだ女神の幼生達ですわ。医療として使われる水蛭(チスイビル)です。蛭の仲間には、このように医療に使われるものがあるのですわ。病院で使われるのは主に、この医療用蛭で感染を起こさないように無菌で育てられた、蛭のエリート達なのですわよ? もちろん医療用のヒルですので、そこらの田んぼや沼地から取ってくるわけではなく、海外の専門育成会社から無菌状態で育成されたものを空輸してもらい、治療に使用するのです。次々とお腹がいっぱいになるまで吸い付いてくるのですから、赤ちゃんのようで、とてもかわいらしいじゃありませんか」
「あのエロい表現で次々と男の体に吸い付いてきた女達が蛭かよ……。一緒に暮らしている主人公には喋ってるように感じたってのかよ。肝心な部分が抜けちまってる上に、命の恩人とはいえ、言葉遣いに凝るとか、出身地の設定だの性格づけだのメイだのモエだのの名前だとかよ、まるでどこかのアイドルグループみてぇじゃねぇか! 人間じゃねぇのだとしたら彼女達を買ったって表現も納得いくがよ……。とにかく色々と紛らわしい表現してんじゃねぇよ」
「まぁ、男の僕らとしては、がっかりしたというべきか……。ううん、この真相にはやっぱり驚くべきなのかなあ……。肝心な部分が抜けてバラバラになってるだけで、ここまで誤解を招けるものだとは驚きだね。けど、正直これは使えるな。作中作のミステリとか登場人物がやたらと多い作品ってさ、いくらでも作者側が読者を好きに誘導できる上に、いくらでも風呂敷を広げられるから敬遠する人も中にはいるんだけど、その気持ちが今回、痛いほどよくわかったよ。……ほら、ミステリの長編とかって最初に登場人物の紹介があったりするけど、後になって色々と解る小説があってもいいよね? 別に人間じゃなくても名前が付いてるなら台詞だってあってもいいと思うんだよね。……うん、これはいいアイディアだ! きっと読者を仰天させるトリックに使えるよ! いける!」
「おい、東城! お前まで、ちゃっかりとんでもねぇ事件に乗っかるんじゃねぇよ! ……いや、紛らわしいにもほどがあるぜ! 蓋を開けてみりゃ何のことはねぇ。書いた奴らが全員別人で、書いた目的がまったく違っている上に、あちこち抜けてバラバラになってる内容だってんだからな」
「あらゆる情報をトリアージしていくと、実は何の不思議もないことが解りますでしょ? すべて現実を描写した文章である、と。この謎の核となる部分に気付くと他の部分だってバラバラになっているだけなのですから。憑依や魔術や文化人類学に関する論考が随所にあったのも当然なのですわ。大学のレポートや小論文の記述や、筆者の体験記が日記と一緒に混ざっていたのです。見世物小屋の風景もありましたわよね?」
「そういうことかよ……。俺にもようやく理解できたぜ。最初の手記の三番目におかしな情景にいきなり入ったのも現実の描写が混ざってたからだったんだな? 奇怪な出店は祭りの屋台だし、見世物小屋もおそらく本物なんだぜ! そこに出てくる、あの奇怪なキャラクター達も全員おそらく現実で、実在している人間達なんだ。あの祭りの出店で働いてる奴らと、見世物小屋の表現が色々と紛らわしいんだよ!」
「え? アレもそうなのか……」
「あん? お前、まさか今頃気づいたのか? アレだって種がわかりゃ、現実を忠実に再現した文章だって解るだろ」
「解らないよ! あんな荒唐無稽な見世物小屋なんてあるわけない! ……じゃあ、あの得体の知れない肉を焼いている真っ黒な人は誰?」
「ケバブの屋台で働く黒人の兄ちゃんさ」
「吐瀉物の塊のような、ぺたぺた平べったい食べ物を売ってたのは? あの生臭くて真っ赤な葉っぱを載せて売っている」
「韓国のお好み焼きの、チヂミにキムチを載せて売ってる屋台が出店にあったんだろうさ」
「えっ? 目元を殴られたように赤い、キツネのように細い目をした頬骨の張った女の人っていう記述は? あの“シェラッシェー、シェラッシェー”っていう変な掛け声の人…」
「化粧をした韓国人の姉ちゃんだろ。夜店の店員の売り口上だろうがよ」
「発音が不明瞭な人のようですが、正確には“いらっしゃいませー”でしょうね。ザ行や“つ”などはハングル語を話す韓国・朝鮮系の人には難しい日本語発音の筆頭として有名ですわ。銀座が“ギンジャ”になってしまったり。あとは“つ”を含む拗音の発音も、苦手です。たとえば、モーツァルトは韓国人が発音すると“モーチャルト”のような発音になります」
「ええっ!? じゃ、じゃあ見世物小屋の中にいた人達は一体どうなるのさ? ほら、あの受付にいる耳のない男の人の記述とかさ!」
「小耳症でしょうね。生まれながらに耳介が通常より小さい状態をいいます。赤ちゃんの中には、まれに耳の穴がふさがったまま生まれてくる子がいます。耳本来の機能はほぼ正常なことが多く、 骨を通じて音を伝える骨導補聴器で周囲とコミュニケーションを取ることが可能ですわ。現在は8~10歳くらいになると手術で耳の形を作ると同時に耳の穴をあけ、普通の子供とほぼ変わらない生活が送れるようになっています。小耳症は6000~10000人に1人の割合で発症するといわれています。小耳症の赤ちゃんは、顔面の成型にも発育不全がみられることが多いのです。小耳症の原因ですが、これは女の子より男の子に多く、小耳症が発症する原因は、妊娠初期の器官形成時期に何らかの外的要因を受けたことによるものとされています。母体が抗がん剤の一つであるサリドマイドや葉酸拮抗剤を服用したこと、レチノイン酸誘導体の過剰摂取なども、原因とされていますわね」
「じゃ、じゃあアレはどうなるの? 受付台のようなところで、首から頭が二つ生えてお札をまいているような美少年とか、舞台に出てきた肩から同じ顔が生えてくる綺麗な女の人は?」
「シャム双子の兄弟と姉妹ですわね。全員、実際の人間ですわ。奇形と表現されることもありますが、見世物小屋として一般公開されている姿を見て、ただそれだけで眉をひそめるのはとても失礼なことですわよ。一切の差別意識なしに彼ら一人一人の個性や人格を認め、彼らや外国人の方々が働ける場所を提供して、観客も含めて皆で楽しもうとしているからこそ、祭の夜店と見世物小屋という舞台が叶った、素晴らしいイベントが現実にあったのです。その記事を書いた人の体験レポートだと考えれば、何の不思議もなくなりますわ。差別意識は時に人の目を曇らせる。自分が見たいと思うものを見たいようにしか見ないのでは、真相には至れないということではないでしょうか」
「ええっ! そ、そういうことなの? け、けどさ、そんな見世物小屋みたいな場所が、この現実にあるわけが……」
「ありますわ。あの見世物小屋は現実に存在しています。靖国神社ですわ」
靖国神社! 私はその言葉に、口を半開きにして暫しの間、完全に思考停止の状態となってしまった。その様子を受けて美波は再びタブレットを操作すると、靖国神社の例大祭の告知と思われる案内ページを引っ張り出して私たちに見せた。
“迫害された者達の魂の叫び”という垂れ幕が手書き風のフォントででかでかと書かれている。近くには篝火が焚かれ、どこかけばけばしくも懐かしいような、ギラギラとした黄色い灯りにごちゃごちゃした出店の風景。浴衣を着た女性やキャラクターモノのお面を被った子供と手を繋いでいる家族連れもちらほら見かける。よくある祭の夜店である。
傍らにあるのは見世物小屋であろう。どこかノスタルジックで派手な、昭和のカストリ雑誌に出てくるような怪しげな字体の手書き風の文字。やたらとごちゃごちゃとした極彩色の
「ここにこうありますわ。『今宵あなたは歴史の目撃者となる。健常者も身障者も刮目して見よ! 世にもめずらしいシャム双子に象男の幻の共演! 世にも奇妙な住人達の舞台がいよいよ開幕。怪しき世界に差別も国境もなし!』象男というのはおそらく、映画にもなった、エレファントマンでしょうね。エレファントマンのモデルとなった方は実在の人物で、現在先進国でも500例以下の患者しか確認されていないプロテウス症候群という病気ではないかと考えられています。この病は現代医学でもはっきりとした原因は解明されておらず、女性よりも男性に多く見られるのだそうで、家族性の遺伝病ではないとされ、今現在もその治療法を研究者達が模索中なのです」
「ああっ! そういうことか! あの大男も現実にいる人ってことになるのか!」
私は思わず、大きな声を上げていた。
「この病気の特徴は通常、新生児にその症状は見られないのですが年齢と共に皮膚や骨、筋肉や脂肪組織が肥大してくるもので、残念ながら患者の方々は短命です。中でも頭蓋骨の変形は多く、映画のモデルになったジョセフ・メリックは症例の中でも変形の度合いが激しかったようですわね。世界でも200例程度しか確認されておらず、今現在も世界中で120人がこの病気と闘っています。闘病の痛みや苦しみを押して、とてもめずらしい症例の人が演目に登場していたという訳です。察するに美女と野獣のような作品を想定して、見世物小屋の出し物として採用されていたのではないでしょうか? その観客の一人がレポートとして、その出来事を書いていた。その人物の文章の主格となる部分が島谷俊彦に削除されていた為に、奇怪な祭の奇怪な見世物小屋の怪しげな者達という文章があの手記の中に混ざることになってしまった」
「ああ、象のような大男っていうのはそういうことなのか! あの仮面を着けた異形の怪物という描写は、そういうことになるんだね!」
私は真相の脅威に、今度こそ打ちのめされていた。あの奇怪な見世物小屋は、全部本物の現実の描写だったのか!
その答えは映画にもなった、あのエレファントマンだったのである。
美波が説明したように、映画『エレファントマン』は19世紀のイギリスで「エレファント・マン」と呼ばれた身障者の青年ジョゼフ・メリックの半生を描いた映画である。確か最優秀作品賞、主演男優賞などアカデミー賞8部門にノミネートされた作品だったはずである。
19世紀のロンドン。生まれつき奇形で醜悪な外見によりエレファント・マンと呼ばれて見世物小屋に立たされていた青年、ジョン・メリック(ジョン・ハート)。彼の肥大した頭蓋骨は額から突き出て、体の至るところに腫瘍があり、歪んだ唇からは明瞭な発音はされず、歩行も杖が無ければ困難という悲惨な状態だった。
ある日、彼を見世物小屋で見かけた外科医、フレデリック・トリーブス(アンソニー・ホプキンス)は彼に興味を覚え、研究したいという理由で持ち主のバイツ(フレディ・ジョーンズ)から引き取り、病院の屋根裏部屋で彼の様子を見ることになった。
はじめは白痴だと思われていたジョンだったが、やがてトリーブスはジョンが聖書を熱心に読み、芸術を愛する美しい心の持ち主だということに気付く。当初は他人に対し、怯えたような素振りを見せるジョンだったが、トリーブスや舞台女優のケンドール夫人(アン・バンクロフト)と接するうちに次第に心を開いていくのである。
しかしまあ、なんということだろう!
私は己の迂闊さが悔しくて仕方がなかった。奇しくも、初日に私と西園寺がこの店で最初に議論していたことに、大いに関係していたことではないか。そうなのだ。答えは目の前に堂々と転がっていたことになるのだ。あのフリークスはヒントどころか答えである。
フリークスと並んで称されることもある名作『エレファントマン』。この異形の男の物語を観た時の衝撃は、私は今でも忘れられない。ただし、フリークスの監督トッド・ブラウニングは作品以降、多くの批判にさらされ、仕事に恵まれずキャリアを閉ざす事となった。デヴィッド・リンチ監督は、このエレファントマンで一躍脚光を浴びた訳で、世間的な評価は真逆なのである。
逆説的なヒューマニズムや差別というものへの考え方の違いが大衆に受け入れられず、多くの批判を浴びて、身障者を堂々と表に出すべきではないという風潮を生んでしまったというのは返す返すも残念ではある。
西園寺はどうやら気づいていたようであるが、彼はやや呆れた様子で言った。
「まったく、まぎらわしい手記だぜ! 島谷俊彦が盗んだ書類に見世物小屋の風景をリポートした文章も混じっていたってことか! 神社の催しに見世物小屋を呼んだだけの、ただの祭りの風景だったんじゃねぇか! ……おいおい、ンな馬鹿な事件があって堪るか! こんなややこしくて紛らわしい偶然だらけの事件があってたまるか! これがミステリなら、読者から石が飛んでくるどころの騒ぎじゃねぇぞ! 言っとくが、負け惜しみじゃねぇ。ややこし過ぎる上に紛らわし過ぎだろうが!」
「あら、手記にも出てきたアレイスター・クロウリーは、稀代の魔術師ですが『汝の意志することを行え』という有名な言葉を残しておりますわよ? 魔術のような偶然が生んだ、素晴らしい謎に石を投げるのは無礼ですわ」
「この期に及んでダジャレか? もう脱力して何も言えねぇ……」
西園寺はそう言って、脱力したようにカウンターに突っ伏した。私はそれを受けて一つ疑問に思ったことを美波へ問いかけた。
「……でも、美波さん。例の奇怪な文書とその真珠ナメクジのカラクリはある程度解ったけど、僕にはまだ解らないことがあるよ。あの手記の最後に出てくる、真珠ナメクジの女神と彼が呼んだ人物だ。作中の彼と手記の冒頭の最後の方で会話までしている美しい女性は一体、誰なんだい? アレも現実を描写していることになるけど? まさか、ヒルが擬人化どころか、本当に人間に変身した訳じゃないでしょ?」
「ええ。美女と野獣ならぬ、ヒルが絶世の美女に化ける話なんて、そんなファンタジーが現実にあったら素敵ですけれど、それは普通に考えてあり得ないことですわね」
「“血管が浮いて見えるほど白い肌で赤い目をした”絶世の美女だとも言っているよ? ……今度こそ、そんな人はありえなくない?」
「そうだ。東城のいう通りだぜ。アレが日記で起こった現実を忠実に書き起こしているのだとしても、実際に会話してるとなりゃ話は別だ。主人公がそう言っているように感じたであろう、ヒルの一人言って妄想とは訳が違うだろ? もう大概のことじゃ驚かねぇから教えてくれよ。まさか、本当に真珠ナメクジの女神が現世に降臨したなんて言うつもりじゃねぇだろうな?」
「降臨したのです。西園寺さんにはまだ信じられないようですが、本物がいます。そして、この女神と彼の出会いこそが、この現実を複雑怪奇なファンタジーに見せた原因であり、隠された事件の核なのですわ。ブレンダさんの部屋にあったマザーグースになぞらえるなら、彼らは鍵と扉ともいうべき重要人物なのです」
「おいおい、いくらなんでもファンタジーみたいな文章を論拠にするのは、今度こそ無理があるぜ」
「いいえ、再三繰り返しますが、あの手記はファンタジーではありません。それも推理から導きだしたこと。きちんと証拠があるのです」
そう言うと、美波は頭上を指差した。
「女神が天井から落っこちてきたからです」
「落っこちてきた……だと?」
「降臨したんじゃないのかい? 美波さん、君はつい今しがた、真珠ナメクジから美女に変身するなんてファンタジーは現実にはありえないと言ったばかりじゃないか。女神なんて神話じゃないんだから、この現実にいる訳がないよ。まして、それが落っこちてきただなんて、荒唐無稽もいいとこだ」
「いいえ、色々と紛らわしい言い方をしたのは大事な前振りなのでしてよ。真珠ナメクジの女神は、現実に存在している生身の人間だからなのですわ。……まぁ、例によって、これも具体例を写真で見せた方が早いですわね」
そういうと美波は、再び画像検索で一枚の写真を見せてくれた。私と西園寺は、その鮮明な写真の女性に釘付けになっていた。
雪より白い肌とプラチナブロンドの髪。宝石のような水色の瞳からは神々しささえ漂っている。血管が透けて見えそうなほどの陶器のような白い肌。元がブルーなのか色素の薄いアメジスト色の瞳は、ファンタジー世界から抜け出てきたような、CGと疑うレベルの美しさだった。異世界の王女と呼んでも遜色のない、息を飲むように美しい女性である。
「そういうことか! 真珠ナメクジの女神ってのは、こういうことなのかよ!」
「ああっ! アルビノの女性だったのか!」
「そう、例として出させて頂くのには非常に恐縮なのですが、女神と形容するのに相応しい人なので敢えて紹介させて頂きますわね。こうすると謎でもなんでもなくなってしまうので、謎解き行為はある意味で非常に無粋きわまりないのですが、絶世の美女なら殿方達も実際に見てみたいでしょうから後でじっくり検索してみることをお勧めしますわ。……ご紹介しますわね。世界でもっとも美しいアルビノと言われ、エルフの王女の呼び名もある、アルビノモデルのナスチャ・クマロヴァさんの写真ですわ。彼女はロシア人の有名なモデルさんですの」
美波は次々と画像をタブレットで私達に見せていった。ロシア美女と言われれば納得がいくが、稀に見る麗人である。
「察するにアルビノについては、お二人も聞いたことくらいはある様子ですわね。アルビノはメラニンの生合成に係わる遺伝情報の欠損により、先天的にメラニンが欠乏する遺伝子疾患なのですわ。先天的に、この写真の彼女のような症状をきたすのです。まず体毛が白金色から金色で日光により黄変していることがあります。皮膚が乳白色か、あるいは皮下の血液により薄紅色。眼の虹彩の色が無色や淡青色や淡褐色の色を帯び、眼底の血液の色が透け、瞳の色が淡紅色になる場合もあります。写真のこの彼女は、とても美しい方ですが、アルビノは遺伝子疾患ですから網膜上での光の受容が不十分で、視力が弱い方が多く、皮膚で紫外線を遮断できない為に紫外線に対する耐性が極めて低い人が多いのです」
美波は画像検索で他の画像を出しながら、私達に続けた。真っ白な体毛に被われて赤い目をしたネズミや、瞳の色が赤い外国人や、肌が陶器のように白い日本人などの写真が、次々と私達の眼前に開かれていった。
「日本ですと第22代清寧天皇は日本書紀の記述からアルビノであった可能性が高く、御名の“白髪皇子”の通り、生来白髪であった為、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子にしたという逸話まで残っています。ちなみに、アルビノは人間だけに見られる遺伝的な特質ではありませんわ。シロウサギや一昔前に流行したウーパールーパーも、その生態から実はアルビノに分類されます。現在では、その独特で神秘的な容姿を生かした人が、ハリウッド映画やスーパーモデルとして活躍する例も目立ち始めているのですわ。先ほどのエルフの女王のようにね」
「なんてこった……。真珠ナメクジの女神ってキーワードはアルビノだったのかよ。アルビノったって普通の人間と変わらねぇ訳だよな?」
「ええ、先天的に視力が弱いとか外部からの日光に弱いという以外の点は、アルビノでない人と基本的には同じですわ。ただし、この真珠ナメクジの女神と日記で書かれている美女は、非常に特殊な事情で日本に来た外国人なのです。種明かしを先にすると、はるばるアフリカの地から……もっと言えばタンザニアからやって来たと思われる異邦の美女であり、その彼女が突然天井から落ちてきた日が現実にあったのです。驚いたのは下の階の住人です。突然灰色の髪に、真っ白な肌をした外国人の女性が自分の部屋に落っこちてきたのですから。部屋に住んでいた日記の主人公にとっては、女神が降臨したのと同じくらいの衝撃を味わうほどのインパクトのある出来事だったはずですわ」
「ああ、そういうことか! ブッシュマンと一緒ってわけだ!」
「サン人ね。つまり、アルビノでアフリカからやって来た女性が、ヒル達と療養しながら静かに暮らす日記の主人公である彼の下に突然落っこちてきて、彼女を看護する傍ら、共同生活をすることになった記述が丸ごと抜けている。そういえば唯一“僕”と記述している箇所があったね。『せめて自分がこの痛みを変わってあげることが出来れば……』と記述している部分もあった。彼は震災の被災者だったのか。つまり小説とかの話の筋でいけば、天井から人が落っこちてきたという、とんでもない偶然がもたらした二人の出会いのシーンが、丸ごとカットされていることになるのか……」
「そういうことになるのですわ。西園寺さんに最初に届いた例の手記の最後にある、二人の不思議な会話を思い出してほしいのです」
美波は例の手記の一部分を引用してみせた。
「『君はどこから来たんだい?』“遠い遠い世界。始まりと迫害の場所”。『機械を通したような声で聞こえる彼女の声がダイレクトに脳に響いてきた』このように、彼女は出生地を小説の主人公である彼に、はっきりと語っていますわよね? 始まりと迫害の場所とは、彼女の故郷であるアフリカだと考えられます。私が彼女の国籍をタンザニアだと断定したのには、それなりの理由があるのですが、それはとりあえず置いておくとして、主人公はその時の様子まで、克明に日記に記録していたのです」
「なんてこった……そういうことか」
「最初の手記の最後の文章と、SNSでネット上に踊る言葉の数々でピンときたのです。繰り返しでくどいようですが、この手記は完全な形が抜け落ちている上にバラバラになって、主格となる部分が削除されているのですわ。文章の体裁もバラバラです。日記も論説文も体験談も、全てがゴチャゴチャに入り混じっていて、発見された順番と散らばり方と抜け方まで、絶妙な配置で異なっていたが故の摩訶不思議な偶然と人の噂が作り上げた、壮大なダークファンタジー小説のような現実だったのです。震災での何らかの事故で左腕を切断され、ヒル治療を受けてリハビリ生活をしていた男性の部屋に海外から来たと思われるアルビノの女性が落っこちてきた事件が、実際に起こった日があったのですわ」
美波はそう言うと、突然また首を痛そうにゴキゴキと捻り、身体全体を捻りながら、どこか言いづらそうに両の人差し指を合わせて、上目使いで西園寺の方をチラチラと窺いながらモジモジしている。
その非常に解りやす過ぎるリアクションに、あんぐりと口を開けて見開かれた目で美波を見つめる西園寺の眉がピクピクと痙攣している。
まさか……。私は心底、嫌な予感がした。
「ええと、その……。多分、とある風の強い日に現れたという……。世間では“ターボ婆さん”と屈辱的なアダ名で呼ばれている、とある麗しい身障者の女性が、たまたま地元の吉祥寺の地域体育館で車椅子バスケットの練習をしていた帰りの日に……。何せスリーポイントシュートが面白いほどガンガン決まった日で嬉しくて、それでテンションが上がってしまい、自前の改造型の車イスを帰りに強風下で走行テストしようと、春先の春一番にはしゃいでしまい……」
美波は人差し指をつつきながら、上目遣いで西園寺に釈明するように続けた。マズい。西園寺は口の端が吊り上がり、ピクピクと眉間の辺りが震えている。
「ええと、それがたまたま付近を走っていたスポーツカーのスリップストリームに乗っかって、とんでもないスピードが出てしまい、慌てた運転手のお兄さんが驚いて振りきろうと、さらにスピードが上がってしまって、もはや制御不能の状態になってしまい……。ええと、その……何せその可愛い人は体重が軽い上に車椅子も軽量化までしてあるので、ついつい楽しくて大笑いしてはしゃいでしまい“突撃、隣の昼御飯!”とばかりに、たまたま昼頃に民家の駐車場のカマボコ型のテントが並ぶ辺りに突っ込んでしまうという交通事故を起こしてしまい……。ええっと……つまりその出来事に、これまた偶然にも、付近のアパートの粗末なバルコニーにいたアルビノの女性が驚いてしまって。バランスを崩して……。おそらくは狭くて脆い木造アパートの部屋の天井までぶち抜いて、下の階にいる身障者の男性の部屋に落っこちてしまったせいだと思うのですけれど……。ええと、むにゃむにゃ、ゴニョゴニョ……。ほら、漫画やアニメにもなってるでしょ? これはきっと妖怪の仕業なのですわ! 都市伝説とか妖怪現象って世間では、ままあることじゃないですか! そう、ターボ婆さんの仕業なんです! 妖怪のしたことなんですから、もうこれは仕方ないですわよねぇ!」
切り替えの速度まで人の三倍は違うような、美波のあっけらかんとした口調とぱっと明るい微笑みの爆弾に、西園寺の怒りの爆弾の導火線は一瞬で臨界に達した。
「全部、お前のせいだったんじゃねぇかよ! 何が仕方ないですわよねぇ、だ! ……ってかな、お前が俺と同じ吉祥寺に住んでて地元じゃ有名なイスバスチームの練習生だなんて、こっちは生まれて初めて、今この場で知ったぞ、バカヤロウ!」
「あら、それはたまたま! 偶然の一致ですわ! 私だって御近所さんが、よりにもよって丸の内警察の知り合いの刑事だったなんて、この事件で初めて知りましたわ!」
「頭が痛ぇ……。呆れと怒りで、俺も震えが止まらねぇぞ……。ったく……。吉祥寺一帯に奇怪な噂を広めた犯人が、まさか探偵の方だったなんてシャレにならねぇぞ…」
「あら、結果的にはるばる来たぜ函館から日本にやって来たアルビノの美女を助けたことになるのですから、結果ローライズ! 探偵が事件が始まる前にビシッと人助けまでしてみせた歴史的な偉業であり、奇跡的な偶然なのですから、これは褒め称えられるべきですわ!」
このように、私達の会話は常にある種の無差別テロのような爆弾を抱えているようなものであり、突っ込み役と宥め役を同時にこなせる、母の愛のような自愛と懐の深さを持つ人物が間にいないと、この奇妙なトライアングルは即座に支離滅裂な関係になる。傍目からは、長兄と末妹の口喧嘩に次男が仲裁に入っているようにも見えるからまだ救いはあるが、私はいつも通り、淡々と私に振られた役をこなすことにした。人生とは、あらゆる局面でこうした無茶な役を振られても、淡々とこなす寛容さと忍耐強さが必要なものなのである。
「一応突っ込むけど結果オーライね……。あと函館からはるばる来てないからね。海外からね。タンザニアだったっけ? 色々と混ざってる紛らわしくてややこしい事件なのは、もう解ったから、美波さんは中高年の人達から苦情が飛んでくるボケには、くれぐれも気をつけてね…」
「コホン……事件解決の為に、人知れず人命救助と国際平和と障害者スポーツの発展にも貢献しているのですから、警察には感謝状の授与くらいしてほしいですわ。別にそんな紙切れいりませんけど! 鼻をかむティッシュの一枚くらいには、余興の為にお宝にしておいてあげてもいいですわよ!」
「バカヤロウ! お前に与えられるのは青切符という名の反則通知と厳重注意だ! いくらスポーツの為とはいえ、どッこの世界に人を轢き殺すような殺人的な力で加速する、イカれた乗り物に車椅子を改造する探偵がいるかよ! ……ってか、完全に色々とルール違反だ! 馬ッ鹿じゃねぇのか! お前は危ねぇんだよ、色々と。お前は外に出しちゃいけないほど危ねぇ馬鹿探偵だ!」
「あら、馬鹿とは失礼ですわね! 頭が危ないのはお互い様ですわ! 頭が危ない馬鹿なデカに馬鹿呼ばわりされる筋合いは○○毛の先ほども、これっぽっちもありませんわよ! 呆れてモノが言えませんわ! か弱い女に対しても口の悪い、こんなデカなんて、カッコ書きで『(頭の)危ないデカ』とか『馬鹿貴族』とかいうふざけた名前のパロディーで次々とテレビドラマで映像化されて世間に生き恥をさらしてしまえばいいのですわ、ふん!」
ついに拗ねてしまった探偵は、西園寺にまたも拳銃の効果音が鳴り響きそうな問題発言と捨て台詞を残してぷい、と盛大にそっぽを向いた。
なんだとテメェ懐かし過ぎるぞ○○○○は好きな俳優なんだぞ俺の憧れの刑事に謝れバカヤロウ、と椅子から腰を浮かせた西園寺を制止しつつ、私はため息をついた。
賢明で寛容なる読者諸氏にお願いしたいのは悪戯に眉をひそめず、この犬と猫の喧嘩のような大人げない二人の熾烈な争いに常に巻き込まれ、時にこうした問題発言まで描写しなければならない、私の立場をどうか寛大な心で、幾らかでも察してほしいところである。
「とことん紛らわしい事件の連鎖だね。お互い好き勝手なことをして、壮大な共同作品を作っていたようなものじゃないか……」
「まぁ、車椅子を違法改造するような馬鹿の処遇はとりあえず置いておくとしてだ、そのアルビノの美女とやらは一体、何だってこの国に来たんだ? 人命救助どころか、お前の馬鹿のおかげで、死にそうな目にあった彼女がタンザニア人だってのは、何で解ったんだ?」
「ピキピキという耳慣れない言葉が手記の中にありましたでしょ? それでピンときたのですわ。バイクはスワヒリ語では『ピキピキ』と言います。この語源は、とある部族の武器に『ピキ』と呼ばれる車輪系の投げナイフがあったそうで、バイクのタイヤの形状がその『ピキ』を連想させたのだそうです。そしてそれが二つあるから『ピキピキ』。ついでに言えば、彼女が発言した何らかの迫害から逃れる為に、彼は彼女の命を救っただけでなく、匿っていたのだと考えられるのですわ。共に暮らしていくうちに恋に落ちて、同棲している話がまるごと抜け落ちてしまっているのです。スマートフォンの音声翻訳のアプリや、その文章を通して彼女と日常の会話を交わして、その出来事を彼が日記に記録していたのだとしたら、恐らくこのような形になるはずなのです」
「ああっ! そういうことか。機械を通したような声ってのはそういう意味かよ!」
「アルビノの発症率は二万人に一人といわれ古来より“神聖な力を持った者”と畏怖されることもあったのです。もちろん“黒人”にもアルビノの人がいます。矛盾した表現なのですが、肌が白い黒人が実際にいるのです」
ここから先は話が少し穏やかでなくなるのですが、と美波は続けた。
「土着信仰の根強いアフリカ南東部地域、特にタンザニア東部においては、国際社会からの批判が相次ぐ今でもなお、アルビノを狙った残虐な殺人が後を絶ちません。現地ではマスメディアが十分に発達していないため、報道されない事件も多いと推測されているのですが、明らかになっているだけで、昨年の始めだけで2件報告されている残虐な殺人がありましたわ」
「残虐な殺人? 迫害ってことか? この21世紀の世の中で、未だにかよ?」
「迫害なんて生易しいものではありません。黒人のアルビノは、アルビノ狩りによって殺されているのです」
「アルビノ狩り……だと?」
「一体、なぜ?」
「アルビノの体の一部を、お守りの材料として高値で売る為にですわ。アフリカ東部には、呪術が重んじられる文化が根付いていて、そうした呪術によって医療を行う人々を呪術医と呼ぶのです。この呪術医が、アルビノの人肉から精製された薬は、健康や権力や幸福をもたらすと主張しているのです」
「馬鹿げたことを! ンな未開の習俗、迷信に決まってんだろうが! それで人間が殺されちまうってのかよ!」
「いいえ、悲しいことですが、彼らは本気でそう信じているのです。アフリカのブルンジ共和国では、アルビノの肉体は富と幸運を
これを見てもらえますか、と言って美波が見せたのは、例によってネットの一ページであった。人種の分布図のようで、やや専門的な図面が大写しになっている。
「すべての現存する人類は母方の家系をたどると、約12~20万年前に生きていた一人の女性にたどり着き、アフリカの一人の女性に行き着くといわれ、この論拠となるのがミトコンドリア・イブといわれる染色体です。そして、そもそものアルビノのルーツは、タンザニアにあると考えられているのです。タンザニアの人口3500万人のうち、アルビノは15万人。およそ250人に1人という高確率で生まれてくる場所でもあるのです。概算しても、これは世界水準の約100倍です。タンザニアでは、アルビノの子供が産まれた場合、差別や虐殺から免れるため、生まれたばかりの子供を故意に殺してしまうこともあるのだといいます。また、近年では隣国などからもアルビノハンター達が入ってきて、金目当ての犯行を重ねているのです」
美波は今度は画像検索で別の画面を出して私達に示した。これが件の呪術医であろう。民族衣装でも、他の人よりも、かなり異なった
「先ほどはブルンジ共和国の例を挙げましたが、タンザニアには、古くからムチャウイと呼ばれる呪術師が人々の生活に欠かせないものとして存在してきました。西洋諸国から遠く離れ、医療の発達していない時代、特別な力があると信じられてきたムチャウイは医者であり、現地では頼るべき全てでもあったのです。そして、ムチャウイはアルビノを聖なる存在と考え、アルビノの体の部位から特別な妙薬を作ります。その妙薬は様々な効能があるとされ、身体的な問題を治すだけでなく、鉱脈を見つけたい者は地面にその薬を撒き、また漁師は大漁を祈ってカヌーに薬を塗ります。アルビノから作られた妙薬は、何にでも効くというわけで、まさに幸福を呼ぶ万能薬というわけですわ」
「馬鹿げてる。人間の体なんだぞ……」
暗然と呟いた西園寺に向け、私は首を振って悲しくも残酷な現実を肯定した。
「……いや、人間の体が薬になると信じられている風習は残念ながら、日本にもあったんだよ。ハンセン病患者がいい例だ。今でこそプロミンという特効薬があって、神経麻痺で手や足の変形が出る前に飲めば後遺症も目立たずに完全に治るけど、日本にもハンセン病に対する誤解や差別の強かった時代はあったんだ。治療法が確立されていないその昔には、自分の股の肉を切り取って、それを煮出した薬を親に与えるのが孝行の証とまで信じられていた。朝鮮半島では排泄物を薬として与える迷信や俗信があって、日本人はそれをよく揶揄するけど、その土地に住む人達やその時代に人々が信じていたものを、不潔だ未開だ感染症が蔓延すると責めることはできないよ。貧しい国や戦時中の国々なら尚更だ。医療行為が発達した平和な文明国に住んでいる人間が、博物学的な視点で土俗信仰や呪術を揶揄したり嘲笑ったり、未開の風習と簡単に切って捨てることはできないと思うよ」
「そうです。補足しますとハンセン病は古くは
美波は悲しげな表情で続けた。
「プロミンが当たり前になった今の時代に入り、このこと自体が忘れられつつありますが、日本は政治的な理由から、近現代史を教科書で詳細に学ばせないような体質が未だに一部にあって、歴史教育を自虐史観に偏重させて正しく事実を学ばせずに、報道でも差別に繋がる事実が歪んで伝えられていたりします。これは真実から目を背けることであり、国際的にも恥ずべきことかもしれませんわね。たった90年ほど前の、こうしたことが忘れられていく弊害まで生んでいるのですから」
差別や偏見はいつの時代もなくなるものではないのですわ、と美波は少し寂しげに眉を寄せ、表情を曇らせてから続けた。
「医療技術が戦後に飛躍的に伸び、先端医療が国民に行き渡るようになった豊かな今の日本でさえ、そうしたことは普通にあったことなのです。また、タンザニアでは妙薬以外にも、アルビノの髪を編みこんだネットを使うと魚がよく採れるといった言い伝えや、アルビノの脚を持って鉱山に入れば金を掘り当てられるなど、アルビノの体の部位は様々な人を幸運に導くと、宗教的に考えられているのです。近年ではエイズの蔓延に対し、アルビノと性交渉することによってエイズが治ると信じられ、幼い子供を含む多くの女性がレイプされる問題まで起きています。ただ、ほとんどの被害者は泣き寝入りの状態だそうですわ……」
「とことん胸糞悪くなる話だが、そいつらを責められねぇってのもムカつくな。恵まれた俺達は無力で無理解だって意味だがよ……」
「国際NGO組織の“セイム・サン(Same Sun)”によると、タンザニアでは昨年の2~4月だけでアルビノの殺人が1件、殺人未遂が4件も発生しています。過去2年間だけで100件を優に超えているとの予測もあります。ある少年は学校から4人の友人と下校中に銃を持った3人組に襲われ、射殺されたという事件も起こっておりますわ」
美波は形のよい眉を悲しげに伏せ、やや俯くようにして、さらに続けた。
「2011年には11歳のアルビノの少女が、友達と川へ遊びにいく途中、アルビノハンターに捕まり、背中を撃ち抜かれた後、頭部を切断され、舌や性器をくりぬかれるという残忍な事件も起きています」
「酷ぇことしやがる……。そんなニュースなんて存在すら知らなかったぜ……」
「恥ずかしながら僕もだ。知らなかったよ。なんてことだ……。そんな狂った出来事が、この日本じゃ地上波のニュースでも、まったく報道されていないなんて…」
「できるわけがねぇ。残酷過ぎて人種差別に繋がりかねない上に、日本でだって政治的な事情が重なれば、そうしたことは平気で起こり得てしまうからだ。この国のマスメディアがどんな人種の、どんな奴らに乗っ取られてるか、知らねぇ訳じゃねぇだろう?」
「そう、これは実際に起こった事件なのですわ。国際化や差別や人権が声高に叫ばれてグローバル化が尊ばれていても、そうした先進国の考え方など当てはまらない国の方が、未だに圧倒的に多いのです。こうした風習を馬鹿なことだと否定もできないのが悲しいことなのですが……。アフリカの地元警察によると、アルビノの体の部位が全て揃ったもの、これは手足四本と一対の耳、性器と鼻と舌が含まれるのですが……」
人間の体の部分を分割。
今、四肢や耳のペア。
性器と鼻と舌にカット。
「これが7万5000ドル。日本円にして約670万円の値がつくらしいのです。アフリカ東部の年間収入は日本円換算で平均10万円程度ですから、アルビノ患者を一人売り捌けば、現地では60年以上、遊んで暮らすことが出来る計算なのですわ」
これは私も億万長者!
「このような現状から、現地ではアルビノに生まれることは即ち、死を意味するのです。2006年から2012年6月までに、タンザニアでは100人以上のアルビノが襲われ、71人が死亡し、31名の生存が確認されているものの、どこかしらの部位を切り取られたりして、大半は障害者となりました。襲撃があまりに酷いため、政府はアルビノの子どもを守るために、専門の寄宿学校を開設したのですが、根本的な解決には至っていません」
面白い家がたくさんあります。
エスケープ家を探します。
「しかし、これらの残虐的なアルビノ狩りが無くなったとしても問題は山積みなのです。そもそもが過酷なアフリカの大地に生まれたアルビノなのですわ。強い日差しが降り注ぐ中、メラニン色素の薄いアルビノは、皮膚ガンを引き起こす放射線を直に吸収することになりますし、炎天下での農業が一般的なエリアにおいての作業など、あらゆる行動が命に関わる非常な危険が伴います。国からの援助は行き届かず、肉体労働に頼らざるを得ない地域においては死活問題なのです。仮に現地でアルビノキラーを軍隊やカウンターハンターの協力で根絶できたとしても、現実は何も変わらないのです。過酷な太陽が牙を剥き、人を殺す現実が待ち構えているのですわ」
それがある場所です!
それがある場所です!
それがある場所です!
「人は生まれる国も、親も己の境遇や生き方でさえ、何一つ選べはしないのですわ……」
この国は非常に豊富です。
クラフティ。狡いです。
人々は国を選択しません。
「じゃあ、並木洋子って高校生が殺されてしまった、その本当の理由は……」
「間違われて殺されたのです」
障害がありました。
この女性は異なっています。
「間違われた……だと?」
「そう、死体の処理をひたすらに思案してネット検索までしていた人間と、一般的な文章のルールを無視した奇怪な言い回しをする奇妙な文章を残した人物。この二人の人間の行った過ちこそが奇怪な儀式、腐臭の
私はその言葉で手記に出てきた、あの一連の奇怪な記述の正体に至った。
「そうか…! 例の手記で、どうして文節も文章も改行も一字下げのルールも無視した滅茶苦茶な文章が混じっていたのか、解ったぞ。あのおかしな文章を書いた人間が、翻訳機かスマホの翻訳アプリを使っている外国人だったからなのか!」
「そう。アルビノの美女を追ってきたハンターのタンザニア人が、殺害の実行犯だと考えられるのですわ。そして、その死体を処理していた人物が別にいたのです。もう一人の死体処理役の犯人は、殺害の実行犯であるタンザニア人と接触し、死体の処理役を買って出た。その人物はネット検索までして、その通常ではあり得ないような体験談に刺激を覚えて、その死体の処理を何と文章に起こしていたのです」
「犯人が二人いたってのかよ! そうか……。泥棒の中谷は、ブレンダの家だけじゃなく、その二人の留守中に、そいつらのアジトに忍び込んじまったのか!」
「中谷はめぼしい物がないから、書いた文章をパソコンから盗んでコピーした訳か……。なんて、とんでもない偶然なんだ…」
私はこの偶然の山積が生んだ奇怪な事件と、隠された本当の闇に、心胆がうそ寒くなるような衝撃を味わっていた。もはや誰一人として笑っている者などいない。美波は真剣な表情で頷いた。
「そう、タンザニア人や死体処理役の人物にとっても思わぬアクシデントだったのです。クライアントへの緊急の報告書が必要だったのでしょう。なぜなら、アルビノの行方を追う課程で、その犯人であるタンザニア人は、日本人の並木洋子を間違って殺してしまったからです。もっと言えば、タンザニアから来たその人の入国を手引きしたクライアントは、恐らく日本人ではないでしょうか? 仕事をさせる過程で日本語の文章が必要だから、翻訳機を通した文章が、おそらくパソコンの中に保存されていたと考えられるのです」
障害がありました。
この女性は異なっています。
「並木洋子が自分の趣味をアップロードしているInstagramのページですわ。一目で殺害の動機が解ってしまいますわよ」
美波は素早く再びネットの一ページを出して見せた。私と西園寺は、その写真に釘付けになってしまっていた。
灰色の髪に真っ白な肌。あまり見かけない派手な、ヒラヒラしたドレス風の服。大きなリボンを胸元に付けた、何かのキャラクターになりきったものであろう青いドレスを着ている。少女は長い髪を颯爽と
この国はドレスですか?
色とリボン。
それは青いテープが付いている服でドレス。
私は驚愕の事実に思わず叫んでいた。
「ああッ! コスプレをしていたから、間違われて殺されたっていうのか!」
「間違われるわけだぜ……。これじゃアルビノそのものじゃねぇかよ……。そうか、これが殺されてバラバラにされて、白骨死体にまでされちまった本当の理由だったのか…!」
人間の体の部分を分割。
今、四肢や耳のペア。
性器と鼻と舌にカット。
「そう、本人はゴスロリの格好をした、コスプレでアニメのキャラクターになりきっているつもりだったのでしょうが、この国には絶世の美女と思われるアフリカ・タンザニア出身のアルビノの少女がアルビノ狩りから逃げ込んでいたのですわよ? その少女を追いかけて、日本に来ていた人間がいたのです」
馬鹿な女。無知は罪であります。
「直接の死因はきっと…」
「ああ、恐らく絞殺だろうな…」
首を伸ばすために殺します。
「こう言っては何ですが、こうした格好をして吉祥寺の町で絶世のアルビノ少女などと地元で騒がれ、高校生達の間で有名になって、その情報を自らInstagramで公開などしていたらアルビノハンターに拐われるか、狙われない方がおかしいのです。アルビノが二人いる。現地から国際手配までされる覚悟でやって来た人間なら、どんな手段を使っても薬を手に入れようとすることでしょう」
持ち帰ります。
私は絶望にここに来ました。
「なんてこった…。殺害の実行犯と死体遺棄の犯人が別々に存在してたってのか! そいつらがアルビノの美女を探していた事件こそが、この事件の隠された、もう一つの真っ黒な核の部分って訳か」
「そういうことだよね。彼を黒の
「いいえ、割り出せますわ。前回の事件でも私の基本的な推理法を、お二人にお話し致しましたでしょう? どんなに複雑怪奇な謎であれ、複層的な様相を見せる謎であれ、大きな疑問を解く為には手近な矛盾や疑問を突き崩していけば、それが大きな謎を砕く止めの一撃のきっかけになる、と。この事件の死体を処理していた人間も、同じ方法で導き出せるのです。この手記が全て現実で本物の描写ならば、それを書いた人物もまた、事件に関して何らかのリアクションを取っているはずだと思ったのです」
車椅子の肘掛けに右手を置いた彼女の姿は、正に安楽椅子探偵そのものである。彼女と出会い、いくつもの謎に出会ってきた私には解る。回り続ける車輪の如く、事件に相対している時の彼女の頭脳は、今もフル回転を続けながら、確実に獲物を追い詰めているのだ。そうした時の彼女はいつも、氷のように冷静で非情な、一人の
彼女は凍てつくような冷悧なその瞳を、どこか
「その人物は犯行をごまかす際になぜ、アロマオイルに目をつけたのか? なぜ、犯行現場がブレンダさんの部屋でなければならなかったのか? なぜ、ブレンダさんがピンポイントで狙われなければならなかったのか? これら全ての謎を解く答えは、既に私達の手にあります。東城さんの持ってきてくれた情報の中に、きっちりと存在していましたわ」
「えっ…!? ま、まさか僕がプリントアウトした、あの書き込みの中に…? あの、ひたすら吉祥寺の街で拾ってきた噂を羅列しただけの文章の中に、並木洋子を白骨死体にした犯人に繋がる何かがあったと!?」
美波はゆっくりと深く頷いた。
「最初の方にも言いましたわね。この事件のキーワードは、“混ぜるな危険”だと。ダークファンタジーのような小説が導きだした現実は、殺人犯と死体遺棄の犯人と泥棒とアルビノの女神と護衛の傷ついたナイトが一同に会し、様々な人々や噂を巻き込んで実体化したような、不確かな赤い霧の怪物のような、実に複雑怪奇な事件だった訳ですが、そろそろ私達も終幕となる舞台へシフトするとしましょうか。あのブレンダさんが綴った君が代の詩は、私に天啓を与えてくれましたわ。正に犯人達は奪ってはならないものを欲しがり、それが踏み込んではならない狂気だと気がつけぬ人達だったようです…」
美波はあの英訳すると不思議な詩になる歌の一説を
「なぜ、この人は犯行に苛性ソーダが使われたと知っていたのでしょう? なぜ、この人は死体を処理した道具が、寸胴鍋だと知っていたのでしょう? 今日は日曜日ですわ。ブレンダさんが拘束されたのはつい一昨日。被疑者がブレンダ・ルイス・ステファニーだという被疑者の名前……個人情報は、まだ警察発表すらされていないはずなのに、何故です?」
「あ、ああ……」
「そうか……そうなるのか……」
「京王井の頭線から発見された頭蓋骨は、並木洋子のものではありませんわ。即座に殺人事件と看破して、被疑者の名前にたどり着く為には圧倒的に情報が足りません。なぜなら、その結論に至る為には、一連の手記の内容を知っていなければならないからです。他殺の被害者が女性であり、しかも制服を着た女子高生だということまでこの人は知っていたことになるのです。ネットでも報道でも、被害者の情報や白骨死体に変える凶器に何が使われたのかはまだ、一切伝わっていないはずです。これらは死体を処理した犯人でなければ、絶対に解りようがない情報なのですわ」
「そうかっ! そういうことになるのか!」
「マジかよ……。本当にコイツが……」
「そう、死体を処理していた犯人は、女性なんです。名前だけははっきりしていますわね。堂々とFacebookで情報を発信してしまったのですから。このツールは本名でなければ投稿できないアプリです。知り合いの知り合いは、みんな知り合い、そんなアプリなのですから」
「そいつがもう一人の真犯人か! あの書き込みをしたのは、じゃあ……」
「ここにあります。この書き込みこそ、事件の犯人に繋がるラストカードですわ」
そう言って美波は音もなく、静かにその一枚の紙片をカウンターに滑らせて、私達の前に寄越した。
【坂谷由衣さんがInstagramで写真を1件投稿しました】
3月22日 14時52分
『拡散希望。京王井の頭線を止めた真犯人はこの人! 名前はブレンダ・ルイス・ステファニー。女子高生を殺した容疑で逮捕されてるみたい! 制服を着た高校生を拐うとか、寸胴鍋に苛性ソーダを入れて死体を溶かすとかマジであり得ない! コイツ、狂ってる!』
ターゲットを狙い撃つように、美波は鋭い視線で続けた。
「この人は、恐らくブレンダさんに逆恨みに近い感情を抱いていた人物に違いないのです。語学がある程度は堪能な人物であり、ブレンダさんと彼氏の住む家を知っている人物であり、ブレンダさんが妖怪アニメのキャラクターのストラップを付けたキャリーバッグを持っていることを、予め知っていた人物です。自らの犯行を、彼女はブレンダさんの部屋で行いました。……それはなぜか? その後のブレンダさんの逮捕劇が、全てを物語っていますわね。キャリーバッグのすり替えが行われたことからも、渋谷から吉祥寺へ帰る途上で、ブレンダさんに罪を着せるような用意は最初からしてあったことになります」
「そうか……! 被疑者が外国人だという情報は報道されたけど、ブレンダの名前は、まだどこにも報道されていない。犯人以外に京王井の頭線の電車を止めた人の名前をはっきり知っているはずがない! ブレンダを最初から罠に嵌める何らかの動機があり、彼女をスケープゴートにする目的の為に、死体の処理役を自ら買って出たということになるのか!」
「そうです。ブレンダさんが死体遺棄の犯人だと指摘し、その情報を拡散しようとしていたこの人物こそが、死体の解体を請け負って頭蓋骨をすり替えた真犯人だと考えられるのですわ」
「最後の最後で、こいつは下手をうったって訳か……。よりによって犯人しか知り得ない情報を洩らしてしまった」
「そう。SNSをよくストレス解消や自己アピールに利用している人はよくいますが、デジタルのデータは、こうして書類にだって化けてしまうのです。この自己顕示欲の強い犯人の冒した決定的なミスとは、自らの手記が世間に拡散されたことを焦るあまり、ブレンダさんが死体を苛性ソーダで溶かした殺人犯だと指摘してしまったという点にこそあるのです」
この事件には裏側にこの人の歪な憎しみが存在していました、と美波は続けた。
「ブレンダさんの自宅の周辺に泥棒の被害が集中していたのは、実は偶然ではないのです。中谷俊彦もまた、ある目的の為に動いていたからです。奇しくも、それはブレンダさんが疑いをかけられる原因となった、あの故も知れない頭蓋骨と大きく関係していると思います。そして、それは左腕を失った人物の元に、最初からあったものだと考えられますわ。たまたま手にした頭蓋骨を入手するという千載一遇の機会を手に入れた坂谷由衣は、自らの目的の為にタンザニア人の男性を助ける名目で並木洋子の死体を受けとりました。彼女は彼の為に、目と鼻と耳と性器を切断するのに、ブレンダさんの部屋を選びました。並木洋子の死体を処理してブレンダさんに罪を着せた人物の名前は、坂谷由衣という名前の女性です。ブレンダさんの彼氏である三上和彦さんの身辺を洗ってみることですわね。十中八九、彼女はその彼氏の周辺に関連のある人物のはずですわ。例えば、かつて同じ職場にいて付き合っていた恋人か、彼のストーカー……とかね。おそらく彼女は、ブレンダさんが妊娠しているという事実を知ってしまったのではないでしょうか? そう考えれば、全ての辻褄が合います」
「ストーカー……だと? 女に死体を切り刻んで溶かすなんて、そんな残酷なことが……」
「あら、女性を甘くみると痛い目を見ることになりますわよ。前回の事件でもそうだったでしょう? 現時点では先程の仮設を立証する手段はありません。件の頭蓋骨についてはある程度、想像はつきますが今は説明している時間がありません。西園寺さん、彼らを手配するなら急いだ方がいいですわ。坂谷由衣は現在、殺人行為そのものよりも、死体を切り裂くことに喜びを見出だし、アルビノの女性に危害を加える可能性が最も高い人物なのです。最悪、死体を解体することをも目的としている可能性すらある。警察からの捜査の手が己にかからないよう、もう形振り構っていられない状況のようです。殺人の実行犯と一緒にいる可能性がきわめて高く、その二人が次に取る行動は……」
「本当のアルビノ美女を殺して、大金稼いで二人でアフリカに高飛びか! クソッタレが! そうはさせるもんかよ!」
西園寺は言うが早いか、すぐさま懐からスマートフォンを取り出した。
「美玲か? 俺だ。今どこにいる? そうか、ちょうどいいぜ! 偶然だらけの事件だったが、この切り札を最後にくれた神様の気まぐれに、今回ばかりは感謝するぜ! ああ、いや悪い。今のはこっちの話だ。いいか、美玲。その泥棒の中谷に吉祥寺駅周辺の住宅地図とストリートビューのアプリを見せて、奴が盗みに入った場所を徹底的に吐かせるんだ。いいか、ここから大事なんだが、よく聞け。その中にペットでヒルを飼っている奴の部屋から盗んだ書類がないかどうか、そこがどこのアパートの部屋かを、確かめるんだ! そうだ、血を吸うあのヒルだ! 被疑者のブレンダの家からそれほど離れていない場所で、天井に穴が空いている木造アパートで、泥棒の被害が多発した地点のはずなんだ。俺はこれから奴が盗みに入った場所を確認しに現地に向かうぜ。悪いが、詳しい説明は後だ! ……なんだと! お前らも来るだぁ!? 駄目だ。相手は殺人犯だ。危険すぎる!……ああ、もう。解ったよ、クソッ! 誰に似たのかテコでも動かねぇって感じだな。へっ、お前らも俺と同じで、あんまり長生きできねぇ命知らずのクチのようだな。……よおし、解ったぜ。こうなりゃ、なるようになれだ。このヤマが片付いたら、ステーキでも焼き肉でもすき焼きでも、好きなモノをお前らに奢ってやるよ。ちょうど紹介したい奴もいるからな。飲み放題付きのフルコースで、大盤振る舞いだ! …… 美鈴、松岡もそこにいるな? 代わってくれ」
得体の知れない何かに取り憑かれたように、急に猛然とやる気を発揮し始めた西園寺はニヤリと笑いながら、てきぱきと頼もしい部下たちに指示を始めた。丸の内警察署という、ここからさほど離れていない場所に、思わぬ切り札がいたということを
「松岡か? 所轄の吉祥寺の地元警察へは捜査協力するって形で通しておく。……手柄なんか奴らにくれてやれ! 命の危険に晒されている外国人がいて、そいつを狙ってる外国人が別にいるんだ。拘留されているブレンダ・ルイス・ステファニーはシロだ。放っておくと国際問題に繋がりかねない案件なんだよ。入管に問い合わせるのも忘れるなよ。……梅田もその場にいるな? アイツのコレクションの中から、一つ二つ使えそうなヤツをこっちに回すように言ってくれ。犯人は恐らくタンザニア国籍で、そいつが猟奇殺人事件の真犯人だ! さあ、大捕り物の時間だ! 世間を騒がせ、街を泣かせる犯罪者共に、獲物に食らいついたら死ぬまで離さねぇ狂犬西園寺班の恐ろしさを見せてやる。芋蔓式に死体を処理していた人間も、一網打尽にして取っ捕まえてやるぜ!」
西園寺は不敵に微笑むと、私たちの方へと振り返った。私たちは互いに顔を合わせ、共に頷き合っていた。
「すぐに吉祥寺一帯に検問を張るぜ! 奴らはまだ、遠くには行ってねぇはずだ。本物が無事なら、どこかの家に匿われてるはずだな。部下達もこの馬鹿上司に合流してくれるらしいぜ。……ありがてぇ話じゃねぇかよ! 俺達が正式にそいつらを保護するぜ。せっかく見つけた真珠ナメクジの女神様と護衛のイケメン騎士を、このままむざむざ奇跡の薬だの、高値で売れるだのと訳の解らねぇイカレた理由で奴らに殺されて堪るかよ! ……悪いな、東城! 今日はコイツで俺の奢りだ。美波もありがとな! お前のお陰で、また事件が解決できそうだ! この埋め合わせは必ずするからよ! 後で連絡するぜ。……そしたら三人で、ここにまた集合だ!」
西園寺は財布から一万円札を出してカウンターに置くと言うが早いか、フックから愛用の象牙色の上着と揃いのソフト帽を手にして、檻から放たれた猟犬か、白い弾丸のようにハスターを飛び出ていった。
美波は微笑んで私に言った。
「ふふ……いつものことながら、事件の時となると、西園寺さんは目の色が変わりますのね。あの姿が一番、生き生きしているように感じますわ。……けど、大丈夫なのかしら? 相手は既に人一人を殺していますわ。バックにいるのは日本人だけとは限りません。恐らくは人身売買や闇取引さえ厭わない犯罪組織が、背後に関わっている可能性が非常に高いのですわ。坂谷由衣がタンザニア人といきなりコンタクトを取っていた出来事も偶然とは思えません。いくら西園寺さんでも……」
「大丈夫。ああなった時の西園寺は強いよ。松岡さんや竹谷さんに梅田さんも来てくれるようだし、狂犬にロックオンされて助かった犯罪者の噂は聞かないからね。丸の内のカミソリの二つ名を信じようよ。……それにしても、よくこの
「あら、事件の謎が解けたのは東城さんの取材のおかげですわよ。まぁ喜ぶのは、口が悪いけど熱血漢の、私達の頼もしい番犬の帰還を待ってからにしましょう。後日談はその時に、ということで……」
「ああ、知り合いの知り合いはみんな知り合いだっていう現代的なツールも、考えてみれば、とんでもないところに繋がっていることもあるものだね。死体を解体して溶解させた犯人とニアミスしていただなんて考えただけでゾッとするよ……。そういえばさ、さっきから忙しそうに何をしているんだい? 西園寺が今回、持ってきた手記の写真を撮ってるようだけど…」
「あら、東城さんの真似をしているだけですわよ。素晴らしいダークファンタジー小説なのですが、ようやく六割くらいが戻ってきたことになりますわ。この順番では真実が見えてこないので、写真で撮ってプリントアウトして並べ替えようと思っているのです。得体の知れなかった記述の部分はおそらく、スマートフォンの翻訳アプリを使ってスワヒリ語を急いで日本語訳したものなのでしょうけれど、私ならもう少し丁寧に訳せますわ。後できちんとした翻訳文章にしておかないと、東城さんも、この素晴らしいダークファンタジー小説をまた小説に書き起こせませんでしょう? 解決編の総仕上げに、作品の本当の真実の姿を公開する時ですわ。異世界から現れた小説を翻訳できるなんて素敵! まるで稀代の魔術師といわれたアレイスター・クロウリーが上位の守護天使であるエイワスを憑依させて、彼に書かせたといわれる『法の書』のよう……。作中作のミステリーだなんて構成としては凄く素敵な作品になりますわよ。タイトルはズバリ……」
「ああ、『腐臭の供儀』で決まりだね。そのアイディアはいただきだ! きっと西園寺が手に入れてくる完全な形の書類が、その並べた順番と作者をクリアにしてくれるはずだからね。どうやら美波さんへの埋め合わせは、僕も西園寺と二人で盛大に大盤振る舞いといかなきゃいけないな。……よし、明日からは僕も忙しくなりそうだよ。作中作の、名状し難い悪夢のような謎の物語。この偶然に出会えた奇跡は、記者としての運命だね!そう思えば俄然やる気が出てくるよ。まずは吉祥寺発の、世間を騒がす奇怪な噂や都市伝説にケリをつけなきゃね。……そうそう、ターボ婆さんの件も記事にしなきゃいけないかな?」
「もう! それは言わない約束ですわ! 東城さんの意地悪!」
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