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※※※


『口づけをしておくれ。 そして君のその古臭いジョークにもね。


 君に必要な忠告を あげよう。


 死者たちの声が君に届くまで 何年もかかったんだ。


 彼女は本当に奪ってはならないものを欲しがるが そのことに気がつく日は来るのだろうか?


 冷たい洞窟だって知っているんだ。


 気が狂ったり死んでしまった人達を お月さまはいつも見てるっていうことをね』


She saw a dead man on the ground;


And from his nose unto his chin,


The worms crawled out, the worms crawled in.


Then she unto the parson said,


Shall I be so when I am dead?


O yes! O yes, the parson said,


You will be so when you are dead.


床の死体


鼻から顎に蛆虫が這っている


女は聞いた


私も死んだらこうなるの?


ああ! 牧師は言った


お前も死ねば腐るのさ


 I am a gold lock,


 I am a gold key.


 I am a silver lock,


 I am a silver key.


 I am a brass lock,


 I am a brass key.


 I am a lead lock,


 I am a lead key.


 I am a monk lock,


 I am a monk key!


 私は金の錠前です。


 僕は金のカギです。


 私は銀の錠前です。


 僕は銀のカギです。


 私は真鍮の錠前です。


 僕は真鍮のカギです。


 私は鉛の錠前です。


 僕は鉛のカギです。


 私はモンクの錠前です。


 僕はモンキーです。


※※※


「ああ、解ってるよ。そいつが丸の内警察署にいきなり出頭してきた経緯については今のところはさっぱり解らねぇが、その島谷俊彦っていったか? その空き巣とやらの調査についてはそちらに任せるぜ。お前にも話したろ? 例の吉祥寺の件だ。こっちは昨日と今日とで、まるっと状況が変わっちまっててよ。正直、訳がわからねえことになっちまってるんだ。悪いが、その泥棒にかまってる暇はねぇ。……わーってるよ。管轄外の事件に首を突っ込んでるってのは俺だってよッく解ってるが、放っとく訳にもいかねぇしよ。……ああ、大丈夫だ。それはこちらで何とかする。とにかく悪い。そっちは頼んだぜ。……クソっ! この事件は一体全体、何がどうなってやがるんだ!」


 話から察するに、電話の相手は竹谷刑事だろうか? 待ち合わせていたハスターに到着した頃には20時を過ぎていた。私がいつもの隅のカウンター席についた途端、西園寺は開口一番、苛立たしげな様子を隠そうともせずに吠えると、荒々しくスマートフォンの通話を切った。彼は手元で読んでいたらしい捜査資料を、盛大にバサリとカウンターに投げ出した。


「ちょ……落ち着いてよ。いきなりの君のその口調と態度でどうやら良くないことが起こったらしいっていうのは一発で察したけどさ。一体、何がどうしたっていうんだい?」


「どうもこうもねぇよ! 昨日の家宅捜索で頭蓋骨の次は本物の一式揃った白骨死体まで見つかったんだ! 今度は頭蓋骨も一緒にな! この奇怪な手記も一緒にだぞ! この訳のわからねえ詩だ。マザーグースがだ! ブレンダと彼氏の住んでる部屋からだ! おまけにこっちは今朝方、丸の内警察署に吉祥寺一帯を荒らし回ってたとか訳のわからねぇことをぬかす、気の狂れた空き巣がいきなり同居のカミさんと出頭してきてよ、これまたいきなり逮捕してくれときたもんだ!  こんな馬鹿げた事件はあり得ねぇ! 」


「何だって! 家宅捜索で? そんな……。……え? じゃあ白骨死体は二体あったっていうことに……。逮捕されてるのはブレンダなのに? そんな……それって……」


 二の句が継げずに、ひたすら動揺している私に向け、西園寺は怒濤どとうのように、昨晩からの一変した状況を一気にまくし立てた。


「もう一度聞きてぇってか? 何度聞いても現実は変わらねぇがな! 頭蓋骨どころか、今度は白骨死体一式が、ラーメンスープの寸胴鍋から登場しました、だ! しかもだ、あの訳のわからねぇ手記が、今度はネットを通じて日本全国津々浦々に流れ始めてるんだよ! 死体を解体している、生々しい描写まで出てくるイカレた内容だってんで、世間にまで騒ぎが広がり始めちまってるぞ!」


 ひたすら動揺している私をよそに、苛立ちを隠さずに西園寺は続けた。


「一体全体、何が、どうなってやがる! ブレンダの部屋からは苛性ソーダまで発見されてる。地元の警察署は、ブレンダを完全に殺害と死体損壊と死体遺棄の罪で第一級の容疑者として再逮捕する方針だ! このままじゃ俺が持ってきた、あの手記が、ブレンダ逮捕の決定的な証拠品として押収されちまう! この俺に犯人を追い詰めた功績で、忙しい身内から感謝状を受けとって事を丸く収めろってのか! 冤罪で捕まってるかもしれねぇ外国人なんだぞ! ……ンな馬鹿な話が、納得できる訳ねぇだろ! 捜査本部じゃ、彼氏とブレンダが共謀して犯行を成したっていう可能性も視野に入れて、捜査を進め始めてるぞ!」


「か、苛性ソーダだって! じゃあ、あの手記にあった死体を溶かすっていうのは……」


「ああ、紛れもなく現実を描写した文章だろうってことになりそうなんだ。クソッ。一体全体、この事件はどうなってやがる……!」


 暗然とした暗闇にいきなり突き落とされたような感覚であった。小粋こしきなジャズが流れる店内で、呆然と立ち竦む私に、西園寺は黙って件の手記を黙って渡してきた。額に手を当てて能面のように表情を凍りつかせ、内心の動揺を必死で抑え込んでいる様子の西園寺。


 私は不安に高鳴る心臓の鼓動を抑えつけるように、知らず知らず胸に手を当てていた。


……落ち着かなければ。まずは冷静に、集まった情報を精査してみなければならない。


 事は私達が思っている以上に、深刻かつ危機的な状況のようである。私は注文もそこそこに、西園寺がまたも手に入れてきた手記にざっと目を通してみることにした。


 これで手記は我々の手元にあるだけで、三組に増えたことになる。しかも、もはや我々だけのものですらない。ネットで派手に拡散までされている。これは本当に、一体全体、何がどうなっているのだろう?


 それにしても苛性ソーダである。寸胴鍋という単語が、これまた生々しい。いつぞやのホストバラバラ殺害事件が私の頭を掠めた。奇しくもあの手記に書かれていたことは現実を描写していたということになるが――。


 この苛性ソーダという、テレビドラマでも間々耳にする名称の物質については、私も記者として取材したことがあるので、読者諸氏にも説明を加えさせて頂く必要があるだろう。ちょうど、つい昨年起こった事件を取材した時の覚書が手元に残っている。


 フェアプレーを期すという意味で、今回も作中であれど、少し紙数を割かせて頂くことにするが、特殊な凶器を用いているという点で今回の事件と共通しているので、実際に起こったリアルな事件に触れている当時の記録をデータとして提供したいので参照されたい。


 寛大な読者諸氏には作中で実際の事件を元にして、冗長な説明や#蘊蓄__つんちく__#を加える回りくどい作者の過剰な演出や配慮には毎度閉口すると思うが、そこは何とかご容赦頂きたい。


 2013年2月19日のことである。大阪府高槻市の路上で朝、高校3年生の18才の女子生徒が顔にを吹き付けられ、火傷やけどを負うという事件があった。


 大阪府警捜査1課は22日、傷害の疑いで住所、職業ともに不詳の43歳の男を逮捕した。逮捕容疑は19日の午前8時10分頃、同市紺屋町で前述の女子生徒に液体をかけ、怪我をさせた疑いである。


 容疑者は容疑を否認したが過去に女子高生へのストーカー行為で逮捕されていた男だった。容疑者は2013年2月、アルバイト先で知り合った女子生徒にしつこくつきまとったとして、ストーカー規制法違反で逮捕・起訴されていたのである。府警はその後2012年12月まで女生徒から事情を聞いたり連絡を取り合うなどしていたが、年を明けてその月の2月9日に打ち切りを決めたばかりで、僅か10日あまりの後に起こった、陰湿でいびつなストーカー行為が、意趣返しにまで発展した末の残忍な事件でもあった。


 住宅付近の防犯カメラには、シリコン製マスクを頭からすっぽりかぶり、サングラスやかつらで変装した男が、自転車に乗っている様子が映っていた。女子高生にかけられた液体は当初は何らかの薬品とみられ、女子生徒は顔面や手に火傷を負った他、介抱した別の女子生徒もこの液体に触れて、手に火傷を負った。


 男は自転車で女子生徒を追い抜いた後に待ち伏せして襲ったのである。タンクに入れた液体を女生徒に突然浴びせかけて倒れたところに、さらにその液体を何度もかけていた。


 この凶器こそが、水酸化ナトリウム水溶液。一般的には苛性ソーダとも呼ばれる物質の凶器である。読者諸氏にはご存じの方もいるかもしれないが、水酸化ナトリウム水溶液(NaOH)の元となる水酸化ナトリウムは、強いアルカリ性の化合物で、無臭の粒状である。水を加えてしばらくおいておくと溶け始めるので、それから少し撹拌かくはんさせると、この水溶液ができる。この強力な液体は、たんぱく質を分解するので、人間を殺傷する目的で凶器として用いた場合、非常な火傷を負うのだ。


 実はこの水酸化ナトリウム水溶液はアルミニウムを溶かすと爆発の恐れさえある危険な液体なのである。絶対に素手で触ったり体に付けたりしてはならない。皮膚や粘膜のタンパク質を分解して炎症を起こすアルカリは、実のところ酸よりも危険で、アルミなどを入れると、溶けて水素ガスが発生する。この水素ガスは非常に引火性が強く、簡単に爆発するのである。量によってはテロが起こったのかというくらいの爆発さえ起こせる。


 この化学物質による熱傷は、通常のものとは異なり、硫酸よりも危険な場合もあるのだ。前述のように、火傷といっても通常の家庭で起こりやすい、熱湯や油などが皮膚に触れた時の火傷とは様相が異なる。


 それは“通常熱傷”とは呼ばれず“化学熱傷”と呼ばれるカテゴリーに入る。気体を発生したり、化学反応を起こしやすい化学熱傷の方が火傷の度合がひどく、また治りにくい外傷を伴う場合が多い。通常熱傷が外部からの熱によって皮膚を破壊するのに対し、化学熱傷では皮膚に触れた(暴露という)薬品が直接皮膚を破壊するのである。


 苛性ソーダなどの強アルカリに代表される、腐食性物質の場合には、皮膚組織を構成しているタンパク質そのものを破壊していく為、放置すると皮膚の奥深くまで浸透し、最悪の場合は骨まで到達してしまう。


 よく知られているところだが、実は石鹸や漂白剤に使われる事もある、身近な存在で入手も比較的容易なのだ。固形石鹸を製造する際において苛性ソーダは必須のもので、 どの石鹸製造においても、もれなく使用されている。水酸化ナトリウム自体は家庭用の塩素系漂白剤にも含まれており、もし水溶液に触ってしまったらとにかく水で洗い流すことである。注意事項には10~30分程、水で洗い流せなどとも書かれている。


 私は背中を何かが這いずるような、ざわざわとした悪寒を抑えながら西園寺に訊ねた。


「確認するけどね、苛性ソーダがブレンダの部屋から出てきたっていうのは間違いないんだね? つまり……」


「ああ、死体を溶かした物的証拠まで同時に出てきちまったってことだよ。件の手記に出てきたデカい寸胴鍋で煮込んだ形跡があるってことさ。死体を処理した現場がブレンダの部屋であり、あの手記をブレンダが書いた可能性は、極めて高いってことなんだよ。周辺の捜索で16日から行方不明になってる女子高生がいることが判明した。行方不明の女子高生は並木洋子17才。同居の家族や友達の話じゃ、家出する様子なんかなく、いきなり消えたって話だ。科捜研で白骨死体を調べてもらってるが、捜査本部じゃ恐らく殺されたのは彼女じゃないかと見てる。ブレンダとの接点なんか何一つない、コスプレとアニメを観るのが趣味の普通の女子高生がいきなり殺されてるんだぜ! もう訳がわからねぇよ!」


「落ち着いてくれよ。ブレンダを……彼女をまだ殺人の容疑者と決めつけるには早計すぎる。まずはこちらも集まった情報を整理すべきだ。こちらでも、色々と拾えた情報があるんだ。今日一日かかって取材した出来事を伝えるよ」


 今日の私は普段、仕事で使っているカバンを一式丸ごと持ってきていた。パソコンにICレコーダーに筆記用具にメモ帳にスケッチブックにカメラにスマートフォンといった、いわば記者の七つ道具である。けっこうな重量があり、骨が折れたのだが、何かの役に立つかもしれないと持ってきていたのだ。私は構わずに隅の席のカウンターへとそれらを一通り広げた。


 他の職業に比べて仕事道具が高価なのは、ノートパソコンが含まれているからである。今や記者にはパソコンは欠かせない。では、記者は他にどんな道具を使用するのかといえば、記者発表のようなものならノートとペンだけあればこと足りる場合もある。


 スポーツ記者が試合を取材する時は、スコアブックを使う。私の知り合いのスポーツ記者は野球とフットボールのゲームを取材する時には専用のスコアシートを使う。野球は市販されているスコアブックを、フットボールはアメリカの大学で相手チームの研究(スカウティングと言う)をする際に使用する独特の用紙を使っている。


 これらはいわばアナログな道具で、新聞記者という職業ができてからそう大きくは変わっていないものである。昨今幅を利かせているデジタル機器は新聞記者やスポーツ記者を問わず、七つ道具を大きく変えてきた。


 インタビューの際にはレコーダーを使用する。スケッチブックはカンペ……いわゆるカンニングペーパーである。取材でインタビューする際に相手の動きによる写真が欲しい時や補足の質問を付け足したりしたい時にレコーダーを補完する形で使う。レコーダーはあとでテープ起こしをする手間を嫌い、絶対に使用しないという人も中にはいるが、私の場合、必ず2台は用意する。インタビューの瞬間に不具合が起こる可能性がないともいえない。このレコーダーというものも、この十年ほどで大きく様変わりした。


 入社したての頃に使っていたのはテープレコーダーである。通常の大きさのテープレコーダーとマイクロテープレコーダーの両方を持っていた。マイクロは小さくて便利なのだが、急にテープが足りなくなった時にコンビニなどで気軽に購入できないという難点があった。記者はレコーダーを酷使するのでよく壊れるのである。ちなみに私が今使っているレコーダーは五台目になる。


 レコーダーはテープからDAM、MDとメディアを変え、現在では私のようにICレコーダーを使う記者も増えてきた。ただし、ICレコーダーはボタンの誤操作ひとつでデータが全て消去されてしまう怖さがある。私は今でもテープを併用していたりする。アナログからの完全脱却はなかなか難しいのである。


 パソコンは取材先から記事を入稿する必要があるときに持ち歩く。このパソコンもより軽量になり、スピードもアップした。私が最初に持ち歩いていたパソコンはノートとはいえ、2kgはある重たいものだった。HDも2MB くらいの容量しかなかったのではないだろうか。昨今のようにインターネット全盛の時代が訪れる以前の話である。パソコン通信で記事を送るのが主な用途だった。


 パソコンの進歩とともに記事の送信方法も変わった。最初はパソコン通信で、長い記事だと送信が終わるまでに2~3分はかかったものだが、それが今では電子メールで何倍もの分量を数秒で送れる。入稿に要する時間は記者にとってはとても重要なのである。


 入稿に戸惑ったがために締め切りに間に合わなかったという経験も、何度もしたものだ。スケジューリングから設定した期日や時間に送信できる電子メールになってからは、あまりそういうことはなくなったのである。


 インターネット接続方法もかつてはモデムと電話線を繋いでいた。今でもこのやり方をする記者は多い。ただ、最近は携帯電話や公衆無線LANを使う人も増えた。場所を選ばずに入稿できる便利さがあるからである。


 フォトグラファーが同行できない時は記者が写真を撮ることもあるので、カメラも持ち歩く。これもフィルムを現像するカメラからデジカメへと切り換わった。スマートフォン一台あれば事足りるようにも思えるが、万一のデータの破損や機器の熱や負担が怖いので、画像や動画データを複数分けて持っておいた方が何かと役立つのである。


 こうしてみると、記者の七つ道具はデジタル機器のオンパレードである。デジタル機器の進歩に敏感なのも記者に必要な資質なのかもしれない。記者が使う七つ道具の中には、スポーツ記者特有のものもある。前述のスコアブックを始め、双眼鏡やルールブックなどだ。冬に屋外で取材する時には足まですっぽり覆うスタジアムコートが便利である。長野オリンピックを取材した知り合いに同行した時には、ダウンジャケットとスノートレッキングシューズさえ必要であった。


 このように、これらの道具を全て持っていくとなると大変な荷物になる。スタジアムは駅から離れた場所にあることも多いので、時には荷物を抱えて歩くことも覚悟しなければならない。事件記者も重労働なのである。


 今回取材した内容は、吉祥寺周辺に住む住民への現地取材だったり、中にはネット等への書きこみやFacebookやTwitterのタイムラインなども含まれている。時系列は我ながら無茶苦茶で、大急ぎでコピーペーストしたり書類にして作成した文書を近場の漫画喫茶でプリントアウトしてまとめたもので、実際に役に立つかどうかはまったくもって解らないのだが、親愛なる読者諸氏には西園寺が新たにブレンダの部屋から入手してきた手記と同様に、ネットで拾った不穏な手記に関する噂といった、これらの内容もデータとして併せて提供するので、推理の際には参照されたい。


 私が持ってきた書類に一通り目を通していた西園寺は、その玉石混淆ぎょくせきこんこう入り交じった内容にため息をついた。この反応は、私にとっても想定内であった。実際のところ、ただ事件に関係しそうな情報や、そうでない街や巷の情報まで、やたらと増えただけなのである。この急な展開に、この情報量では混乱するなという方が無理だ。


「何だよ、こりゃ……。有力な証言が次々に明らかになるのかと思えば、俺が持ってきたこの新しい手記と同じでリアルな巷の噂話がひたすら羅列されてるだけじゃねぇか。しかも吉祥寺のラーメン屋やオススメスポットなんて完全にお前向けの話題じゃねぇかよ! そういうのはプライベートでやれや」


「そこはほら、とにかく取捨選択をしている暇なんかなかったというかさ……」


「ったく。……東城よ、大急ぎで文章にまで起こして、わざわざプリントアウトまでしてもらって悪いんだがな、これじゃ相変わらず訳が解らねぇよ。ひたすら役に立つか立たねぇか解らねぇデータまで羅列されてるってことになるじゃねぇか。だいたい“顔本”まで漁って文章にまでする必要があったのか?」


 西園寺のいう顔本とはFacebookの別名でネットでよく用いられている用語、いわゆるスラングのことである。昨今はスマートフォンで撮影した画像データを加工したり、ブログやSNSと連動させて情報の発信に用いている人々も多い。TwitterにLINEにFacebookにInstagramといったコミュニケーションツールの進化やアップデートに裏付けされた情報の拡散性や速報性というものは、記者である私個人の取材能力より侮れないものがある。


「取材する過程で親切にも電話番号やメールアドレスを教えてもらった人もいたのさ。後々のことを考えて文章に起こしておいたんだ。取材費用なんてこちらは出せる訳がないし、雑誌に実名は載せないからっていう体で取材協力を申し出るしかなかったんだよ。Twitterはトレンドとなるキーワードさえ解れば情報や発信者の検索は可能だけど、Facebookは電話番号やメールアドレスから、その人の本名や設定したプロフィールも解ってしまう仕様なんだよ」


 今回はSNSや現代的なアプリまで登場している。一息ついて私は続けた。


「解りやすく言えば“知り合いの知り合いはみんな知り合いだ”っていうシステムなのさ。電話番号やメールアドレスなどの個人情報の開示を前提として、情報の発信が可能なんだよ。君は使ってないようだけど、元々はこんな風に個人用のブログを知り合いに公開して話題をシェアしたり、昔の知り合いとすぐ繋がれるようにするアプリなんだからね。事件に関する情報は増えた訳だけれど、その代償として事件とは関係ないような情報も際限なく混じったり増えたりするのは、これはもうしょうがないことじゃないか。……第一、吉祥寺周辺で事件に繋がりそうな情報なら、どんなものでも欲しいと言ったのは西園寺、君の方だよ?」


「そうは言ったが、いくらリアルタイムな情報といえどもよ、手当たり次第に情報を引っ張ってくるってのは、お世辞にも賢いやり方とは思えないぜ。正気の沙汰じゃねぇよ」


「一概にそうとも言えないよ。今回に限って言えば、少なくとも僕らには、あの奇怪な手記が大きなアドバンテージになってる。一般の人が知りえない情報を持っていることになるんだよ。そこから推理したり、犯人を絞り込むことは可能かもしれないよ。……相当に無茶苦茶な話だとは思うけどさ」


「マジかよ……。推理する側に、情報の取捨選択や整理までやれってのか……。これがイカれた狂人が書いた、妄想小説じゃねぇと言い切れるのか? ブレンダじゃないとすりゃ、犯人が現場の吉祥寺周辺に住んでいる確率が高いのは確かだろうが、ここから絞り込めってのは、さすがにどんな名探偵でも無茶だぜ」


「警察の人海戦術の捜査である聞き込みだって同じことじゃないか。有力な情報だけが、都合よく拾える訳じゃないだろう? 僕の取材だって同じさ。現代の情報量を甘く見ちゃいけないと思うよ。役に立てなくて悪いけど、取材でここまで情報を際限なく引っ張ってくるなんて、僕だって思わなかったよ」


「畜生……。もう時間がねぇんだよ!」


 西園寺は、握り拳を己の膝に打ち付けた。


「とにかく落ち着いてくれよ。君らしくもない。まずは冷静にならなきゃ……」


「こんな訳のわからねぇ手記が現実で実体化して、訳の解らねぇ噂が狂喜乱舞して、現実がしっちゃかめっちゃかに掻き回されてよ、女子高生がいきなり殺されてます、なんて訳がわからねぇ状況になるなんて誰が予想つくかよ! これが落ち着いていられるか!」


 その時だった。私達の背中から声がした。


「そこは少しだけ我慢して、まずは私も仲間に加えてくださらない? ……もう、東城さんの仰る通り、少しは落ち着いたらどうなんですの、西園寺さん? 騒がしい刑事って、子供みたいですわね」


 私達は揃って声のした後方を見つめた。音もなく静かに。私達の後ろには車椅子に座った私達のよく見知った女が一人、にっこりと微笑みながらスロープを降りて私達の方へと近づいてきていた。話に夢中で気配がまるで感じられなかった。私は思わずカウンターから腰を浮かせ、驚きながらその友人を出迎えた。色々あったが、ようやくこれで三人全員が集合のようである。


「美波さん! 来てくれたんだね。もう身体の方は平気なのかい?」


 私の口調に、片桐美波はウキウキした様子で、心配ないとでもいうように、車椅子ごと360度クルリと素早くターンをしてみせた。彼女は隅の席にいた私達の前に来ると、ビシッと敬礼するようにピースサインを横にして、猫のように小首を傾け、満面の笑みを私達に向けた。とにかくこの底抜けの明るさと身のこなしとテンションの高さが彼女の身上であり、この辺は正月早々に起こった事件で彼女と出会って以降、本当に毎回ブレない。


「ジャッジャジャーン! お久しブリブリですわね、お二人とも。ふふーん、丸の内の探偵女王こと片桐美波、只今参上ですわ! ご心配おかけしましたわね。体調などこれこの通り! ピンピンのギンギンですわ! ……あぁ、この威風堂々たる女王のように気高く、気品に溢れた雄々しい姿。まるで蘇る不死鳥の如し……。筋肉痛の超回復を経て、堂々の新・発・売! 名探偵、片桐美波は永久に破滅なのですわ!」


 西園寺は心底うんざりしたように、やや不貞腐れた様子でカウンターに肘をついた。この男も久々に現れた友人を心の中では歓待しているはずなのだが、天の邪鬼というのは、とことん素直になれない難儀な性格なのである。


「ああ、うるせぇ奴のだ…。筋肉痛でそのまましてくれてりゃよかったのによ。漢字で書けば“只今惨状”だぜ。俺もイカレた奴は何人か知ってるが、ここまで酷い奴はそうそういねぇもんだ。……あと一応、突っ込んでやるが、新発売はリニューアルって言いてぇのか? あと永久に不滅な。破滅するつもりなら止めねぇから、どうかそのまま永久に滅んでろ。……クソッ、頭が痛ぇ。もうこの呆れた展開にゃ俺もついていけねぇぜ。お気楽な探偵殿は、毎度ぶっ飛んだ登場の仕方をなさるよなぁ。どうやら我らが麗しき丸の内の探偵女王閣下はストレスとは無縁の世界にいらっしゃるようだ」


「ふふん、お褒めにあずかりまして光栄ですわ」


「褒めてねぇよ! ったく、久々に現れて皮肉も解せなくなったか? 遅れてきた怪しい探偵は筋肉痛で休めるほどお気楽でいいなって言ってんだよ。余計なことに振り回されず、俺達が頭を悩ませてハゲそうになってる事件の謎解きにやっとこさ探偵殿も、遅ればせながら取り組んでくれるようだな」


「ふふん、何を言われようとも私には効きませんわよ。いずれ、この丸の内でハゲの王として君臨なさる西園寺さんの嫌味や皮肉など、さらりとしたザクロ酒のように受け流すのみ。私にとっては柳に風。蛙の顔に……。……ん? ええと、蛙の顔に……何でしたっけ? 蛙の顔に……大便? そう! 蛙の顔に大便でしたわ!

探偵たる者、肥溜こえだめにまった蛙の如く、くそまみれになっても、気にせず泳ぐポジティブさと面の皮の厚さこそが肝臓なのですわ!」


「蛙の顔に小便だ! 肝臓じゃなくて肝要だ。あと女なんだから色々とアウトな表現はやめろ。あと、誰がハゲの王だ! お前の扱いに慣れてねぇ奴がここだけ見たら、お前は遅れてきた探偵じゃなく、ことわざの語彙も意味も内容も、滅茶苦茶に間違う只のスカトロマニアのアホか、頭のイカれ具合が半端ねぇ躁病患者だぞ」


 この小学生もドン引きする、大人げない煽り合いの阿吽あうんの呼吸こそが、この二人の持ち味なのである。天然ボケを勢いと思い込みでぶっちぎる女と、相手が女子供であっても容赦しない毒舌男の辛辣しんらつなツッコミのやり取りは時に痛快であると同時に脱力すら覚える。出会ってからまだ半年も経っていないのだが、もはや様式美といったやり取りで、毎度のことながら、私は頭が痛い。


 美波はヒラヒラと落ち着きなく片手を振って、たまに痛そうにゴキゴキと体全体を捻りつつ、文字どおり柳に風、蛙の顔に小便とばかりに西園寺の再びの皮肉を受け流した。


「あら、事件の経過は常に東城さんから窺っておりましたから、謎解きに関しては今回は条件は私も一緒ですわよ? それにストレスに強いというのは大事なことですわ。人に対する最も強いストレスは“漠然とした不安”なのですから。たとえば子供が怖い話を思い出したり誰かの死に思いを巡らせて、夜に眠れなくなるのと同じことですわ。ストレスとは元々は「物体に圧力を加えると生じる内部の歪み」を意味する物理学用語でしたが、1936年にストレス学説を唱えたH.セリエによって「外からの精神的・物理的圧力によって生じる人間の心や体の歪み」を意味する生理学用語として広く知られるようになったのです」


 博識な探偵は早速飛ばし始めた。


「ビジネスでもプライベートでも、恋愛や結婚生活においてもそうでしょう? 強力なストレスを与えてくるような、自分を困らせてくる相手は、対象が病気になろうと胃に穴が開こうと別に何の得もありませんし、加害者意識も皆無ですわ。けれど、このストレスというのは、本人が勝手に感じているだけだから厄介なのです。胃をやられたり頭に十円ハゲが出来たり、食欲で満たそうとして高血圧になったり、般若みたいな怖い表情になって、他人にイライラをぶつけたりと、あらゆる局面で人の体を壊していきますわ。仕事だったら逆に、身内がその穴埋めをしなければならなくなる訳で、他人にどれだけストレスを感じてイライラしても、巡りめぐって自分が困るだけなのですわ」


「毎度、物識り探偵のマニアックな講義は大層ありがてぇんだがな、問題はそこじゃねぇだろ。イカレた躁病をお持ちのお嬢様は、何が言いてぇんだ?」


「要するに西園寺さんや東城さんは、考えすぎだと言っているのです。素敵な謎や事件に対して勝手にストレスを感じてイライラするのは、便秘みたいでよろしくありませんわよ? ……ほーら、和也ちゃん。いい子だから、たっぷり出しちゃって~。ブリブリ~」


「……東城。止めるなよ。女性保護団体が飛んでこようが何を言おうが、俺はこの女の頭に噛みつくぞ。決めた。たった今、決心がついた」


「まぁまぁ。いつもの煽り合いはいいから! ……美波さんも! 久し振りだってのに、大人げないよ。西園寺はいつもより気が立ってるんだから、真面目にやってよ」


「はぁい。まぁ、今回は私と同い年の保育園の先生が獄舎に繋がれていることですし、割と切迫してるご様子ですからねぇ。私もあんまり言うと謎解きの楽しみが減る上に、あんまりやるとクールな探偵のイメージを壊すな、とか書かれた石がどっかから飛んでくるのが怖いので、ワンちゃんをからかうのは、今日のところはこの辺にしといてあげますわ」


「誰に言い訳してんだ、オメーは。ってか、誰がワンちゃんだ!

本当に噛みつくぞ」


「まぁまぁ、西園寺も落ち着いて!」


「そうそう。東城さんの言うとォり!そう混乱してばかりでパニックになっていて、状況が何か変わりますの? まずはこちら側が落ち着かないとブレンダさんを助けられませんし、そう悩んでばかりだと本当にハゲますわよ? このままハゲの王様を目指すんですの? 禿げたら激しく励ましてあげますわよ! 極上のワインで“カンパ~イ!”って。ぷぷっ……ハゲをハゲしくハゲますとか。クスクス、ハゲだらけで超ウケる…」


「テメー、だから誰がハゲだ! ハゲてねぇだろうが! 見ろ、フッサフサだろうが! あと優秀な日本の労働者達は尊敬しろ! ハゲをディスるってことはな、日本を支えるオジサン達を敵に回すってことなんだぞ。デブだチビだハゲだブスだと二文字の悪口は基本的にダメだ! ハゲをディスんな! ハゲはその個性的な見ためと高い技術力で、世界を支える優秀な逸材なんだぞ! 世界に羽ばたく、日本のハゲ達をナメんな! ……よーし、そんなに疑うんなら、ヅラか本物かどうか触らせてやらぁ。ついでに下の毛も見せてやろうか、フッサフサのボーボーだってところをな!」


「ま! お下品! そんな粗末な○○○からハミ出る○○毛なんて誰が触るもんですか」


「テメー、誰が粗○○だ! I have this! 俺様にはがある! 俺様のマグナム44をナメんなよ。ブッ飛ばす!」


「ふふーん、そんなチャチな種子島なんか怖くありませんわ! 刑事が公然猥褻罪で捕まるとか、もう最っ高ね!」


「テメー、公務執行妨害で逮捕するぞ!」


「ふふーん、あいにく今は職務中じゃありませんわよーっだ! ご自慢のニューナンブで出来ることなんて、せいぜいオシッコ止まりですわ。公務シッコ妨害! そういえば警視庁のキャリアでしたわね。アリエナーイ! キャリアがモロ出しで免職とかもっと最高! 今夜は素敵な夜になりそう!」


「……よーし、ほんじゃあタチの悪い酔っ払い刑事とキャリアの力を見せてやらぁ。公務シッコ妨害でスカトロマニアの女を逮捕してやる!溢れ出る黄金水にせいぜい喜べ!……俺の生き様を、その目に焼き付けろ!」


 私は即座に格闘技の試合のレフェリーのように二人の間に割って入った。


「ブレイク! 煽り合いはなし! あと放送禁止用語もなし! 後で拳銃の音を入れる人や伏せ字にする方の身にもなってよ! 二人ともブレイクだ。まずは落ち着いて。ドードードードー。喧嘩や煽り合いは事件解決の後で! ……二人とも、いいね?」


 毎回思うことだが、このルール無用の煽り合いをする大人げない二人の間に入るというのは、まるで仲の悪い犬と猫の喧嘩の仲裁に入るような(しょうもない)感覚に陥る。


 とりあえず場は(なかば強引に)落ち着いたようなので、私が掌で示して水を向けると、美波は続けた。


「要するにこの事件も、このストレスや便秘と原理は同じだろうと言っているのです。情報の多さにひたすら混乱し、モヤモヤしてイライラする正体など割と単純で、原因は謎を勝手に複雑化している自分のドッペルゲンガーという幻が事件をやたらと大きく見せているだけに過ぎません。勝手に謎を複雑化、巨大化して妖怪やオバケにして惑わされていては、見えるものも見えないと忠告して差し上げているのです。データは既に揃っていますわ。あとは楽しい謎解きターイムの始まりではありませんか。……そんな怖い顔ばかりしていては、理由が仕事だろうとお腹が減っていようと便秘だろうと女性や福が逃げていきますわよ?」


 うら若き女性と警視庁の刑事が揃って、ブリブリだのピンピンのギンギンだの、大便だの糞まみれだの便秘だの、ハゲだのマグナムだの黄金水だのの是非や煽り合いはともかくとして、確かに彼女の言う通りだろう。


 ここが私や西園寺が彼女と決定的に違うところなのかもしれない。いわゆるオプティミスト(楽観主義者)とペシミスト(悲観主義者)の違いといったところだろうか。


 たとえば炎天下で作業をしていてペットボトルの水が半分入っているとする。楽観主義者はまだ半分あるからいけると解釈し、悲観主義者はもう半分しかないと解釈する。悲観主義者の場合はさらにその先があり、この水を飲み干したらどうなってしまうんだ、水を節約するにはどうしたらいいんだと考えを巡らし、作業に集中できない。


 一方で楽観主義者もさらに先があり、喉を精一杯渇かせてから飲むビールはさぞかし旨いだろうな、つまみはアレにしようコレにしようと先のことを考えて作業に一層に精を出す。結果、両者の間には作業の両と質に決定的な差が出ることになる。プラス思考型とマイナス思考型とも関連付けられたりする。


 私はM・セリグマンの『オプティミスト(楽観主義者)はなぜ成功するか?』という著書を思い出した。ストレスとの上手い付き合いかたは現代に生きる人間の課題ではあるのだろうが、楽観主義者と悲観主義者を分けているものは美波の言うとおり、解釈や思い込みという実体のない化物のようなものなのかもしれない。


 片桐美波のように根拠のない自信と勢いというオバケを逆に飼い慣らし、全てをマイペースに自然体でこなせる人間の強みは、他人の顔色など一切窺わないところである。


 彼女と接するにつけ、ここが色々と凄いと思ったところなのだが、身障者という、あらゆる局面でセンシティブに扱われる存在で、相手に気を遣わせ、手助けされる機会も多いであろう彼女の感じるストレスは、本来多大なもののはずなのだが、彼女はあまり、そうしたことには頓着しない性格なのである。


 彼女自身はこの車椅子や杖は頼れる相棒だし、同時に自分にとっては玉座と王錫で扱いとしては王女に支える下僕と同じだ、下僕は優秀な主の命令で何にでも変われるし、優秀な主は身障者だからと腐って下を向いたり、身障者である弱味を盾にして健常者に迷惑をかける暇な人間のことじゃない、人に感謝や敬意を表することを忘れた身勝手な身障者を好んで助けてやる必要はない、といつだったか豪語したのを私は思い出した。


 どんな困難にもめげずに初志貫徹し、成功者となる確率が高いのは案外にこうした、あらゆるストレスに強く些細な物事に動じないタイプの人間なのかもしれない。


「ほぉ……じゃあ何か? 小うるせぇ探偵殿は、この事件の、このややこしい事態は既に予測の範疇で、騒がしいご登場からものの5分もしねぇうちに、全てまるっとお見通しにできるってか? ンな訳あるか」


 西園寺の辛辣な物言いに相変わらず余裕の笑みを崩さない片桐美波は、猫のように小首を傾けて涼しげにしている。その姿は、相変わらずこうした場や互いのやり取りを心底楽しんでいるようにさえ見受けられた。


「心配せずとも、既に材料は揃っていると申しましたわ。ブレンドさんの状況も、今現在の状況もネットに出回っている情報から既に察しております。ほんのちょっと回ればこの程度の問題など、お茶漬けサラサラですわ」


「お茶のこさいさいね。あとブレンダさんだからね。人の名前を間違ってコーヒーみたいにするのはよくないよ。……回る? ひょっとして、その車椅子でクルクル回る、例のアレのことかい?」


 私は気になって美波にツッコミがてら訊ねた。彼女は任せておけ、とでもいうようにニッコリ笑って頷いた。


 この間の事件でもそうだった。


 彼女はブッ飛んだ登場の仕方をして私達と出会い(未知との遭遇である)、事件のキーワードが出揃った段階で突然ハスターのテーブル席とカウンター席の間にある、ほぼ店の中心を比較的ゆっくりとした速度で自身の座る車椅子でクルクルと旋回して答えを導きだしたのである。


 彼女によると、深い渦に沈み込んで体を委ねるようにすると回転や遠心力の関係で混沌とした情報の数々が数珠繋ぎのように脳内で組み合わさり、自然に閃きが生まれるとのことなのであるが、その独特の感覚は彼女のみぞ知るところで、私や西園寺には如何いかんともし難い奇行にさえ映るのである。


 これまた彼女に言わせると、散歩しながらの会議と一緒で身体を適度に動かしながらの方が人間のクリエイティブな思考を刺激し、良いアイディアが浮かびやすいのだという。かのスティーブ・ジョブズ氏も好んだやり方の応用だと彼女は言うのだが、剛体の力学だのコリオリの力だのダランベールの原理だの反作用の法則だのと何度説明されても、私には皆目その独自の感性と理論は高尚すぎる上に内容も複雑すぎて正直、訳がわからない。


 我々の様子をカウンターの中から見ていた上品なバーテンダーは目ざとくその様子を見留めて、隅の席にいる彼女の下にやって来た。この間の渋いバーテンダーと同じで、彼も若いが上品な佇まいと口髭を蓄えた黒服のバーテンダーである。美波はこのハスターの馴染みで上客ではあるのだろうが、彼女ほど客商売をする側にとって心臓に悪い困った客もいないことだろうから、彼の動きは然もありなんというところである。


 何せ美波ときたら黙ってさえいれば、容姿はこの上なく美しく上品な令嬢然とした優雅な気品さえある謎めいた美女だというのに、次の瞬間には何をするか解らない、やや耽美的で躁病気質なところがあり、奇態な行動さえとる女性客なのである。おそらく前回の一件で、美波のことは既にスタッフ間で周知され、情報を共有されているに違いない。


「美波さ……失礼、お客様。どうか店内にいらっしゃる他のお客様のご迷惑になるようなご行為は何卒お慎みください。私共、店内のスタッフは常日頃から忙しくしていらっしゃるお客様方に、心から大人の夜の時間を大いに愉しんで頂けますよう誠心誠意、心を尽くしております。くれぐれもお手回り品をたり、店内をはしゃぎ回って、駆け回ったりはしないで頂きたく存じます」


 美波の性格を察して気安く名前を言いかけたのだろうが、お客様で統一した辺りはさすが丸の内のバーテンダーである。お客様は差別しないといったところであろうか。迷惑な客に苦言を呈するにせよ、この辺りの細やかな配慮はさすがである。


 落ち着きのない美波は上品な彼の話に耳を傾けつつも、隅の席に雑に自分のタブレットを《放り投げ》、私や西園寺の持ってきた書類を視線だけは猛然と動かしながら一通り斜め読みしていたのだが、家来に粗相をたしなめられた玉座の王女のごとく、やや膨れっ面をして傍らに立て掛けてあった銀色の杖を畳んで、右手と二の腕でクルクルとバトンを回すように器用に回転させながら、車椅子を片手で滑らせて上品な彼に答えた。


「わかっておりますわ。今日はいつもより小さめに回ってあげますし、今回は杖をぶん投げたり店内で走り出すようなレディーにあるまじき、はしたない真似は致しません。そちらのお仕事の邪魔も致しませんことよ。……スプリング・オペラを用意しておいて下さる? ジャポネ桜を気持ち多めにね。……ンもう。こう見えても私、ノイズが混じると思考に集中できませんのよ。かわいらしいけどパンチの利いた、春風のように強いお酒が欲しいですわ」


 一応酒好きとして解説すると、彼女の言うスプリング・オペラとは1999年にカクテル・オブ・ザ・イヤーを受賞したバーテンダー、三谷裕氏の作品である。ショートサイズのカクテルグラスに注がれる、三色の層を成した綺麗な淡いピンク色とカクテル・ピンにさしてグラスを飾ったグリーン・チェリーが特徴の綺麗なカクテルである。


 テイストとしては中甘辛口で彼女の言うようにアルコール度数は25度以上とやや強く、こう言うとやや語弊があるが、その綺麗で優美で飲み口の爽やかさや可愛い見た目から侮って2杯め3杯めを注文すると後で痛い目を見る、昨今の若い女性のように強い酒なのである。


 私の記憶が確かならば、レシピはビーフィータージンに、ルジェ・クレームド・ペシェにオレンジジュースと、ジャポネ桜にカクテルレモンで作るカクテルだったはずである。


「かしこまりました」


 注文を受けた髭面のバーテンダーは慇懃に一礼し、元の場所へと戻ったのだが、既に彼女は所定の位置について杖を車椅子の左手にある付属のホルダーに収め、目を閉じて天井を仰ぎながら、ゆっくりとクルクル回っている。毎度のことながら、身障者とは感じさせないほどに猫のように動作がすばしこく俊敏で、こちらが気づいた時には、もうそこにいない。相手の思惑や言動など気にも留めない女である。


 幸いにも今夜のハスターの席は日曜日の夜とあってか、比較的客の数は少ないようである。この間に見かけた三人の女性客がまたもテーブル席にいて他にも何組か客の姿はあるようだが、美波のいる中央からは背中だけが見えている状態で、それぞれに仲間と談笑しているようだから、彼女の奇行ぶりをじっくりと眺める酔狂な客はいないようである。


 一分、二分。ぬるま湯に浸っているような黄色がかった暖色系の灯りの中で、美波は車輪をひたすらゆっくりと回し続けながら旋回している。毎度のことながらコーヒーカップのアトラクションやメリーゴーランドの動きを見ているようだ。本人は天井を仰いでひたすら小回りの利く車椅子で旋回している訳で、アレで酔わないものなのだろうか?


 西園寺も私も心配そうに美波の動きを見つめていた。謎解きの材料は揃っていると彼女はさっきそう言った。本当にそうなのか?


 この事件の謎や疑問は、未だにその正体さえも掴み所がないというのにか?


 得体の知れない腐臭の供儀という名の奇怪な儀式を行っているのは誰なのだ?


 あの奇怪な手記は、どのように生まれた?


 なぜ、西園寺の下に送られてきたのだ?


 あの奇怪な手記に綴られた出来事がなぜ、次々と現実に起こっている?


 真珠ナメクジの女神とは何だ?


 女神の幼生達とは一体何の暗喩なのだ?


 噂が噂を呼び、いくつも歪に膨らんでいるだけのような様々な怪しげな情報は、一体どこで、どのように関わってくるというのだろう?


 殺された並木洋子という女子高生は、なぜ白骨死体にまでされなければならなかった?


 なぜ、日本びいきの外国人の女性が、面識も関連性も一切ないはずの、その女子高生を殺したというのだ?


 逮捕されているそのブレンダ・ルイス・ステファニーが、仮に無実だとしても、彼女の部屋から次々と殺人事件を示す証拠は見つかっている。その疑惑を晴らすのは、容易なことではないはずだ。


 仮にブレンダが殺人犯でなかったのだとしたら、彼女に罪を着せ、殺人を犯した真犯人までがいることになるのである。


……誰が? なぜ? 何のために? どのようにして、どんな凶行が行われ、この混乱に至ったのだろうか?


 私としても、今回ばかりは事件の情報があまりにも錯綜し過ぎており、皆目見当がつかないというのが正直なところである。現実は小説よりも奇なりとはよく言われるところだが、現実の事件はミステリーの謎解きのように簡単にはいかないものだろう。


 関わっている人物達の、実像や実体がまるで見えず、虚像や虚構の中から生まれたとしか思えない奇怪な手記と不確かな情報と、それを取り巻く現実だけが錯綜し、次々と実体化している中で、表層的な噂やSNSなどの情報だけで真実を導き出せというのが、これほど厄介な状況を引き起こせるものだとは思いもしなかった。


 この千々ちぢに乱れた状況を粉々に壊せるのだとしたら、この一風変わった(滅茶苦茶な)探偵の閃きにすがるよりない。そう、前回の事件で彼女が見せた往年のミステリ作品に登場する名探偵達のような推理と論理に。偽りの世界を打ち砕く雷神トールのハンマーのような強力な衝撃をもたらす破壊の鎚に。


 私の心境は、まるでローマ神話に伝わる運命の女神に祈るような感覚であった。運命の車輪を司り、人々の運命を決めるフォルトゥナは、どんな結論をこの事件に下すのだ?


 車輪を回す腕だけが一定の動きでゆっくりと前後に動いていたかと思うと、突然美波はピタリと止まって、かっと目を見開き、突然クルリと人形のように反転した。彼女はまたもやや引き気味にした顎の辺りに握り拳をあて、突然何かを企んでいるような上目使いになると、にっこりと微笑んで言った。



「解けましたわ」



 そう言うと美波は突然、ニヤニヤしながらあの手記を読んでいたかと思うと、その中から一ページをスッと抜き取った。


 彼女は車椅子を音もなくスーッと滑らせて、隅の席に雑に置いてあった自らのタブレットを持って元の位置に戻ってくると手元で操作して、動画配信サイトのYOUTUBEを起動してネットの動画を検索し始めた。


 音声がオンの状態である。子供達が元気に遊ぶ様子や、お遊戯や歌の音声が漏れている。そんなものがあったのも驚きだが、どうも美波はブレンダの働く保育園の子供達の動画を検索し、視聴しているようなのだ。


 ブレンダの弾くピアノに合わせて子供達が元気に歌っている。日本人の子供達だけでなく、東南アジア系の顔立ちをした子や白人や黒人の子も一緒になって、笑って歌っている。その人種も国籍も関係なく屈託のない笑顔で遊び、歌っている子供達の大好きな先生が、殺人の疑いをかけられて警察に捕まっている。そう思うと、子供達が不憫ふびんでならなかった。


「おいおい、今度はいきなり何を始める気だ? すんげぇ嫌な予感がするんだが…」


「さあ、ブレンダのいる保育園かな? 子供達の動画を観ているようだけど……」


 探偵の第一声はこの世のものとは思えない恐ろしい狂喜の悲鳴から始まった。


「キャアァアアあぁアアぁんっ! カワイイっ! ブリリリリリリアンっ! ああ、何て可愛らしいの! 最っ高! エクセレレレレレレレンっ! ……ああ、何て神々しい愛らしさなの! ……そして、何て耳に心地よい、このリリリリリリリリリぃィズゥムっ! 全てがごちゃごちゃに絡まり、縺れた糸がハラハラと解きほぐされ、溶けていくような、正に天使たちの歌声! ……ああ、神様! 見てくださいまし! このいたいけな子供達の姿を! 聴いてくださいまし! この汚れなき心で人々の魂を揺り動かす歌声を! 今この時、この瞬間! 華麗なる光に溢れ、真実の扉は開かれましたわあ!」


 開かれたのは発狂の扉である。親愛なる読者諸氏よ、私や西園寺の普段の苦労がどれほどのものか、もうこれだけで解って頂けたことだろう。


 躁病の躁病たる所以は、このように誰の助けも要求も拒否するぞ、という得体の知れないド迫力に満ち満ちているものなのである。


 直接それを間近で目撃している者達にとって、それはある種の暴走行為にも似た発作現象の発露であり、突然の狂気の病に蝕まれた患者に接しているに等しい恐怖さえ感じるのである。ついでに、この恐怖の後始末をするのは毎回、私と西園寺の役目なのである。


 今、派手に巻き舌で狂喜乱舞している彼女の脳内では、どうやら子供達の歌声がまるで讃美歌かウィーン少年合唱団のように流れているのだろうが、彼女の奇態な行動に遭遇し、頭が真っ白になっている店内にいる客達の脳内には、狂気の唸りやシャウトを上げるデスヴォイスの叫びと、ダウンチューニングを施したギターやベース、高速のスラッシュビートを刻む特殊なドラムパターンのデスメタルが流れている。それほどに、彼女と店内にいる者達の間には、決定的な温度差がある。


 案の定、彼女の奇態な姿に店の奥にいた、いつぞやの女性客三人も上品なバーテンダーも他の客達もあんぐりと口を開け、ある者は飲み物をこぼし、ある者はカウンター席から転げ落ち、ある者は恐怖の表情のまま石のように硬直している。再びの大惨事である。


「やりやがったな……」


「あぁ、まただよ……」


 西園寺は額に手をあてて盛大に天井を仰ぎ見た。私もカウンターに突っ伏して思わず頭を抱えていた。我々の嫌な予感はやはり的中した。普段のテンションが人の三倍は違う片桐美波のもたらした被害は、またも甚大なものであった。


 それは、たとえるならば伝説上にしか存在しないといわれる怪鳥バジリスクか邪竜コカトリスか妖怪ウブメに突如、遭遇したようなものであろう。仮にも、ここは上品でシックな天下の丸の内のオフィスビルなのである。その恐ろしい声を耳にした憐れな被害者たち、もといハスターの店内にいた客達は、狂気染みた咆哮ほうこうのごとき声音のもたらす圧力と迫力に完全に石化してしまっている。


 オーマイガーやアイヤーという溜め息や驚きにも似た声までヒソヒソと聞こえた。この店は外国人の客もそれなりに混じっているのである。国際問題に発展しないか、明日の朝刊の一面を飾りはしないか、ネット上に怪異出現の噂が流れはしないか、この店を出入り禁止にならないかと私はハラハラしながら座を見守っていた。


 私は彼女を侮っていた。狂気は何も視覚から感じ取るものだけではないのだ。これはもう防ぎようがない。いつぞやのメデューサかゴルゴーンの魔女の魔眼とはタイプの違う狂喜乱舞する彼女のけたたましい声は、丸の内の静かな夜のオフィスビルを戦慄させて余りあるほどの破壊力を持っていた。


 この怪物じみた探偵の奇態な様子を見るにつけ、どうやら彼女は真実にたどり着けたようなのだが、彼女のリアクションはテンションの高い年頃の女子中学生達が束になっても敵わないほどのリアクションである。ネガとポジが反転したようなカタルシスがもたらす異常なテンションの高まりさえ、彼女はどうやら人の三倍はリアクションが違っていたようなのである。


 西園寺と私は互いに頷くと、即座に身を盾にしてバリケードとなった。とにかくこの怪物だけは人目から遠ざけなければならない。数奇な運命とは、かくも不条理に突如として己の身に降りかかるものなのである。


「すんません! コイツちょっと頭がアレなんで! 」


「すみません! きッつく言って聞かせますので!」


「どうも、お騒がせしましたっ!」


 西園寺と私の声が綺麗にハモった。私達は深々と頭を下げると、相変わらず子供達の歌声にくぎ付けになって、ひたすらタブレットを見つめながらブラララボーだのワンダホーだのと常人と三オクターブくらい声のトーンとテンションが違う、迷惑きわまりない探偵を、車椅子ごとそそくさと隅の席へ強引に引き戻した。まるでコントの寸劇を見るような一幕である。


 幸いにも、丸の内のオフィスビルにいる方々はかなり度量の広い方々ばかりだったようで、タチの悪い酔っ払い連中の仕込みネタか深い心の病を抱える患者とその同伴の家族と理解されたのか、ようやく人々は石化の呪いから解き放たれた。


 ハスターの店内には元の小粋なジャズが流れる大人の空間に復旧しつつある。カウンターにいた髭面の渋い若いバーテンダーはさすがと言うべきか、素早く清掃や客への謝罪など行き届いたアフターフォローを遺憾なく発揮している。彼の勇気と母の愛のような献身ぶりと大人の対応には、ひたすらに感謝である。


 変な汗をかいたが、私達はようやく彼女を隅の席の所定の位置につかせることができた。心臓がバクバクとあり得ない速度で高鳴っている。美波はそこで始めて私達の存在に気付いたかのように、キョトンとしながらタブレットから顔を上げ、ゼイゼイと荒い息を吐く私と西園寺の顔を交互に見上げている。


 チェスにたとえるのもおかしいが、このようにこの女王様は、ちょっとした数手の動きで盤上を縦横無尽に荒らしまくる奔放なクイーンのようなものであり、ナイトやビショップやルークは常に気が気なものではないのである。


 西園寺は開口一番に、人差し指を立てて彼女に厳重に抗議した。


「お前のそのイカレたリアクションは本ッ当にマジでなんとかならねぇのか! 真相に気づいたってことでいいんだな?」


「ええ、それはもう! 事件の始まりから、なぜこんな奇怪な手記がこの丸の内に現れたのかまで、全部まるっと解けましたわ」


「本当かい? ブレンダがどうして逮捕されたのかも説明できるのかい?」


「ええ、解けましたわ」


「街に流れている奇怪な噂の真相も?」


「ええ、解りましたとも。今回も東城さんはいいところに気づいておりましたのよ。正に必要は老婆をも走らす、でしたわ」


「ああ、そうかい。じゃあイカレたリアクションはもういいから、俺達に真相を話せ」


「ふふん、まぁそう焦らずに。急がびゃミャーレ……ですわよ?」


「急がば回れな。猫かよ。


「噛んだよね。大事なとこで。


「そこ! 毎度うるしゃいでしゅわよ! とにかく、この手記のこのページのこの部分を、その両の目ン玉かっぽじって見るべし! 内側にえぐり込むようにして見るべし! 見るべし! 明日の為に見るべしですわ!」


 ここまで支離滅裂で、奇天烈な逆ギレとテンションの高さで勢い任せにぶっちぎられると、呆れを通り越して、いっそ清々しいぐらいの脱力ぶりが襲ってくる。言ったそばから噛むなだの、かっぽじるのは耳の穴だだの往年の名作ボクシング漫画の名台詞をパクって改変するなだのといった諸々のツッコミを入れる気力さえ、綺麗に失せてしまうものである。


 相変わらず色々と滅茶苦茶な女は、相変わらず俊敏ですばしっこい動作で私と西園寺の目の前に、問題の手記から抜き出したと思われる一ページを落ち着きなくヒラヒラと、今にもくしゃくしゃに握り潰してぶん投げそうにプルプルと震える、やたらと力のこもった指先で摘まみながら示した。時折痛そうに、ゴキゴキと首を蠕動ぜんどうさせ、おまけに身体全体まで捻るものだから、とにかく心臓に悪い。というか、動きが気持ち悪い。


 片桐美波のこうした痙攣的な言動は、いくらか私と西園寺は(恐ろしいことに)慣れてきてもいるし、先ほどの怪鳥の鳴き声のように大概が次の瞬間には何をするか解らない、危険な落ち着きのなさに満ち満ちているものだが、自然とこちらの動悸まで激しくなるのは、これまた毎度の話である。


 無論のこと、それは彼女がいくら可憐で美しかろうと、この場が小粋な夜のショットバーというムードあるシチュエーションであろうと、淡く耽美的な世界観で甘い恋の相手と接しているからでは断じてない。何度でも言うが、毎回この胸の高鳴りは、深海の底から突如出現した得体の知れないUMA(未確認生物)とコンタクトしている感覚なのである。


 西園寺は卑怯にも私の背中に隠れて、その紙片を黙って顎でしゃくった。取って見せてみろということだろう。不幸にも彼女に近い位置にいた私が、恐る恐るそれを手にすると問題のその一ページは、あの奇妙な詩文であった。


『口づけをしておくれ。 そして君のその古臭いジョークにもね。


 君に必要な忠告を あげよう。


 死者たちの声が君に届くまで 何年もかかったんだ。


 彼女は本当に奪ってはならないものを欲しがるが そのことに気がつく日は来るのだろうか?


 冷たい洞窟だって知ってるんだ。


 気が狂ったり死んでしまった人達を お月さまはいつも見てるっていうことをね』


「はぁ? これが何だってんだよ」


「訳がわからないよ、美波さん」


「かーっ! 何てことを仰るの! やれやれですわね、お二人とも。察しが悪いにも程がありますわ! この一ページこそ、この事件を解く為のマスターピースだというのに! デデデデーン!」


 片桐美波は額に手をあてて大袈裟に天井を仰ぎ見て、両手を広げて肩をすくめ、怒ったように指をぶんぶんと振る外国人のようなオーバーリアクションをして、次に私達の手からそのページを再び奪うと、万歳をするように紙片を高々と掲げ、さも重要アイテムを手に入れたような派手なジェスチャーまでした。最後のはおそらくゲームの効果音と思われるのだが、多方面から苦情が来ないか心配なエフェクト音まで美波は連続でこなした。


 いちいち描写する方も疲れるのだが、この時間にして数秒の間に、この一連の動作と感情の表出とリアクションと効果音を一つの会話で切れ目なく素早くやってのける辺り、どれだけ躁病気質の変人か分かろうというものである。


 と思うと彼女は突然、ニヤリと悪巧みするような目で艶然えんぜんと私達に微笑んだ。


 そして、正に突然、片桐美波は核心となる一言を、何の前触れもなしに言った。


 例によって。正に例によって私と西園寺は、その瞬間にすれ違い様に居合いの刃であっさり切り伏せられた殺陣の浪人達の如く、真相の脅威に打ちのめされてしまうことになるのである。

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