1

※※※


障害がありました。


この女性は異なっています。


馬鹿な女。無知は罪であります。


医学の奇跡に差はありません。


そこの同僚。


引き裂きます。


人間の体の部分を分割。


今、四肢や耳のペア。


性器と鼻と舌にカット。


ダワを送信しています。


持ち帰ります。


常にバック持参。


耳と舌 使いやすいです。


性器は困難であり。


性器崩壊早いです。


私は死であるのでしょうか?


それとも凍結した方がよいですか?


あなたは大きな袋を必要とします。


あなたがどこにいる本当の事はありますか?


レアル出来るだけ早く取得。


Tsutaeroとクライアント2があります。


お土産の不十分1。


Mochikaereがない限り消去しました。


私は絶望にここに来ました。


それは何でそう異なっています。


ここは非常に豊富です。


クラフティ。ずるいです。


行うだけでなく。


マーラは落ちます。


その後 他の人に任せます。


あなたがどこにいる本当の事はありますか?


どこにいるのですか?


あなたが取得する必要があります。


 ああ、頭の震えが止まらない。


 頭が震える。腕が絶え間なくウズウズと痺れて世界が膨らみ、呪わしい言葉が脳髄を駆け巡っている。あの供儀くぎだけは、あの儀式だけは一刻も早く完成させなければならない。


 逸る体と心を押さえつけ、いつ着替えたのか解らない茶色の上着を荒々しく脱ぎ捨て裸になると、いそいそと透明で広いバスタブのある部屋ですぐに横になり身を沈める。


 暫くそうしていると、彼女達がいつものように次々と現れて出迎えてくれた。さぞや待ち遠しかったのだろう。期待と興奮に彼女達が歓喜しているのが、その濡れた裸身を通して伝わってくる。


 その神々しい緋色の裸身を露にした、真珠ナメクジの少女達を全身で受け入れる準備をする。この何ともいえぬ高揚感と高鳴る心臓の鼓動に身を任せ、待ち焦がれている時は、この世の何よりも至福の時間だ。


 彼女達との愛の営みは、彼女達が喜んで全身を愛撫し、彼女達を満足させる刺激的で甘美な一時なのだ。


 その痛いような痒いような何ともいえぬ心地に全身を満たしていると、それだけで下腹部に熱い血が集まって勃起してくるのが判る。どんな女達の、どんな愛撫をもってしても、この快感は味わえぬ。


『私よ』


《駄目よ、私》


“アタイだってば”


【駄目ぇ…アタシ】


(駄目、ウチの番やない)


<あぁん、私だったらぁ…>


「こらこら、順番だよ」


 仕方ないと苦笑して、そっと微笑んだまま目を閉じると妖艶な赤い唇で彼女達の一人一人が微笑みかけ、耳元で囁き、ポールダンスのように蠱惑的でセクシーなポーズで体をくねらせ、ある者は跳びはね、踊るように目の前でアピールしては、順番だというのに次々に我先にと愛撫してくる。


 皮膚の末端を通して脳髄まで熱く、蕩けそうな愛しい唇で何度も何度も吸い付いてくる。五、六分も身を任せていると声が出そうになり、ひたすらに腰を暴れさせて突き上げると、彼女達の動きもどんどん激しくなる。


 頭に白い閃光が走ったような感覚と共に、彼女達に向けて思いきり全身で思いを込めたスペルマを放出すると、赤く潤った彼女達が手当たり次第におぞましく迸る白く濃厚な液体を受け止める。目に映る全てのモノが白く歓喜したように彼女達の声も、震える脳髄へと直接響いてくる。


『いい』


《いぃ…》


“いいわ”


【イイ…】


(えぇわぁ…)


<いいッ>


 一体どれほどの時を彼女達と費やして過ごして来たのだろうか…?


 この快楽に比べれば、世の中に溢れるセックスなど児戯に等しい。


 食うために生き、生きる為に血を交じり合わせ、全身で愛を確かめ合う命の交歓こそ至上の愛の営みだ。


 頭を悶々とさせ互いに互いを求め、身体を蒸らして焦がして待ちわびて、昼間から部屋にこもり、混沌の中で淡々と達する彼女達と過ごしているこの背徳の時は、堪らなく狂おしく甘美な一時だ。間違いない。


『もっと…』


《もっとぉ》


“もっともっと”


【モット…】


(ぅん…もっとぉ…)


<もっとシてぇ…>


 ひたすらに求めてくる彼女達を宥めて熱いシャワーを浴びると、頭の震えはなくなり、頭の中で陽気な歌がリフレインしてくる。


“上空の黒いワシたちが向きを変え


いきなり飛びかかってきて


小さな我が子がさらわれた


眠っておくれ、幼な子よ、どうか眠って”


“上空の黒いワシたちが舞い上がり、


 真珠の王冠が後に残された


 おまえの愚かな父親はいびきをかいている


 眠っておくれ、幼な子よ、どうか眠って”


“上空の黒いワシたちが飛び交い


 幼い我が子につかみかかった


 世界中が見ている


 眠っておくれ、幼な子よ、どうか眠って”


“上空の黒い鳥たちが高く舞い上がり


 我が子の肉が引き裂かれる


 世界中が加担している


 眠っておくれ、幼な子よ、どうか眠って”


 頭の震えを何とか抑え込み、地下へと降りていく。あの儀式は何としても完成させなければならない。頭は覚めていたが、どうも風邪でもひいたものか、体が酷く怠かった。


 体の震えがどうにも止まらない。


 その狂騒と興奮の坩堝が気持ちを逸らせるものか、目の前にはみるみる周囲が油染みて黄ばんだような、どこかけばけばしくも懐かしいような、ギラギラとした黄色い灯りにごちゃごちゃした字体がでかでかと踊り始めてきた。変な服を着た女や変な仮面を被った男達もちらほら見かける。


“■■された■■の■の■び!”と書いてある。手書き風のフォントがそのまま毛筆体になったかのような、珍しいフォントだ。ところどころ読めない。辺りには奇怪な食い物を売っているテントが、左右に延々と向こう側へと立ち並んでいる。独特の匂いがする。


 甘ったるいような辛いような、生臭いような甘いような、かと思えば何かが焦げるような匂いまで辺りいっぱいに立ち込め、ない交ぜになっている。


……何か腐ったものでも焼いているのか?


 すんすんと鼻をひくつかせてみても、こうごちゃごちゃと食い物が並んでいると臭いの原因はさっぱり分からない


 ふと傍らを見ると黄色い屋根の下で、ローラーに巻かれた得体の知れない肉の塊があった。そこから切り取ったヤモリのような肉を串刺しにして、おかしな白い饅頭のようなものに包んでいる色の黒い男と目が合った。全身が真っ黒な半裸の男はにっかりと笑うと、それを目の前で旨そうにむしゃむしゃと食って見せた。白い歯がやたらと光って眩しいくらいだ。


 夜の闇を照らす、ふしだらな黄色い明かりの下に篝火が焚かれている。ポールに立てられた粗末なテントは、向こう側の祭壇のような場所まで延々と続いている。その奥にも篝火が焚かれ、さらに奥には教会とも寺院ともつかない妙な建物が建っている。


 黒い男の隣では吐瀉物のような色をした、丸くて平べったい食い物を、ペタペタと黒い板にくっつけて焼いている女がいた。


“シェラッシェー、シェラッシェー”と目の下が殴られたように赤く、キツネのように細くつり上がった目をした頬骨が張った女だ。声を枯らして、ひたすら“シェラッシェー、シェラッシェー”と叫んでいる女は、見たこともない生臭くて真っ赤な葉っぱを、その焼いた吐瀉物のようなものに載せている。頭がおかしくなりそうな臭いがした。


 奇妙な光景だった。テントの途中にある辻は十字路に仕切られており、そこを右手に折れると大きくて粗末な小屋が見えてきた。


 おかしな歌が聞こえてくる。


“母さんが私を殺して”


“父さんが私を食べている”


“兄弟たちはテーブルの下で私の骨を拾い”


“冷たい大理石の下に埋めたの”


“My mother has killed me,”


“My father is eating me,”


“My brothers and sisters sit under the table,”


“Picking up bury them under the cold marble stones.”


「さあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい、お触りは厳禁だよ!!」


 威勢ある口上が辺りに響き渡る。おかしな笛を吹いている音やおかしなドラムの音まで混じっている。


 ひゅうひゅうどろどろ。


 ひゅうひゅうどろどろ。


 おどろおどろしい、幟や黄色や赤の幕がごちゃごちゃと付いたおかしな小屋があった。


 恐る恐る中へと入ろうとすると、突如、受付台のようなところに首から頭が二つ生えている美少年が現れ、何やらお札のようなものを辺りにばらまいている。受付にいる耳のない男は紙切れのようなものを指差してきた。


 金を払えということだろうか?


 ひゅうひゅうどろどろ。


 ひゅうひゅうどろどろ。


 小屋の中は妙に暑かった。何かが始まるのか、舞台には縁台のようなものが設えられていて次々と変な演者が現れるようなのだ。


 色っぽい女が蛇にかぶりつき、口からダラダラと血を流してニッカリと笑っている。


 その次には毛が一本もない裸の男が、一升瓶のようなものから透明な液体を口に含み、口から火を吹いている。その度に周りの客からは喚声がワッと上がる。


 客の中には子供を連れた親子や顔に変な仮面を着けた者や、頭に変な被り物を被った者もいる。やたらと狭苦しい粗末な小屋だ。異様な熱気とザワザワとした興奮が、汗ばんだシャツを通して伝わってくる。


 ひゅうひゅうどろどろ。


 ひゅうひゅうどろどろ。


「エイホー、エイホー、エイホー」


 舞台袖から滑るように、黒子が緋色の襦袢を着た女を戸板に乗せて運んできた。


 戸板の上にいる髪の長い女は、正座して客に土下座をするように顔を伏せている。長い髪で顔が完全に隠れて全く見えない。


 その女が突如顔を上げた。


 にっこりと笑って観客へと顔を向ける。顔が平べったくて人形のような、大層綺麗な顔立ちをした女だ。周りの観客から一際大きく下品な喚声がワッと上がる。


……一体、何が始まろうというのか?


 その時だった。獣のような大男が大声を張り上げ、縁台の奥の扉をバリバリと突き破って入ってきた。象のように大きな男だ。


 男は鉄の仮面を被り、巨大な斧を手にしている。大男は仮面の下から覗く血走った目をギョロつかせて観客を一睨みして、もう一度うおお、と吠えた。足の下の部分が象のように垂れ下がって肥大化している。象のような大男は今しも戸板に載った女を、その巨大な足で踏み潰さんとしているかのようだった。


 象男は大きな斧を大上段に振り上げて緋色の襦袢を着た女の肩口に目掛けて、斧を降り下ろした。おかしな着物を着た者達からワッと喚声が上がった。


“Lizzie Borden took an axe”


“And gave her mother forty whacks. ”


“And when she saw what she had done ”


“She gave her father forty-one.”


“リジー・ボーデン斧を取り”


“母を40回 滅多打ち”


“自分のしたことに気がついて”


“父を41回 滅多打ち”


「きききききききききッ」


「ひひひひひひひひひッ」


 真っ赤な着物を着て派手な血飛沫を吹き出して真っ二つに分かれたはずの女から、突然にょっきりともう一つの体が生えてきた。血だらけの顔の女の顔は、もう一つから分かれた女の顔にそっくりだった。体から生えてきたせいか、頭の毛から肩まで真っ赤に染まって血塗れだった。一つの体から二つの体が分かれているのだ。血塗れの女はニタリと微笑んだ。


「きききききききききッ」


「ひひひひひひひひひッ」


 真っ二つに分かれた女達は、もう一度甲高い声で笑った。女達が奇怪な声を上げた途端に獣のような象男は、まるで何かに取り憑かれたように耳を塞いで苦しみだした。


 このように獣憑きに見られる人の獣化という現象は実はめずらしいものではない。最もメジャーなところではワーウルフ、ウェアウルフなどとも呼ばれるホラー映画の題材にもなっている人狼が挙げられる。


 人狼とは民間伝承や神話学、人類学においては人と他の動物の特徴を合わせ持つ人物や変身した獣人を指すが、狼男の寓話や類話が世界的規模で受け入れられ、広範囲に広められ、現代においても幅広く周知されている背景を鑑みると、獣化という現象に畏怖や恐怖や忌まわしさを覚えるのは、紛れもなく人間が人間の内に眠る獣の遺伝子を継ぎ、時にはそれが目覚めて人を殺めもする狂暴な力であることを、他ならぬ人間の体が本能的に知っているからだと考えられる。


 人狼にいうライカンスロウピーは元々はギリシャ語のライコスからきているとされ、これは獣化の専門用語のことだ。正確には人狼のみを指すにも関わらず、他の動物へ姿が変わる事例にも総称としてしばしば使われることがあるし、獣憑きとなると精神病理学的な解釈も加わることがあるので、これは明確に区別すべきであろう。


 人が獣化したり、超自然的に他の動物の特徴を所有することを信じる人々はよく人狼症と呼ばれるが、この分類は精神病の一つの形態で多くの文化人類学者がこれはシャーマン文化の強い信仰の例であると指摘している。信仰が通常生活に支障が出ない限り、社会的な特色から姿を変えられると言っている者達は病気ではないと精神医学の専門家は考えているが、これは見知らぬ他の文化と精神病の境目が不明瞭であることから、しばしば議論の的となっている。


 ただ神託を告げる際に一時的に人格が変わったように見えるシャーマンは畏れられもするが、同時に神聖視されることもあり、原始社会においては重要な役割を果たしていることも少なくなかった。この傾向は時代と共に廃れ、適応の際に逸脱と見なされ、時には異状のレッテルさえ貼られるようになっていく。託宣や預言を外した者が死をもって償う時代にあっては、シャーマンと獣と人の境目は極めて明瞭で、人為的な獣憑きをも越えた神憑りの秘技や儀式はそこかしこにあったと思われるのだ。


 先史時代から動物と人間の混ざったイメージは世界各地でみられ、アニミズムの延長などで信仰の対象となっていたと考えられるのである。これは有名な遺跡にもその名残がある。


 アナトリア地方南部、現在のトルコ共和国、コンヤ市の南東数十km、コンヤ平原に広がる小麦畑を見下ろす高台に位置する、新石器時代から金石併用時代の遺跡であるチャタル・ヒュユク遺跡の壁画には、獣の特徴を持った人間が描かれており、自然の力を借りようとした何らかの儀式に基づくものと推測されている。


 この遺跡のVI層からは、アシと筵でできた納骨堂に織物が敷かれ、目のくぼんだ頭骨が置かれている絵が発見され、死者に関して何かを表す絵であるということ以外はわかっていない。


 壁画に多くみられるのは狩猟をしている男性達がペニスをいきり立たせている場面である。また現在では、絶滅しているバイソン類を赤く描いていることもある。また、頭のない人間にワシやタカなどの猛禽類が飛びかかるように舞い降りてくる場面も描かれる。この壁画の猛禽類は、なぜか人間の足をもっているものがあり、儀式の際に鳥の姿に扮装した祭司の間に、頭のない遺体が置かれている様子を描いていると考えられている。


 日本でも古事記には、光る井から現れた生尾人いくおびとの記述がある。


『即入其山之 亦遇生尾人 此人押分巖而出來』 


(かくて、その山に入りましかば、また尾ある人、遇へり。この人、巖を押し分けて出で來)。


(そして山の中に入って行くと、また尾のある人と出会った。この人物はいわおを押し分けて出て来た)。


 この記述に見られるように、神代の頃には人と獣の境界が曖昧で、畏怖や神聖視されていたと考えられるのである。獣憑きとは、人間の最も原始的な部分から引き出される人間の底深くに眠る混沌の残滓であり、同時に神憑りや悪魔憑きなど憑依現象の一形態と推定されるのである。


 キリスト教圏でも、初期には土俗信仰とキリスト教が共存してそのような偶像が崇拝されていた地域があったが、中世以降、魔女狩りと同様に獣人は反キリスト・悪魔のとる姿と位置づけられるようになり、人狼狩りや人狼裁判なるものが度々行なわれた。これが前述した逸脱と異常のレッテルである。


 実際には人狼であるとされた人々は、麦角菌に感染したライ麦を食べて幻覚や精神錯乱を起こしたものであると考えられているが、魔術の儀式においてはこの二つを呪物に用いることもあるのだから、近代とは殊に不明の闇を科学によって照らそうとしながらも、同時に人に内在する神格化さえ可能な獣性を宗教としては異端視し、闇として執拗に遠ざけ、追い出そうとしていたに過ぎないともいえるのである。それは人間が神に愛された種族であり、獣の持つ獰猛な猛々しさや狂暴さといった本能のみによって動く浅ましさや、狂犬病による弊害ばかりがクローズアップされた結果ではあるのだろうが、多くが宗教と関連して人間の持つ獣性は忌避すべき対象と見なされたのである


 また、キリスト教圏以外の地域でも動物などの精霊が憑依して獣化する獣憑きの伝承は世界各地に存在しており、インドや中国では虎憑き、中南米ではジャガー人間、また日本における狐憑きなど、そのバリエーションは世界中に分布する。


 狼は日本では埼玉県秩父市の三峰みつみねにある三峰神社では神の使いとされるなど、神道の神様の使いとした例がある。江戸時代には、秩父の山中に棲息する狼を、猪などの害獣から農作物を守る眷族・神使とし“お犬さま”として崇めるようになった。さらに、この狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになり、この社から狼の護符を受ける御眷属信仰が流行った。修験者達が神得を説いて回り、参詣するための三峯講が関東・東北等を中心として信州など各地に組織されたという。


 モンゴルやアメリカ先住民などでも、狼は同様に自然崇拝の対象になっているようだ。ロームルスとレムスはローマの建国神話に登場する双子の兄弟でローマの建設者であるが、ローマ市は紀元前753年4月21日に、この双子の兄弟によって建設されたと伝えられている。この双子は狼によって乳を与えられて育てられた。やがて羊飼い夫婦に引き取られ、かの双子は立派に成人する。古代ローマは、狼に育てられた人によって建てられたという伝説はこれにあたる。その他“オオカミ”を意味する言葉が地名や人名になっている例は世界各地に見られる。


 ドイツの自動車メーカー、フォルクスワーゲン本社のあるヴォルフスブルクがそうであるし、日本にも狼という漢字を含む地名は、青森県弘前市の狼森おいのもりや秋田県雄勝郡東成瀬村の狼沢など東北地方に特に多く、岩手県と宮城県には15もの狼と名のつく地名がある。


 ニホンオオカミはかつて本州・四国・九州に生息し、作物を食い荒らすイノシシやシカを退治してくれる農耕の守護者として各地で崇められてきたが、時代とともに徐々にその数を減らし、1905年に奈良県で捕獲された一頭を最後に絶滅している。しかし、地名としては各地でまだ多数の狼は生き残っていたようである。東北地方に多く見られるのは、狸や狐と通じるものがあるようである。


 また東北地方では“狼”と書いて“おい”と読む場合が多い。これは狼の別名である“おおいぬ”が訛ったものと考えられる。これは余談だが、ニホンオオカミ絶滅の原因は洋犬から感染したジステンパーの流行のためと言われているが、具体的な原因は未だ明らかではない。最近でもニホンオオカミらしき動物の目撃事例があり、まだ完全に絶滅していないという説もある。


 獣性とは獣の持つそうした自然崇拝の対象として持ち上げられながら、かつ荒ぶる狂暴性として忌むべき対象と、一見背反する両面を併せ持っているといえるのである。獣憑きについて執拗に論考するのはひとえに、この現象が人間の文化と切り離せないもので、人間に隠された神秘性を引き出す性質だからである。


 アニミズムと似て非なる概念としてシャーマニズムがある。獣憑きと同様にアニミズムとシャーマニズムは混同されがちなので、ここでシャーマニズムについても触れておく。


 シャーマニズムはアニミズムから一神教への過渡期へ至る一形態と捉えられる。シャーマンが交信できる存在としかコミュニケーションできない反面、アニミズムではありとあらゆる霊魂が信仰・崇拝の対象となり、きわめて日本における八百万信仰や御霊信仰に近くなる。


 アニミズム社会では皆がシャーマンを通じてではなく、自分で霊魂と交流できる。古代人の世界では、生者と死者は互いがごく身近なところにいたと考えられている。最近の縄文遺跡の発掘で明らかになってきたことは、縄文人達が自分たちの村を円環状に作り、その真ん中にできた広場に巨石を配し、死者を埋葬していたという事実である。


 踊りのステップに合わせて地中から死霊が立ち現れ生者と共に踊り出す。これは今にいう盆踊りの原型でもあろう。この時は死者と生者の間の距離や境界は曖昧で、ほとんどなくなってしまっていると考えてよいだろう。古代人達はそうした状況を別に怖いとも恐ろしいとも思っていなかったという傍証でもある。死を穢れとして扱い、忌むべき対象とされた背景には、多分に仏教文化の伝来や疫病や飢饉、戦乱による疲弊や救いを求める宗教的世界観とも切り離せず、それはさらにずっと後世のことになる。


“現し世は幻。夜の夢こそ真”とは、かの江戸川乱歩の言葉であるが生と死、夢と現実は分離できないというのが古代人の基本哲学であったとすれば、生者と死者が一体となって踊っている夜の状況こそが、この世界の真実の在り方を表しているものと考えられた文化はあったのではなかろうか。


 それはまるで悪夢である。


 夜の悪夢が目の前に突然やって来たのだ。


 こんな場所があるはずがない。


それがある場所です!


それがある場所です!


だからこそ変な女です!


先入観のおかげ!


面白い家がたくさんあります。


エスケープ家を探します。


私はこの家のどこかによ。


 ああ、頭の震えが止まらない。


 重要となる神憑りについて触れておこう。


 日本の神社において、神憑りして神託を頂く神事の多くが誤解されている背景には理由がある、と神事を執り行う禰宜や巫女、心理学的考察からアプローチを加える人々は言う。


 まず現代においては多くの神社で神憑りという現象が、そもそも起こらなくなってしまっていることが挙げられる。祭りの時などは、伝承されている形だけ踏襲したものを行っているケースも多い。そのため本当の神託となる託宣もない。昔はあったという記録が文献などには残されているが、最近はほとんど聞かないと感じている人は多い。


 そして、どういう現象なのか体験したことも見たこともないため、よく分からないまま精神疾患の憑依妄想と漠然と関連付けているケースが多いということである。偶発的に霊にとり憑かれる心理現象が起こった場合、ほとんどの人が精神科に連れて行かれて、憑依妄想と診断・治療を受けていること。また、精神病と同一視された神憑りの現象は、社会的に有用性を認められていない、といったパターンがこの神憑りという現象を衰退させていると考えられるのである。


 統合失調症は百人に一人が発症する身近な病気と主張する専門家もいるぐらいで、憑依現象もそれなりに発生してはいるはずなのだが、多くは病気として処理されるため、表に出て来ることはきわめて稀であると考えられる。


 この憑依妄想は多くが誤解されているが、本来は必要があって出現するもの、有用なものと考えられるのだ。昔は世界中のお祭りで、祭りに伴う独特の雰囲気に感化され、催眠暗示効果が働いて神憑りが起こっていたことが様々な資料から見て取れる。


 シャーマンではない普通の参加者も神憑りすることがあったという事例から、もしも暗示性の憑依妄想が病的なものならば、一定の条件下で正常な人でも起こりえる現象ということを切り捨てて考えることはできない。


 神憑りは実のところ、非常に大切なメッセージ性を担っている心理現象であり、必要とされる場面で必要だから必然的に起こっていると考えられるのである。この視点からの認識が古い伝統文化の内容を適切に理解できておらず、現在の西洋医学からは完全に欠け落ちているといえるのである。


 これは神道という日本独自の宗教観に立脚した考え方や文化的習俗を、一神教をいただくキリスト教圏やイスラム圏では、およそ理解し難いものであるが故の誤解でもあろう。特に邪宗として日本の神道文化を、忌むべきものとして、時には焼き払うといった無理解で横暴な行為が見られるのは国籍の違いや政治的な理由や民族的な憎悪など様々な背景があろうが、そうした狂信による誤解も多分に含まれている感は否めない。


 実際のところ、自己催眠の暗示によって起こる神憑りは病的なものではないため、暗示を解けばすぐに正常に戻ることも多く、精神病としての治療の必要は実のところまったくないのである。


 ところが精神科医で、病気と区別できる憑依妄想が存在するという認識を示す者はほとんどいない。神憑りは昔から世界中の祭りの中でも度々起こり、存在をよく知られている現象であるにもかかわらず、さも心因性の憑依妄想は存在しないかのように位置付けられている。これは明らかな矛盾であろう。


 ここに、この憑依妄想を全て病気と考える混乱が生じている可能性があることになる。前述のように、統合失調症は百人に一人が発症するものとされているが、その中に正常な人に現れた心因性の、病的ではない憑依妄想も無理やり押し込められてしまっている可能性は否めない。


 祭りとは関係のない無意味な場面で、必要もないのに発生する憑依妄想の中には明らかに不自然なものも含まれている。無論のこと、脳内の神経伝達物質のバランスが崩れているといった何らかの物理的な原因が潜んでいる場合には、心因性の暗示や思い込みではないため、暗示を解く方法では正常に戻せない。当然、精神疾患として医師の処方や投薬を受けて治療する必要がある。


 祭りの雰囲気の中でなくとも自己催眠の暗示にかかり、憑依妄想の状態になることがある。実際にあったという事例や資料が残っているのは、コックリさんなどの遊びの場面で狐に憑かれた状態になってしまったケースである。


 これは“狐の霊が憑いて動かしている”といった情報が予め用意されており、自分で暗示をかけて憑依妄想にとりつかれている為、お払いの仕草をするだけで、簡単に暗示を解除して憑き物を落とせる。


 また、次のようなケースも考えられる。


 夜寝ていて突然目が覚めて金縛りで動けない不思議な現象(睡眠麻痺)を体験し、原因が理解できないため大きな心理的ショックを受け、これは霊の仕業ではないかと考えた為に恐怖心から憑依妄想の暗示にかかってしまうというパターンである。


 これはよく、訳あり物件と称される自殺者や殺人事件の被害者がかつて住んでいたマンションやアパート等の不動産物件の部屋に新しく入居してきた人物にも、まま見られる現象である。人の噂などの外部からの心理的効果が憑依妄想を誘発するケースである。


 このようなケースでは、体のどこにも異状はないのに偶発的に運悪く憑依現象に陥っているだけなのに精神科に連れて行かれ、憑依妄想の診断を受けてしまう可能性がある。


 脳に何の問題もないのに不用意に治療薬を誤処方されると、薬剤性精神病(Drug-induced psychosis)の状態になる可能性もある。憑依妄想の暗示にかかっているだけなら一瞬で解くことができるのに、まず妄想が解けないかどうか確認することを考える精神科医はほとんどいないという。何でも薬で治そうとする医師が多いのが、現代医療の弊害でもある。くどいようだが結果として統合失調症は百人に一人が発症する身近な病気という状況を作っているのだとしたら、これは医原病である可能性も出てくるからである。この誤解を解くためには、神憑りや憑依という現象の正体を明らかにする必要がある。


 神道における神憑りの神事の原理は自己催眠である。催眠術は眠気を催させることで、眠りながら夢を見るときの意識の状態に近付ける技術である。夢を見ている者の深層心理が作り出しているイメージは、ほとんどが映画か物語のように自由にならない場合がほとんどであろう。夢を見ている本人とは無関係に、自分の意思を持っているかのように話をしたりする。


 テレビの催眠ショーでよく見られるが、夢を見る時に近い意識の状態に誘導された後に「あなたは小鳥です」と暗示を与えられた者はどうなるだろうか? これは夢を見るときに小鳥を動かしている深層心理を、暗示によって無理やり本人の体に適用させられた状態になる。


 すると暗示にかかった人は、夢の中に登場する小鳥を動かしている深層心理に体を操られ、本人の意思とは無関係に小鳥の仕草や鳴き真似をすることになる。暗示を解くと瞬時に元に戻るが、原理が分からない者はどうして自分が小鳥の物真似などしていたのか理解できないと感じ、首を傾げることだろう。


 次に、もしも「あなたは神様です」という暗示を与えられたらどうなるだろうか?


 夢の中に登場する神様のイメージを作り出して動かしている深層心理が、強引に本人の体に適用されることになるので、本人の意思とは無関係に神のように振舞い、本人が考えもしない神の言葉を口にすることになる。


 これが憑きもの現象や神憑りのある一面での正体である。心理学的に説明できない要素は見当たらないので、非科学的な神の霊などを想定する必要がない。神が夢枕に立ってお告げをもたらすことがあるとされているのは、夢の中の神と神憑りの時の神が、同じ深層心理によって作り出されたイメージだからである。こうした催眠ショーの憑依現象は暗示によって起こっていることが明らかなので、誰も異常だとは思わない。暗示を解くだけでよい。


 神事の場合も「巫女舞をすると神憑り状態になる」と、巫女本人が強く思い込んでいれば、自己催眠にかかる。巫女の体に降りてきて宿る神は、神社に伝承されている神話を元にして巫女が頭の中にイメージしたキャラクターに過ぎないのである。


 これも実際にイメージされるのは神なのであるから、幽霊のような非科学的な存在を無理に考える必要は全くない。これをただの妄想や自己暗示に過ぎないと切り捨て、神憑りの神事は無意味で無価値なものだと思うのなら、あまりに無理解もいいところである。


 神社に祭られている神の中には生前の優れた業績を没後称える形で祀ってあるケースが多々ある。優れた知恵を示した人物が他界した後で飢饉や伝染病が発生して世の中が乱れた時、あの偉人が今も生きていたら、どうやってこの窮地を切り抜けただろうかと、故人を偲ぶ。これが天災地変の多かった日本の神憑りの神事の発想の原点となっている。


 これは伝説の知恵者の優れた思考を自己催眠によって脳を活性化させ、機能がアップした状態でトレースし、シミュレーションすることによって懸案解決のアイディアを引き出すことを可能とする技術の体系といえるのである。


 あらゆる宗教には、伝説上の優れた人格や知恵を持った人物に近付こうとする要素が見受けられる。神道もそれは同じで、神憑りの神事は優れた業績を伝説として残した祖先に近付こう、知恵を借りようという意識や心の表れでもある。


 本格的なトレーニングを受けた巫女の場合は、巫女舞の自己催眠によってトランス状態…いわゆる変性意識状態に移行すると、脳のリミッターである安全装置が解除され、封印を解かれた力が発現する。この系統は青森県のイタコや沖縄県のユタという霊能の技術による現象と基本的には変わりない。トランス状態に陥ることが可能な人物、或いは陥りやすい体質の者であれば資格は充分ともいえる。後述するが、無論のことそうしたトランス状態の弊害が差別や精神への機能障害を多分に帯びていることはいうまでもない。


 たとえば地震や火事に直面して生命の危機を察知すると、人は本能的に筋肉を保護しているリミッターや安全装置を解除して、火事場の馬鹿力と呼ばれる突発的な身体能力を発揮することがある。これが神憑りに伴う神通力の正体のある側面である。普段出したことがないような大きな力を出せるようになるが、限界まで筋力を使うと筋肉は損傷するので、あとで相当な激しい苦痛に襲われることも珍しくない。


 このリミッターの解除は筋肉に対してだけでなく、脳の様々な機能に対しても起こる。これが前述のトランスによる弊害である。


 最も典型的な事例としては交通事故に遭って死を直感した時など、時間にしてコンマ数秒の間に走馬灯のように記憶が駆け巡る現象がある。これは今まさに事故に遭うという人間が生命の危機を回避する方法を、過去に体験した出来事の中から探し出そうと、記憶を超高速検索しているのを、自分の意識が感じ取っている状態なのである。


 加速されるのは検索機能だけではない。交通事故が起こったほんの数秒間のことを、まるで何分もかかった出来事のように感じることがある。これは自分の周りの時間の経過が遅くなったのではなく、脳のリミッターが解除されて思考速度が普段の何倍にも速くなった結果、周囲のものがスローモーションのように見える状態になっているということである。


 これは実のところスポーツの分野ではよく見られる現象なのである。敢えて神憑りという表現を使うが、神憑りすると集中力が極限まで研ぎ澄まされ、周囲の物が動く速度が極端に遅く感じられたり、意識すれば飛んでくる高速のテニスボールや卓球の球さえ止まって見えるようになるのだという。


 もちろん打ち返すのも凄く楽になる。時間感覚が間延びするため、全身の産毛一つ一つに当たる空気が、まるでゼリーのような感じに変化するのだという。


 陸上競技の選手であれば、瞬間的に自分だけが速い速度で動きながら、周囲はスローモーションに見えるという不可思議な体験をした選手の逸話は多い。また世界記録を更新した重量挙げの選手が同様の体験をした時に、インパクトの瞬間にバーベルが羽のように軽く感じたと証言した選手もいる。


 こうした脳のリミッターを解除する前は、平常時は数多くの対象を一度にはっきりと認識することは出来ないが、意識容量や思考や視覚による視野が神憑りを体験した本人にとっては目に見えて拡大するため、自分の体はもちろん、周囲の物の状態一つ一つまで克明に分かるようになる。これは何も視覚だけに起こる現象ではない。聴覚や嗅覚や触角にも同じ現象は起こる。


 神憑りすると普段の自分とはまったく違う視点から物事を考えるようになるだけでなく、思考能力や五感から感じ取る能力が飛躍的にアップするといわれ、普通の人がまず絶対に思いつかないようなアイディアが閃くことも珍しくない。


 まさに、神の視点から物事を考えられるようになる。ただし、神憑りに伴なうリミッターの解除は自分の中にない知識や能力を取り出せるわけではなく、きわめて個人的で感覚的なものに限られる為に、多くが誤解されている。神憑りすれば何でも出来る万能の存在になれると思ったら大間違いである。


 本当の神憑りを体験したことがない、中途半端な耳学問しか持っていない宗教家達は、夢を膨らませすぎて、神憑りすれば空をも飛べるような夢物語を書き並べてしまう。そういうものは、神憑りの原理上絶対にありえない現象である。こうした誤解が多くの宗教詐欺や誤解を生み、オカルトの範疇に含まれてしまっている。その典型的な例が映画の題材にもなった福来事件や、かの宗教団体によるテロ事件であることはいうまでもない。


 また、脳のリミッターを長時間解除したままにしておくと、脳がオーバーヒートして細胞単位で過労死する危険性もあるので、再封印する必要がある。この再封印という解除の仕方が重要なのである。スイッチを点けたり消したりする過程が重要なのである。


“この世から○○という一人の人間がいたという痕跡を他人の記憶や記録に至るまで完全に消すことは不可能だが、死体をこの世から完全に消し去ることは不可能じゃない”。


“殺人行為から死体の処理までの間に誰にも見られず、かつアリバイを確保できて、出来れば時間に余裕がある方がいい。死体が見つからなければ足跡を辿られることもなく、捜査が開始されることもないってわけだ”。


“防犯カメラの映像記録は上書き保存される時間が、施設や建物や警備会社によってまちまちだよ。死体が見つからずに捜索願いも出されずに一ヶ月くらい経過すれば、ほぼ映像記録から辿られることもなくなるだろうから犯行は時間稼ぎする手法に限られるね。ビッグデータに嘘はつけない。あくまでそうした時間稼ぎって意識が大事”。


“死体を完全に消すには幾つか方法はあるが、時間的な猶予がある場合はな、いっそ溶かしちしまえばいいんじゃね?”。


“髪の毛すら溶かしてしまう溶剤なら実は俺らの身近にあるぞ。強アルカリ性の液体型のパイプ洗浄剤だ。この薬品の強さは中学校の理科の実験で実際に体験したことがある奴もいるんじゃねぇか? 人の皮膚すら溶かすから、触れたらすぐに水で洗えって教師に注意された経験のあるヤツもいるはずだ”。


“強アルカリ性のパイプ洗浄剤は水酸化ナトリウムの保有率で大きく変わるよ。約4倍近い水酸化ナトリウムで4.5%くらい強力な方が理想だ。さらに次亜塩素酸ナトリウムも高濃度に保有しているようなタイプがいい”。


“劇物には当たらない製品にも関わらず、高度な洗浄を行うことが出来る商品なら通販でも購入できるけど、購入履歴が残るネットショッピングは足がつくから、さすがに避けるべきだろうな。業務用の商品を扱うホームセンターが理想的だが、業務用の洗剤と寸胴鍋とかをまとめて買うのは、いつだったか八王子のホストが、ぶっ殺された事件を連想させるから、できればやめておけ”。


“さすがに不審がられるだろうし、レジ担当のスタッフが昼と夜で替わる店を選ぶのがいいよ。防犯カメラに映っても大丈夫な程度の変装をしていくのを忘れないでね”。


私は見てきました。


私は男を発見しました。


この国はドレスですか?


それは色とリボン。


それは青いテープが付いている服でドレス。


首を伸ばす為に殺します。


これは私も億万長者!


 ひたすらの儀式を続け、絶望していた時、その女は現世に舞い降りた。


 血管が透けて見えるほどに透き通った、その白い裸身から延びた白い指が触れる。


 赤い瞳をした美しくも神々しい女神だ。


「君はどこにいたんだい?」


“ずっとここにいました。いつでもあなたと共にいます”。


「君はどこから来たんだい」


“遠い遠い世界。始まりと迫害の場所”。


 機械を通したような声で聞こえる彼女の声がその時、ダイレクトに脳に響いてきた。


「幸せになんてなれないよ」


“幸せです。あなたといられたら、それだけで幸せです。きっと幸せです”。


「君は真珠ナメクジの女神なのかい?」


“そうかもしれません。そうじゃないかもしれません”


「彼女達はどこに行くのかな?」


“解りません。あの少女達は、あなたに必要なのですか? なら私もあなたの妻です”。


「解らない。けれど君がいればそれでいい」


“それだけでいいです。あの少女達のようになれなくても、あなたには私がいます”。

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