第12話「解読への挑戦」

9月も終わりに近づく金曜日。バー「Nexus」での仕事を終えてから数時間しか眠れていないというのに、俺の目は冴え渡っていた。時計は午後3時を指している。窓の外では十六夜月がまだかすかに見え、満月の余韻を残したその姿は、まるで俺の心の中の謎めいた想いを映し出しているかのようだった。普段なら深い眠りの中にいる時間だ。しかし今日は違う。この2日間、俺の頭の中はマヤから受け取った暗号文のことでいっぱいだった。まるで、解けない方程式を前にした数学者のように、頭がグルグルと回り続けている。


俺が自宅を出てしばらく歩いていると、前方にアジア風の男性の後ろ姿が目に入った。その瞬間、俺の心臓が大きく跳ねた。その佇まい、独特の歩き方、肩の動き、頭を少し傾げて歩く姿勢...どこかオヤジを彷彿とさせるものがあった。


え?まさか...オヤジ?突然の出来事に、俺の思考が乱れた。カレー屋からはかなり離れたこの場所に、オヤジがいるはずがない。そう思いながらも、その姿があまりにも似ているため、俺は思わず足を止めてしまった。


動揺を抑えきれず、俺は男性に近づこうとした。しかし、その時男性が急に立ち止まった。まるで誰かに見られていることに気づいたかのように。俺は慌てて身を隠した。心臓の鼓動が耳に響く。男性はしばらくその場に佇んでいたが、やがてゆっくりと歩き出し、角を曲がって見えなくなった。


落ち着け...落ち着くんだ、ユキト。深呼吸を繰り返し、なんとか冷静さを取り戻そうとする。しかし、胸の内では依然として疑問が渦巻いていた。あれは本当にオヤジだったのか?


考えすぎだ。きっと似ている人を見間違えただけだ。俺は首を振って、その考えを払拭しようとした。最近の出来事が、俺の神経を尖らせているのかもしれない。どこにでも謎や秘密が隠されているような気がして、普段なら気にも留めないようなことまで気になってしまう。


深呼吸をして、俺は歩き出した。今日の目的を思い出す。マリカーと会って、例の暗号のことを相談するんだ。変に思考が脱線している場合じゃない。


俺はポケットの中の水晶に触れ、現実に引き戻された。今は目の前の謎に集中しなければ。その奇妙な出会いのことは、とりあえず頭の片隅に置いておくことにした。


そうして俺は、マリカーとの待ち合わせ場所へと足を進めた。秋の風が頬を撫でていく。その冷たさが、俺の思考をクリアにしていくようだった。しかし、心の奥底では、あの後ろ姿の謎が小さな火種となって燻り続けていた。


「よう、ユキト!待たせたか?」


声の主を振り返ると、そこにはマリカーがいた。相変わらずの軽薄そうな笑みを浮かべて、まるでこの状況を楽しんでいるかのようだ。


「いや、今来たところだ」俺は軽く頷いた。「例の居酒屋はこの辺りだよな?」


「ああ、すぐそこだ。行こうぜ」


二人で歩き始める。秋の陽気が心地よく感じられる。しかし俺の心は、まるで嵐の前の海のように落ち着かない。


「なあ、マリカー」俺は少し躊躇いながら聞いた。「その佐々木さんって、どれくらい天才なんだ?」


マリカーは笑いながら答えた。「ああ、頭の良さでは間違いなくトップクラスだぜ。でもな...」彼は少し言葉を選ぶように間を置いた。「かなり個性的な奴なんだ。お前も会えば分かる」


「個性的?」俺は首を傾げた。「どういう意味だ?」


「まあ、見ればわかるさ」マリカーは意味ありげに笑った。「とにかく、面白い奴だってことは間違いない」


居酒屋「和楽」に到着すると、二人は個室に案内された。和風の落ち着いた雰囲気の中、テーブルに向かい合って座る。


「で、マリカー。その佐々木さんって、何時に来るんだ?」俺が尋ねた。


マリカーは時計を確認して答えた。「ああ、もうすぐだ。4時には来るって言ってたぜ」


マリカーはニヤリと笑った。「お前さあ、本当にこの暗号解けると思ってんの?まるで、お前の人生という名のジグソーパズルの最後のピースを探してるみてえだぜ」


俺は苦笑いを浮かべた。「正直、分からない。でも、このままじゃ気が狂いそうなんだ。まるで、完成間際のカクテルに最後の一滴を加えられないバーテンダーみたいでな」


「はは、相変わらずドラマチックな例えだな」


その時、個室のドアがノックされた。


「こんにちは〜!」


陽気な声と共に、一人の男が入ってきた。その姿を見た瞬間、俺は思わず目を見開いてしまった。


身長180cm近くありそうな長身に加え、その体は見事なまでの巨漢だ。体重は...120kg...いや、もしかしたら150kgくらいあるんじゃないだろうか。そう思わせるほどの圧倒的な存在感だ。Tシャツは体にぴったりと張り付き、その曲線に沿って「I LOVE ERROR」の文字が歪んでいる。


佐々木が部屋に入ってくると、その存在感で空間が一回り小さく感じられた。彼が座ろうとした椅子は、まるで悲鳴を上げるかのように大きくきしんだ。部屋の空気さえも、彼の存在に押しつぶされそうになっているようだった。


「よお、ピザニキ!」マリカーが立ち上がって彼を迎えた。「相変わらず強烈な存在感だな!まるで、人間クッションどころか人間ソファーみたいだぜ」


「えへへ、褒めても何も出ないよ♪」佐々木は照れくさそうに頭をかく。その仕草が、彼の大きな体のせいで妙に滑稽に見える。「あ、ユキトさんだよね?はじめまして!僕、佐々木!でも、ピザニキって呼んでね!」


彼は嬉しそうに俺に近づいてきた。その動きは、まるで巨大なテディベアが歩いてくるようだ。かなり近い距離まで来ると、俺の顔をじっと見つめながら、にんまりと笑った。「ねえねえ、ユキトさん。僕の目、綺麗だと思わない?」


俺は思わず後ずさりしてしまった。「え、ええ...まあ...」


俺は困惑しながら、心の中でツッコミを入れずにはいられなかった。これが天才?まるでアニメの中から飛び出してきたオタクキャラそのものじゃないか。デュフデュフしてるし、なんだこの独特の雰囲気は...。


マリカーが笑いながら割って入った。「おいおい、ピザニキ。人の顔にそんなに近づくなよ。ユキトが引いてるだろ」


「えー、でも僕のチャームポイントなんだよ?」ピザニキは少し拗ねたような表情を見せた。その仕草が、巨漢の体とは不釣り合いな子供っぽさで、なんとも言えない愛嬌があった。


俺は困惑しながらも、どこか憎めない気分になった。「ピザニキって...何か由来があるんですか?」


マリカーが説明を始めた。「ああ、それがな。こいつと知り合ったのは色んな大学の奴が集まるオンラインゲームのコミュニティでさ。そこでこいつが48時間ぶっ続けでゲームしながら、巨大なファミリーサイズのピザを一人で平らげちまったんだよ」


ピザニキは誇らしげに付け加えた。「あれは楽しかったなぁ。気づいたら、ピザの箱の山に囲まれてたんだよね」


「そんで、みんなでこいつを『ピザの主』って呼び始めたんだけど」マリカーが続ける。「このバカが『僕は主なんかじゃないよ。ただのピザ好きなだけだって』って言うから、『じゃあピザニキでいいか』ってことになってな」


ピザニキは照れくさそうに くすくすと笑った。「まあ、ネットじゃデブのことをピザって言うしさ。僕にピッタリのあだ名だよね」


マリカーが付け加えた。「こいつ、自虐ネタで笑い取るの得意なんだよ」


ピザニキは満面の笑みを浮かべた。「だって楽しいじゃん!みんなで笑えるならオッケーだよ」


その言葉に、俺は思わず吹き出してしまった。この男の自虐的なユーモアと明るさに、なんとも言えない親しみを感じた。


しばらくしてから、俺は話を本題に戻した。「あの、ピザニキさん。今日は実は相談があって...」


俺は、マヤから受け取った暗号文のことを説明し始めた。占いの館での不思議な体験、カレー屋との関連性、そして謎の暗号文。話しながら、自分でも馬鹿げているように感じる。まるで、子供の冒険小説の主人公になったような気分だ。


説明が終わると、ピザニキの表情が一変した。まるでスイッチが入ったかのように、彼の目が真剣な光を帯びる。


「おっ、これは面白そうだねぇ」ピザニキは、いつもの軽い調子で言いつつも、眼鏡を直して暗号文を覗き込んだ。「ふむふむ...」


彼は暗号文をじっくりと観察し、時折鼻歌を歌いながら首を傾げたり、頷いたりしている。その姿は、まるで楽しいパズルに取り組んでいる子供のようだ。


「なるほど~。これはね」ピザニキは俺たちの方を向いて、にやりと笑った。「一見ランダムな文字の羅列に見えるけど、実はちゃんとしたパターンがあるんだ。古典的な暗号の匂いがプンプンするよ」


「えっ、そんなことが分かるのか?」俺は驚いて聞いた。


「もちろん!」ピザニキは得意げに胸を張る。「暗号解読は僕の趣味の一つなんだ。まるでゲームのような面白さがあるんだよね」


ピザニキは少し考え込むような仕草をして、説明を始めた。「ねえねえ、暗号化ってさ、今どきのは超難しいんだよ。例えばさ、LINEとかのメッセンジャーアプリで使われてるような現代の暗号化は、素因数分解とか難しい数学を使ってるんだ。でもね」


彼は顔を近づけて、まるで秘密を打ち明けるかのように続けた。「占い師のおばあちゃんがそんな難しい暗号使うとは思えないでしょ?だからきっと、もっと古典的な手法を使ってると思うんだ」


「古典的な暗号?」俺は身を乗り出した。


「そそ、昔からある暗号のタイプってことね」ピザニキは楽しそうに説明を始めた。「例えば、文字を入れ替えちゃう置換式暗号とか、順番をグチャグチャにする転置式暗号とか。あとはね、特定のキーワードを使って暗号化する方法もあるんだ」


ピザニキは暗号文をもう一度覗き込んだ。「それとさ、この文字数を見てみて。英単語が並んでる感じがするんだよね。きっと何かを示唆してるんじゃないかな」


「へえ...」俺は感心しながら聞いていた。「じゃあ、解読できそうか?」


ピザニキは頷いた。「うん、いろんな可能性があるね。古典暗号にはたくさんの種類があるんだ。試してみよう!」


彼はノートPCを取り出し、作業を始めた。画面には複雑な数式や文字列が次々と表示される。俺は思わずピザニキの背後に立ち、その作業を食い入るように見つめた。彼の指がキーボードの上を軽快に踊り、画面上の文字や数字が目まぐるしく変化していく。その様子は、まるで魔法使いが呪文を唱えているかのようだった。


俺の目は画面に釘付けになり、息を殺して見守る。この瞬間、この奇妙なオタク風の巨漢が、本当の天才なのかもしれないという思いが胸の中で膨らんでいった。暗号の謎が解ける瞬間を、俺は固唾を呑んで待った。

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