エピソード 2ー7
前任者のマグリナを断罪。彼女が横領していたお金の一部を取り返し、経営は問題なく進められそうだと思った矢先、実は支払いを滞納していることが発覚した。
聞いてないよぅというのが私の正直な感想だ。
「……アリーシャ、どうしたんだ?」
驚いて顔を上げると、セイル皇太子殿下とアイシャが書類を手に部屋の隅で作業をしていた。窓から差し込む柔らかな陽光が、彼らの姿をぼんやりと照らしている。二人が部屋にいたことに動揺しつつ、私は慌てて「なんでもありません」と取り繕った。
「その顔でなんでもないはずないだろう。ほら、こっちに座れ」
セイル皇太子殿下に腕を引かれ、ソファに座らされる。「なにか飲み物を――」と、アイシャを見たセイル皇太子殿下は、わずかに沈黙した後「淹れてくる」と席を立った。
……そっか、本来はアイシャが部下だけど、ここじゃセイル皇太子殿下が見習いだもんね。
六年後ですら紅茶を淹れられなかったのに、一体どんな飲み物が出てくるんだろうってドキドキする。そうして待っていると、アイシャが向かいのソファに腰を下ろした。
「それで、なにがあったの?」
「ちょっと予想外のことに動揺してしまって……院長としてお恥ずかしいです」
「最初は誰だって不慣れなものよ。いいから話してみなさい。それとも、試験に悪影響を及ぼすかも、なんて心配してる?」
「それは……少し」
いまの私は余裕がない。
回帰前の私にはそれがあった。皇女としての実績があり、頼れる仲間がいたから、どんな困難でも乗り切れるという自信があった。
だけど、いまの私にはそれがない。
それはつまり、未熟な子供だと言うことだ。
「悩みを誰かに相談したからと、評価を下げるようなことがあるものか」
いつの間にか戻ってきたセイル皇太子殿下が、紅茶を載せたトレイを持ったままそう言った。彼は不慣れな手つきでローテーブルの上に紅茶を並べていく。そのぎこちない動作のうちに、普段の気品のよさが垣間見える。
「それで、なにを落ち込んでいたんだ?」
紅茶を並べ終え、セイル皇太子殿下は私の隣に座った。
「落ち込んでいた訳じゃないんですが……孤児院に借金があることが分かって」
「……借金だと?」
セイル皇太子殿下が眉をひそめる。
「正確には報酬の未払い金ですね。大工の仕事を頼んでおきながら、難癖を付けて支払いを渋ったみたいです」
「……おまえはそれを支払うと言ったのか?」
「ええ。孤児院の滞納金ですから。あぁ、もちろん、支払いは待ってくれるようにお願いしたし、棟梁のおじさんも快く受けてくださいましたよ。ただ……」
「ほかにも滞納している可能性がある、と言うことだな」
「そうなんですよねぇ……」
一カ所で支払いを踏み倒したなら、ほかの場所でもやってる可能性は高い。そして、ほかの相手が棟梁のおじさんみたいに優しいとは限らない。最悪は資金が回らなくなって孤児院の解体が決定する、なんて最悪のケースが脳裏をよぎり、私はテーブルに突っ伏した。
「……事情は分かった。こちらでも確認しておこう。それに、あまり酷い場合は、警備隊の方から領主に進言してみる。だから、その……なんだ、これでも飲んで落ち着け」
セイル皇太子殿下が紅茶を勧めてくれる。その瞳には気遣いがあふれていた。
「……優しいんですね」
「べ、別に、人として当然のことをしたまでだ」
照れるセイル皇太子殿下が可愛らしい。歳は私の二つ年上だけど、回帰を経た私にとっては年下のような感覚だ。でも、私はそんな彼にいつも励まされている。
感謝の気持ちを胸に、紅茶を口にした。
「……渋いです」
「む? そうか?」
小首を傾げるセイル皇太子殿下の横で、アイシャも一口飲んで「たしかに渋いですね」と苦笑した。私は「ですよね」と笑ってセイル皇太子殿下に視線を向ける。
「もしかして、睡眠薬でも入れましたか」
「は、はぁ!? そんなもの、入れるはずがないだろう!」
セイル皇太子殿下が素っ頓狂な声を上げた。だが、自分でも一口飲んだ彼は「まぁ……たしかに渋いな。これは、異物の混入を疑われても仕方ないか」と呻いた。
「しかし、さすがに睡眠薬はないだろう。どこからそんな発想が出た? そもそも、俺が睡眠薬を入れて、どうするって言うんだ?」
「そうですね……寝てる私にキス、するとか?」
「――っ!」
セイル皇太子殿下が咳き込んで、「そ、そんな不埒なことをするか!」と叫んだ。私は冗談ですと笑って、もう一口、渋い紅茶を口にする。セイル皇太子殿下は真っ赤になって「たちの悪い冗談は止めろ」と息を吐いた。いまのセイル皇太子殿下はとても初々しい。
でもね、セイル皇太子殿下。貴方はそんな不埒なことをしないっていうけど、回帰前の貴方はそれを私にしたんだよ?
回帰前のあのとき、私はキスをされた直後に眠気に襲われた。だけど、セイル皇太子殿下は『ようやく』効いてきたと言った。あのキスで睡眠薬を飲まされた訳じゃない。
睡眠薬が入っていたのはたぶん紅茶の方だ。
つまり、キスする必要なんてどこにもなかったってこと。
どうして、あのとき私にキスをしたの? どうして、自分じゃなくて私を回帰させたの? その答えは、もう知ることが出来ない。
……それとも、今回の人生で知ることが出来るのかな? そんなことを考えながら、私はあの日に飲んだのよりずっと渋い紅茶を飲み干した。
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