朝市に射すユウヤケ
長月いずれ
第1話
あの日、もしもあなたが水面に浮かんでいたならば、僕は迷わず飛び込んで、その手を絶対に手放さなかったのに。
国道一号線をまっすぐに北に進むと、突き当りに日本海が広がる。濃いグリーンの海水の色は、まるで空の水色に、黒と黄色の涙の色を少々混ぜ合わせて、油絵具にしたようだ。その絵具でぬりつぶした海は重厚感を感じさせる。溌剌として、太陽光でできた水彩を連想させる沖縄の海の軽やかさとは真逆だと感じる。
そして、僕はこの海を見るときはいつも、優しさを感じる。今日僕は悲しいですと伝えると、落ち込んだ気持ちを砕くように、激しい波飛沫をあげながら、今日あなたは悲しいのですね、と返ってくる。その飛沫をみるときまって僕は、薄氷を粉々に散るところを想像する。
反対に、今日、僕は嬉しいですと伝えると、太陽を反射して水面を煌めかせ、今日あなたは嬉しいのですね、と返ってくる。いつ見ても、深緑は、喜悲に寄り添ってくれる色に見える。
水面(みなも)は風にあおられて凪ぐことを知らず、三百六十五日、二十四時間、港に打ち付け続ける。その港にあるのは砂場ではなく岩だ。ゴツゴツとした岩々は、小さく砕かない限り、重機でも持ち上げることができないほどに大きい。そして、その大きな岩が波に浸食されて、海底へ沈んでいく。雨垂れが石を穿つより早く、だけど、中学の入学祝に買ってもらった通学用の自転車が、錆び切ってしまうよりはゆっくりと、沈んでいくのだ。そんなふうに半島は呼吸していると信じ込んでいた。
夕焼けを背に、スーパーの袋を右手に、朝市にある自宅への家路をのんびりと歩いていた。どこかの家の台所の窓から漂うすき焼きの香りに、よだれが出るような感じがするのを感じながら、今年も平和な正月が来たなと和んだ。これから起こることを何一つ想像せずに、朝から親戚のおじさんと好きなだけ飲んでふわふわとした心の中は正月のお祭りムードで満たされていた。だけど、次の瞬間、感じたことのない揺れを感じた。
緊急地震速報が赤子が泣くように鳴り響いたとき、僕はこの期に及んで軽く考えていた。だけど、事態は最悪の展開をむかえた。
ドラマで見るように膝から崩れ落ちることもなかった。ただ、さっきまでいつも通りだった朝市が真夏の炎天とも取れるような激しい炎に包まれていた。それは、空襲を受けずにそのまま残った、木造家屋でできた町を容赦なく燃やしていった。
「津波が来るぞ!逃げろ!」
四方からそんな声が聞こえてきて、へえ、津波がくるのか、と思いながら、その言葉の意味を理解することができずにただぼうっとその場に立っていた。
「逃げろ!死ぬぞ!」
(おばあちゃん・・・、聞いた?死ぬってさ)
何も考えられないくせに、おばあちゃんと親戚が燃え盛る朝市の中にいることだけはわかっていた。
そして、おせっかいな誰かのせいで、僕は車に押し込まれて、結局一人で助かってしまった。避難所になっている公民館は新しかった。記憶の中のボロ小屋のような建物は数年前に解体され、代わりにこの建物が三年前に新築されたらしい。
僕は、公民館の端育座りをして、何も手につかないままぼんやりとしていた。真冬の空気はカラリと渇き、埃っぽさも相まって、息を吸うたびにのどを針で刺されているように痛んだ。
息を吸うのにこんなにも痛みが伴ったのは生まれて初めてだった。
二日間は物資も何も届かなかった。そして、三日目になってようやくインスタントの食べ物がちらほらと届くようになった。男手として僕はそれをトラックから公民館の中へひたすらに運び入れた。気づくと日が暮れていて、みんなが中に入った頃にふらりと公民館から外に出た。
弱り目に祟り目で、元日から数日間の天候は年に数回あるかないか、というくらい悪かった。小石のように細かくて固い雪がホースから水を勢いよく噴射するように吹き付けた。海風がそうさせている。
最初は外の空気を吸うだけの気持ちだったが、気持ちが鬱々として、優しい海が見たくて、行くなと言われている朝市を目指し、国道を傘もささずに足早に北上した。
ニ十分ほど歩くと、そこには、あの日夕方に見たのと同じ港があった。津波が来ていろいろと散らかってはいたが、そこにある海は真っ暗のこの時間でも、やっぱり子供のころから馴染んだいつもの海だった。足元にはうっすらと雪が積もっている。そして、海上にも叩きつけるように雪は吹雪いている。
(どうして雪は海の上に降るんだろう。降ったさきから、波にさらわれて、水面にとけて消えてしまう)
感傷的になって、いつもは考えもしないことを思いついた。
そして、自分がこの年になるまで、死について誤解していたことに気づいた。それは、深くて暗い海の底にあるのだと思い込んでいた。
死は人からゆっくりと時間をかけて何かを攫って、少しだけ戻して、やっぱり攫って、を長い時間をかけて繰り返すことでゆっくりと命に終わりに引きずり込んでいくものだと思っていた。だけど、違った。それはいつも、僕が愛する、優しい海の水面にあった。
そう気づいたとき、無意識に半歩後退りをした。
吹雪が僕を左からも右からもあおる。僕はただその吹雪が、水面に叩きつけられるように消えていくのを見つめた。雪は風に急かされて、降っても、降っても、荒ぶる波に飲まれていく。積もることは決してない。その雪はおばあちゃんで、知らない誰かで、明日の自分かもしれない。僕はその場に突っ立ったまま、飽きもせずひたすらその光景を眺めた。寒いはずなのに、ちっとも寒くなくて、なのに指先から少しずつ感覚が消えていく。そして、夜から朝焼けに変わるころ、僕はそっと気を失った。
ユウヤケの夢を見た。
ユウヤケは、僕が生まれる前から幼稚園の頃までうちにいた夕焼け色をした小さめの金魚だ。おじいちゃんがまだ生きていたころに、おばあちゃんと二人で出かけた輪島の花火大会の縁日でとってきたものだったらしい。
おばあちゃんとユウヤケは、特別な関係だった。僕が生まれたときからユウヤケは一匹の金魚をいれるには大きすぎる立方体の水槽を偉そうにおよいでいた。そして、その水槽は部屋の隅にある電話台の上いっぱいにずっしりと陣取り、本来そこにあるはずの電話本体は地べたに追いやられていた。そして、おばあちゃんは電話台のすぐ横においてある、黄ばんでしまった座椅子にいつも座っていた。そこではテレビをみたり、古布でつぎはぎ細工を作っていた。
そして、事あるごとにユウヤケに話しかけた。
「あらあ、糸な、なくなったわ。買(こ)うてこんなん」
「夜、なんにする?冷蔵庫になんもないわ」
「そろそろ水槽掃除せんなんね」
「ほら見てま、悠くんがばあちゃんの顔描いてくれた」
僕はそれを見て、真似をした。
「ユウヤケ、糸買ってきたよ」
「今日カレーやって。三直さんにジャガイモもらってん」
「ユウヤケはずーっとお風呂にはいっとるねえ」
「うまいやろ」
そんなふうに話すと、息が水槽にかかって、水槽が白く曇る。それを見て、おばあちゃんと二人で、「ユウヤケに雲がかかった」といって笑った。
そんな風に過ごしたある日、明け方一人でおしっこに起きると、ユウヤケがぷかん、と水槽の水面(みなも)に浮かんでいた。僕は五歳くらいだったと思う。
それを見てすぐに、ユウヤケが〝しんでしまった〟ことが分かった。「しんだらてんごくへ行く」ということと、死別の悲しみという感情はまだ自分の中でははっきりと結びつかなかった気がする。だけど、なぜか、おばあちゃんが泣き崩れるところが頭に浮かんだ。そして、そんなおばあちゃんを見たくなくて、気づけば僕は水槽に浮かぶユウヤケを鷲掴みにして、廊下を走っていた。そして、その廊下の突き当たりに置いてあるおもちゃ箱の中にあった、元は海苔が入っていた蓋のない黒いカンカンの中にユウヤケの亡骸を入れた。
初めて触るユウヤケの身体は、見た目からは想像できないくらい柔らかかった。いつも大きな水槽の中で偉そうに泳いでいたので雄々しく感じていたけど、実はメスだったのかもしれない。規則正しく並んだ鱗は、夕焼けで染めた白い花びらをばあちゃんが几帳面に縫い合わせてできたようだった。そして、ユウヤケが入った缶をおもちゃ箱の中にもどして、その辺にあったばあちゃんのつぎはぎ細工の材料になるであろう古布を上にのせた。それで僕は満足して、何事もなかったかのように手を洗って、またもとの布団に潜り込んだ。
今思えば、バレバレだったと思う。ユウヤケから滴った水は廊下に点々と落ちていたし、いつもおもちゃ箱の上のほうには戦隊もののロボがいるのに、カンカンが一番上にあるのは不自然極まりないからだ。
「あら、ユウヤケな蝶になったがけ」
おばあちゃんは水槽を見るなり、そう言った。僕は何のことかわからずに、だけど〝しんだことを隠せると思って、話を合わせた。
「朝、おしっこ行ったとき、飛んでったよ」
「へえ、そんなが」
「うん」
おばあちゃんがいつも通り、座椅子に座って、眼鏡をかけて、つぎはぎ細工を始めたのを見て、僕は胸をなでおろした。
「蝶ね、ユウヤケ色の羽やった」
「あらあ、それはきれいやがいね」
「うん、きれいやった」
何となく、そんな話をしながら、ユウヤケがいなくなったこと以外は昨日と同じ今日を過ごした。
当然ながら、おばあちゃんは全部気づいていた。幼稚園から帰ると、庭に咲いている、おばあちゃんが大好きな空色の紫陽花の根本に、砂利がかけられていた。それは水槽の下に敷いてあったものだった。
おばあちゃんは紫陽花を蝶々の花と呼んでいた。花びらの様子が、蝶が翅を休めているように見えるから、だそうだ。もっと言うと、おじいちゃんが初めておばあちゃんにプレゼントした花が紫陽花で、その時に周りを蝶が飛んでいた、というロマンティックな記憶があるらしいことを大人になってから知った。
おもちゃ箱から姿を消していた。僕はそれを見て、おばあちゃんが気づいたことに気づいた。そして、泣いて悲しむおばあちゃんをもう一度想像した。
だけど、三日たっても、一週間たっても、おばあちゃんはちっとも変わらなかった。ユウヤケがいなくなった空の水槽に話しかけない代わりに、よく独り言を言うようになったけど、そんなおばあちゃんの姿は全く悲しく見えなかった。
僕は、しばらく考えたけど、おばあちゃんがどうして平気なのかわからなかった。それどころか、ユウヤケがいなくなって自分のほうこそ悲しくなってきた。
おばあちゃんがユウヤケは蝶になったがけ、と言っていたことと、それにあわせて自分も、蝶になったユウヤケの羽が綺麗だった、といったのも思い出した。
ある日の夜に、おばあちゃんがいつもの座椅子でうたた寝しているところを確認してから、こっそりと、普段は入ることのない、顔を知らないお母さんが昔使っていた、子供部屋に忍び込んだ。そして、その部屋にある小さな本棚の一番下に追いやられた古いこども昆虫図鑑を手に取った。
古くなりすぎたせいで、背表紙の装丁の糊が薄いべっこう飴のようになっていて、ページをめくるたびにパリパリと小さな音を立てた。
僕はその音に構うことなく、夢中でページをめくって、ユウヤケ色の蝶を探した。
【ベニシロチョウ:東南アジア】
その蝶の写真を見つけた瞬間、これだ、と思った。翅に張り巡らされている脈は、やはり
おばあちゃんのつぎはぎ細工のようで、あの日触れた鱗の形によく似ていた。東南アジアは能登のことなんだとなぜだか思いこみ、ユウヤケ色の翅をもつ蝶を探した。
手始めに、おやつの金平糖を庭に置いてみた。蝶が食べに来ないか、家の柱に隠れて観察したけど、蟻だらけになって失敗した。
それからは、毎日、虫取り網を持って、川の中を探してみた。ユウヤケはいつも水の中で気持ちよさそうに泳いでいたから、蝶になっても水辺が好きだと思ったのだ。
「ユウヤケ?どこけ?」
来る日も来る日もユウヤケを探した。もう半分意地みたいになっていた。一人の時は近づいてはいけないと言われている海に探しに行ったりもした。
(ユウヤケの翅がこの海の色だったらきっと飛べない・・・)
ひいては返す波はまるで息をしているようだと、そのときはじめて思った。「君が悲しい気持ちでそこに立っているのを知っているよ」とでも言いたげに、僕の暗くよどんだ気持ちと似たような色をした海。だけど、光を浴びてまぶしく光る。
その翌日、夕焼けの陽がおばあちゃんの座椅子に射すころに不思議になって聞いてしまった。
「ばあちゃん、ずっとユウヤケおらんでさみしない?」
能登はいない、という昨日の昆虫図鑑の記載が、僕にとってユウヤケの不在を決定的にした。
「すこしさみしいけど、そんなにかなしないわ」
「だいじじゃなかったん?」
「大事やったよ。大事やったけど、ユウヤケもばあちゃんのこと大事やったからね」
「どういうこと?」
「蝶になったってことや」
「でも・・・、能登におらんよ」
おばあちゃんはすこし困ったような顔をしながら、そう尋ねる僕の頭を実った稲を撫でるように撫でた。そのとき、ユウヤケが死んでから、いつのまにか季節が移ろっていたことに気づいた。おばあちゃんは僕にそういうことをごく自然と教えてくれた。
そして、その日から僕はユウヤケを探さなくなった。幼稚園でお友達と雪で遊んだり、卒業おゆうぎの発表会の準備をするうちに、少しずつ、少しずつ、ユウヤケのことを思い出さなくなった。
「川田さん」
初老の男性が僕を呼ぶ声がして、僕は目を覚ました。目だけでそちらを見ると、その人は白衣を着て、僕のことを覗き込んでいた。あたりを見回すと、公民館の救護室の様だった。
「あの、すいません」
自分が海へ行ったことを思い出して謝った。
「いや、大丈夫か心配になったんです。目を覚まさないから。港で倒れてたところを、消防の人が見つけてくれたみたいですよ」
医師は温厚そうな顔で微笑んだ。港へ行ったことについて詳しく聞く気はありませんと、、顔に書いてあった。僕はその表情を見てみ胸を撫で下ろした。
「そうだったんですね。あ、あの、もう大丈夫です」
救護室は老人でいっぱいで、僕が寝ている場所を必要としている人がいるような気がした。
「いやいや、だめです。もうちょっとここで温かくしていてください」
「あ・・・、はい」
去っていく先生の背中を負いながら、左手に何かを持っているのを感じた。触り心地に心当たりはなくて、だるい腕をのろのろと動かしてそれを目の前に持ってくると、僕は砂時計を握っていた。掌に納まる大きさの、くびれた薄いガラスを木で挟んだ、安っぽいものだった。
(どこでこんなものを・・・?)
砂時計のガラスは親指に思い切り力を入れれば簡単に割れそうだ。その中には様々な色の砂が入っている。鮮やかな青、濃紺、黒、朱赤、黄色・・・・。
僕は、それを何となくひっくり返した。すると、音もなく、砂は下に落ちる。
(あ・・・、雪)
溶けない雪。
そのとき、なぜか海に降る雪を思い出した。そして、それから僕が砂時計に夢中になるまで時間はかからなかった。
揺れた日から数日たって、おばあちゃんの遺体の骨すら見つからないと告げられたとき、それからまた数日たって朝市は金沢で臨時開催すると聞いたとき、どこかの有名人が「前を向いて頑張りましょう」と無神経な言葉をかけてくるとき、そろそろ帰ってこいと会社から連絡があったとき、僕は砂時計をひっくり返した。
鮮やかな青、濃紺、黒、朱赤、黄色。無数の砂が、音もなく下に落ち、落ちた分ときっちり同じだけ、積もる。
金沢に帰ってからは、本当に何事もなかったかのような日々が待っていた。能登から家に帰って自宅のドアを開けたとき、家の中に家財が散らかっていると予想していた。だけど、実際は机の上のコップひとつ割れていなかった。それを見て、本当に地続きの土地なのかと思ったくらいだった。
その時また、僕は砂時計をひっくり返した。
それから、僕は砂時計をズボンの左ポケットに入れて肌身離さず持ち歩くようになった。
家にいるときは机の上の同じ場所に砂時計を置いて、おばあちゃんがユウヤケにしたようにに近くに椅子を置いて、四六時中話しかけた。
そんな自分を、周りは気の毒なものを見るような目で見た。その視線が僕をもっと砂時計に夢中にさせた。そんな姿を誰にも見られたくなくて、後ろめたかった。
だけど、そうせずにはいられなくて、カーテンを閉め切り、友人からの誘いを断り、一人で部屋にこもって砂時計をひっくり返した。
「ああ、もしもし、川田さんですか。こちら、輪島市役所の・・・」
突然知らない番号から電話がかかってきて、不審に思いながら応じると、輪島市役所からだった。罹災証明書の記載に不備があったという報せで、忙しければ郵送で構わないと言われた。
だけど、なぜか郵送で済ませたくなくて、すぐに行きます、とだけ返事をして、上司に午後と翌日の有給を申請した。事情が事情だけに止める理由もなかったのか、有給申請はその場で即、許可された。
職場から徒歩で5分ほど歩くと、金沢駅がある。シンボルになっている鼓門も、毎日みていればただの柱でしかない。そう思ってまた僕は砂時計をひっくり返した。
金沢駅から出ている臨時バスに乗った。バスは修繕を終えたばかりの、のと里山街道をひたすら北上した。その間、僕はずっと海を眺めていた。その水面に死が浮かんでいることを知ってもなお、愛おしい僕の海。そう思うと、心を波が縁取るのを感じた。
そのとき、僕は四六時中左手に握りしめたまま手放せなくなってしまった砂時計をまたひっくり返した。
市役所前でバスを降りなければいけなかったのに、僕は降りられなかった。どうしても朝市に行きたくて、夢中で砂時計をひっくり返すうちに乗り過ごし、朝市の焼け跡に着いていた。
黒こげになった実家の前まで来てそこにしゃがむと、家の一部だった炭のような木を何となく人差し指でなぞった。そして、僕たちの家は燃えたんだってさ、とおばあちゃんに心の中で話しかけた。
「あれ?」
木と木の間に蓋のない小さな缶が落ちているのを見つけて手を伸ばした。手の中に納まったのは、ところどころ焼けているが確かに記憶の中にある缶だった。
「この缶・・・」
それは、あの日ユウヤケを詰め込んだ黒い缶だった。ユウヤケと一緒に埋めたとばかり思っていたが、どこかにしまってあったのだろうか。それは、年月を経たあとに燃えて酸化が進んでいた。
かつては子供の握力ではへこませることすらできないほど硬かったのに、今はガラスよりも脆い。そう思うと、今すぐに砂時計をひっくり返したいという欲が湧いて、慌てて左のポケットに手を突っ込み取り出すと、それと同時に地面が大きく揺れた。
〝パリン・・・!〟
左手に持っていた砂時計は消えていて、右手に持っていた缶は壊れていた。そして、古布のように重なって壊れた缶の屑から青色の羽の蝶が一匹、花が咲くように舞出てきた。
そして、僕の目の前を舞う蝶の、羽の色は少しずつ変わっていく。
鮮やかな青、濃紺、濃紺、黒、朱赤、黄色・・・、鮮やかな青、青、濃紺、黒、朱赤、黄色・・・、鮮やかな青、濃紺、黒、黒、朱赤、黄色・・・・一定に見えて微妙に違うリズムを刻みながら、似たようで違う色に変わり、また青色に戻る。
それを見たとき、田んぼの用水路をせき止めている数十か所の水口栓を一気に解放したように、僕の中に一気に何かが流れ込んだ。
そして、僕は無我夢中でその蝶を追いかけた。
鮮やかな青、濃紺、黒、朱赤、黄色・・・、鮮やかな青、濃紺、黒、朱赤、黄色・・・、鮮やかな青、濃紺、黒、朱赤、黄色・・・・朱赤、朱赤、朱赤、夕焼け。青空、夕焼け、夜空、宵闇、朝焼け、青空、夕焼け、夜空、宵闇、朝焼け、青空、夕焼け、夕焼け、夕焼け。
「頼む、行かないでくれ・・・!」
蝶はひらひらと僕の家だった場所の周りをひらひらと鱗粉とも砂ともつかない何かをふりまきながら自由に飛んだ。
そして、家の裏にそっと咲いている小さな青い紫陽花の花に止まると、花びらと花びらの間に溶けた。
「この花・・・」
生きていた頃のおばあちゃんが植えた、青い紫陽花だった。
それまでずっと、泣きたくても泣けなかったのに、それを見た瞬間、涙があとからあとからと流れた。そして、まるで赤子が泣くように声をあげながらその場に蹲った。
おばあちゃんはもういない。思い出も何もかも燃えた。だけど、それでも、命を繋ぐことを紫陽花が形を変えて教えてくれたような気がした。そして、ふいに「ユウヤケのおばあちゃんのこと大事やったからね」という言葉を思い出した。
「おばあちゃんも僕のこと大事だったよね」
果てしなく遠くにあるようで、庭に咲く花のように近い。そこまでは遠くには行っていないから、あまり悲しみすぎなくてもいい。ユウヤケの死を前にしたおばあちゃんの悠然とした態度を説明するには、そんな言葉がふさわしい。
僕は、紫陽花の根本にそっと砂時計に入っていたであろう色とりどりの砂のをかけた。すると、空が灰色に変わり、季節を繋ぐための長くて弱い雨が降り始めた。
大好きなあなたに、また出会うために。
朝市に射すユウヤケ 長月いずれ @natsuki0902
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