沼法師
葉(休止中)
第1話
逃げなさい。
炎に巻かれた母親を置いて、りゅうは夜通し夜の山を駆け抜けた。
走って走って、とうとう足が上がらなくなった。
ぜいぜいと激しく肩で息をし、ぐったりと座り込む。もう、足が動かない。棒のようだ……。
うなだれたりゅうの目に、月光が差し込んだ。
枝葉の奥が、きらきらと輝く。ざざ……と、山奥なのに波の音が聞こえる。
引き寄せられるように近づくと、煌めくものは水面にうつる三日月で、視界いっぱいに大きな沼が広がっていた。岸辺には、笠を被った人影があった。
りゅうは影に向かって駆けた。黒髪がうねる。見知らぬ他人か、酔狂な侍か、一かばちだ。
「そこのお方!水、水を一杯、恵んでください……!」
声を張り上げた。足は重く、石でもくくりつけているようだった。人影にたどり着く前に、りゅうは砂に膝をついた。
……せめて一口水を飲みたかった……。
りゅうの視界はまっくらになり、気を失った。
「……ん?」
りゅうは目を開けた。朝日が目に痛い。
がばりと跳ね起きた。とたんにずきりと足首が痛む。見ると、真っ赤に腫れた足に、包帯が巻いてある。
周りを見ると、白い砂の岸辺からいっぱいに、沼が広がっていた。
「どこだここ……」
沼のはるか遠くに、ごま粒のような舟が見える。高台には、人家がいくつか立っていた。
呆然と見回していると、視界のはしに黒いものが写った。驚いて振り向くと、黒い法衣と笠を深く被った男が、岩に腰かけていた。
さっきまで誰もいなかったのに、いったいいつ岩に登ったのか?
りゅうは混乱したが、とにかく敵ではないと法師に話しかける。
「すんません、おら佐原さまの領地の者で、村の近くで合戦がおきて、ここまで逃げてきたんです、決して怪しい者では……」
あわただしく説明したりゅうの背後を、法師は指差した。
「え?」
背後は森だ。その奥に、水音が聞こえる。
(――沢だ!)
りゅうはよろよろとかけだすと、血眼で沢を探した。砂の上を、透き通った清水が流れている。思わず顔ごと突っ込んで、水をがぶ飲みした。
ごくごくと喉をならして思う存分飲み、ようやく顔をあげる。
(しまった!法師さまにお礼を言うのを忘れていた!)
慌てて後ろを振り返ると、岩の上には影も形も無くなっていた。
「え、ええ…?」
りゅうはさらに困惑した。今そこにいた人間が消えている。
りゅうは悩んだ末、考えることを放棄した。
乾いた土の上を探し、手当たり次第に枝をおって、身体の下にしく。
それからりゅうは眠り続けた。
――返せ。
激しい頭の痛みと、遠退く意識に抗い手を伸ばす。
身体は宙に浮き、水に落ちた。
返せ。それは、大事な――
「はっ」
目が覚めた。
朝日が水面を反射して、とても眩しい。
「……夢?」
頭がひどく重い。なんだろうか、霞がかかったようでうまく思い出せない。
ぐうぐうと腹がなった。そういえば、逃げてからなにも食べていない。
りゅうはきょろきょろと周りを見渡した。森のなかに入り、手頃な枝を折り、生い茂る蔓を引きちぎると、枝に蔓を巻き付け先から垂らす。
簡単な釣竿のできあがりだ。
今が夏でよかったと、りゅうはしみじみ思った。
木を石に叩きつけ、割った欠片を手に適当に土を掘り返す。みみずを捕まえて木の欠片を指し、蔓でがんじがらめに縛ると、ぽいっと沼に蔓を垂らす。
こんなものでかかるわけがないが、気休めだ。
白浜に座り、せりの葉を噛んでいると、竿先が沈んだ。ぐっと竿を引き上げると、小降りのふなが掛かっていた。
「まさか掛かるとはおもわなかった…」
そのあとも、面白いほどふなやこいがかかり、なんだか不気味になって釣りは切り上げた。
りゅうは目を白黒させながら火を起こして焼いて食べた。普段なら泥抜きをするが、今は出来ない。泥臭いが、食べれるだけましだ。
腹を満たしたりゅうは木陰に引っ込み、横たわった。足はまだ晴れている。動けそうにない。じっと水面を眺めるうちに、りゅうはうとうとと眠りに落ちていった。
――夜具をかぶって床につく。すると、突然頭の後ろに強烈な痛みが弾けた。
視界が霞む。懐がまさぐられ、石が抜き取られた。
身体は引きずられ、水辺に放り込まれる。
息苦しさに手を伸ばした。
返せ。それは、大事な一族の――
「うわっ!」
りゅうは跳ね起きた。心臓がどくどくと早まり、じんわりと背中に汗をかいている。
「生々しい…夢…?」
どっと疲れが襲い、りゅうは寝床から抜き出して、沢の水を飲みに行った。
ふとふりかえると、今宵も美しい半月が昇っている。涼しい風に、りゅうは少しだけ浜を歩いた。
岩場に近づくと、やや離れたところに、石を積んだ塚らしきものがあった。その足元には、お供え物…握り飯が置いてある。
ぐうと激しく主張する腹の虫に、りゅうは抵抗した。ほかに食べる魚があるのに、お供え物に手を出してはいけない。
塚から目を離すと、いつのまにか、岩の上には、法師の影があった。
りゅうは嬉しくなって、ひょこりと足を引きずりながら法師のもとに歩いていく。
「おーい、法師さま、法師さま!」
りゅうの声に、法師は無反応だ。
岩の下にたどり着くと、りゅうは息を切らして話しかけた。
「あの、法師さま。沢の水を教えてくださり、ありがとうございました。手当てをしてくれたのも、法師さまでしょう?」
法師はまるで空気のようにじっとそこを動かなかった。
「法師さまは、どうしてここにおられるのですか」
法師は答えない。まばたきもせずに、じっと前を見据えている。
「法師さま、ここがどの国かご存知ですか?」
りゅうは法師の顔をのぞきこんだ。笠の影になっている目鼻立ちは、なぜか暗くおぼろげでよく見えない。
だんまりの法師に、りゅうは今は話したくないのだと口を閉じた。
「法師さま、おらは戻ります。先日は、本当にありがとうございました」
「南田」
「えっ」
法師は唐突に話した。
「南田の領地」
「……」
南田領とは、佐原の国の隣だ。
りゅうはぱっと顔を輝かせた。
「あ、ありがとう法師さま!おやすみなさい!」
隣の領地。山の上に大きな沼があって、ほとりにはひとつの集落がある。ならば、ここから西に向かって二つ山を越えたら、りゅうのいた村につける。
りゅうは浮わついた気持ちで床についた。
――岩田の領地から佐原に入る。
細い谷地を抜けると、目の前に大きな沼が現れた。
高台に集落があり、周辺の田畑の土は乾き、作物の葉は枯れている。
村の長から、雨乞いの祈祷を頼まれた。日照りで大変だというのに食事を振る舞ってくれた。恩に報いても龍玉は咎めまい。
一人で沼のほとりに立った。懐から玉を取り出し、念を込める。
すると、雲があつまり、ぽつぽつと雨が降り出した。
夜具をかぶって床につく。すると、突然頭の後ろに強烈な痛みが弾けた。
視界が霞む。懐がまさぐられ、石が抜き取られた。
身体は引きずられ、水辺に放り込まれる。
息苦しさに手を伸ばした。
返せ。それは、大事な一族の宝、雨を降らす龍の――
「んん……」
りゅうは目を覚ました。全身汗びっしょりだ。
なんだか、前よりも夢がはっきりしている。夢の中の人は、男だ。水辺に沈む息苦しさもはっきりと思い出せる。
……水をのもう。
りゅうはふらふらと立ち上がると、夕暮れの森を歩く。すると、浜辺に法師が立っていた。
夕日をあびて、ぼんやりと揺らめく姿に、りゅうはほんの少し、足を止めた。
法師は手招きをした。こんなに暗いのにりゅうの居場所が見えるのか。
りゅうは躊躇したあと、森から飛び出した。
「今晩は、法師さま。どうなすったんですか?」
法師のもとに歩みよったりゅうは、差し出された手に乗ったものに、口のなかによだれがわき出た。
「……あの、これ…」
りゅうは困惑した。握り飯だった。大降りな笹の葉に、二つ乗っている。
「食べていい」
「…ありがとうございますっ」
りゅうは恐る恐る握り飯に手を伸ばすと、ゆっくり口にいれた。食べなれた味に、舌が悦んでいる。あまりにひさしぶりすぎて、涙が出てきた。りゅうは涙を拳でぬぐうと、残りのひとつを法師に差し出した。
「法師さま、残りのひとつは法師さまが食べてください」
「食べる……」
「はい!おら一人だけ食べたら、法師さまに申し訳ないです」
法師は差し出された握り飯を受けとると、口に運ぶ。握り飯を食べおわるのを見計らって、りゅうは話しかけた。
「法師さま、お名前はなんとおっしゃるのです?おらは、りゅうといいます」
「りゅう」
はい、と返事をしたりゅうを、法師は見返す。その目のいろは薄い。お顔は皺もなく若そうなのに、短く刈った髪は灰色だ。
「鳴海」
「法師さまのお名前ですか!鳴海法師さま!」
りゅうはにこにこと笑って法師の名前を繰り返し呼んだ。
「法師さまは、どうしてここにいらっしゃるのです?」
「……」
「修行中ですか?」
法師はゆらゆらと目を動かしたあと、頷いた。
「海から、山に向かって、歩いてきた……」
「そうなんですか。おらは、海に行ったことがないのです」
その後は、他愛もない話を続けた。法師は、問われるがままに答えたが、りゅうは笑って、どんな話でも目を輝かせて聞き入った。
――返せ!それは一族の大事な宝!どうして父母も甥姪も殺してしまったのですか、叔父上――
「いやあっ!!!」
とうとう、悲鳴をあげてりゅうは飛び起きた。
全身冷や汗で震えている。指先が冷たい。今のは誰だろう、とても怒っていた…。
りゅうは足を動かした。腫れはさっぱり引き、軽く歩いても問題ない。
「帰れる……」
りゅうは決めた。明日には沼を立とう。変な夢を見るのも、恐怖が見せたに違いない。
父母の無事を確認しなければ。もう五日もたっている。合戦の物取りなら、侍どもは今ごろは引き上げて、村のみんなは戻っている頃だ。
法師と別れるのは寂しいが、また山を越えたら会いに行けるのだ。
この数日間、法師との語らいに案外安らぎを得ていたと、りゅうは初めて気づき、寂しさが募った。
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