滴れ、首。

大塚

第1話

 首が落ちてくる、と恩田おんだ夕紀ゆうきは言った。


 恩田は市岡いちおかヒサシの大学時代の同期である。ヒサシは大学を卒業することなく、中退でもなく、除籍という形で学校を去ったので、恩田からの数年ぶりの連絡に思わず小首を傾げた。人付き合いは悪い方ではなかった。だが、殊更仲が良い人間が多いわけでもなかった。大学の性質からしても除籍者がさほど多くない校内から突如現れた除籍人間を同期会やその他の飲み会に誘ってくる者は多くなかった。ヒサシは人付き合いが悪くない反面極度の面倒臭がりだったので、スマートフォンのアドレス帳を生まれてから一度も整理したことがない。だから、「恩田だけど、覚えてる?」というSMSにも大して驚かず「えー久しぶりじゃん、まだロン毛?」と返信したのだった。


 新宿歌舞伎町にある喫茶店で、恩田とヒサシは顔を合わせた。恩田はもうロン毛ではなかった。長くも短くもない髪をきちんと整え、この暑いのにかっちりとしたスーツ姿の彼は、今は官公庁で働いているのだという。仕事の内容は、詳しく聞かなかった。興味がないからだ。それよりも、先に。


「首? どっから」

「……市岡おまえ、変わってないな」

「は? 何? 首の話がしたいんじゃなかったの?」


 カウンター席に並んで座り、恩田はブレンドを、ヒサシはオレンジジュースを飲みながら言葉を交わす。この喫茶店のマスターは尋常でなく口が堅い。外に出したくない話をするならば自宅で会話をするよりもこの店──純喫茶カズイを訪ねた方が間違いがない。

 ああ、と小さく呻いて恩田がお手拭きで顔を拭う。おじさんの仕草だな、とヒサシは思う。ヒサシは黒髪を肩甲骨の辺りまで伸ばしているが、今は暑いのでくるりんぱで適当に纏めている。右の二の腕から手首までは懇意にしている彫り師に頼んで鮮やかな和彫を、左の二の腕から手首までは友人と呼べる距離感のタトゥーアーティストに依頼してモノクロの絵柄を刻み、左手の中指と右手の薬指には彫り物とはまるで違うシンプルなプラチナのリングを嵌めている。

 大学生の頃は、服で隠れる部分にしか絵を入れていなかった。だから恩田の言う、「変わってない」はほんの少しだけ間違いだ。


「市岡……おまえさ、幽霊、見えるんだよな?」

「うーん?」


 腕組みをし、ヒサシは小首を傾げる。そういう案件か。であれば自分の出番ではない。幽霊、怨霊、地縛霊。ヒサシにはそういったものは見えない。生前人間であったものに、ヒサシは縁がない。

 見えるのは。

 神だ。


「うーん……俺そんな話したかなぁ?」

「しただろ。まあ昔のことだから俺もそんな詳しくは……でもほら、行ったじゃないか、二回生の時。ゼミのみんなでさ、夏休み、肝試し」

「行ったわねぇ」

「あの時女子が結構ビビってて……でも市岡がしれっとしてるからなんとか……」

「その辺りの細かいことは覚えてねえなあ」


 飴色のカウンターの上を大きな手で探り、放り出していた煙草の箱を手に取る。紙巻きを取り出して火を点けるヒサシに、「変わってない」と恩田は繰り返した。


「俺はもう禁煙した」

「まあいい年だからねぇ」

「吸える店も少ないし」

「それで首はどこから落ちてくるの?」


 恩田がくちびるを噛んで肩を竦める。話を持ちかけてきたのはおまえだろう、とヒサシは思い、紫煙を吐く。


 恩田夕紀には婚約者がいた。遠距離恋愛だったがきっちり三年間交際し、双方の両親との顔合わせ、更には先方の希望で結納まで済ませ、今年式を挙げる予定だった。

 その婚約者が、自死した。


「なんで?」


 紫煙で輪を作りながらヒサシは尋ねる。恩田の顔色は良くない。だが気にしない。恩田は生きている。まだ生きている。だったら、落ちてくる首は死んだ人間のそれだろう。


「首を……首で盃を」

「あ? 織田信長?」

「そういう風習の家だったんだ、彼女の、実家が」


 ヒサシの脳内には今、完全に織田信長の肖像画しか浮かんでいない。恩田の婚約者の両親は織田信長と濃姫ということになっている──もっともふたりのあいだには子どもはいなかったという説が有力だが──


 恩田は続ける。結納の日に交わした固めの盃。その際使用された盃がどうにも異様だったと、結婚式の一ヶ月前に恩田の母親が言い出したのだという。見たこともない盃。


「こういうんじゃないの?」


 と、ヒサシは自身のスマートフォンを恩田の前に突き出す。液晶画面には『結納 盃』で検索した画像が映し出されている。結納用の盃は、今時通販でも買うことができる。


「平たいやつ。俺結納したことないから知らないけど、終わったら持って帰るんでしょ?」

「そう、そうなんだけど……」


 恩田は忙しなく頷き、それからスーツのふところに手を突っ込んでスマートフォンを取り出し、


「これ……」

「うお! 織田信長だ!!」


 大声を上げたヒサシに「大人しくしなさい」とカウンター内で洗い物をしていた七〇絡みのマスターがくちびるの前に人差し指を立てて注意する。恩田は震えている。

 恩田のスマートフォンの画面には、頭蓋骨を金色の塗料で塗りたくったようにしか見えない、盃なのかどうかすら判然としない代物が表示されている。


「めちゃくちゃ頭蓋骨じゃん! 逆に結納の日誰も気付かなかったのすごくねえ!?」

「父さんもそう言ってた。母さんが言い出して、しまい込んでた盃……っていうか頭蓋骨を見て、俺も、父さんもやっとおかしいって思ったっていうか……」

「で婚約破棄したんだ?」


 恩田の肩が大きく跳ねる。ヒサシは三本目の煙草に火を点ける。

 だって、と恩田は唸る。


「おかしいだろ!? そ、もそも、今時、結納をしたいとか言い出すのも変だし……ほんとはそこで気が付くべきだったのかもしれないけど……!」

「結納をするしないは個人の希望だから変とか言うのはどうかと思うけどねぇ。でも頭蓋骨で盃作るのはちょっと変わってるかな……」


 恩田一家は弁護士を立て、先方に婚約破棄を言い渡した。慰謝料も払った。髑髏盃も返却しようとしたが、宅急便で送り出したそれは宛先不明で戻ってきてしまった──という。

 元婚約者が自死したという連絡が弁護士経由で入ったのは、婚約破棄から一週間が経った頃だった。


「どうやって死んだの?」

「ノンデリ……」

「俺分かるよ。電車に飛び込むとか高所飛び降りとか樹海じゃなくて、家で首吊ったんでしょ。頭蓋骨は無事じゃなきゃいけないからね」


 恩田が息を呑む。ヒサシは彼の手からスマートフォンを奪い取り、どこかピントの合っていない髑髏盃の写真をじっと見詰める。

 幽霊、怨霊、地縛霊。

 どれも違う。


「なんで即婚約破棄にしちゃったかな〜? その家には家のしきたりとかー、話し合えば分かる部分も合ったかもしれないのにさ〜?」

「おまえ……!! 独身でフラフラしてるおまえには分からないだろうけど、俺は長男だし、ひとりっ子なんだよ! ちゃんとした女と結婚して、親を安心させなきゃなんないんだからな!!」


 激昂して立ち上がる恩田の左肩に右の手首を置き、真っ直ぐに指を差す。


 ゴトン。


 音がした。

 首が落ちている。


 若い女の首だ。恩田の元婚約者で間違いないだろう。


 ゴトン、という音は恩田にも聞こえたらしい。顔面蒼白になった恩田が、ガタガタと体を震わせている。

 喫茶店の床に落ちた首が、ヒサシを見上げている。目が合う。微笑んでいる。


「たとえばぁ、昔々はぁ、処女に過剰な価値を見出している部分があったじゃないですかこの国にはぁ」


 女の目をじっと見つめながら、ヒサシは言う。


「まあ今でもそういうちょっとキモい部分がこの国にはあって……それはそれとして、恩田、おまえの婚約者さんとその一族は、嘗て処女にこだわる文化があったみたいな感性でをおまえにくれたんだよね。それがこの、盃」


 スマートフォンの画面を空いている左手でタップする。画面はブラックアウトしたまま、何の反応も示さない。


 ゴトン。


 また音がする。

 ふたつ目の首が落ちてきた。


「処女崇拝は俺にしてみればキモいけど、他人の信仰や大切にしているものを馬鹿にするのは良くないとも思う。髑髏盃も同じね。相手のお嬢さんに非があったとしたら……先に説明しなかったことかなぁ。一族の中でもっとも神に近い人間の頭蓋骨を盃にして、嫁入りする娘にお守りとして持たせるっていう約束事があるって……でもまあ」


 ゴトン。

 ゴトン。

 ゴトン。


「おまえのこと信頼してたから、結婚してから伝えようと思ってた可能性もあるね? 見る目がなかったのかなぁ。気の毒です」


 ゴトン。


「お──」


 俺は、どうしたらいい。縋るような恩田の台詞に、ヒサシは口の端を僅かに歪めて見せる。


「できることなんてもうないよ。だってこの写真の髑髏盃捨てちゃったんでしょ? 燃えるゴミの日に。ちゃんとした手順を踏んで返却とかしてればまあまあなんとかできたかもしれんけど、そうねえ……」


 床を、無数の生首が埋め尽くしている。これが今の恩田が普段見ている光景か。なるほど気分の良いものではないが。


「元婚約者さんの家に行って、の髑髏盃を捨てたことを陳謝した上で元婚約者さんの髑髏盃を引き取ってくる──ぐらいしか思い付かんなぁ」

「できるはずないだろ!!」


 まだそんな大声が出せたのかと驚くような響きで、恩田が怒鳴った。


「俺は、俺、には、今、結婚を前提に──」


『浮気者』


 凛と響いた声は、恩田のものでも、ヒサシのものでも、もちろんカウンター内で文庫本を開いているマスターのものでもない。


 恩田夕紀はコーヒー代も払わずに喫茶店を飛び出して行った。ヒサシはため息を吐き、アイスコーヒーを注文する。

 首はもう、ひとつもない。


「いいのか?」


 マスターが尋ねる。ヒサシは笑う。


「首降らせるぐらいで許してくれてる優しいお嬢さんみたいだし、放っておいても憑り殺されたりはしないでしょ」

「そんなもんかね」

「そんなもんです。……あ〜! 相談料取るの忘れた!」

「おまえさん、相談料取るような身分か? ヒサシ」

「いや〜、俺的にあんまり気分のいい話じゃなかったのでぇ……」


 新しい煙草に火を点けながら、ヒサシは眉を下げる。

 と、その瞬間。


 ゴトン。


「あらら……?」


 振り返ると、床の上には恩田夕紀の、首。

 大きく瞬きをしたヒサシは、


「ダメだったっぽいね」


 と呟き、いかにも無念といった様子で瞼を震わせる恩田の首に向けて煙を吐いた。


 おしまい。

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