世にも優しいショートショート
西季幽司
【ショートショート】優しい話
一秒でできること
その能力に気がついたのは、小学生の時だった。
理科だったか、音楽だったか、退屈な授業だった。授業に集中できずに、僕はノートに落書きをしていた。やがて、それにも飽きて、ぼんやりと教室をながめていた。何気なく、右手を宙に浮かして掌を広げ、(止まれ!)と念じてみた。
すると、時間が止まった。
時間が止まったと言っても一瞬だ。ほんの一瞬、周りの景色が静止して見え、先生の声が消えた。
(まさか⁉ 時間が止まったの?)と思って、もう一度、念じてみたが、何も起きなかった。
その時は単なる気のせいだと思った。
数日後、何の授業だったか忘れたが、ふと思い出して、もう一度、時間を止めてみた。
(止まれ!)と念を込めると、また時間が止まった――ような気がした。
(僕には時間を止める能力があるみたいだ!)嬉しくなった。
また何度かやってみたが、時間が止まったように感じたのは、最初の一度だけだった。
(そうか! 一度、この能力を使うと、暫く使えないのかもしれない。きっと、一度に大量のエネルギーを消費してしまうので、回復するのに時間がかかるんだ)まあ、そんな感じのことを、子供心に考えた。
翌日もやってみた。
やはり最初の一回は時間が止まった――ような気がした。周りの景色が静止して見えるし、一瞬だが、音が消えて静寂の世界が訪れる。
周りが静止している間、僕だけは動くことができた。だが、一瞬のことだ。時計まで止まってしまうので、どれくらい時間が止まっているのか分からなかった。体感だと、時間が止まっているのは、せいぜい一秒ほどだろう――そう感じだ。
能力と使うことができる間隔も分かって来た。一度、能力を使うと、二十四時間はその能力を使うことができなくなる。
一日に一回、一秒だけ、時間を止めることができるのだ。
――凄いぞ。誰にも出来ないことが、僕には出来るんだ!
僕は興奮した。世界の支配者になった気がした。(だが、ひょっとして、誰でも一日一秒は時間を止めることができる能力があるのかもしれない)ふと、そう思った。子供だから知らないだけだ。そんな気がした。
友だちに聞いてみた。笑われた。やっと見せろと言うので、時間を止めて見せたが、当たり前だが、友だちの時間は止まらない。僕の時間が止まるだけだ。止まった時間の中で、動くことが出来るのは僕だけだ。
友だちは僕が時間を止めたことが分からなかった。
「ダメじゃん!もう一度、やってみろよ~」と言われたが、一度、能力を使うと、二十四時間は使えなくなる。そのことを説明すると、僕は嘘つきだと言われるようになった。
友だちに聞くことはあきらめた。
両親に尋ねてみた。「馬鹿なこと言ってないで、勉強しなさい!」母親から怒られた。相手にしてもらえなかった。
だが、何となく分かって来た。この能力は僕だけに授けられた特殊な能力なのだということが。
(一秒でできることって何だろう?)
僕は考えた。
(止まれ!)と時間を止めて行動を起こすと、停まった時間の中で行動していられる時間は一秒間、一歩、動くことができるかどうか微妙なところだ。この一歩をどう使うか、僕は知恵を絞った。
当時、放課後、校庭で野球をして遊んでいた。僕は運動が苦手だった。九番でライトが僕の指定席だった。格好をつけたくて、この能力を使ってみることにした。
打席でボールが来た時に、時間を止めて、止まった球を叩けば良い。これなら、僕にでも、ホームランが打てる!――と思った。
だが、ダメだった。上手くボールを止めることができないし、ボールを止めることができても、バットに当たらないのだ。返ってタイミングを取るのが難しくなった。いつも通り空振りしてしまっただけだった。これじゃあ、ダメだ。
野球で能力を使うことはあきらめた。
やがて、面白いことを思いついた。
夏、連日のように市営プールに泳ぎに行っていた。飛び込み禁止となっていたが、監視員の眼を盗んで、助走をつけてプールサイドを走り、プールに飛び込む。空中に舞い上がった一瞬、時間を止めるのだ。
重力から解放され、中空で静止することができた。まるで鳥のように、空を飛ぶ感覚を楽しんだ。だが、それだけだった。夏の終わりと共に、その遊びにも飽きてしまった。
僕の家は団地にあった。同じ団地に愛ちゃんという子が住んでいた。
同じクラスの女の子で、同級生の中では可愛い方だった。小学校に上がりたての頃は、同じ団地の子が集まって、集団で登下校をしていた。愛ちゃんもその仲間だった。同じクラスなので、話はするが、特に親しいという関係ではなかった。
秋になって、運動会が開かれた。
運動の苦手な僕は全員参加の徒競走が大嫌いだった。だが、待てよ。僕には、特殊な能力がある。一秒間、時間を止めることができる。時間を止めている間に、僕は先に進むことができるはずだ。
一秒あれば、僕はみんなを抜き去って、一番でゴールできる!――そう思った。
運動会の日がきた。
僕は朝から張り切っていた。(初めて徒競走で一番を取るんだ!)と気合満々だった。一番でゴールテープを切るシーンを頭の中で思い描いて、一人、にやにやしていた。
徒競走が始まった。
一緒に走るのは八人、僕のグループにクラスで一番、足の速い子はいない。(このメンバーなら勝てる!)と僕は思った。
一番でゴールテープを切ると、「一」と番号の書いたステッカーを先生が胸に張ってくれる。ステッカーを見た子は、みな、「あの子が徒競走で一番だったんだ」と思うのだ。憧れのステッカーだ。
僕はスタートラインに並ぶ時も、一番のステッカーを胸に張って歩く、自分の姿を想像していた。
出遅れた。自分が一番でゴールすることばかり考えていたので、パンとピストルが鳴った時、駆け出すのが遅くなった。
もともと走るのは早くない。僕は後ろから数えた方が早い位置にいた。
(ここだ。ここで、あの能力を使うんだ!)
僕は右手を突き出して、(止まれ!)と念じた。時間が止まった。周りの景色が止まって見えた。一秒だ。僕は懸命に足を動かした。あっという間だった。直ぐに時間が動き出し、僕はどんどん遅れていった。
六着だった。僕同様、走るのが苦手な子、二人には勝つことができた。だけど、一秒程度、時間を止めただけでは、一着の子は勿論、前を走っていた子との差さえ、詰められなかった。
一秒程度では、僕の足の遅さをカバーすることができなかったのだ。
徒競走が終わって、紅組に戻る途中、「ねえ」と愛ちゃんに声をかけられた。「あっくん、走っている時、凄かったね」
僕は「アツシ」という名なので、友だちから「あっくん」と呼ばれていた。もしかして、僕が一瞬、時間を止めたのが分かったのかと思い、愛ちゃんに「凄かったって、どんな風に?」と尋ねてみた。
「うん、あのね~」と上手く説明できない様子だったが、愛ちゃんには僕が瞬間移動をしたように見えたと言う。
愛ちゃんは見たのだ。僕が時間を止めたことを。なんだか嬉しくなった。僕は愛ちゃんに能力の秘密を話してしまった。
「へえ~凄いね」と愛ちゃんは僕の話を聞いて、驚いてくれた。
翌日、僕は愛ちゃんに能力を見せた。
彼女の前で、右手を上げて時間を止めて、そのまま右手を大きく横に動かしたのだ。愛ちゃんの眼には、僕の右手が一瞬で横に動いたように見えたはずだ。
「すっご~い」と彼女は言った。そして、「あっくん。あっくんの凄い力は、私以外、誰にも見せてはダメよ。二人だけの秘密にしましょう」と言われた。
僕は「うん」と頷いた。
二人の間で秘密が出来たことで、急に愛ちゃんのことが気になりだした。授業中も休み時間も、気がつけば愛ちゃんの姿を目で追っていた。
僕の初恋だったのかもしれない。
あれから、能力の話はしていない。愛ちゃんは会えば必ず、「あっくん、おはよう!」、「また明日ね~」と、とびきりの笑顔で挨拶してくれた。
僕は愛ちゃんと話をしたくて、何度も話かけようとしたのだが、恥ずかしてできなかった。愛ちゃんも僕と話をしたそうにしていたように思う。
――僕は愛ちゃんのことが好きなんだ。
と思い始めた時、クラス替えがあって、愛ちゃんとは別のクラスになってしまった。
僕の初恋はみるみる萎んでいった。
中学生になった。
友だちの一人が、ギターを弾いているのを見て、(格好良いな)と憧れた。両親にギターを買ってくれとせがんだ。「これでも若いころはな、音楽を齧ったことがあるんだ」と日頃はケチな父親が気前よくギターを買ってくれた。
僕はギターに夢中になった。
そして、能力のことは忘れてしまった。
仲が良かった友だち三人でバンドを組んだ。バンドを組むと、人前で演奏したくなった。折よく、学校の文化祭が開かれることになっており、体育会で行われる余興の募集があった。恐々、申し込んでみると、申込が少なかったようで、僕らのバンドの演奏が採用となった。
僕らは人前で演奏することになった。
ボーカル一人、ギター、それに音楽教室からコントラバスを借りることができたので、ベースを確保することができた。コントラバスを覚える友だちは苦労したが、僕らは練習に練習を重ねた。そして、ついに文化祭の日がやってきた。
僕らは体育館の舞台に立った。
意外に観客が多かった。文化祭だ。生徒以外のお客さんも当然、来ていた。
舞台に立って客席を見回した瞬間、足が震えた。咄嗟に、僕は(止まれ!)と時間を止めた。一瞬だが、景色が静止し、周りから雑音が消えた。
その一秒間が僕に平静を取り戻させてくれた。
だが、演奏は散々だった。ボーカルを勤めた友だちは音程を外し、コントラバスを引いた友だちは練習の成果を出すことができなかった。僕は予行演習ほど、上手く弾けなかった。
客席から失笑が湧いた。
子供は遠慮がない。「変なの~」と客席から大声を上げた。僕らは散々に打ちのめされ、みじめな思いを抱えて舞台を降りた。
そして、僕はギターを止めた。
高校生になった。
この唯一無二の能力を発揮できるところがなかった。この能力を生かせる場所がないものかと、何度も考えた。だが、何も思いつかなかった。
期末テストで時間が足りない時に使ってみた。(もう少し、時間があれば――)と思ったことが何度もあったが、いざ、能力を使ってみると、止められるのは一秒だけだ。一秒など、ないのと同じだった。
(う~ん。せめて十分、いや、五分でいいから、時間を止められればなあ~)
止める時間が長くできないか、訓練してみたがダメだった。
結局、使い道がなくて、つまらないことに使っていた。授業中、椅子の背にもたれ掛かり、椅子を大きく後ろに傾ける。後ろの二本の足だけで、ひっくり返らないように、微妙なバランスを取る。ほんの一瞬、二本の足で絶妙なバランスが取れる瞬間がある。その一瞬、時間を止めるのだ。
これがなかなか難しい。うまくバランスが取れた時に、時間を止めることができないのだ。
このつまらない遊びに夢中になって、先生から、「お前、何て格好で座っているんだ。ちゃんと座れ!」と怒られ、皆に笑われたことが何度かあった。
この頃、僕はアイドル・グループに夢中になっていた。若くて可愛い女の子が四十人以上集まったグループだ。その中の「かなでちゃん」という女の子が僕のイチオシだった。
僕は思いついた。彼女たちの握手会に参加して、彼女と握手をしている時に時間を止めれば、一秒長く、彼女と手を繋ぐことができる。
僕はそのアイデアに夢中になった。
彼女たちのCDを買って、「握手会参加券」を手に入れた。握手会の会場を調べて、かなでちゃんが参加していることを確認してから会場に向かった。
当日は夢心地で握手会の列に並んでいた。
自分の順番が近づくと、心臓が早鐘のように鳴り始めた。かわいい。実物のかなでちゃんは、テレビやネットで見るよりもかわいかった。
かなでちゃんと握手をした。
夢のような時間だった。夢のような時間が過ぎ去ってから、時間を止めることを忘れていたことに気がついた。緊張のあまり、大事なことを忘れてしまっていた。
自分の迂闊さを呪った。
僕は大学生になった。
大学生になると、友だちと遊び歩くのに夢中になって、能力のことを忘れてしまった。ある日、友だちの家で戯れに、「俺、凄い能力を持っているんだ!」と自慢したことがあった。
「一秒だけど、時間を止めることができるんだ」と言うと、友だちは「やって見せろ!」と言う。
「それじゃあ~やってみせるぞ~」と右手を突き出して掌を広げ、(止まれ!)と念じた。
時間が止まった。一瞬だが、周囲の景色が写真のように固まり、音が消えた。だが、次の瞬間、もとに戻った。
「どうだ?」
「どうだって、何がどうなんだ? 何も起きなかったぞ」と友だちは言う。それはそうだ。友だちは止まった時間の中にいたのだがから、時間が止まったことに気がついていない。そのことを説明したのだが、「もう、いいよ」とそれ以上、相手にしてくれなかった。
別の日、今度は時間が止まった一秒の間に、僕はなるべく動いてみた。瞬間的に移動したように見えるはずだ。だが、人間の眼は動きのブレを補正してしまう。不自然な動きに見えたようだが、(こいつ、頭がおかしいんじゃないか?)と思われただけだった。
以来、能力のことを話題にするのは止めた。
講義の空き時間に、学食の前の芝生に座って、学生たちが歩き回るのを、ぼんやりと眺めるのが好きだった。講義に遅れそうなのか、足早で過ぎ去るやつがいれば、彼女とベタベタしながら腕を組んで歩いているやつもいる。
そんな彼らの一瞬を切り取ることに楽しみを覚えた。
彼らが変な格好やおかしな顔をした時、時間を止めるのだ。そして、彼らを見て、心の中で笑う。いや、あざ笑う。(どうだ、僕はこんなことができるんだ。お前たちとは違う人間なんだ)と彼らを下に見るのだ。
そんな、ひねくれた遊びに熱中していた。
ある時、芝生の前に座っていると、同じゼミの子が走ってきて、目の前でばったり転んだ。それも綺麗に、ひれ伏す格好で滑り込むように転んだのだ。女の子が転ぶ姿なんて、恐らく小学校以来、見たことがなかっただろう。
(これは凄い!)
絶好のチャンスだ。僕は時間を止めて、一秒間、彼女の無様な格好を鑑賞した。
彼女は僕が見ていたことに気がついたようで、服を払いながら立ち上がると、僕を見ずに、「いいのよ。笑って」と言った。
「大丈夫だよ。見ていなかったから。それより、怪我しなかった?」そう、気の利いた言葉をかけてあげれば良かった。だが、僕は「いや、別に――」にぶっきら棒に返事をしただけだった。
彼女は性懲りもなく、学食に向かって駆けて行った。
自分が優しくない人間のような気がした。僕はこの楽しみを封印した。
大学を卒業し、社会人になった。
満員電車に乗って、会社に通うようになった。役に立たないと思っていた能力が役に立った。
駅で、電車のドアの閉まるベルが鳴り響き、駅員が「駆け込み乗車はお止め下さい」とアナウンスをしている時に、能力を使うのだ。アナウンスを尻目に電車に飛び込む時、(止まれ!)と念じると、一秒だけ余裕ができる。
(ああ~間に合わない)という瞬間に、何度かこの能力を使って、電車に乗ることができた。
それだけじゃない。家を出て、一人暮らしを始めたので、自炊をする機会が増えた。一人、テーブルでご飯を食べていると、うっかりテーブルからものを落としてしまう時がある。そんな時に(止まれ!)と念じて時を止めると、床に落ちる前に拾うことができるのだ。
だが、そもそも何か落とした時、(あっ!)と思うだけで、(能力を使って床に落ちる前に拾おう!)と思いつくことが稀だった。大抵は落としてしまってから、(しまった~能力を使えば良かった)と思うだけだ。
落下物の回収に成功したのは、二度か三度、その程度だったと思う。
そんなある日、僕は愛ちゃんと再会した。
愛ちゃんとは小学校と中学校で一緒だったが、小学校でクラスが別になっていから、一度も同じクラスになることがなかった。自然、疎遠になってしまった。愛ちゃん一家は中学を卒業すると、家を買って団地を出て行ってしまった。近所で顔を合わすことすらなくなってしまっていた。
その後、愛ちゃんのことは忘れていた。
近所のパン屋に食パンを買いに行った時、「あっくん」と声をかけられた。声をかけてきた店員さんが愛ちゃんだった。
小学校の頃、冬になるといつも鼻水を垂らしていた同級生の女の子が、見違えるような美人になって町を歩いているのを見て驚いたことがあった。だが、子供の頃に可愛いかった愛ちゃんは、大人になると、目立たない普通の女性になっていた。
時の流れは残酷だ。よくあることだ。
「あっくん、大学に行ったんでしょう。凄いね。私、あんまり勉強が得意じゃなかったから。結局、何をやってもダメで・・・」愛ちゃんは笑顔でそう言った。
笑顔は相変わらず魅力的だった。
中学を出て、女子高に進学し、高校を卒業するとパティシエになりたくて、パン屋で働き始めたそうだ。結局、才能が無かったそうで、パティシエになる夢はあきらめて、今はパン屋の店員として働いているのだと言う。
それから、愛ちゃんに会いたくて、毎日、パン屋に通った。
僕らはデートを重ねるようになった。「好きだ」と告白すると、愛ちゃんが言った。「小学校の頃、私ね、あっくんのことが好きだったの。私の初恋――」
愛ちゃんは僕をずっと見つめていた。だから、徒競走で僕が時間を止めたことに気がついたのだ。
愛ちゃんから、その話を聞いた時、僕はプロポーズを決意した。
僕は愛ちゃんと結婚した。
直ぐに子供が出来た。子育てが始まったと思ったら、二人目だ。慌ただしい毎日が続き、何時しか、能力のことを忘れてしまった。
結婚後も愛ちゃんはパン屋を辞めなかった。共働きだった。愛ちゃんは家事に、子育てに、仕事にと八面六臂の大活躍だった。時たま、愚痴はこぼしたが、何時も、あの素敵な笑顔で「大変なのは今だけよ」と言っていた。
そんな時、愛ちゃんが風邪をこじらせた。肺炎になってしまった。
頑張り過ぎたのだ。病状は日増しに悪化し、一時期、意識不明の重態となった。
僕は毎日のように病室に通い、愛ちゃんの手を握りしめて泣いた。「愛ちゃん、お願いだ。僕らを置いて行かないでくれ~!」そう叫びながら泣いた。
やがて愛ちゃんは意識を取り戻した。病状は快方に向かった。
何時もの笑顔が戻った時、愛ちゃんが病床で話してくれた。ずっと同じような夢を見ていたと言う。「何でだか分からないけど、私、タイタニックみたいな豪華客船に乗って、世界一周の船旅に出ようとするの。船に乗ろうとするとね。ぼう~ぼう~と汽笛が鳴るの。それがもう、物凄い音で、鼓膜が破れそうなくらい大きな音なの。だから、私、船に乗るのはあきらめたの。そしから、私、何で一人なんだろうって気がついたのよ。家であなたや子供たちがお腹空かせて待っているはずだ。早く帰って、夕ご飯の支度をしなきゃあ――って思ったところで、目が覚めたの」
毎日、愛ちゃんの傍で泣き続けたことが、少しは役に立ったのかもしれない。
止めることができる時間は一秒だけだったが、月日が流れるのは、あっという間だ。
子供たちは、独立して家を出ていってしまった。
愛ちゃんと二人だけの静かな生活が戻って来た。健康には自信があったが、最近は体の衰えを感じることが多い。
ある日、ふと思い出して、時間を止めてみた。(止まれ!)と念じると、時間が止まった――ような気がした。
(ふふふ。まだ能力が使えるんだな)僕は嬉しくなった。
そして、ついに僕は能力の使い道をみつけた。
愛ちゃんの顔を見つめながら、一秒だけ時間を止めるのだ。
ここ数年で随分と皺が増えた。だけど、僕にとっては、どんなに見ても見飽きない顔だ。愛しい顔だ。この先、何年、一緒にいられるのか分からないが、一分一秒でも長く見ていたい顔だ。
一日一秒だけ、愛ちゃんの顔を長く見ていられるなら、一年で三百六十五秒、長く見ていられることになる。およそ六分だ。十年経てば、僕にとって至福の時間は一時間、長くなることになる。
こんな使い道があったのだ。
愛ちゃんのことだ。僕の能力のことを覚えているはずだ。「嫌だわ。そんなに見つめないでよ」と言うが、嬉しそうだ。
愛ちゃんはきっと僕が時間を止めて、見惚れていることに気がついているに違いない。
了
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