半人の乱の研究 ー正教新暦9期の社会変革ー

本条謙太郞

序章

 群の住処と小川を繋ぐ道は草原を這い回る。

 一面に生い茂った雑草は、その細道を歩く少年の姿を半ば覆い隠すほどに背が高い。

 むせかえるような生臭さは太陽に温められた草花が発する排気だった。羽虫が飛び交う獣道を、少年はひたすら歩いた。


 手に提げた粗末な木桶には小川で汲んだ水がたっぷり入っている。

 朝の水くみは少年に課せられた唯一の仕事だった。


 一年ほど前、生まれた城から放逐されて以来、彼は同族たる半人の群で生きてきた。

 半人は奴隷ではない。

 奴隷には課せられた労役があるが半人には無い。奴隷は人だが半人は人ではない。ただ野生の獣のごとく存在し、飼育され、死んでいく。生き物の最も純粋な姿。存在そのものだ。


 彼は人が半人の群を飼い慣らす際に使役する、いわば牧羊犬のような存在として育てられた。だから人の命令を朧気ながらも理解できる。半人であるにもかかわらず、人の言葉をいくつか知っている。「座れ」「行け」「食べろ」「取ってこい」。そんな台詞だ。


 彼の生活はとても単調だった。

 朝目が覚めると小川に行き、飲み水を汲んで帰る。そして、仮寓する当代半人頭の住処で佇んで過ごす。

 一日のうち彼が住処を出るのは水くみと給餌時だけだ。広場に出て世話役の人間が用意した餌を食う。大きな桶に注がれた粘性の粥を手で掬い口に流し込む。

 その手指はその第一関節まで黒い。爪の間に溜まった垢と土のせいだ。

 城を出されてから、彼は一度も身体を清めたことがなかった。その必要性を感じることすらなかった。土埃と垢が混交した耐えがたい臭気が全身を覆い尽くしていた。ただ、伸び放題の脂ぎった黒髪と、その隙間からほの見える黒い瞳だけが異質だった。


 彼が人であれば、与えられた境遇の落差に精神を病んだことだろう。清潔な城内の一室で高貴な主人たちに可愛がられた愛玩動物が、ある日を境に野生の群に戻されたのだから当然だ。

 しかし少年は何も感じなかった。

 城の生活などすぐに忘れてしまった。半人は記憶力に乏しい。それは彼にとってとても幸福なことだった。


 少年は何も望まなかった。

 半人には人為的な欲が欠如していた。ただ生理的な欲求だけが存在する。つまり食欲であり、排泄欲であり、性欲である。それ以外の何もなかった。




 ◆




 小川からの帰途、その瞬間は唐突に訪れた。


 少年の脳髄に何らかの異変が起こったのだ。

 眼球の裏をのみで削り込まれる痛みを小さな身体で受け止めきることはできない。取り落とした桶から濁った水が流れ出て辺りの土に染みこんでいく。そうして濡れた地面に彼は倒れ伏した。


 真っ新な紙に文字が書き込まれるように、彼の脳内に何かが刻み込まれた。

 原因も過程も分からない。荒天に地上を刺し貫く雷が名も知れぬ木に絡みつくように、何かが少年の脳裏を満たした。


 それは全くの偶然である。

 広大な平原のどこかで人知れず野草が花を咲かせるのと同じく、それは無意味な、取るに足らぬ現象に過ぎなかった。


 しかし、この瞬間こそが類い希なひとときであった。


 城の飼い主達に”ユヌ”と名付けられていた少年。

 悪臭を放つ麻の貫頭衣を痩せ細った身体に纏わせて地に倒れ伏している。裏返った眼球は今だ戻らず、四肢の痙攣は治まらない。

 青く茂る背高の草が少年の身体を覆う。天蓋のごとくゆっくりと風になびいていた。

 小さな地虫が数匹どこからともなく現れ、その皮膚を這い回る。

 このまま目覚めねば身体は人知れず土に還るだろう。

 遠からず死臭を嗅ぎつけた肉食獣がやってきて、その幼い身体を食いちぎる。食べ残しはより小さな獣に。そして虫に。


 一時ひととき二時ふたときの間、小さな肉の塊は地に佇んでいた。

 日は天頂に達しつつある。


 少年が感じたのは息苦しさだった。

 肺を圧迫する自身の体重を逃すべく仰向けに姿勢を変えた。

 そして目を開く。

 路傍の青草が落とす影の黒。そして陽光の白。白と黒の模様が視界を占拠する。


 自身の身に何が起こったのか、理解することは不可能だった。

 ただ、朝水を汲みに出かけた自分と、今路傍に転がる自分が同じ存在ことだけははっきりと体感できた。

 少年の脳内に起こった変化は微細なものに過ぎない。

 人間ならば誰しもが持つ能力。例えば鳥が飛べるように。例えば魚が泳げるように。そんな行動の可能性を少年は得た。


 考える、という行為である。


 中央大陸西部、サンテネリと呼ばれる地方の名も知れぬ平原で、正教新暦第9期の初頭、ある半人の子どもが行き倒れ、偶然にも息を吹き返した。


 その少年は長じて世界を震撼せしめることになる。

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