呪われた一族

生田英作

呪われた一族



 真っ白な猫でした。



 廃屋の板塀の上から私を見下ろす一匹の猫。

(あんな子いたかな……?)

 野良猫なのかな、とも思いましたが、その割には毛並みがとてもきれいです。染

み一つない純白の毛並みに、冷たく輝く黄金色の瞳。

 そんな猫の両の瞳がまるで私の事を射抜くように見つめていました。

 どこか不思議で現実離れした真っ白な猫。

 私は、吸い付けられるように──

 



 サーヤちゃん、聞いてます?




 …………。


「あ、ごめん……」


 リンちゃんが、「もーっ」と腕を組むと萌花もえかちゃんと涼音すずねちゃんがクスリと笑って顔を見合わせました。

 いいですか?

 頬を膨らませて私を見つめるリンちゃんに私はコクコクと頷きます。


「サーヤちゃんのウチの近所にある廃屋──」


 に──リンちゃんのメガネがキラリと輝きました。


「今日の夜、肝試しに行きます!」


 そして──


「うわさになっているオバケの姿をカメラに収めるとともに廃屋の主である呪われた一族の伝説を暴き、私たちの中学校生活の有終の美を飾ろうではありませんか!」


 鼻息も荒く「どうです?」と誇らしげなリンちゃん。

 因みにリンちゃんの話に出て来た廃屋こそ、数日前、私が学校に行く途中であの真っ白な猫を見た廃屋です。

 私の家の三軒お隣にある古めかしい大きなお屋敷。

 周囲の板塀に覆い被さるように鬱蒼と茂る木立の間から見えるガラス戸の並んだ二階部分がモダンな古い日本家屋です。

 三年ほど前までおばあさんが一人で住んでいたのですが、そのおばあさんが亡くなって廃屋になってからは、鬱蒼と茂る木立と相まって昼でも薄暗く、どこか不気味なその雰囲気を嫌ってか近所の人もあまり近寄りません。

 確かにオバケが出て来ても不思議ではなさそうです。

 とは言え──


「あたしたち、来年も一緒じゃん」


「うん。誰も外部受験しないし」


「ねー」


 それに……


「その『呪われた一族』って話もさー、人によって言う事まちまちだし……」


「うん。一族が遺産を巡って殺し合った、とか、井戸に身を投げたメイドさんの呪いで一族の人が次々に……とか」


「わーぉ」


 私たちが頬杖をついたり、お菓子を摘まんだりしながら怠惰な放課後そのものの返事をするとリンちゃんは、すがるように私たちを見つめて力説します。


「だ、だって……ほら! 高等部に上がったらクラス替えだってありますし、外部から入って来る子だっています! そ、それに……そ、そう! 私たちは全員、この町の出身、生まれも育ちも××市! 呪われた一族は××市の恩人! ほら、因縁を感じませんか? 感じるでしょ? それに、それに……えーと、その、なんというか、その……。なんというか……」


 どん! 


「そもそも私たち四人が同じクラスなのは、今だけ、今だけなのです!」


 このチャンスを逃さない手はありません!

 中学校生活最後の夏なのです!

 さあ、みなさん!

 私の机に両の手を付いたリンちゃんは私たちの目を順番に覗き込むと必死の面持ちで「ぱんっ!」と両の手を合わせました。


「──一生のお願いっ!」





 ********************





(あれは、オリオン座かな?)


 リンちゃんの何十回目か分からない『一生のお願い』を断り切れず……両親が寝静まるのを待って家からそっと出たのが十一時半過ぎくらいでしょうか。

 ひっそりと静まり返った住宅街。

 私の家の近所の人たちは、お年寄りが多いせいか夜が早く、周囲の家々はすでに真っ暗で、街灯の白い明りが所々ぼんやりと周囲を丸く照らしていました。

 しばらく、家の前で待っていると、


(おーい)


(やっほー)


 自転車を押した涼音ちゃんと萌花ちゃんが声を潜めて小走りに走って来ました。

 そして、その後五分ほどして──


「ごきげんよう、みなさん!」


 カメラや懐中電灯を入れた大きなリュックを背負ったリンちゃんが「チリリンッ!」とベルの音も軽やかに颯爽と私たちの前に自転車を乗り付けました。

 何度も言いますが、時刻はそろそろ夜中の十二時です。


(おバカ!)


(おドジー)


 涼音ちゃんと萌花ちゃんに小突き回されながら、リンちゃんは全く悪びれることなく「では、参りましょう!」と件のお屋敷の前まで行くとポケットからカギの束を取り出し、その内の一本を門扉のカギ穴へ差し込みます。

 そして──

 ガチャリ、と音がしてカギが開いて……


(失礼しまーす)


 リンちゃんを先頭にお屋敷の敷地の中へ。

 と──




 そこは異様な雰囲気でした。




 周囲を満たすのは虫の鳴き声すらしない、凍り付くような冷たい沈黙。

 鬱蒼と茂る周囲の木立に遮られて周りの街灯の明りがほとんど届かない敷地の中は、町中にあるとは思えないほどに森閑と静まり返っていました。

 そして、そんな真っ暗な闇の中に蹲るようにして私たちをじっと見つめている件の日本家屋。

 古い窓ガラス特有のうねった表面越しにうっすらとほの青く浮かび上がる障子。

 懐中電灯の輪の中の枯れた花壇や古い植木鉢──

 それに──

 いえ、私だけでしょうか?


(なんか、イヤだな……)


 何となく感じる強い視線。

 そうです、無人のお屋敷の敷地の中です。

 リンちゃんや涼音ちゃん、萌花ちゃんはどう思ったか分かりませんが、私にはなんとは無しに目の前の家の中から誰かに見られているような気がしてなりませんでした。

 真っ暗な闇の中で、しーん、と静まり返った屋敷に漂う奇妙な緊張感。

 まるで誰かが待ち構えているような、そう、大きな穴の中へ飛び込んでいくかのような妙な既視感。

 ざわざわと両の二の腕の辺りが冷たくなってきて、思わずぞっとしました。

 この家には、絶対に入ってはいけない。

 そんな気がしてしょうがありませんでした。

 ですが──


(さあ、急ぎましょう!)


 リンちゃんを先頭に涼音ちゃん、萌花ちゃんたちは、門から数メートル先の玄関へと突き進んで行きます。

 足元を照らして忙しなく揺れる四つの懐中電灯の光の輪。


(リンちゃん、叔父さんにはなんて言ってカギ借りて来たの?)


 なんとか玄関に辿り着くと、涼音ちゃんに手元を懐中電灯で照らしてもらいながら苦労してカギを探し出したリンちゃんが得意げに鼻を擦りました。


(社会科見学です)


(なるほど……)


 そして──



 ガチャリ。

 


 大きな音がして玄関のカギが開きました。

 いよいよこの家の中に入るのです。


(用意はいいですか?)


 リンちゃんが、リュックからカメラを取り出すと録画スイッチをオンにして囁きました。涼音ちゃんと萌花ちゃんが、こっくりと頷くとリンちゃんを先頭にゆっくりと家の中へ。


(…………)


 さすがに、ここまで来て外で一人待っている訳にもいきません。

 なにより、一人でここにいることなど怖くてとてもできそうもありませんでした。

 おずおずとみんなの後ろから私も家の中へと入ります。

 その外観通りの大きくて立派な玄関。

 この家は敷地の奥に向かって鍵型に建っているらしく、玄関の隅から右手に伸びる廊下の先が二階のある母屋になっているようです。

 左手に見えるふすまの向こうは客間でしょうか。

 涼音ちゃんが、クンクンと鼻を鳴らして以外そうに呟きました。


(物は多いけど、思ったよりきれいじゃん。カビの臭いもしないし)


(そうだねー、あんまり廃屋っぽくないねー)


(はい。叔父さまの会社の方が時々掃除しているという話ですから)


(え? お掃除してるの?)


(はい。やっぱり、歴史のある建物という事でレストランにしたいとか、アトリエにしたいというお客さんが結構いるみたいで……中を見に来る方も多いんだそうです。それで、割と定期的にお掃除を)


 まあ……


(なぜかは、分かりませんが、みなさんお話が纏まる直前にお断りして来る、って叔父さんは言ってましたけど……)


(へ、へー……)


 寒いぐらいにひんやりとした室内を涼音ちゃんと萌花ちゃんの懐中電灯の光がうろうろとあちこちを照らしていました。

 リンちゃんが、カメラを手に左手の客間に入って行きます。

 それにしても……

 じっとりと淀んだ空気。

 静まり返った室内に私たちの息づかいだけが嫌に大きく耳につきます。


(これ、茶道の道具だね)


(うん。こっちの部屋は……仏間かな?)


 残された私たち三人は、何となく右手のふすまを開けて仏間と思しき部屋へ。

 大きな仏壇のある十畳ほどの広い和室。

 仏壇は扉が閉じられており、その脇には、こちらもたくさんの物が布を掛けられた状態で置かれていました。

 と……


(ひっ!)


 恐る恐る懐中電灯で部屋の上部を照らした私は飛び上がってしまいました。

 懐中電灯の光の輪の中に次々に浮かび上がる額装されたモノクロ写真や画質の粗いカラー写真。

 一人……二人……三人……四人、五人……六人──

 男性、女性、和服、背広──

 立派な髭を蓄えた人──

 微かに笑みを浮かべる人──


(これって──)


 そうです。

 遺影でした。

 いったい、いくつあるのか。

 たくさんの人たちが額縁の中から私を見つめていました。

 まるで意思を宿しているかのような写真の中の人たち。

 この人たちこそが、うわさの『呪われた一族』の人たちです。

 年配の人から子供まで。

 本当にたくさんの人が並んでいました。


(こんなに……たくさんの人が……)


 私はこわいながらも気の毒に思わずにはいられませんでした。

『呪われた一族』のうわさには、幾つものバリエーションがあって人によって話す内容は本当に千差万別です。

 ですが、一点だけ、どのお話でも共通する事があります。

 それが……

 そうです。

 一族の人たちが短い間に次々に亡くなってしまったという事実なのです。

 そして、数年前までこの家に住んでいたおばあさんこそが、一族の最後の一人だったのです。

 その事だけは、うわさではなく紛れもない事実なのです。


(それにしても……この遺影──)


 まるで……


(…………?)


 私は思わず身震いしました。

 一枚の遺影。

 いま……目……

 着物を着た男の人の目が──


(気のせいだよね?)


 懐中電灯の光の中で身じろぎもせず、一点を見つめ続ける人たち。

 と──

 その時、ふと気が付きました。

 仏間の奥のふすま……


(あれ?)


 数秒前の記憶を反芻して私は首を捻りました。


(このふすま……)


 ……閉まってたよね?

 背筋が、ざわっ、としていく嫌な感じがして喉がコクンと鳴りました。

 半ば開きかけたふすま。

 私は、恐る恐るふすまに近付くと、そっと手を伸ばし──

 ふすまを開くとその先は…………

 母屋へと庭に沿って直角に折れる真っ暗な廊下。

 その突き当りを曲がってすぐ目の前でした。




 二階へと伸びる急な階段がありました。



 

 懐中電灯の光の先、二階部分から微かに光の反射を感じます。


(ガラス……?)


 どうやら、周囲の木立の間から見えているガラス窓があるのが、この階段を上った先の廊下のようです。

 窓ガラス越しに見える夜空のせいで一階に比べると微かに明るい二階の廊下。

 でも……

 ミシ……足元で床板が軋み、私はゆっくりと階段に近付きました。

 ざわざわと体の表面が粟立って、自分でも呼吸が震えているのが分かります。

 なのに、どうしてでしょうか?

 私は、無性に二階に行きたくなってきたのです。

 脳裏では、盛んに「行ってはダメ!」ともう一人の自分がしきりに止めていました。

 ですが──

 梯子のような急な階段を、ミシリ……ミシリ……私はすでに上り始めていたのです。一段上るたびに開けていく視界。

 私の胸の鼓動に合わせて小刻みに震える懐中電灯の光の輪。

 階段を上り切ると、


(………………)


 右手にガラス戸、左手に障子が並んだまっすぐな廊下がありました。

 ピタリと閉じられた障子の列。

 揺らいだガラス越しに見える真っ暗な庭。

 黒々と茂る周囲の木立の枝が風に大きく揺れているのが分かりました。

 音も無く、凍てつくように沈黙する廊下の先──


「え?」


 今──

 いえ、今なのでしょうか?

 障子が──

 薄っすらとほの青く光る障子が……




 いつの間にか少し開いているのです。




 そうです。

 間違いありません。

 私は、階段を上り切って二階の廊下に立った時に懐中電灯でじっくりと廊下を照らしてみましたから、見間違いようがありません。

 障子は、開いたのです。

 誰もいない部屋の障子が。

 ひとりでに。


(………………)


 懐中電灯を握る手が震えていました。

 それなのに──

 ミシリ……ミシリ……

 私は再び歩き出していました。

 五センチほど開いた障子。

 真っ白な障子紙の間に見える漆黒の闇。

 あの闇の中に──

 開いた障子の前に立つと懐中電灯の明かりが障子の隙間の向こうに見える畳の床を微かに照らしていました。

 震える私の手がゆっくりと障子へ伸びて行き──

 すー……

 障子を開きました。

 中は六畳ほどの和室です。

 そろり……

 そっと、中へ足を踏み入れた──

 まさにその時でした。





 部屋の隅に着物を着た若い女の人が立っていました。





 真っ暗な闇の中に茫洋と浮かび上がるその姿。

 虚ろなその瞳と手に持った火の消えたランプ。

 私は動くことも出来ず、ただ女の人を見つめていました。

 はい。

 はっきりと分かりました。

 この女の人はこの世のものではない。

 そして──

 次の瞬間でした。

 女の人の顔がゆっくりと動いて……私の顔を見つめたのです。


「──────っ!」


 全身から冷たい汗が噴き出して、そこからは、もう本能とでもいうのでしょうか。私は恐怖ですくむ足を懸命に動かして、廊下を這うようにして階下へと大急ぎで

逃げ帰りました。

 どっ、どっ、どっ、どっ、と耳に轟く自身の胸の鼓動。

 とんでもない物を見てしまったという言い知れない恐怖で全身に冷や水を浴びせられたように体が冷たくなっていました。

 みんなに早く会いたい。

 一刻も早くこの場を去りたい。

 その一心でふらふらになりながら、必死の思いで仏間に戻ると、


「お、どしたー?」


 懐中電灯の光の中で涼音ちゃんが呑気な声を上げ、萌花ちゃんも「ふわー」とあくびで応えました。

 すっかり退屈してしまっている様子の二人ですが、もちろん、私はそれどころではありません。いま見て来たものを一秒でも早く体の外に吐き出してしまいたいとばかりに、二人に話そうとしたその時でした。



 パッ



 部屋の中に明りが灯りました。

 私たちを頭上から照らすオレンジ色の光。

 と──


「キミは、どこから入ったの?」


 台所があると思しき部屋の北側のふすまから現れたリンちゃんが腕に抱えていたのは、あの白い猫でした。

 瞬きもせず、じっと前を見据える黄金色の醒めた瞳。

 二階で見た女性の幽霊に現実離れした真っ白な猫。

 しかも、このタイミングです。

 鳩尾の辺りまで、すーっと冷たくなってきて、私は思わず身震いしました。

 そんな私を尻目に涼音ちゃんと萌花ちゃんが声を揃えて言いました。


「「電気点くんかいっ!」」


「廃屋じゃないじゃん、空き家じゃん、これ!」


「ぜんぜん、オバケいないよーっ!」


「あわわわ! で、でも、外の板塀とかは結構廃屋っぽいんですよ! それに、ほ

ら、呪われた一族のみなさんのお写真がこんなに!」

って……わぁー、叩かないでくださーいっ!


 あんたって、人は!

 おバカーっ!

 わーん、みなさんとの思い出が欲しかったんですよーっ!

 モダンなデザインの照明から漏れる淡い光に照らされた三人の賑やかな影法師が薄 汚れたふすまに黒々と揺れていました。

 部屋の上部に居並んだたくさんの遺影たち──

「この家には、絶対に入ってはいけない」

 私の直感は、いま、確信に変わっていました。

 薄暗い部屋の隅。

 半ば開いたふすまの影。

 真っ暗な居間や台所。

 真っ暗な客間──

 照明が点いた瞬間、ぱっ、とそこにと現れたのです。

 真っ暗の部屋の中で、ゆらゆらと私を見つめる遺影の中の人たち──

 そうです。

 たくさんの人たちが、まるで何かを訴え掛けるかのように部屋の隅やふすまの影から私の事をじっと見つめていました。

 みんなのやり取りが、遠い世界の事のように微かに聞こえるような沈黙の中。

 リンちゃんの腕に抱かれたあの白い猫だけが、何もかも見透かしたかのような目で私を見つめていました。





 ********************





私の学校の敷地の隅に大きな洋館があります。

紅葉館こうようかん』と呼ばれるその白い大きな洋館は、私の学校のシンボルのような存在であると同時に現在進行形で私たちの授業でも使われている教室でもあります。

 紅葉館に併設された茶室『石曜亭せきようてい』がその日の教室でした。

 その日、私は礼法の授業をそこで受けた際に忘れ物をしてしまったのです。

 真っ赤な夕日に背後から照らされて黒々とした影を落とす大きな洋館。

 誰もいない薄暗く冷たいホールを通り抜け、渡り廊下を渡った先が件の茶室です。

 しーん、と静まりかえった紅葉館の中を歩いているとどうしても先日の肝試しで訪れたあのお屋敷の事を思い出してしまいます。

 あの肝試しの日からすでに三日が経っています。

 でも──

 時間が経ち、冷静になればなるほど、あの時の情景が返って鮮明に瞼に蘇って来るのです。

 あのお屋敷で見た幽霊たち。

 呪われた一族。

 実は、この『紅葉館』は先日、肝試しに行ったあのお屋敷の持ち主の××氏が、戦前まで本邸として使用していた建物なのです。

 あのお屋敷は、幾つかある別邸の一つにすぎません。

 ですから……

 この紅葉館も──

 背中の辺りを冷たい物が、すー、と奔り抜けて行き私は思わずぞっとしました。


(だいじょうぶ……だいじょうぶ……)


 私は、ぐっと手を握り締め、意識してゆっくりと呼吸します。


(こわいと思うからこわいんだよ)


 だから……


(こわくない……こわくない……)


 石曜亭に辿り着くと、私は脇目もふらず茶室の中へ入りました。

 明りが消えた薄暗い茶室の中。

 微かに漂うお香の香りと夕日で真っ赤に染まった障子に揺れる木々の枝の黒い影。


(早く忘れ物を──)


 忘れ物は、すぐに見つかりました。

 茶室の隅っこに置き忘れた袱紗を手早く畳んでスカートのポケットに押し込むと入口で脱いだローファーの踵を踏みつつ、私は大急ぎで紅葉館へ戻ります。

 西日を受けて血のように真っ赤に輝く逢魔が時の『紅葉館』。

 いよいよ周囲が薄暗くなり、周囲の街灯にも明りが灯り始めました。

 渡り廊下の脇に昔からあるという大きな石灯籠を横目に見つつ、館内に入り、吹き抜けのホールを横切ろうと、私がローファーをキチンと履き直して、一歩踏み出した──その時でした。

 白とえんじのタイルが綺麗な幾何学模様を描くホールの床の上にいたのです。




 あの真っ白な猫。




 そして──

 視線を感じて振り向いたその先。

 ホールの先の食堂に──

 いいえ、


「──────っ!」


 全身に怖気が奔り、体の表面が、ぞぞぞっと一瞬で粟立ちました。

 吹き抜けのホールの周囲を巡る回廊に──

 ホールの隅に──

 柱時計の影に──

 いま通って来た渡り廊下の奥に──

 茫洋と佇むたくさんの人たち。

 そうです、あの夜、お屋敷で見た人たちがそこにいたのです。

 青ざめた無表情の人たちが、虚ろな目でじっと私を見つめていました。


(………………)


 体全体を包み込むような冷たい戦慄に私は、もう悲鳴を上げる事さえできませんでした。

 なぜ、この場所にまで……

 ですが、なによりも──

 そうです。

 この人たちの幽霊がここに出るのは、分からないではないのです。

 何よりも分からないのは──

 白い猫。

 何もかも分かっているかのように私を見つめる目の前のこの白い猫です。

 あの夜も。

 今日も。

 なぜ、この猫は、ここにいるのでしょうか?

 どうして……


(あなた達は……)


 いえ、それよりも──


(この猫は──)


 と、猫の口が──


「────っ」


 恐怖に駆られた私は、それ以上ここに居ることなど出来ず、ましてや猫の顔をこれ以上見ていることも出来ませんでした。

 転がるようにして紅葉館を飛び出した私は校舎へと一目散に走り、担任の先生に用が済んだことを伝えると、逃げるように学校を後にしました。

すっかり暗くなった帰り道。

 学校から私の家までは、歩いて十五分ほどでしょうか。

 いつもは、いえ、ほんの数日前までは何と言う事も無い通学路でした。

 ですが──

 あの日から、肝試しをしたあの夜からすっかり変わってしまったのです。

 あのお屋敷は、私の家の三軒隣ですから、学校の行き帰りに絶対に前を通ります。しかも、家までは一本道ですので回り道もできません。

 それでも、それだけでしたら通り過ぎる際に目を伏せて見ないようにすることは出来ましたから、そこまでの不都合は感じないで済みました。

 なのに……

 紅葉館で見た光景が脳裏を過ります。

 あの日の夜見た人々は学校にまで現れたのです。

 まるで……

 私の後を追うかのように。

 あの目。

 あの顔。

 そして……あの白い猫。


「…………………」


 それまで早歩きで歩いていた私は、気が付くと走り出していました。

 周囲からはっきりと感じる誰かの視線。

 今日の朝まで無かった物を今は強くはっきりと感じます。

 気のせいなんかでは絶対にありません。

 街灯の白い明りの下を私は、息を切らせて必死で家に向かって走っていました。

 が、


「はぁ……はぁ……」


 家が視界に入った途端、つい、立ち止まってしまいました。

 荒い息を無理やりに整えるように大きく深呼吸し顔を上げた瞬間──

 私は愕然としました。

 私が立ちどまったその場所。

 それは、




 あのお屋敷の前だったのです。




 しかも──


「……………………」


 木立の間から見えるガラス窓。

 そうです。

 私が、あの夜に幽霊を見た二階の廊下の一面のガラス戸。

 その揺らいだ窓ガラス越しに──




 あの夜見た着物姿の若い女の人がじっと私を見下ろしていました。




 そして、それに呼応するかのように。

 それまでとは、けた違いの強い視線が私の体を貫きました。


(………………)


 私は、そっと目だけ動かして視線を巡らせました。

 と──


「──────っ!」


 板塀の上部にある隙間。

 板塀の上。

 そこに並んだ青白い、顔、顔、顔。

 隙間から、じーと見つめる、目、目、目──

 二の腕の辺りからざわざわと広がった冷たい戦慄が体を満たし、首を絞められたように声が出ません。

 ただ、目から訳もなくぼろぼろと涙が溢れて止まりませんでした。

 私は、口の中で声にならない悲鳴を上げ続けながら、体を引き剥がすようにしてなんとか家へと走り出しました。

 最後の数メートルが何キロにも感じられるようなもどかしさの中、なんとか家に辿り着くと靴を脱ぐのももどかしく、二階の自分の部屋へと這うようにして向かい……背中でドアを閉めるとずるずるとその場に尻餅を着いてしまいました。


(どうしよう……)


 しーん、と真夜中のように静まり返った家の中。

 今日は母が泊りがけで親戚の手伝いに行っていて明日までいないのです。しかも、こんな日に限って父も東京へ出張していて数日間不在でした。

 この状況で、私は家に一人なのです。


(どうしよう……どうしよう……)


 どうしよう……

 と、その時でした。


「きゃっ!」


 ドアの下の隙間から何かが滑り出て来て、部屋の真ん中で止まりました。

 どっ、どっ、どっ、どっ、どっ、鳴り響く胸の鼓動。

 誰もいない家の中。

 誰かが、私の部屋に──

 いえ、という事は、この背中のドアの外に──




 誰かいる……




 ドアの外がどうなっているのか、開けて確認してみるべきなのでしょう。

 ですが……

 ドアを開けたらいったい何がいるのか。

 出来ることは一つしかありませんでした。


(……っ! くっ!)


 私は、何度か失敗しながら手探りでなんとかドアのカギを掛けると、部屋の真ん中へ膝で這っていきました。

 ドアの下の隙間から滑り出て来たのは一冊の薄い冊子。

 タイトルは、『××市のあゆみ』。

 何年か前に市で発行された郷土史の本で、父の書斎にある物でした。

 私が恐る恐る手に取ってみると──

 ぱらり、とあるページが突然開きました。

 片方のページに配された二枚のモノクロ写真。

 その内の一枚に写った人々の背後の建物に見覚えがあります。

 真っ白な明るい壁色に大きな入口……。

 私の学校に建つ洋館、『紅葉館』でした。

 脚注には、「大正○○年 ××氏邸宅完成を記念して撮られた家族写真」とありました。

 家族写真……

 写っている人たちは、呪われた一族の人たち。

 ですが、私はもう一つ別の事に気が付いていました。

 居並んだ一族の人々と少し離れたところにいる──



 白い猫



 あの猫が、当たり前のように写真の隅に写っていたのです。

 今から百年以上前の写真に。


(この猫…………)


 そして、この写真の下のもう一枚の写真。

 写真には、見覚えのある大きな石灯籠が写っており、脚注には「××神社の石灯籠である通称『おばけ灯籠』は、そのまま残された」とありました。

 それは、まぎれもなく紅葉館の本館から茶室である石曜亭へ向かう渡り廊下に脇にあるものでした。さらに、本文を読むとあの紅葉館は、元々そこにあった××神社を移転して、その後に建てたと書かれていました。


(××神社──)


 ××神社……?

 私は、前後にページを手繰って該当するページを探します。

 確か、以前この冊子を一度読んだ際に「へー」と思ったのを覚えています。

 私の記憶が正しければ……

 いくらもしない内にそのページは見つかりました。

 移転されたという××神社に関するページです。

 神社が創建されたのは、十五世紀半ば。

 主祭神は、素戔嗚尊すさのおのみこと

 ですが──


(あった……)


 そういった事とは別にこの神社に関する項にはこんな記載があるのです。



『当地の古老たちの言い伝えによると××神社の創建には、この地方における疫病の流行とは別に次のような謂れが存在していると言われています。

 ある時、この地を治めていた××氏の子である○○が戯れに猫を殺しましたが、数日しない内に○○は全身が腫れあがって死んでしまいました。

 その後も一族の人々に死者が相次ぎ、人々は猫の祟りであると恐れました。

 ××神社には、当時の疫病の流行を鎮めると同時にこの猫の祟りを鎮める役割もあったと言うのです。』

 


(…………)


 その××神社を移転して建てたのが──

「紅葉館」いいえ、××氏の本邸なのです。

 そして、この項で記載されているこの地を治めていた一族こそが件の呪われた一族××氏。つまり、猫を殺したのも、その猫を鎮めるために神社を創建したのも、その神社を移転したのも──

 



 ブーッ!




 カバンの中からの突然のバイブ音に私は飛び上がりました。

 恐る恐るカバンからスマートフォン取り出すとリンちゃんからのメールです。

 短い本文に添付ファイルが一つ。

 文面は、

『肝試しの動画を編集したので送りますね』

 と……

 添付された動画が勝手に再生され始めました。

 真っ暗なお屋敷。

 不安げな顔の私。

 そして──屋敷の中へ。

 懐中電灯の光の輪の中に浮かび上がる……


「ひっ!」


 人の顔。

 リンちゃんの撮影した動画の中には、あの夜私が見た人たちがしっかりと写っていたのです。リンちゃんには、何も見えていないのか、どんどん屋敷の中を進んでいきます。そして、それにつれて、増えていく人たち。

 いいえ。

 幽霊たち──


「……………………」


 私は、堪らず動画を一時停止しました。

 冷え切った胸が、ものすごい音で高鳴り、スマートフォンを握る手が小刻みに震えて指先までもが冷たくなっていました。

 と……

 気配を感じてスマートフォンから目を上げた瞬間でした。


「──────っ!」




 部屋の隅にあの着物を着た若い女の人が立っていました。

 



 ですが、その人だけではありませんでした。

 窓の外。

 本棚の影。

 どんどん人数が増えて行きます。

 もはや、私は身じろぎすら出来ませんでした。

 しかも……


(…………?)


 一時停止した画面の中でも何かが動き続けていたのです。

 動画の再生自体は止まっています。

 現に、動画の端々に入っていたリンちゃんの息づかいも、屋敷の中の景色もぴたりと止まっているのです。

 なのに……

 なのに、徐々に画面のこちら側へ近づいて来る白い影──


(……まさか)


 そうです。

 あの猫でした。

 あの白い猫が、画面の奥からこちらへ歩いて来るのです。

 完全に止まっている動画の再生画面の中を歩いて来る猫。

 猫は、その顔がはっきりと分かるぐらいまでカメラに近付くと、すっ、と腰を下ろしてこちらを見上げました。

『一時停止』している動画の中。

 全てを知っている猫の金色の瞳が画面の中から私を見つめています。

 なにもかも見透かしたかのような両の瞳。

 この猫は……

 と、



 ガチャ……



 背後のドアのカギが突然開いて、ドアがゆっくりと開きました。

 廊下に座った白い猫。

 この猫は──

 いいえ、この猫こそが──

 もう、この猫が何者なのか、私にもはっきりと分かりました。

 そして……

 猫は私と目が合った瞬間でした。




 猫は、ニタァっと笑いました。


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