愛しき鉄之丞

芳ノごとう

愛しき鉄之丞

(1)

 お慕いいたしております。私がそう呟くと、あなたはぴたりと動きを止めました。私も、生涯胸に秘めたままでいるつもりだった想いが口から零れ落ちたものですから、顔を伏せてしまいました。

 あなたは、私の言葉の続きをお待ちになっているようでした。ですが私はただもうどぎまぎするばかりで、膝に置いた自分の手の指先を見つめていました。

 私が何も言わないでいると、あなたはお茶会の準備を再開なさいました。食器の触れ合う音が耳につきます。

 私は大変焦りました。元々お伝えするつもりでなかった慕情とはいえ、一度外へまろび出たものです。それをなかったことにしたくはありません。毒を食らわば皿までです。ですがこのままでは立ち消えになる。そう頭では分かっているのに、声を出すことすらできません。

 俯いたままの私の前に、あなたは空のティーカップを置きました。そして

「どなたを」

と低い声で話しかけてきました。

 そのたった一言で、強張っていた体がほどけました。

 私は顔を上げ、傍らに立つあなたを見上げました。あなたは私を見つめ返しています。

 あなたはいつだって私に手を差し伸べてくださる。

 それにしても、あなたの疑問はごもっともでした。顔も見ずに申し上げたものですから、あれが誰に向けての告白か判然としないのも頷けます。

 今度はしっかりと目を合わせ、あなたの名を呼びました。

「鉄之丞。お慕いいたしております」

 あなたはゆっくりと自身の左手首を触ります。そして私に微笑みかけました。

「ありがとうございます。お嬢様の幼い頃を思い出しますね。ですがそのようなお言葉は、他人に聞かれると誤解を招きますよ」

 あなたはそう言って話を切り上げると、私から離れ、テーブルの中央に角砂糖入れやミルク壺を並べ始めました。

「鉄之丞」

「お嬢様。じきに、恭一郎様がおいでになります」

 私は時計を見ました。確かに約束の時間が迫っていました。

「では、お茶会が終わったら、私の話を真剣に聴いてくださると言ってちょうだい。そうでなければ、今日のお茶会には出ません。恭一郎様にもお帰りいただきます」

 あなたは眉をひそめて私を見ました。私の頑固さなら、私よりもあなたの方がよくご存知のはずです。

 あなたは目を伏せ、

「かしこまりました。では、お茶会が終わりましたら、お時間を頂戴いたします」

と返事をしました。

 間もなく恭一郎様がいらっしゃり、お茶会が始まりました。


(2)

 恭一郎様がようやっとお帰りになられたので、私はあなたを自室へ呼びつけました。

「幾度、時計の故障を疑ったか知れません。一日千秋の思いでした」

「お嬢様。恭一郎様に失礼ですよ」

「嘘偽りのない正直な心情です。もちろん、先ほどのあなたへの想いにも嘘偽りはありません」

「一介の使用人をそれほどまでに気にかけてくださるとは、お嬢様はお優しいですね」

「真剣に聴いてくださるというお話だったはずです」

 あなたは自身の左手首を触りました。小さい頃から、私がわがままを言ってあなたを困らせると、あなたはいつもそうしていました。

「失礼いたしました。では、私も正直に申し上げましょう。お嬢様のお気持ちにお応えすることはできません」

「なぜです」

「私が使用人で、あなたが常井家のお嬢様だからです。加えて、お嬢様には恭一郎様がいらっしゃいます」

「鉄之丞。立場や役割など忘れて私を見てちょうだい。あなたと一緒にさえなれれば、婚約が破談になったって、常井の姓を捨てたっていい」

「お嬢様。それ以上はおやめください。お願いですから」

 あなたはそれだけ言うと部屋から早歩きで出て行ってしまいました。普段自分の望みを言わないあなたの「お願い」に気圧されて、追いかけることができませんでした。


(3)

 あの日以来、あなたは私を避けるようになっていました。同じ屋敷に住んでいるというのに、もう三週間も顔を見ていません。

 私は味のしないディナーを口に運んでいました。また恭一郎様との約束で、我が家で食事会をする運びとなっていたのです。三週間前にお茶会をしたのですから、少しは控えてほしいものです。

 恭一郎様が私を好いてくださっているのでしたら、少しは罪悪感が湧いてくるのでしょうが、恭一郎様は私に興味すらないのが見え見えでした。本人は隠せているおつもりなのがまた腹立たしゅうございます。

 名家に生まれた者の宿命として、恭一郎様も私と同じく、望まぬ婚約をする羽目になったのでしょう。お初にお目もじ申し上げた時の気のない表情といったら。ですが、顔合わせが終わり、常井家に初めてお越しになってからは、恭一郎様の目には光が宿りました。それから、足繁く常井家にいらっしゃるようになりました。常井家の財産を目の当たりにして、どうにか婚姻にこぎつけたくなったのでしょう。

 食事会が終わると、恭一郎様は私をお庭での散歩に誘いました。共に歩くお相手が誰であれ、食後の軽い散歩は快いものです。

「時子様。ずっと給仕をしていた彼は、もういらっしゃらないのでしょうか」

 かつて恭一郎様の前で給仕をしていた使用人となると、鉄之丞に違いありません。

「おりますわ。暫く顔を見てはいませんが」

「はあ、お忙しいのでしょうか」

 私はもう破れかぶれになり、正直に話してこの婚約を破談にしてしまおうと思い立ちました。

「忙しいかどうかは存じ上げません。ただ、私を避けているのは確かですわ。お慕い申し上げていますと私が打ち明けて以来、姿を見せませんの」

 恭一郎様はその場に立ちすくみました。私は黙って恭一郎様のそばに控えていました。

「時子様」

 逡巡の後、恭一郎様は口を開きました。

「お返事は頂けたのですか」

「拒まれましたわ」

「理由は」

「そこまで訊くのは野暮ではなくって」

 きっとすぐさま破談になるのだろうと思い、心が浮き立っていたというのに、恭一郎様は仔細を知りたがりました。じれったくなり、私から切り出すことにいたしました。

「恭一郎様がいらっしゃるにもかかわらず、他に想い人がいるだなんて、不実をお詫びいたしますわ。この婚約の話はなかったことにいたしましょう」

「そんなことはあり得ない!」

 急に恭一郎様が吠えるような大声を出したので、私は呆気に取られました。使用人達が何事かと様子を見に来ようとしたのが窺えたのですが、何でもないと部屋に戻ってもらいました。

「時子様。申し訳ありません」

 私は恭一郎様に説明を求めました。

「実は私は、時子様と似たような境遇にいるのです」

「まあ。あなたにも想い人が?」

「はい。ですが、私は真情を誰にも吐露できません。それでもせめて、あのお方のそばにはいたい。そのために、時子様との結婚が不可欠なのです」

「隠れ蓑というやつですわね?」

「そんなところです」

 私は口をつぐんで考えました。恭一郎様との婚約が破談になったところで、また別の縁談がやって来るのでしょう。でしたら、事情をお互いに分かりあった恭一郎様と協力関係でいた方が得策です。

「分かりましたわ。私達、助け合いましょう」

「ええ、そうですね」


(4)

 中に戻ると、お母様が大層私達を心配していらっしゃいました。

「何でもありませんの。よき妻になれる自信がないと申し上げたら、恭一郎様が元気づけてくれただけですわ」

と誤魔化しました。

 恭一郎様をお見送りしていると、背後から足音が聞こえました。振り返ると、そこにはあなたが立っていました。私の胸は高鳴りました。

「恭一郎様。お久しぶりです。先ほど、お嬢様が何か粗相をしたようで。お詫び申し上げます」

 あなたはそんなことをおっしゃっていましたが、私を心配して駆けつけてくれたのだと推し量るのは簡単でした。あなたは昔からそうです。いつも私のことを気にかけてくださる。

 恭一郎様に目をやり、私は息を呑みました。

 頭を下げたあなたを見つめる恭一郎様の視線の熱いこと。熱に浮かされたような表情には覚えがあります。あなたについて考えている時の私もきっと似たような顔をしていることでしょう。

 初めて常井家に恭一郎様がいらっしゃった日も、あなたは給仕をしていました。その時、恭一郎様はあなたに一目惚れをしたに違いありません。

 協力関係だなんてとんでもないことでございました。恭一郎様は私の恋敵です。私との婚約を破談にしたがらなかったのも納得できます。うまいこと私と婚姻すれば、恭一郎様はあなたのそばにいられるのですから。

 恭一郎様は名残惜しそうに帰って行かれました。曲がり角で馬車が見えなくなるやいなや、あなたは私に話しかけてきました。

「お嬢様。大丈夫ですか。何もされていませんか」

「少し気分が悪いの。部屋まで連れて行ってちょうだい」

「かしこまりました」

 私と恭一郎様には決定的な違いがあります。私はあなたに想いを告げましたが、恭一郎様はご自身のお気持ちを隠し通すおつもりのようです。そんな意気地なしに、あなたを渡したくはありません。恭一郎様の恋情にあなたが気づく前に、あなたと相思相愛になってみせます。

 あなたの後をついて行きながら、私は今後について策を巡らせました。まずは部屋に着いたら……。

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