異世界漂流譚 二日目

碾貽 恆晟




 目が覚めると、灰色の空が広がっていた。


 樹洞うろの中で、蛸(?)様に抱き枕とされた私が見上げる空の光景は、そんな退廃とした趣を感じさせる空模様であったのだ。


 ここで一つ注意しなければいけないのは、決して私の目に映る空の色が灰色なのであって、曇り空によって灰色に見えるということではない、ということだ。


 モクモクとしたあの光の色合いが豊富な曇り空とは違い、まったくの灰色一色の空。真っ灰色の空とでも形容すれば良いのだろうか。


 私が異世界の常識になれることはなさそうだ。


 異世界来訪二日目にしてギブアップである。


 前途多難。


 お先真っ暗。


 暗雲漂う。


 ……いや、だから空には雲ないって。


 自分に自分で突っ込むネタを作ってどうする。


 精神安定のためか?


 自分でも判断できない。無意識というものは恐ろしいものだ。何せ、自分であって自分ではない存在に心を管理されているようなものなのだ。


 そう考えると、一気に背筋に怖気が走る。


 ヤバい。もしかしなくても、私はホームシックになっている……?


 あまりに不安定な精神状態。


 これまで、私は冷めた性格だと自負していた。だが、その考えは今日でゴミ箱へ放り捨てた方が良いかもしれない。


 たかが、誘拐(?)されたぐらいでホームシックになるとは!


 ただ、残念なことに、この誘拐は犯罪者も犯行動機も不明な誘拐だが……。いや、マジで。これが、異世界転生or異世界転移(おそらく後者であろう)であるとしても、だ。


 多くの作品でも言っているとおり、(女神などの実行犯がいるなら)やっていることは誘拐で間違いない。だが、いやそうであるからこそ、異世界に行くならテンプレを挟んで欲しいと願うのは贅沢なことであろうか?


 異世界に飛ばされた時、もしくは飛ばされた先で、あなたは異世界に「行ってもらいます」or「来ました」みたいな説明を強く私は求める。


 安全圏(?)にいると思われるためか、私の脳内では怒涛のように疑問や怒りといった感情が溢れ出てくる。


 これをどうにかするには、あの果物しかないっ!


 ……。


 ……おい。


 今なんて考えた? 私。


 これは、依存症待ったなし?


 実は、目の前にいるこの蛸様は邪悪な存在で、人を悪の道へ堕とす存在なのだろうか?


 ビジュアル的には邪悪と称しても間違いなさそうではある。とは言え、見た目だけで判断するのは憚られることでもある。


 私よ。私の理性よ。正しいのはどちらなのか、教えておくれ……。


 モゾモゾ  モゾモゾ


 と、触手というか、足というか微妙なソレがうねっているのを見つめながら、心の中に答えを求める。


 返答はない。


 こういう時こそ無意識の出番ではないのだろうか? (心の中で)嘆けど喚けど、答えは返ってこない。


 そして寝起きと思われる蛸様も、答えてはくれなかった。


 もちろん、声に出していないので何を考えているのかすら把握されていないだろうけど。


 昨日の様子を見る限り、私の発する言葉を理解していることは間違いない……と思われる。


 そうであるならば、声に出して聞くのか? と言われればNOと答えるしかない。


 誰が「あなたは邪悪な存在ですか?」なんて聞かれて馬鹿正直に答えるかよ。「はい」でも「いいえ」でも返ってくる言葉は「はい」の一択しかない。


 よしんば「いいえ」と返答されてもそれを鵜呑みにできるかは微妙だ。


 どうする……。


 どうすれば良い?


 私は読唇術なんて知らんし心理学も触り程度でしか知らないぞ!?


 しかも、相手は蛸様だ。人間基準の心理学が適用されるのか? また、それを私が判断できるのか?


 否。


 無理である。


 専門外にも程がある。


 ここは思考放棄、もしくは後回しとやらを発動するしかない。


 ゆっくりと3本の足が離れていくのを感じながら視線を再び空へと向ける。


 雲ではないが、灰色の、それもどちらかというと黒に近い不気味な空模様。時間経過のおかげで、昨日見た青色の恒星が樹洞の端からのぞいているのが、またなんとも言えない異界感を覚えさせる。



 気づけば、その樹洞の縁に立っていた。


 間違いなく、この腰に巻き付いた足の持ち主のせいだ。


 それなりの距離があったというのに、慣性の法則だとか重力はどこへお留守番をしているのかな? と思わなくもないが、そんなことを言い出したら昨日の空の快適旅も大概だ。


 結論:考えるだけ無駄。


 Q&A完了。


 あまりに明確、それでいて惰性的な思考。なんて、思わなくもないけど、この世界において私の持っていた常識なんてほとんどどころか、一切通用しないと思ってよさそうなので、こういった思考こそ正しいものであるのかもしれない。かもしれない(重要なことなので2回言いました)。


 さて、その常識をことごとく覆してくれるこの世界だが、その例に漏れず目の前には信じられない光景が広がっていた。


 信じられないというか、信じたくないというのが正しいだろう。


 ここ、砂漠のど真ん中にあるオアシスが空の色に染まったが如く、灰色一色となっていた。みるも無惨である。


 まるで、白黒の世界に放り込まれたかのように、その世界からは色が消えていた。灰色の空に灰色のオアシス、視線の端に見えた砂漠も灰色一色。ただ、影の色がその灰色一色の世界を立体的に見せてくれるのみ。


 私はこの世界の過酷さを理解していたつもりだった。だが、それはあまかったのかもしれない。


 あの果実のように……


 ……


 …………


 ………………どうやら、私は相当参っていることが再び証明されてしまった。


 だが、心の中で渦巻くのは『あの果実を食べることはできないのでは?』という恐怖だった。


 あの魅惑的な艶を放つ赤い皮は、瑞々しく、たっぷりと甘みを含んでいることを主張しているようで……。思わず手に取ると、その羽毛に触れたかのような感触に驚き、無意識の内に手が震えてしまう。最も簡単に向けそうな皮に傷がつかないように優しく両手で包み込み、口へと近づける。あまりに甘美、それでいて透き通るように爽やかな匂いに誘われる。勢いに任せて齧り付けば、少し柔らかめな『シャリッ』と音が響く。その音に反応して口内で固めの食べ物を意識するも、やってくるのは下の上で溶けてしまうようなソレ。最初は甘く、だがすぐにその味は消え失せてしまう。もう一度あの味をと、果肉を噛み締めれば、溢れ出る果実の凝縮された液。それは縦横無尽に口内を駆け巡り、味覚をこれでもかと刺激する。それによって、脳内に大量の高揚や幸福感をもたらす成分が分泌された。


 ただ鮮明に思い描かれただけの記憶。それだけだというのに、脳全体が、いや、身体中がこれなしでは生きていけないと、そう叫んでいるようにさえ思える。


 あの果実はなくてはいけない。絶対に、間違いなく。


 同時に、この思考に支配されてはいけない、と理性が囁く。まだ一日も立っていないのに、この禁断症状。


 あぁ、これに支配されたらどんなに楽になるだろうか。いけないとは思うのに、その考えはどんどん肥大していく。


 藁にもすがる思い、などといった言葉があるが、私の脆弱な理性は藁よりも役に立たないものでしかない。


 このあまりに大きな欲求に身を任せれば、本能という私が私である唯一の重石が削れて無くなっていく。そして、最後に待つのは哀れな獣。


 あぁ、それも良いかもし ドゴッ




 ハッ


 いきなり目の前が真っ暗になったかと思ったが、ただ倒れていただけだと気づく。だが、倒れていた? なぜ?


 記憶を遡れば、『ドコッ』とした音を聞いた記憶がある。と、記憶が開いたからか強烈な痛みが走った。


 頭だ。


 頭が痛いのだ。


 とても、痛いのだ。


 殴ら、れたっ!?


 蛸様に殴られた!?


 なんで? なんで殴られた?


 粗相を、粗相をしてしまったのか!?


 それとも、禁忌に触れた?


 こちらをじっとつぶら(?)な瞳で見つめてくる蛸様は、まるで何も考えていないようにすら思える。


 怒って、いるようには見えない。それでは、なぜ叩いてきたのだろうか? 考えられる候補としては──


 1.なんか気に入らなかった

 2.叩いたじゃなくて、実はぶつかっただけ

 3.私がなんらかの禁忌にふれてしまった

   そのため、記憶抹消の叩き

 4.粗相をしてしまった

 5.ツッコミをした

 6.理性を引っ張り出すために叩いた

 7.空から物が落ちてきた

 8.謎の力による頭痛によって、叩かれたと勘違いしているだけ

 9.その他


 ──だ。私の想像が許す限りでは、上記のことしか思いつかない。思いつくままの順番で、最後の二つに至っては前提としていた蛸様が叩いたことを完全に無視している。


 蛸様のあのつぶらな瞳を今も一矢に受け止めている身としてみれば、(叩かれたのが事実とした場合)6が一番あり得ると思ってしまう。知らなかったが、私はほださされやすいのかもしれない。


 それとも、叩かれたことによって、そういった感情を植え付けられたという可能性もある。


 全ては机上の空論。そこに真実はなく、あったとしても私には判別できない。そのような能力を私は持っていないから。それにそもそも、どれか一つでも真実に近いものがあるのかすらわからない。


 思考の沼に嵌ってしまいそうなので、未来の自分に託した。最悪とも言える悪手かもしれないが、それすらも私にはわからないし、別に蛸様に操られるような未来でもいいかなと思ってしまったのだ。


 愚かで、か弱く、知性も優れてるとは言い難い。そんな私という個人の存在を許してくれているただ一人(匹?)の蛸様。


 私の持つ唯一の心の支え。それほどまでに、蛸様の存在は私の中で大きくなっている。


 吊り橋効果と言われれば否定はできない。だが、そうであったしても、私はそれに縋ることしかできない。いや、縋りたいと思ってしまっているのだ。













 ──コプリ、と水中で口から空気がこぼれ出たかのような、そんな音が聞こえた気がした。









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