等分

第1話

「怒らないからさ、教えてくれませんかね、そろそろ。」

相沢がへたくそな猫なで声で数分前と同じセリフを口に出す。若い女の扱いには慣れていないのだろう。高校時代は強豪柔道部の主将だったという面影を50になった今も色濃く残すその背中は確かに座っているだけで威圧感があるが、そわそわと頼りない空気を発している。声にもいつもの覇気がない。

「ねえ、黙ってちゃわかんないですよ、お姉さん。」

このセリフももう5回目だ。しかし、向かいに座る女はうつむいたまま。薄いピンクで塗られた爪を眺めるともなく眺めながら、じっと黙っている。

女がこの交番に現れたのがおよそ30分前。22時を少し過ぎたころだった。グレーのワンピースに淡い水色のカーディガンを羽織った女は、しっとりと濡れていた。外は小雨で、電灯に照らされて銀色の筋が光っていた。彼女は傘を持っていないようだった。

「どうかなさいましたか。」

ドアの前で突っ立っている女に声をかけた。女の息を吸う音が聞こえた。

「……ました。」

予想よりも低い声だった。換気扇の音がうるさく、聞き取れなかった。

「ごめんなさい、もう一回いいですか。あ、どうぞ。」

中のパイプ椅子へ促すと、女は軽く頭を下げて、ドアを閉め、そこに腰かけた。古いパイプ椅子は女が座ると、かすかに悲鳴を上げた。

「ああ、こんばんは。どうされました?」

奥から相沢が顔を出した。眠いのか目をしばしばさせながら、机を挟んで真向いの椅子にどっかと座った。特に取り決められているわけではないが、こういう時は自然、上司である相沢がやってきた人の相手をすることになっている。俺は何も言わず隅の椅子に腰かけ、言い訳のようにボールペンを鳴らす。

「あの」

女が声を出す。黒髪だと思っていたが、よく見ると茶色く染めてあるようだった。22,3といったところだろうか。それともまだ10代だろうか。滞りなく化粧がされているが、どこか幼く見える。

「その、えっと、」

緊張しているようだ。女の呼吸が浅く、速い。

「自首しに来ました。」

小さな声で、でもはっきりの女はそう言った。

「はい?」

冷静な相沢も、声がいつもより高い。

「自首しに来ました。」


そう言い放った女は、しかしそれから一向に口を開こうとしない。分かったのは、「松井朝子」という名前だけだ。女は何も持っておらず、身元を調べることもできなかった。こちらとしてもそれでは対処のしようがない。今のところ、近辺で事件が起きたという連絡は入っていない。いたずらだろうか。しかし30分前の切迫した表情はとても演技とは思えなかった。

「えーと、松井さん、あなたいくつ?若いよね?親御さんは?一人暮らし?」

「…」

「親御さんの連絡先、教えてくれる?」

「監禁しました。」

「え?」

松井の突然の告白に思わず相沢と俺の声が重なった。

「監禁?え?親御さんを?」

相沢の問いかけに松井は首を横に振る。

「違う。たからくんです。お父さんとお母さんは一緒に住んでません。関係ないです。」

さっきまでのだんまりが嘘のように、松井はつらつらと喋りだした。

「たからくんっていうのは、誰だろう。」

「たからくんはうちにいました。私の部屋にいました。でも今はいないです。逃げちゃいました。」

松井は相沢の問いかけには答えず話を続けた。

「たからくん来ましたか?来ましたよね?私、たからくんに謝りたいんです。つかまっちゃう前に謝りたいんです。」

「どうして、ですか?」

今度は相沢が松井を無視し、尋ねた。

「どうして、たからさんを監禁したんですか。」

相沢は、胃を逆なでするような猫なで声をやめている。こころなしか背筋も伸び、いつもの頼もしい相沢に戻っていた。

松井は、しばらく黙っていた。ほとんど身動きせず、うつむいたまま黙っていた。

換気扇の音だけが流れる中、突然「すいませーん」と外から声が聞こえた。若い男性の声だった。数秒後、がらがらと音を立ててドアが開いた。

20代くらいの男女が順に入ってきた。男性の方は抱っこひもで眠っている小さな子供を抱えている。松井と相沢、そして最後に俺を見て、小さく会釈をした。

「あ、えっと、財布を落としてしまって、あ、妻のものなんですけど、革の、濃い茶色の。」

「あ、あーあーはいはい、ちょ、中島、あの、あれ、紙持ってきて」

忘れ物落とし物の相談は多い。俺も相沢も慣れたものだ。結局財布は見つからず、夫婦は帰っていった。相沢は先ほどよりも深く椅子に座り、松井に向き直る。

「すいません、お待たせしちゃって。」

「一人っ子ですかね」

松井が、突然口を開く。

「はい?」

「さっきの子、赤ちゃん、一人っ子ですかね。」

「え、はあ、どうでしょう。」

「一人っ子だといいな。」

松井は心なしか子供っぽい口調になっている。

「お巡りさんは?」

少し首をかしげて松井は相沢の方を見る。机に肘をつき、甘えたような顔をしている。その変貌ぶりが気味悪い。

「兄がいます。3つ上の。」

「そうですか。」

松井がつまらなそうにうなずく。

「私ね、5人兄弟なんです。お兄ちゃんと、お姉ちゃんと、弟と、妹がいるんです。その真ん中。歳もね、皆ちょうど2個ずつ違うんです。すごいでしょ。なんかめっちゃ均等ですよね。」

再び饒舌になった松井にぎょっとしたが、相沢は顔色を変えず真っ直ぐに松井を見つめている。そういうときの相沢は、ちょっとかっこいい。

「あの、兄弟いると、お兄ちゃんばっかり、とか妹はずるい、とかあるじゃないですか、少なからず。何だっけ、おさがりばっかりとか、下の子には優しいとか、嫉妬?みたいな、うん、嫉妬だ、嫉妬です、そう。でもね、私一回もないんです、そういうの、一回もないの。お母さんもお父さんも優しくて、5人全員に均等に、平等に、優しくて。本当に平等なんです。服も、おもちゃも、お小遣いも、授業参観のときなんて、全部の授業をきっかり10分ずつ見に来るんですよ。みんなの見なきゃいけないからって。そんなにしなくてもって感じなんですけど、こっちからしたら。でも、そんなにするんですよ、うちの親は。そういう人たちなんです。不平等とか、許せないんですよ。まあでも、そのおかげで、兄弟みんな、手か家族みんなめっちゃ仲いいんですよ。みんなそれぞれ大人になって、私とお姉ちゃんとお兄ちゃんは実家出てるんですけど、月に一回はみんな集まるし時々旅行も行くし。仲良し家族なんです、すっごく。」

そこまで喋って相沢の目を試すようにのぞき込んだ。背の高い相沢を見つめる、小柄な松井の視線は、自然上目遣いになる。相沢がどんな反応をしたのか、こちらからは分からなかったが松井は満足そうに頷き、また口を開いた。

「なんでしたっけ、ああ、そうそう、だから、お母さんもお父さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんも弟も妹も、みんな大好き。私だけじゃなくて、みんなもみんなのこと大好きなんです。そういう家族なんです。みんながみんなのことを、平等に、均等に、好き。」

松井の話すテンポがだんだん遅くなる。さっきまでのどこかうきうきした空気もいつの間にか消え、どこか不機嫌そうな気配すら帯びている。

「でもね、お巡りさん。私分かってるんです。好きって本当はね、等分しちゃダメなんですよ。等分したらね、減っちゃうの。私は、みんなを、4足す2だから…6か。6分の1でしか好きになれないんです、分かります?分かんないかな、分かんなくてもいいんだけど。で、私はみんなの6分の1なんですよね。みんな、大好き。大好きだけど、でも、私、困ったときとか寂しいときとか、ひとりでいたくないなって、誰かに会いたいなってときに、誰に会ったらいいかわかんないんです。みんな、均等に、6分の1だから。家族だけじゃないです。好きな人が増えれば増えるほど、5分の1、10分の1ってどんどん、減っていくの。なんか、なんですかね、変ですよね。みんな、好きなのに。みんな、好きでいてくれるのに。もう、好きにさせないでって、好きにならないでって、思っちゃうんです。好きが小っちゃくなっちゃうって。」

松井の視線が宙を泳ぐ。ふわふわと、どこを見ているのか分からない。そんな松井の前で相沢は身じろぎ一つしない。

「たからくんは、私のことを、特別だって言ったんです。俺には朝子ちゃんしかいないって言ったんです。私、感動しちゃって、特別って、私しかいないって、そんなの初めてだったから。何分の1じゃなくて、均等じゃなくて、そういう好きって初めてだったから。だから私もたからくんを、たからくんだけを、完璧に完全に、私の100パーセントで好きになるって決めたんです。たからくん以外は誰も好きじゃない。たからくんだけを好きでいることにしたんです。私の全部はたからくんで、たからくんの全部は私でした。そう思ってました。なのに、なのに、たからくん、私のこと『一番好き』って言ったんです。私しかいないって言ったのに。一番ってい言ったんです。一番、て。私、それがどうしても許せなくて。私は一番になりたいわけじゃないんです。ていうか、一番っていうのがよく分かんない。2番、3番は私より好きが小さいってこと?どういうこと?分かんなくて。とにかく、もう、許せなかったんです。だから、たからくんを、閉じ込めたんです、私の部屋に。スマホも壊して私以外のだれとも会えないようにしました。そしたら私がたからくんの100パーセントになると思ったから。それで、私もスマホ捨ててずっとたからくんと一緒にいました。たまにゴミ捨てたり、ごはん買う以外はほとんど外に出ないで、ずっといました。」

ふう、と息をついて松井はまた相沢を見る。相沢はやはり黙っている。どんな顔をしているのか、こちらからは分からない。

「それで完璧だったんです。完全で完璧で100パーセントで全部解決なはずだったんです。だったのに。たからくんさえいれば大丈夫だと思ってたのに、私、何でか、すごくお母さんに会いたくなっちゃったんです。たからくんがいるのに、すっごく会いたくなったんです。それで、何でだろうって考えて、考えて、なんとなく分かったんです。好きってね、減らないの。ていうか、量でも数でもないの。私、お母さんに会いたかったけど、すごくすごく会いたかったけど、たからくんのことを、私の全部で好きだったんです。お母さんが入ってきても、たからくんへの好きは減らなかったんです。多分本当は、ずっとそうだったんですよね。私はいろんな人のことを、私の全部で、ちゃんと好きだった。それだけでよかったんですよね。均等とか不均等とか考えないで、ただ好きってだけでよかったんですよね。それにやっと気づいたんです。気づいて、だから、たからくんにもそれを言おうって、言って、誤って、やり直そうって、思ったのに、なのに、」

松井の瞳が瞬間、潤む。水面が揺れて、あふれる、と思った。しかしそれはあと少し、本当に少し、というところでとどまって、眼球の裏に帰っていった。良く見なければわからない程度に充血した瞳は一度空を見て、すぐに机の上で止まった。

「もう、たからくんいなかった。たからくんもお母さんもお父さんも、誰ももう私のこと好きじゃなかった。」

換気扇はいつの間にか止まっていた。変わっていまいち主の姿が浮かばない虫の声がどこからともなく聞こえてくる。松井はこの音をどんな思いで聞いているのだろう。まったく境遇の違う自分と松井が同じ音を聞いていることがなんだかすごく不思議に思えた。しかしそんな俺のとりとめのない思索にはすぐに邪魔が入った。

「んん“」相沢が気まずさを体現したようなわざとらしい咳ばらいをした。それまでほとんど全くと言っていいほど音を発さなかった彼の突然のそれに松井も俺もかすかに肩をはねさせた。

「えー、松井さん。」

咳払いのぎこちなさは何だったのかと思うほど落ち着いた普段通りの声で相沢はゆっくり刻むように口を開いた。

「高田宝さんは、あなたに謝りたいとおっしゃっていました。」

「え」

思わず声が出た。慌てて「すいません」と呟く。松井の方を見ると、俺に盗られ「え」の」口のまま相沢を見つめていた。

「勝手に出て言ってすまないと、そうおっしゃっていました。」

「な、なんで」

ようやく絞り出した、というようなかすれた声で松井が聞く。相沢はしかしそれには答えず続けた。

「二人でいるのが嫌だったわけではないと。ただ、外でデートがしたいと。一緒に、自分の好きな場所に行きたいと、だから、出ていったのだと、そうおっしゃっていました。」

松井はもう何も言わない。ラメで囲まれた目を、これ以上ないほど見開いて相沢を見つめていた。

「ですから、もう、お帰りください。私共がすることはありません。」

相沢は相変わらず抑揚を欠いた声で言った。そして、本当に奥に引っ込んでしまった。残された松井はきょとんと、本当に音がしそうなくらい「きょとん」とした顔をしていた。きっと俺も同じような顔をしていただろう。しばらくそんな状態でいると、奥から相沢が顔だけを出し、そんな俺らに「まだいたのか」という風な視線を送ってきた。そして思い出したように、

「あ、あとね、松井さん」

顔だけを出した姿勢のまま言った。

「誰かが自分のことを好きだとか好きじゃないとか、そういうのはね、あなたが決めることじゃないですよ。みんなが自分のこと好きじゃないなんて言うのはね、失礼です。」

そしてすぐに奥へ引っ込んだ。パイプ椅子にどすんと腰かける音がする。もう本当に出てくる気はなさそうだ。ふと視線を横に向けると、松井と目が合った。松井は少し驚いたような顔をした後、恥ずかしそうにうつむいた。そのあまりに普通の反応になぜか俺の耳も熱くなる。俺の中で「松井朝子」という人間の人生がぼんやりと動き始めていた。

松井はうつむいたまま立ち上がると、その場で深くお辞儀をした。俺が人生で見た中で恐らく一番深いお辞儀だった。そして小さな声で「ありがとうございました。」と言って出て行った。時計を見ると、まだ23時になっていなかった。ものすごく長い時間がたった気がしたが、松井がやってきて去っていくのはほんの1時間にも満たない間の出来事だった。

「ぐうう」腹が鳴った。そういえば菓子パンをまだ半分ほどしか食べていなかった。奥の部屋に入ると、相沢はパイプ椅子の上で腰をこれでもかとこらせて眠っていた。口が半開きになっている。あまりにみっともないその姿を、なぜか松井に見てほしい、そう思った。

「かっこつけすぎっすよ、相沢さん。」口の中で呟いて、菓子パンとともに流し込んだ。

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