6 亡き母が国

――今朝も見た気がする。


冷たい鏡を覗き込んで美邦は思う。


色違いの瞳も含め、姿見に写る姿は自分に他ならない。同時に、自分ではない。褐色の瞳と鉛色の瞳は左右逆の位置にある。自分であるのに――自分ではないのだ。


スマートフォンが鳴った。


姿見から目を離し、画面に目をやる。LIИEに、由香からのメッセージが入っていた。


「着いたで」


すぐに返信した。


「わかった。今いく」


バッグを手に取り、部屋を出る。


同時に、千秋と廊下で顔を合わせた。居間へ向かう途中だったらしく、ゲーム機を抱えている。


刹那、鏡を見たような錯覚を覚えた。


「お姉さん、今からお出かけ?」


「うん。」


最近、自分ではない者になった夢を見る。どういうわけか、それは千秋のような気がしていた。


――そんなわけない。


自分と千秋は違うのだ。


「千秋ちゃんは? せっかくの土曜日なのに――?」


「今日はゲームクリアするにぃ。」


千秋は少々オタク気質らしい。常に、何かしらのゲームや漫画に嵌っている。


「ああ――推しがいるんだっけ。」


「うん。」


竝んで階段を下りた。背格好も顔も似ている。だが、生まれも育ちも違うのだ。


玄関を出ると、冷たい風が頬を撫でた。


空は灰色に蒼い。寒さは、今、厳しくなりつつある。石垣を下り、複雑に折れる路地を進む。軒には紅い布がひらめいていた――天然痘から身を守る色が。


中通りへ出る。


鉛色の海を背に、電信柱の下で二人は待っていた。


由香は、名探偵のような上着と帽子をつけている。ただし似合ってはいない。幸子と同じ前髪を見ると、「ぱっつんトリオ」という芳賀の言葉が、不本意ながら鋭く感じられた。


「おはよ、美邦ちゃん。」


そう言った由香の顔に違和感を覚える。


幸子が突っ込んだ。


「もう、お昼だけん『こんにちは』でない?」


「おはようには遅すぎるよね。」


「まあ、ええが。」中通りの西へ顔を向ける。「とりあえず、早ぁ行かぁで。藤村君らも待っとるだらぁにぃ。」


「うん。」


ゆるやかに上下する道を進む。以前と同じ場所に幻視は見えた――喪服を着た男女の群れや、廃屋から覗く人影、焼け焦げたような影も。


坂道が多いのは、接する海が急に深くなっており、その海底と同じ地形をしているからだ。箱庭に似たこの町で、不審死や失踪は続いている。


不満げに幸子は唇を尖らせた。


「にしても――手伝うって美邦が言ったときはびっくりした。一年分の官報と、三年分の新聞だで?」


目を落とす。


「別に――私がやりたいだけだから。幸子や由香は、興味なかったら帰っていいし。」


つんと幸子は顔を逸らした。


「でも――美邦がそう言うなら、手伝わんで帰るなんて気が引けるが。だけん、調べたいって言うなら、手伝ってあげんこともないけど。」


由香は苦笑する。


「でも――藤村君も味気ないなあ。本を貸してそれで終わりって。」


「いや――それでも私は構わないから。」


先日、一冊の文庫を冬樹は美邦に貸した。表紙には、夕闇に染まる海が写っていた。


『常世論 日本人の魂のゆくえ』


それが題名だった。


「昨日から読み始めてるんだけど――少し難しいかな。それでも、ついつい読み込んだけど。」


日本人の心には、未知の空間があるという。


彼岸や盆には、祖先が帰ってくる。だが、どこから来るのかは知られていない。そこが、常世と呼ばれていた。


万物の根源であり、亡き母のいる国。海を渡ってこの国へ辿り着いた人々の記憶も常世に眠っている。


幼少期のことを思い出す。


――あそこには、神様がいた。


説明のつかない国から来た存在が。


――今はいない。


この町の――どこにも。


ため息を由香はついた。


「でも――教えてほしいってせっかく言っただけえ、もっと親身に教えてあげてもええだあが。何しろ、三年分も調べるだけえ。」


「あ。」幸子は少し意地悪な顔になる。「何なら、藤村と二人きりにして帰ってもええだけど?」


美邦は慌てふためいた。


「あ、あ、あ、それは――困る。」


「冗談冗談。」


やや小声で由香は言った。


「幸子――あんま茶化おちょくるでないがあ。」


ふっと――違和感を再び覚える。


由香は、先日と同じ由香だろうか。何かが違う。心なしか、少しだけ顔も蒼く見えた。


同じ違和感を覚えたらしく、幸子は真顔になる。


「由香――まさか元気ない?」


由香は目を瞬かせる。


「え、何で?」


「なんてかさ――由香のテンション、いつもより一オクターヴ下がっとる気がするだけど。」


「私も――何だかそんな気がするよ?」


由香は考え込む。


「テンションが一億ターブも下がったら、うつ病になっとると思うけどなあ。」


冷たい風が吹いた。


そして、由香は顔を上げる。


「ああ――だけど、確かに今日は、ちょっと身体が軽いやな気がする。風邪でも引いたかいな?」


「大丈夫かえ?」幸子は眉を寄せる。「風邪は引き始めが重要だけん、早めに葛根湯でも呑んどきないよ?」


「わかった。」


やがて、十字路に出た。


バス停と、琺瑯ホーロー看板や広告の貼られた待合室がある。以前、荒神塚へ行った際に見た時とは違う印象を受けた。


十字路を、駅へ向けて折れる。


しばらくして、シャッターの閉まった店が現れる。電器屋や酒屋――写真館もあった。営業しているものはない。その景色に既視感を覚える。


――ここは、来たことがある。


少し考え、慄然とした。


――夢の中で見た。


紅い布の垂れたシャッターも、郵便局も、薬局も同じだ。初めて来る場所を――夢の中で歩いていた。


当然、三歳まで美邦は町に住んでいたのだ。その時に来ていたのだとしても可怪しくはない。だが、


――踏切へ向かっていた。


死のうとしていたのだ。


平坂神社の主祭神は、大国主命の奇魂くしみたま幸魂さきみたまだという。それは、自分の一部が幽体離脱したものであり、もう一人の自分なのだ。


――自分ではない自分。


幼児期の記憶や夢に現れた光景は――自分の記憶なのだろうか。何しろ、この町に来て以来、見たことがないはずのものを見ているのだ。


道路をまたぐアーチ状の看板が現れた。錆の流れた表面には、「平坂商店街」と書かれている。


駅前の広場につく。


そこには、冬樹と芳賀が待っていた。


由香の顔を目にし、クールなのか不愛想なのか分からない顔で芳賀は言う。


「実相寺さん、いつもよりコケシに似とるなあ。」


由香はむっとする。


「何、その『いつもより』って?」


怪訝に眉を芳賀はゆがめている。


「いや、新品のコケシっぽいっていうか、白い。」


「ああ。」由香は少し安心する。「なんか風邪の引き始めっぽいにぃ。」


冬樹は目を瞬かせた。


「ん? 風邪ってあの病気の風邪――?」


「もう、私が他にどんな風邪ひくの!」線路の方へ足を向けた。「とりあえず、はやぁ郷土史家さんぇ行かあで。あんま待たせてもいけんが。藤村君、知っとるでないの?」


「ああ。」


冬樹を先頭にして、上里へと歩きだす。


広場から東へ少し逸れた処に――。


踏切があった。


美邦は立ち止まる。


夢で見たのと全く同じ踏切だ。しかも、三、四体ほどの黒い影がたむろしている。立ったり、しゃがんだりして折り重なっていた。


幸子が声をかける。


「美邦、どうしたん?」


「いや――何でもない。ちょっと、幻視があっただけだから。」


幻視が目に入ることは、気持ちのいいことではない。しかし、しょせん幻視は幻視だ。祟りがあったり、攻撃してきたりするわけではない――無害な立体映像と同じなのだ。


――これは、特別なものでも何でもないんだ。


脳の誤作動が作り出した幻影にすぎないのだ。


美邦は目を閉じ、踏切を渡る。


踏切の先には田畑が拡がっていた。美邦が京都に住んでいた頃、漠然と想像していた「田舎」の姿だ。


踏切から離れ、美邦はふと問うた。


「あの踏切って、過去に何かがあったのかしら?」


由香は小首をかしげる。


「うん? どしてぇ?」


「いや――何だか、変な感じがしていたから。」


前方から芳賀が口を開く。


「事故が多いみたいだで。ただでさえ――この町は多いけぇ。」

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