第2話 神野家の面々

 猛暑日が続く八月。

 クーラーの効いたリビングで、夏休みの宿題をする神野綾人(ジンノアヤト)は、終業式に担任から配られた作文用紙を見つめ、長い溜め息を吐いた。

 

「皆さんは来年から中学生。やりたいことを早めに考えることは、人生の目標になります。この夏休みに“将来の夢”を考え書いてみてください」

 

 先生の言葉が頭の中に響く──。

 その時は、あまり深く考えなかったが、この状況に追い込まれてもっと早く始めれば良かったと心底思う。目の前の作文用紙が真っ白なまま時間だけが過ぎていき、何も書けない自分がいるからだ。


「あーあ、宿題さえなければ、夏休みは最高なんだけどな──」

 

 勉強が嫌いなわけではない。自分で言うのもなんだが、記憶力がよく、成績も優秀な方だと思う。ただ、自分の気持ちを書く作文と体を動かす体育だけは、どうも苦手だった。

 作文は何時間もかけて何とか形になっていくのだが、体育に至っては連帯行動や運動全般が苦手で自信がなく、まったくやる気が起きない。

 そんな自分を心配した両親によって、せめて体を強くするためにでもと、暫く水泳を習っていたこともあって運動神経がないけれど体力だけがある“超インドア小学生”が誕生したと、自分では思っている。

  

「はぁー、夢とか誰でも持ってると、思わないでほしいよー」そう言うと綾人は、鉛筆を口に咥えてイスにもたれかかった。

 

「こらっ綾人! お行儀の悪い。来年から中学生なんだから鉛筆を噛むのをやめなさい。そのまま倒れたら大怪我するでしょ」キッチンで食器を拭きながら、かーちーは俺を叱った。

 

 “かーちー“。家族内で使われる母親のあだ名で、本名は神野菜桜子(ジンノナオコ)。

 あだ名の由来は、母親の母を“かあ”と呼び、親を“ちか”と呼べることを知った俺が名付けたらしいが──全然覚えていない。

 物心がついた頃から、そう呼ばれていた気がするけど、俺は呼びやすいし気に入っていたので、今もかーちーと呼んでいる。

 

 かーちーは研究職に就いており、職業柄、間違いに対しては正論で話すので、言い訳をしても全く歯が立たない。だからといって嫌いではない。自分に厳しく他人にも駄目なことは駄目と言える、厳しさと優しさを持った尊敬できる人だから。

 あと余談だが、俺はかーちーの作る料理で“ほうれん草チヂミ”が一番の好物である。


「やーい、怒られたー。綾人おぴうすー!」無邪気で明るい声が空気を一変させる。


 妹である神野茉莉(ジンノマツリ)は、両手の人差し指を綾人に向けながら話に入ってきた。

 “おぴうす”とは茉莉が考えたギャグらしい。小学三年生の茉莉は意味不明な言葉を作ったり、都市伝説や占いを調べては毎日楽しそうに過ごしている。

 

「はいはい、おバカちゃん」と、いつもの様に軽く対応するのだが、内心では茉莉には感謝していることが多い。叱られて気持ちが沈む時など、天真爛漫な性格のおかげで場の雰囲気が良くなるからだ。


「なんだとぉ、綾人ぉー。おりゃー!」にやけた顔で茉莉は手をグーにすると、お腹へグリグリ攻撃してくる。こいつは、俺がくすぐったい場所を真っ先に狙うからやっかいだ。


「茉莉、やめろ──」

「いやだよ──」

 

 兄妹がふざけ合う光景が神野家でのいつもの日常であった。


「うおぉ──、やったぁ────‼︎」突然、家中に響き渡る歓喜の声が二階からに聞こえてくる。

 

「どうしたのー⁉︎」菜桜子は、心配してキッチンから声をかけると”とーちー“が、興奮した顔をして転げるように降りてきた。

 

 神野司(ジンノツカサ)。家族から“とーちー”と呼ばれている父親だ。

 父さんの「とう」と父親の「ちち」から取って「とーちー」となったらしいが、母親同様に名付けたかは覚えていない。

 

 とーちーは秘密主義なところがあり、昔の話を家ではほとんどしない。知っているのは、結婚前はかなり自堕落な生活をしていたということだけだ。

 いつも適当なことを言っては無駄にポジティブな態度を取る所が、思春期の綾人にとって、少し鬱陶しく感じることもあった。

 だからじゃないけど……大学も行っていないとーちーを、どこか軽く見てしまっている自分がいて、今回もどうせ、宝くじが千円でも当たったのだろうなと無視していた。


 そんな綾人と真逆の行動をして茉莉は「なに、なに、何が当たったの?」と目を輝かせ、飛び跳ねるように駆け寄っていくと、司はイスの上に立ち上がり興奮したまま話し出した。

 

「聞いて驚け! 皆んな……滋賀県にある高級コテージへ旅行に行くぞ──‼︎」

 

「旅行……本当に?」皿洗いをピタッと止めて、エプロンを外す菜桜子。

 

「もちのロンだよ!」


「分かった。ちゃんと聞くから……その前にイスの上から降りて話してくれないかな?」


「あっ……はい」司は、少しテンションを下げてイスから降りると、菜桜子は話を聞く体勢に入った。


 司は空気の流れを変えるように両手を一回叩く。

「はい! メール転送したから見てよー」相変わらず気持ちを切り替えが早い男だ。

 

「高級コテージ宿泊無料モニター、一般向けA棟B棟、合わせて合計10組様募集? ……これ詐欺メールじゃないよね」


「違う違う! ほら、ずっと前に世界的に有名な建築家が防災シェルター会社とコラボした時、完成したらモニター募集を募りますってのがあったろ」


「確かにあったけど……フィッシング詐欺じゃない?」


「応募した会社のドメインを確認して、正規HPに当選ナンバーも乗ってたし大丈夫だって」


「そうなんだ……あれ? 宿泊日、八月十五日って……もう直ぐじゃない、仕事や習い事どうするのよ!」カレンダーを見て興奮する菜桜子。


「俺は、有休余ってるから使うよ。綾人も茉莉も盆だから習い事も休みだろ。後は、菜桜子さんの仕事なんだけど……何とかならない?」


「それにしても急すぎるわよ! まぁ……こんな機会ないし、私も何とか頼んでみるけど」


「決まりだな」満足した顔をする司。

 

「やった──!」その話を聞いていた綾人と茉莉は、夏休みのお出かけが、近場しかなかったので歓喜の声を上げた。


 にこにこしながら茉莉は、司に質問する。

 

「で、滋賀ってどこ?」


「プププ……知らないの茉莉。おぴうすー!」


「うるさい綾人! 知ってるよ、ちょっとド忘れしただけ」


「待った、待った! 二人とも、とりあえず一旦ストップ!」 

 司は揶揄う綾人とムキになる茉莉の間に入ると説明を始める。


「滋賀県は琵琶湖という名の日本で一番大きい湖がある県だ」


「茉莉、知ってるよ、それくらい! 湖の底にムー大陸がある所でしょ」


「ハハハ、あるかも知れないな」

 

 司と菜桜子は微笑み。綾人は、もう一度、揶揄い出す。 

「ム、ム、ム、ムー大陸──⁉︎ 茉莉、超おぴうすー!」


「綾人ぉ──。おりゃー、待てー!」

「ひぃー、逃げろー!」

 

 ドタバタとソファーの周りを走る兄妹の仲よい、いつもの光景を見ながら、旅行について打ち合わせを始める司と菜桜子。

 

「ねぇ、“おぴうす”って結局何なんなの」

「さあ、何だろうね」と、司は答えると二人は笑った。

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