第33話 オルフェウス
「どこに行くんだ?」
椿の葉が池にひらひらと舞い落ちて流れる様子を橋の上から眺めながら閏は聞いた。
「お風呂場に行くときにスタッフさんから聞いたんだけど、ここって結婚式の会場にも使われるからグランドピアノが置いてある大ホールもあるんだって」
少し湿った髪を揺らしながら前を歩くユナは楽しそうに振り返りながら笑みを浮かべる。
「ピアノのある部屋か! それはいい。実に良い。ここのインテリアはどれも素晴らしいからな。よし行くぞ」
閏は落ち込んでいた悩みも忘れて足取りが軽やかになった。
庭園の中を二人でゆっくりと歩きながら、ユナは紅葉する木々を見上げて言った。
「そういえば知ってる? この街は今ハロウィンの季節なんだよ」
「ハロウィン? ああ、そうか。学園都市の入り口でやたらと屋台が建ち並んでいたのは祭りの準備をしていたのか」
季節を感じるような生活を送ってこなかった閏は、今初めて秋を感じた気がした。
「魔女が出てきたのも、季節のせいだと思えば、怖くないよね」
ハロウィンでは魔族の仮装をして楽しむのが定番だ。その中でも魔女は人気が高い。
「部屋が歩き出しても怖くないな。ユナに飴玉でも飾っておくか」
「飴ちゃんはユナがお口の中でころころ転がして食べちゃうもん」
胃袋の中に収まっても、それは部屋のインテリアじゃないかと閏は考える。
「また失礼なこと考えてる」
「なんでわかるんだよ」
「閏はすぐ考えが顔に出るの」
そんなにわかりやすいだろうかと、閏は自身の顔を撫でた。
やがて、温泉宿とは別のドームのような建物にたどり着いた。
真鍮のドアノブを開いて中に入れば、そこは舞踏会でも開けそうな大ホールだった。
正面には花と妖精が描かれた色とりどりのステンドグラスが外からのライトを浴びて輝いている。
円形の壁にはドレープが重なり合う深紅のカーテンがかけられていた。
吹き抜けのような高い天井にはクリスタルのような輝きを放つシャンデリアから、温かみのある明かりが灯され、ホールの中央には一段高い位置にひときわ目立つ黒いグランドピアノが置かれていた。
「素晴らしい! 色彩と形が見事に調和され、荘厳かつ人の温かみも感じられる生きた神話のようなインテリアだ!」
いたく感動した閏は部屋の隅々まで眺めながらホールの中を歩き回った。
この大ホールの雰囲気ならピエト・モンドリアンの赤、青、黄のコンポジションを飾っても映えそうだなと考える。飾るならどこにしようかと、楽器の鍵盤にも使われる建築資材ブナの木を石畳のように切り抜いて飾り付けたすべすべしている茶色い壁をなぞるように触りながら真剣に悩み始めていた。
「こっちこっち、閏、こっち見て」
ユナに促されてホールの奥の方、カーテンの奥へ足を踏み入れた途端、閏の目は輝いた。
「これはカミーユ・コローの『オルフェウス』!!」
「忠國がね、絵画には空調管理が大切だからって、ここに保存しておいてくれたの」
ピアノのあるこの大ホールはピアノの木材が湿気によって痛まないように空調管理もしっかりしている。
「さすが能三先生だ! 絵画のことをよくわかっていらっしゃる!!」
閏が絵画の扱いに感動していると、ユナが絵画を見上げながら話し出す。
「閏にこの絵の作者とタイトルを聞いてユナも調べたの。この作品はコローの『オルフェウス』の中でも『冥界からエウリディケを連れ出すオルフェウス』なんだってね」
薄い灰色に覆われた幻想的な木立のふもとには女性の手を引く男性の姿が描かれている。
ギリシャ神話のワンシーンを描写したものであり、男性がオルフェウス。女性の方がオルフェウスの最愛の妻、エウリディケだった。
「オルフェウスの妻は毒蛇に噛まれて命を落とした。だが、オルフェウスは竪琴の名手だ。その音色は冥界の王ハーデスまでも魅了した。特別に妻エウリディケを返してもらえることになったが、ハーデスは現世に戻るまで決してエウリディケを振り向いてはならないと言いつけるんだ」
閏の解説の通り、森が幻想的に描かれているのは、ここがまだ冥界の森だからだろう。
男が必死に顔を背けて前へ前へ歩く姿はハーデスの言いつけを守っているからだ。
「見ちゃダメーっていうところがユナに似てるなぁって思って、だからセツナもこの絵を飾ったのかなって思ったけど」
ちなみに、オルフェウスはあと少しで現世という直前で急に不安になり、エウリディケに振り返ってしまう。言いつけを守らず、妻の顔を見てしまったオルフェウスは妻を取り戻すことが叶わず、エウリディケは再び冥界に落とされた。
「見てはいけない系の神話は多い。けど、セツナの考えは違うのか?」
「うん、違うと思うな。だってセツナは普通の感性だし、閏みたいにインテリア馬鹿じゃないもん」
「誰が馬鹿だ!!」
聞き捨てならないが、まぁ普通の感性ではないという自覚はあった。
「セツナはこういう時間をユナに過ごしてほしいって思ったんだと思う」
「こういう時間?」
「絵を見ながらのんびり過ごす時間だよ。部屋って本来寛ぐためのものでしょ。大きな部屋なら家族が寛ぐための空間じゃん。だから、セツナはユナに本来の部屋の在り方として家族とか大切な人たちを暖めてあげられる空間になってほしかったんだと思うの」
部屋本来の在り方。それを聞いたとき、閏の心にも暖炉のように暖かな気持ちが舞い戻って来た。
「だってセツナは家族だもん。家族のこと大切に思ってくれているよ」
そうかもしれない。本来の家族とは絵を見ながら真面目に考察するのではなく、神話を語らい、色彩に目を奪われ、同じ感動を共有する。そういった時間のために絵画を飾るのだろう。
間違ってもインテリアのバランスを考えて絵画を飾る馬鹿は居ないと思えた。
「ねぇ、閏はお母さんが大好きだったんでしょ? 樹くんのことも大好きなんだよね?」
閏は顔をしかめた。
「なんでユナが樹を知っているんだよ?」
「保健室まで尾行した」
悪びれもしない。しかし、怒る気にもなれない。
「良いじゃん、正義とか悪とか難しいこと考えなくても。同じ感動を共有できる大好きな家族と友達。家族を失うことは悲しい。だけど家族の裏切りも悲しい。友達と喧嘩するのは悲しい。だけど友達のことは大好き。そういう素直な気持ちを閏の一番怖い部屋で告白してみたら?」
ユナは続けて話す。
「友達と辛いことや悲しいことも話し合えて、許し合えたら、部屋は閏にとって楽しい場所になる! ユナがその場所になりたい! ユナは『見ると死ぬ部屋』なんかじゃない!」
素直なその言葉が閏の気持ちも前に向かせた。
「樹は聞いてくれるかな? 母上の裏切りが許せなかった。母上を許さなかった父上が怖かった。嫌いになったわけじゃないんだ。父上のことが怖くなっただけなんだよ」
父親に向けた恐怖を血で汚れた部屋のせいにして怯えていた。
「閏はまるで今の樹みたいだね。あの子も何かに怯えて背中を向けているように見えた。それなら閏が樹の未来になってあげればいいんだよ」
「俺が樹の未来に……?」
ユナは冷たくない手を差し出す。
「もしもセツナが飾ったこの『オルフェウス』に意味があるとしたら、過去を振り返るな」
ハッとして閏は顔を上げた。ユナの澄んだ紫色の瞳を夜空のように見上げた。
「つまり、未来へ進めってことでしょ」
絵画のうんちくばかりに目がいき、題材に込められた本質を見落としていたと気付いた。
「……ユナの言う通りだ。見れば死ぬ。そんな罠に意味なんかない。大事なことは振り返らないで未来へ進めるかどうか」
閏は見落としていた自分の過ちにようやく気付く。
「神話のほとんどが教訓だ。説法だって全ては子供に聞かせる教訓なんだ。人はいつか一人で生きていかなければいけない。仲間も大切だけれど、寄りかかる壁を仲間と呼べるものか」
頷くユナも気持ちは同じのようだ。
「自立しないと仲間も守れない。家族も、もちろん大切だけど甘える場所は自分の部屋くらいにしておいて、外に出たら前を向いて歩かないと躓いて転んでいたら未来にたどり着けないよ」
だから、とユナは微笑みを浮かべた。
「怖くないよ。閏と樹を暖める甘えていい空間はユナが作り出す。閏は自分の部屋が怖いって言ったけど、ユナの部屋には『オルフェウス』が飾ってあるよ。樹と見てみたくない?」
振り返らないで前に進むために、過去と向き合い決別するために、樹と決着をつける。
閏はユナの手を取った。暖炉のように暖かな光に包まれたようだった。
「まだまだ不安な俺と樹のために俺の『コンポジション』と樹の『ナイトホークス』も飾ってくれるか?」
ユナは笑顔で答える。
「もちろん! ソファーとコーヒーも用意するよ! いつか美術館みたいな閏の部屋になって見せるから! 友達に自慢したいと思える部屋! 閏が友達を招ける部屋に!」
それは素晴らしいアイデアのように思えた。ユナが閏と樹を抱きしめて絵画の色どりを見せてくれる。そういう空間になるようにセツナも望んでいるのだとしたら、セツナも迎え入れたい。
「ユナ、セツナを迎えに行こう。俺は樹を招くから、ユナはセツナを俺に紹介してくれよ」
「うん。家族だもんね。話し合いは絶対にしたい」
みんなも招きたい。家族の中心にあった部屋は今、閏にとって友達を招ける楽しい空間になっていた。
「ユナ行こう。俺はもう過去を振り返らない。『オルフェウス』と同じ過ちは犯さないさ」
不安になっても心細くなっても帰る場所はあるから。閏は出口に向けて歩き出した。
駆け寄るユナの歩幅に合わせて次第にゆっくりと歩き出す。肩を並べた二人は振り返ることなく大ホールに別れを告げて、いつもの夜に帰っていった。
赤く黄色くオレンジに、秋の色に色づいた庭園を歩きながら、温泉宿に戻ってきた。
みんな笑顔で迎えてくれた。
☆☆☆
みなさんも絵画に興味を持ったらぜひ調べて実際に見てみてくださいね(*´ω`*)
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