第23話 聞き流してくれても構わないんだ
「この『ナイトホークス』は今は失われたアメリカという国の都市、ニューヨークにあったグリニッジヴィレッジの一角の小さな食堂を描いた作品だ。見ての通り、深夜の
閏の解説の通り、絵の中では深夜のダウンタウンの人通りのない暗さとガラス張りの店内の蛍光灯に照らされた明るい色が一つの絵の中に収まっている。
明暗の描き分けをどう解釈するのかは、見る人の心に左右されるだろう。
あるいは、もっと踏み込んで人々の様子も観察すると、作者の意図に近付けるかもしれない。
「ホッパーは無意識のうちに大都市の孤独を描いていたと語っていたが、このナイトホークスが描かれた時期はアジア・太平洋戦争が勃発した翌年だ。ホッパーは戦争運動のポスターも数多く手がけているし、戦時中のアメリカに思うところがあったのは間違いないだろう」
「僕だって戦争には反対だ」
おそらく大多数の人間が平和を望むだろう。ホッパーも戦争への抵抗を描いたのではないかと評されている。
「そうだろうな。だが、戦うべき理由もこの絵に描かれていると思わないか?」
瞳を細める樹は絵の中に戦うべき理由を探しているようにも見える。
「……わからないな。君なら正義と答えそうだけど、僕にはカップルと独り者が夜のカフェで夜更かしをしているようにしか見えない」
わからないのは、閏の正義であって、ここに描かれた正義は樹にしかわからない。そういう意味のわからない、と言われた気がした。
「見る場所が変わると正義の意味も変わる。脳三先生の言葉だ。この絵も見る場所によっては一人静かに夜を過ごしたい男の前に、街のどこに行っても、深夜に逃げ込もうと、喧騒を連れてくる邪魔者と遭遇してしまった自由の喪失とも取れるだろう」
樹の読書の邪魔をした俺のように、と呟けば樹もくすりと笑って返した。
「アメリカは自由の国だったね。確かに、戦争によってアメリカ人の自由は奪われた。これがホッパーの戦争に対する抵抗だというなら、ブラックジョークが過ぎるな。自由を勝ち取るために兵士たちは戦場に駆り出されているのだろう。カフェにいる民間人に罵られたくないさ」
確かに前線で戦う兵士たちにしてみれば、誰のために戦っているのかと嘆きたくなる表現だろう。
しかしながら、樹の纏う空気がぴりぴりとしてきた。何か地雷を踏んだのだろうか。
精神を落ち着けるため、一度咳払いをした閏は背筋を伸ばして話題を元に戻した。
「ブラックジョークかどうかはともかく、ホッパーの『ナイトホークス』はアメリカの自由と孤独を表現していると考察されることが多い」
「それについては賛同するよ」
先ほどはわからないと言っておきながら、イラつきを表に出すとあっけなく肯定している。
問題は樹がなぜ怒りだしたのか。
「俺には孤独になりたかった男の自由が奪われた様子に思える」
考察を語るほどに閏も内心で肝を冷やしていた。
樹から静かに放たれる殺気が物理的に寒い。手先が凍えて痺れを感じるほど冷気を発している。
なぜこうなったのか。そもそも、樹の内情を精神ネットワークに介入して覗き見たわけではない。単なる状況証拠だけで、『ナイトホークス』に込められた作者の思いと、樹の悲しみを当て嵌められるのではないか、という憶測だけで語っていた。
正直、こんなものは言葉遊びに過ぎないとわかっていた。
しかし、樹の反応が良すぎた。憶測ではなく、樹の反応が閏の言葉を事実に書き換えていくように。
そして今、閏は藪蛇の蛇を引きずり出した、あるいは冬眠中のクマを叩き起こし、買わなくていい喧嘩を売りつけた上で買い上げた状況に陥った。
今まで友人らしい友人がいなかった故の弊害か。安易に人の悲しみに踏み込めば戦争すら待ったなしの状況になると今さら気付く。
しかし、最悪の事態を想定していたら、予想外に樹は柔和な笑みを浮かべて閏の方へ振り返った。
「つまり、君はこう言いたいのだろう? 僕もホッパーと同じように孤独と自由を求めているのではないかと」
心底安堵した。樹はへそを曲げるほど子供ではない。対話を続けてくれる。
「まぁ、その、そうだな。樹はどう見ても絵描きではなさそうだし、今の時代に戦争は起きていない。だから、ホッパーとは別の理由があるんだと思う。けれど、どんな理由であれ、樹が孤独と自由を求めた動機が悪とは言い切れないんじゃないかと俺は思うわけだ」
すっと樹の目は細められる。猫の笑顔に似ていると思った。
「僕の弁護はもう十分だよ。だけど、僕の悲しみを理解したところで、時十閏の正義を証明する手立てにはならない。トラウマの克服にも繋がらないだろうね。君が、動き出さない限りは」
何かアクションを起こせばトラウマを克服できるのかと思い、首を傾げたり、手を上げたり下げたりしてみたが、何も起こらなかった。
『……貴様は時々、知能指数が著しく低下するな』
『俺は部屋に飾る絵画のこと以外はさっぱり理解できない』
しかし、インテリア馬鹿の思考を読み取ったかのように、樹は口を開いた。
「君の正義を僕は聞いていないんだ。君は当たり前のように、君にとって非日常的な僕の正義を証明してくれた。だけど、僕は戦い続ける君の正義を、あるいは君の悲しみを理解する用意ができていない」
突然押しかけて、一方的に閏が喋りだしたのだから、それは仕方のないことだと思う。
「それでも戦う準備は出来ている。僕と君は違う正義を信じる敵対者だと理解しているよ」
樹の言う意味が理解できなくて閏は首を傾げた。
「俺たちってトラウマを曝け出すと正義がなんちゃらと大義を抱えて戦い合わなければいけないのか?」
孤独と自由を求めることが樹の正義であるというなら、求めたことに理解を示した閏は樹の正義を弁護したことになる。
だけど、樹は閏の正義とは対立すると予期しているようだ。それがなぜなのかわからない。
「場合によってはそうじゃないかな。黒い色は死者を弔うもの。あるいは粛清を果たす魔人の正義とも言えるだろう。紫は古代より高貴な色だ。権威を象徴する紫の機関銃を左手に持ち、正義を誓う漆黒の刀を右手に持つ、君の両手は白い旗を振れない」
樹がどうして閏の武器を知っているのかはわからない。もしかしたら、精神ネットワークの介入があったのかもしれない。樹にも知識として記憶が上書きされた可能性もなくはない。
「僕は祈るように目を閉じ、叫ぶように口を開いて言葉を閉じ込めた。願いが叶わず祈りも届かず言葉すら失くしてしまっても、それでも、僕は大地を踏みしめて立っているんだ。今は君と向かい合いながら、銃を持ち、立っているんだよ」
樹の言うことは半分もわからないがお互いに降伏はあり得ないという意味なら理解できる。樹は自身の正義のために膝をつかない。閏も両手に掴んだものは閏の背負った責任だ。責任を放棄するなら最初から正義を求めていない。
「とりあえず、課外授業だ」
「敵前逃亡は戦犯じゃないかな」
「戦略的撤退だ。俺のトラウマを話しても、今は俺自身がそこにある正義に納得していない。和解策が見つからないなら、樹の正義と戦えるように俺も少しは成長しないとな。自己弁護出来るくらいには、俺の正義を証明する手立てを見つけてくる」
ゆっくりと、三度瞬きを繰り返した樹は頷いた。
「頑張って」
「ああ、ありがとう」
去ろうとする閏に後ろから声をかけられた。
「一つ、ヒントをあげるよ。ケツァルコアトルの卵に目に映ることなく、目で見る方法を聞くといい」
少し考えた閏は肩をすくめた。
「樹はなぞなぞばかりだな」
「絵画を前にした君ほどじゃないよ」
それもそうだと思い、手を振って保健室を後にした。
待ち合わせの正面玄関に向かいながら、麦虎はひげを揺らした。
『少し傷口をつついただけなのに反応が過剰すぎるな。魔女の協力者は樹じゃないのか?』
ゆったりとした足取りで正面玄関に向かう閏も、思案するように顎に手を添える。
『その可能性も考えたけど、状況証拠だけでは戦えない。樹を説得させられる反証が必要になるんだよ。たぶんそれが俺の正義になると思って樹は身構えたんだと思うけど……』
あーあー唸って頭をがしがしとかいた閏は信じられないものを見たかのように自分の手のひらを眺めた。
『なぜ俺は、あれほどまで雄弁に樹の悲しみを正当化し、孤独と自由を渇望する動機に正義があると証明してしまったのか……!』
『うむ、我も貴様は敵の正義も理解した上で毅然と戦う見上げた戦士なのかと期待したが、まさか自己弁護を用意していない阿呆だったとは予想外であった』
阿呆と言われてしまえばそれまでである。しかし、保健室に向かった当初は単に自分が成長できればと思っていただけなのだ。
『だけど、希望もあるよな。共犯者が樹だと仮定しても、魔女と全面的な協力はしていない。たぶん、魔女とは別の動機で『ガフの部屋』が必要なんだろう』
『そうであろうな。あの小僧ならユナの精神汚染は可能だったはずだ』
ユナの魂は汚染できないが、あそこまでセツナと離れたくないと願っているのなら、セツナと一緒にお出かけするくらいの誘導はできたはずだと閏も考える。
しかし、ユナの精神ネットワークへの介入は行われていない。
『問題は降ってわいた課外授業が魔女の仕組んだ罠なのか、樹が用意したヒントなのかってことだよな』
『勝ってアイテムをゲットしてしまえばどちらでも構わないだろう』
至ってシンプルな構成に頷くしかない。閏は足を速めて集合場所へ急いだ。
☆☆☆
退屈にさせてしまったら申し訳ないです!
あーでも主人公がいけないんすよー、インテリアバカだから絵画に答えがあるとか思っちゃう変な子なんですよねー←責任を押し付ける
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