ヴェスタ孤児院
「おーい、ベルカ。あんた何サボってるのよ。起きなさい!」
肩を押されて、急速に意識が呼び戻される。花壇に立てかけていた箒が地面に落ちて、思わず「ふあぁ」と情けない声が漏れる。
「皆が掃除しているのに呑気に寝てるなんて、どれだけ夜更かししてたの?」
「ごめんね、ストレルカ」
「私が許しても、女神様が赦してくれないんだからね」
「サボった分はちゃんとやるから、そんな意地悪言わないでよ」
瞼をこすりながら上目遣いでストレルカを見ると、彼女は悪戯っぽく笑った。
「冗談よ、それよりも祈りの時間だから呼びに来たんだからね」
「えっ、もうそんな時間? 急がなくちゃ」
ズボンを軽く払って、立ち上がる。ストレルカはもう掃除道具は片付けてきたのか、両手には何も持っていなかった。
「今日は”先生”がいらっしゃるんだからね」
「うん、分かってるよ」
まるで僕らみたいだ、と思った。
月面都市のヴェスタ孤児院。中庭からは唯一空が見える。といっても、ガラス張りで丸く切り取られた空。そこには大きな青い星。僕たちの産まれた地球が見える。
明るく、そして温度調節が施された中庭には、今は僕とストレルカしかいない。とっくに他のみんなは礼拝堂に向かったのだろう。
「行くよ、ベルカ」
ストレルカについていき、室内に入ると途端に植物の香りは消え失せ、キャンドルの香りがした。軽く土を落として、廊下を歩く。礼拝堂へと続く重々しい扉を、ストレルカと二人で開けると広々とした空間が出迎えた。
礼拝堂には既に他のみんなが集まっていた。年齢も性別も、肌の色も違うがここではそれが当たり前で、誰もそこに違和感を覚えたことはない。毎年増えたり減ったりしているが、今は僕とストレルカを合わせて合計十六人の子供たちが、落ち着きなく囁きあっており、礼拝堂の
やがて正面横の扉から司祭様が現れる。途端に、礼拝堂は水を打ったように静まり返った。
「みなさん、集まっていますね」
司祭は良く通る声でそう言うと、
「では、女神ヴェスタと神の子に。祈りを捧げます」
静かだ。だがいつもと違って、気分は高揚している。無理もない。今日は
祈りが終わると、後ろの扉が軋みをあげて開いた。そこには、見知った顔。僕らに救いの手を差し伸べてくれた、先生がいた。先生の隣には、付き人が二人。どちらもいつも先生と一緒に来る人だった。
「さぁ皆さん、今日はめでたい日です。先生が、ご馳走を持ってきて下さいましたよ」
司祭様の言葉に、各々が喜々として声を上げる。さざ波のように押し寄せてくる感想を一身に受けても、先生は笑顔を絶やさない。僕にはそれが、糊で固められたもののように思えた。
「では、食堂でいただきましょう」
付き人二人が先導するかたちで、僕たちは食堂へ向かう。先生は司祭様と何か話があるのか、その場に留まっている。だがその
廊下を歩いて、食堂に向かっているときにふと思い出した。そういえば、掃除で使っていた箒を戻した記憶がない。使ったものは元の場所に戻しましょう、と散々言われているのだ。
「どうかしたか?」
不意に立ち止まったのに気付いたのか、前を歩いていたチャイカが振り返った。
「さっき掃除してたとき、箒を使っていたんだけど戻し忘れたような気がして」
「ベルカ、片付けはヤクソクだよ」
チャイカの後ろからひょっこりと顔を覗かせたのは、チャイカの妹のリシチカだった。前髪を留めている花の形をした髪飾りがよく似合っている。チャイカが地球の植物を模して作ったものだ。リシチカはご馳走が待ち遠しいのか、チャイカの袖をぐいぐいと引っ張っていた。
「そうだね、リシチカ。ちょっと片付けてくるよ。チャイカ、ストレルカにすぐに行くからご馳走残しておいてと伝えてね」
「どうかな、あいつも食い意地張ってるからなぁ」
あいつも、ということはリシチカもかと思ったが、チャイカがにやりと笑みを作ったとこを見て納得する。
「とにかく早く戻るから、よろしくね」
「善処する」
身を翻して、来た道を戻る。とはいえ、皆が食堂に向かっているというのに、一人だけ庭に向かっているのが見つかっても本末転倒だ。忍び足で歩いていると、どこかから声が聞こえてくる。どうも、礼拝堂からのようだ。扉が完全に締まりきっていないのか、僅かに光が零れている。
「――では、今年も変更はないな?」
「はい、ジオテール様の要望通りです。リシチカはまだ幼いですが、一人残したところでこちらの負担が増えるだけなので……兄と同行させるのが安牌でしょう」
「ふむ、あれは
「左様でございます」
「ふむ。まぁよい。兄妹が同時に神に認められるなど、光栄の極みだとでも言っておきましょう」
「ほっほっほ、それはいい」
「それで、オリオン。他はどうだ」
「はい、大きな問題はないですが、表向きは閉鎖しているというのを訝しんでいる輩がおりますゆえ、何か対策を講じたほうがよいかと」
「今、別の施設を作っているところだ、しばらく待っていたまえ。変に嗅ぎまわるジャーナリストには、少々痛い目に遭ってもらおう」
「ほっほっほ、相変わらず恐ろしいお方だ」
何だ、何の話をしているんだ?
先生と、司祭様の声はここからでは小さく、聞き取りにくい。重たい扉に身を寄せる。
「――ではジオテール様、明後日に出立するのですね」
「うむ。最新の宇宙船だ。三ヶ月もあれば木星軌道スペースコロニーに着く。なにやらデブリ課の話も再燃しているらしいし、顔を出さねばなるまい」
「なんと、まるで馬鹿の一つ覚えのように……折角英雄まで使ったというのに、苦労されますな」
「ふん、あれは死んで当然。それにデブリ課共も、所詮烏合の衆だ。蘇ったところで、どうとでもなる」
「流石はジオテール様。それで、その、お金のことなんですが……」
「案ずるな、すでに振り込んである。少し色をつけておいた。決して奴らを表に出すことのないようにな。今後も、期待しておるぞ」
「はい、ありがたき幸せに存じます」
司祭様の吊り上がった口角は、今までにみたことがないほど不気味だった。これ以上の盗み聞きはやめよう。
そう思ったところで、重たい扉が微かに軋んだ。
「誰だ!」
司祭様とも先生のものかも分からない鋭い声が飛んでくる。僕は一目散にその場を離れた。
恐らく何か内密な話だったに違いない。金銭のやり取りまであったぐらいだ。もしこれを僕が聞いていたなんでバレたら、ただでは済まないだろう。
躓いたりしないよう慎重に、そして俊敏に廊下を駆ける。食堂への扉に手をかけて、中を盗み見ると、テーブルを囲んでお喋りに興じていて、席についていないのが何人もいる。付き人の一人は床に屈みこんで何かをしている。もう一人は、ご馳走の用意をしているのか背を向けていた。
最低限の隙間だけ扉を開けて、体をねじ込む。そのままの足取りでストレルカの元に急ぐ。彼女は僕の慌てぶりに目をぱちくりさせた。
「どうしたの、ベルカ。そんなに急いで……」
「ごめん、ストレルカ。説明してる暇がないんだ。司祭様が来たら、僕はずっとここにいたって証明してほしいんだ」
「なによ、急に。ご馳走を取っとけだの、証明しろだの、こき使わないでもらえる?」
「た、頼むよ!」
そう言い切る前に、食堂の扉が開いた。微笑を浮かべた先生と司祭様が姿を現す。
「先ほどどなたか、食堂を出られましたかな?」
僕はストレルカの背に隠れるようにしてやり過ごす。周囲はざわついて、付き人二人は顔を見合わせて首を横に振っている。
「あの、司祭様」
ストレルカが声を出すと、四つの目玉がギロリとこっちを向いた。
「おや、ストレルカですか。どうかしましたか?」
司祭様はいつもの声色に戻っている。それが何だか不気味だった。
「みんなここに居ましたよ。ベルカなんて、一目散に飛びつこうとしてたのを私が抑え込んだんですから。ね、リシチカ」
「うん! センセーたちの飲み物用意しようと思ったらこぼしちゃいました」
ストレルカの視線の先には、空のコップを持ったリシチカがいる。付き人の一人が屈みこんでいたのは、濡れた床を拭いていたからのようだ。
「ありがとう、リシチカ。あなたは心優しい子だ。それに比べてベルカ、先生からの頂きものを独占してはいけませんよ。みんなで分け合うのですよ」
「は、はい」
先生と司祭様はストレルカとリシチカの言葉を信じたのか、あるいは気のせいだったと思ったのか、それ以上の追及はなかった。
落ち着くと同時に、早くご馳走にありつきたいという気持ちが沸いてくる。ストレルカが言ったように飛びつきはしないが、喉から手が出るほどとはこういうことだろうか。
「ね、ねぇ。ストレルカ。やっぱりちょっとぐらい君の分も分けてくれない?」
「ベルカ……助けてやったっていうのに、生意気!」
繰り出されたチョップは、僕の動体視力では捉えきれずに眉間を直撃した。
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