第5章: 逃避行

 モノトニア中央科学院での事件以来、アダムとイヴの周囲の監視は一段と厳しくなっていた。二人は、常に誰かに見られているような息苦しさを感じていた。それでも、彼らは密かに出会い、感情を育む時間を持ち続けた。


 ある夜、二人は科学院の屋上で密会していた。星空の下、アダムとイヴは互いの手を握り合っていた。


「アダム、私たち、このままじゃダメよ」


 イヴの声には、これまでにない切迫感があった。

 アダムは彼女をじっと見つめた。


「分かっている。でも、どうすればいい?」


 イヴは深呼吸をして、決意を込めて言った。


「逃げましょう。モノトニアを出て、新しい世界を探すの」


 アダムは驚いて目を見開いた。


「逃げる?でも、それは……」

「危険だってこと、分かっているわ」イヴが遮った。「でも、このまま感情を押し殺して生きていくなんて、もう耐えられない」


 アダムは黙って考え込んだ。論理的な思考と、心の奥底から湧き上がる感情が激しくぶつかり合う。しばらくの沈黙の後、彼は決意を固めたように顔を上げた。


「分かった。一緒に逃げよう、イヴ」


 イヴの目に涙が浮かんだ。彼女は思わずアダムに抱きついた。


「ありがとう、アダム」


 二人は緻密に計画を立てた。モノトニアの監視システム、セキュリティ、そして外の世界についての情報を、できる限り収集した。そして、ついに決行の日がやってきた。


 真夜中、アダムとイヴは静かに自宅を抜け出した。街路は静まり返り、月明かりだけが二人の姿を照らしている。


「準備はいい?」


 アダムが小声で尋ねた。

 イヴは頷いた。


「ええ、もう戻れないわ」


 二人は手を取り合い、モノトニアの中心部から郊外へと向かって走り出した。心臓が高鳴り、呼吸が荒くなる。これまで感じたことのない興奮と恐怖が、二人を包み込む。


 街の外周に近づくにつれ、警報音が鳴り響き始めた。彼らの逃亡が発覚したのだ。


「急いで!」


 アダムが叫ぶ。


 二人は全力で走った。背後から追っ手の足音が聞こえてくる。モノトニアの境界線が見えてきた時、突如として強力な探照灯が二人を照らした。


「止まれ!」


 厳しい声が響く。


 しかし、アダムとイヴは立ち止まらなかった。彼らは最後の力を振り絞って、境界線のフェンスに飛び込んだ。その瞬間、強烈な電流が二人を襲う。


「アアアアッ!」


 痛みに悶えながらも、二人は互いの手を離さなかった。そして、奇跡的にフェンスを乗り越え、モノトニアの外側へと転がり落ちた。


「逃げるんだ!」


 アダムがイヴを引っ張るようにして、二人は暗い森の中へと駆け込んでいった。追っ手の声と足音が遠ざかっていく。


 しばらく走り続けた後、二人は疲れ切って倒れ込んだ。息を荒げながら、互いの顔を見つめ合う。


「やった……私たち、やったのよ」イヴの声には、喜びと信じられない思いが混じっていた。


 アダムは微笑んだ。


「ああ、僕たちは自由だ」


 その瞬間、二人は思わず抱き合った。

 これまで抑えてきた感情が、一気に溢れ出す。

 喜び、安堵、そして……愛。


 しかし、彼らの旅はまだ始まったばかりだった。


 翌朝、アダムとイヴは見たこともない風景に囲まれていた。色とりどりの花、青々とした木々、澄んだ空。すべてが新鮮で、息を呑むほど美しかった。


「アダム、見て!」


 イヴが空を指さした。そこには、虹がかかっていた。


「美しい……」


 アダムはつぶやいた。その言葉に、もはや躊躇いはなかった。


 二人は歩き始めた。目的地は定かではないが、自由な世界を探索する喜びに満ちていた。しかし、その喜びも長くは続かなかった。


 突如として、轟音と共に空から何かが降ってきた。モノトニアからの追跡用ドローンだ。


「走れ!」


 アダムとイヴは、再び全力で走り出した。ドローンからのレーザー攻撃をかわしながら、二人は急斜面を駆け下りる。足元はおぼつかないが、互いに支え合いながら必死に逃げた。


「あそこ!」


 イヴが叫んだ。目の前に、小さな洞窟が見えた。


 二人は洞窟に飛び込み、奥深くまで進んだ。ドローンの音が遠ざかっていく。しばらくして、完全に静寂が訪れた。


「大丈夫?」


 アダムがイヴの顔を覗き込んだ。

 イヴは頷いた。


「ええ、なんとか」


 二人は洞窟の中で休息を取ることにした。火を起こし、持ってきた僅かな食料を分け合う。その時、イヴが不安そうな顔でアダムを見た。


「私たち、これからどうなるの?」


 アダムは彼女の手を取った。


「分からない。でも、一緒なら何とかなる。僕たちには、感情という武器があるんだ」


 イヴは微笑んだ。


「そうね。愛があれば、何でも乗り越えられる」


 その言葉に、アダムは驚いた表情を浮かべた。


「愛……そうか、これが愛なんだ」


 二人は静かに見つめ合い、そっと唇を重ねた。

 初めてのキスは、甘く、そして切ないものだった。


 翌日、アダムとイヴは再び旅を続けた。険しい山道を越え、広大な平原を横切り、急流の川を渡る。時には危険な野生動物に遭遇し、時には想像もしなかった自然現象に驚かされる。


 ある日、二人は高い崖の上に立っていた。眼下には、色とりどりの建物が立ち並ぶ町が見えた。


「あれが……カラフル・ヘイブンかもしれない」


 イヴが興奮した声で言った。

 アダムは頷いた。


「僕たちの新しい家になるかもしれないね」


 しかし、その時、遠くからエンジン音が聞こえてきた。振り返ると、モノトニアの追跡車両が迫っていた。


「くそっ、また見つかった!」


二 人は崖を駆け下り始めた。

 足元は不安定で、何度も転びそうになる。追跡車両は、どんどん近づいてくる。


「イヴ、聞いて」


 アダムが叫んだ。


「もし僕が捕まっても、君は逃げ続けて」

「ダメよ!」


 イヴが強く否定した。


「私たちは一緒よ。最後まで」


 その時、イヴの足が岩にぶつかり、彼女は転倒した。

 アダムは咄嗟に彼女を抱きかかえ、二人は崖を転がり落ちていった。


 目が覚めると、二人は崖下の茂みの中にいた。体中が痛むが、大きな怪我はなさそうだった。


「イヴ、大丈夫か?」

「ええ、なんとか……あれ?」


 イヴが指さす方向を見ると、そこには小さな隠し通路があった。

 二人は迷わずその通路に飛び込んだ。


 通路の先には、想像もしなかった光景が広がっていた。色鮮やかな建物、笑顔で歩く人々、そして自由に感情を表現する人々。


「ここが……」

「カラフル・ヘイブンだわ」


 アダムとイヴは、ついに彼らの理想の地にたどり着いたのだ。二人は喜びの涙を流しながら、固く抱き合った。


 彼らの新しい人生が、今まさに始まろうとしていた。

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