第4章: 禁断の感情

 モノトニア中央科学院の空気が、日に日に重くなっていくのを、アダムとイヴは肌で感じていた。彼らの変化は、もはや隠しきれないものになっていた。表情の揺らぎ、声のトーンの変化、そして何より、二人が交わす視線。それらすべてが、モノトニアの厳格な規律から逸脱していた。


 ある日の午後、確率論の授業中のことだった。教師のシグマが、複雑な確率分布について説明している。


「そして、この分布の特性は……イヴ、君が説明してくれたまえ」


 イヴは一瞬、我に返ったように体を強張らせた。

 彼女は無意識のうちに、アダムの方をちらりと見てしまっていたのだ。


「はい、シグマ先生。この確率分布の特性は……」


 イヴが説明を始めたとき、彼女の声にはわずかながら感情の揺らぎが混じっていた。それは、通常のモノトニアの市民には決して見られない特徴だった。


 シグマの鋭い目が、イヴの一挙手一投足を観察している。

 イヴが説明を終えると、教室に重苦しい沈黙が流れた。


「イヴ」


 シグマの声が、冷たく響く。


「君の説明は論理的には正確だ。しかし、君の声に感情的要素が87.3%の確率で含まれている」


 教室全体が凍りついたような静寂に包まれた。

 アダムは、イヴを守りたいという衝動と、自制心との間で激しく葛藤していた。


 イヴは必死に平静を装おうとする。


「申し訳ありません、シグマ先生。単なる体調の変化です」


 しかし、シグマは容赦なく追及を続けた。


「体調の変化? それなら医療センターで検査を受けるべきだ。しかし、私の分析では、これは明らかに感情の兆候だ」


 シグマは教室全体を見渡し、厳しい口調で続けた。


「皆に言っておく。感情は非合理的で危険なものだ。それはモノトニアの秩序を乱し、我々の社会を崩壊させる可能性がある。感情の兆候を示す者は、即座に報告しなければならない」


 そして、再びイヴに向き直った。


「イヴ、君は直ちに更生センターに行くように。そこで適切な処置を受けることができる」


 イヴの顔から血の気が引いた。

 更生センター。

 それは、感情の兆候を示した者が送られる場所だ。

 そこでは、徹底的な再教育と、場合によっては医学的処置が行われるという噂があった。


 アダムは、もはや黙っていられなかった。彼は立ち上がり、声を上げた。


「シグマ先生、イヴに異常はありません。私が論理的に証明します」


 教室中の視線が、一斉にアダムに向けられた。シグマの目に、疑いの色が浮かぶ。


「アダム、君までもか。君の声にも、明らかな感情的要素が含まれている」


 アダムは必死に冷静さを取り戻そうとする。


「いいえ、先生。これは純粋に論理的な判断です。イヴの行動パターンを長期的に観察した結果、彼女に感情の兆候はないと結論づけました」


 シグマは眉をひそめた。


「興味深い主張だ。では、君の観察結果を詳しく聞かせてもらおう」


 アダムは緊張しながらも、できる限り論理的に説明を始めた。彼は、イヴの学業成績の一貫性、日常行動の規則性、そして社会貢献度の高さを数値化して示していく。


「シグマ先生、私の観察結果を詳細に説明させていただきます。まず、イヴの学業成績の推移を見てください」


 アダムは、手元のデータパッドを操作し、グラフを投影した。


「このグラフは、イヴの過去3年間の全科目の成績推移です。ご覧のように、成績は常に上位1%を維持しており、その変動幅は0.3%以内に収まっています。感情が影響していれば、このような一貫性は保てないはずです」


 次に、アダムは別のグラフを表示した。


「こちらは、イヴの日常行動のパターン分析です。起床時間、食事時間、学習時間、睡眠時間など、すべての活動が96.7%の確率で予測可能なパターンを示しています。感情的な人間であれば、このような規則性は維持できません」


 アダムは続けて、イヴの社会貢献度のデータを示した。

 アダムの説明が進むにつれ、教室の空気が少しずつ変わっていった。


「イヴの社会貢献度も注目に値します。彼女のボランティア活動時間は、学院平均の1.8倍です。しかも、その活動内容は常に論理的で効率的です。感情に左右されていれば、このような一貫した貢献は不可能でしょう」


 最後に、アダムはイヴの発言記録を表示した。


「これは、イヴの過去1年間の全発言を分析したものです。感情的表現の使用頻度は0.02%未満で、これは学院の平均値0.03%を下回っています。つまり、イヴは平均的な学生よりも感情的表現を避けているのです」


 アダムは締めくくった。


「以上の客観的データから、イヴに感情の兆候はないと結論づけられます。彼女の行動は、むしろモノトニアの理想的市民のモデルケースと言えるでしょう」


 教室中が静まり返る中、アダムは冷静さを保ちながら、シグマ先生の反応を待った。


 アダムの論理的な説明に、多くの生徒たちが納得の表情を見せ始める。


 しかし、シグマの疑いの目は消えない。


「確かに、君の説明は論理的だ。しかし、なぜ君がそこまでイヴのために弁護するのか。それ自体が不自然ではないか」


 アダムは一瞬言葉に詰まった。そこでイヴが立ち上がり、声を上げた。


「シグマ先生、アダムの行動は純粋に論理的です。彼は学院のトップ生徒として、他の生徒の状態を客観的に観察・分析する責任があると判断したのです」


 イヴの声は、驚くほど落ち着いていた。

 しかし、その瞳の奥には、必死の思いが隠されていた。


 教室は再び沈黙に包まれた。

 シグマは長い間、アダムとイヴを交互に見つめていた。


 最後に、シグマはため息をついた。


「分かった。今回は、君たちの説明を受け入れよう。しかし、今後も厳重に観察を続ける。少しでも異常が見られれば、即座に報告してもらう」


 授業が終わると、生徒たちは静かに教室を出ていった。アダムとイヴは、最後まで席を立たなかった。二人の間に、重い沈黙が流れる。


 やがて、教室に誰もいなくなったことを確認すると、イヴが小さな声で話し始めた。


「ありがとう、アダム。私を守ってくれて」


 アダムは、イヴの方を見た。彼女の目に、感謝の涙が光っているのが見えた。


「イヴ……」


 アダムは言葉に詰まった。

 彼の中で、様々な感情が渦巻いている。安堵、恐怖、そして何か名付けられない強い感情。


「私たち、もう後戻りできないわね」


 イヴの声には、決意と不安が混じっていた。

 アダムは頷いた。


「ああ、その通りだ。でも、イヴ……私は君と一緒なら、どんな困難も乗り越えられる気がする」


 その言葉に、イヴの顔に小さな笑みが浮かんだ。二人は静かに手を取り合った。その瞬間、彼らの心に、これまで感じたことのない強い絆が生まれた。

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