屋根の上のハピネス
さなこばと
屋根の上のハピネス
「そこにだれかいるの?」
ぼくの聖域は破られた。
大きな月が浮かぶ夜だった。
「おいしいにおいがする!」
屋根の緩やかな傾斜に横になったぼくは、しばらく声を潜めていた。しかし、傍らに置いたクッキーには気づかれてしまっているみたいだ。
ぼくはゆっくりと体を起こす。
可愛らしい声の主は、屋根の近くの塀に両手両足を揃えてちょこんと居て、こちらを見上げていた。
人のようだけど。
頭の上の二つの三角は柔らかそうな耳で。
おしりのほうから細長いしっぽがなめらかに動いていて。
「わたしもいっしょしていい? あ、わたしはハピネスっていうの。ごしゅじんさまがわたしのことをいつもそうよぶから!」
まん丸の月が照らす空の下、ぼくはハピネスと出逢った。
屋根の上にのぼったハピネスはぼくの隣に体を押しつけるようにして座った。
薄手のシャツとスカートを身に着けただけの小さな体躯、ぼくの頰をかすかにくすぐってくる耳、ミルクのようなにおい。
ハピネスは体温が高めのようだった。
「今夜は月が綺麗だね」
「うん! ね、きみのなまえは?」
ハピネスは上目遣いにぼくを見つめる。
「ぼくは幸春。みんなはユキって呼ぶね」
「ユキ! ほんといいよる。わたしもこっそりといえをでてきちゃった! ごしゅじんさまがぐっすりとねたあと」
ぼくが屋根の上に出たのは深夜零時を過ぎた頃だ。
煩わしい学校のことを忘れて、ここで一人になるのが好きだった。
空が晴れていて月の綺麗な夜、ぼくは適当なお菓子を持って屋根に出るのが習慣化していた。
ハピネスは体を擦り合わせてくる。
「このふく、ごしゅじんさまがきているやつだから、あとでおこられるかも。でも、わたしがよるにこうなれること、ごしゅじんさまはしらないからへいきかも!」
「ハピネスはいつも家を抜け出しているの?」
「いいてんきのひは、いつもうずうずしちゃうんだ。あと、このじきはからだがとくにうずくの」
「うずくって?」
「ユキはしらないんだね。わたしたちがあたっくをはじめるきせつのこと」
ハピネスは全身を上気させて、ぼくの顔を見つめると、急に接近してきて舌で舐めてきた。ざらざらした感触が頰を撫でた。
ぼくはドキッとしたあと、落ち着き払ってハピネスの頭をぽんと叩いた。頭部に立つ耳の触り心地の良さが、心を惑わせてくる。
「じゅんかいするるーとをかえてみたら、きみとであったの。こんなじかんにそとにいるにんげんはめずらしいし、いいにおいもするし、ついきちゃった! ごめんね……?」
「クッキー、好きなの?」
「においのこと? ちがうよ! きみがすごーくおいしそうなの。ね、もっとなめてもいい? いいよね?」
性的な捕食対象ということのようだ。
ひとまずぼくはクッキーの残りを食べ切ると、何とかして逃げ出せないかなと考え始めた。
ハピネスはそれはそれは魅力的な女の子に見えるのだけど、初対面でいきなり襲われるというのはちょっと違うのだった。
「ハピネスは人としての見た目は女の子だけど、性別も女の子なの?」
「そだよ」
「ぼくのこと、食べたいの……?」
「うん。ユキのおとこのこのぶぶん、みせてほしいな……」
ハピネスは目を輝かせる。夜に浮かぶその光は綺麗だ。
ぼくは衝動的にたまらない気持ちになって、ハピネスを抱きしめた。
ミルクのようなにおいが強烈にぼくを包み込んだ。
華奢だけど柔らかくて熱い体が、ぼくの体と合わさった。
その小さな背中に回した手の甲を、ハピネスのしっぽが優しく撫でてくる。
「ユキ……いいの?」
「よくない」
「え……えっと?」
困り気味のハピネスに、ぼくは煩悩を振り払いながら説く。
「ハピネスは今、人間の姿をしているから、人間らしく行為を進めるべきだと思う」
「どうするの?」
「まずは交流を深める。何度も逢って仲良くなって、それから……と段階を踏んでいこう」
「うーん」
ハピネスは思案げだったけれど、
「わかった。じゃああさになったらいいってことだよね」
「ハピネスは猫に戻るからね。猫の理屈で来ていいよ。でも、ぼくは猫にはなれないから……」
ぼくは抱きしめる力を弱めていく。
そうしてハピネスの表情をまみえると、すごく納得いかない様子だ。
「ずるいよ! それじゃいつまでたってもできないし!」
「夜のたびに逢って仲を深めたらいつかできるよ」
「むー」
ハピネスは頰を膨らませている。
不満げなところがとても可愛らしいけれど、ぼくにも引けない部分はあるのだ。
「意地悪なことを言っているけれど、ぼくはハピネスのこと、嫌いじゃないよ。初めて逢ったばかりでよく知らないってだけで」
「……いつかやらせてくれる?」
「仲良くなれたらね」
「じゃあ、もっとなかよくなる。まいばんここにきて、ユキとおはなしする」
ハピネスは不承不承だけどわかってくれたようだ。
「ありがとう。ハピネスはとってもいい子だね」
ぼくはハピネスの頭を優しく撫でる。
とりあえずの撤退はできそうだと思いながら。
ハピネスは顔を赤くしている。
その表情に少し見惚れた瞬間、ぼくの口はハピネスによって塞がれた。
口と口が合わさって、すぐ離れた。
呆然とするぼく。
不敵な笑みでハピネスは立ち上がった。
「あしたもくるからね! たのしみにしててね! じゃね!!」
ぼくを見下ろして、ハピネスはそう声高に伝えると、軽やかな身のこなしで屋根を下りていった。
ぼくの視界には、細い塀の上を駆けていくハピネスの後ろ姿が闇にとけるのを見送るばかりだ。
ぼくの聖域を突然訪れたハピネス。
してしまった約束。
ハピネスはぼくの大切な『聖域』を狙っていて、破られる日がいつか来てしまうかもしれない。
ぼくは目を擦り、屋根の上から部屋に戻る。
明日も夜に待ち合わせ。
目が冴えてしまってすぐには眠れない。
それでも真夜中にはベッドに入るものだ。
ハピネスのためにももっと何かお菓子があったほうがいいかな、なんて考えながら。
屋根の上のハピネス さなこばと @kobato37
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます