耳が痛い

清水霞

第1話

 1時間目。先生が教科書に向かって話している。生徒と目を合わせようとしないし、板書もほとんどしない。日本史の教科書を単調に読んでいる。教室は退屈に支配されていた。寝ている人が多い。なんなら、さっきから英単語の勉強をしている人でさえも眠そうだ。高校三年生の十二月、教科書の内容を読み上げるだけの授業を聞く意味などほぼ無い。先生もそのことを理解しての態度なのかもしれない。授業を聞かないことに伴う罪悪感が薄まるという点については受験生にとって悪くない。唯一の救いだ。

 俯いている人ばかりの中、僕の斜め前に座る彼は前を向いて、先生の話を聞いている。きっと前からみたら美術の教科書のアクセントの構図の例みたいになっているだろう。そして時々、下を向いてはメモを取っていた。

 僕にはそんな彼が不思議でしょうがなかった。先生の方を向いて話を聞いているが先生と目なんて合うのだろうか。こんな単調な読み方でメモをするべきポイントなんてわかるのだろうか。どうしてそんなに熱心にこの話を聞けるのだろうか。彼の方をじっと見てみても僕には彼の心はわからない。辛うじて、耳と顎のラインが見える程度だ。首元は襟でよくわからないし、彼がどのような表情でこの授業を聞いているのか知ることはできない。わかるのは、寒さで耳が少し赤くなっていることと首を動かすたびに少し長めの髪が揺れていることだけだ。

それにしても退屈だ。僕はもうAO入試を受けて高校卒業後に入学する大学が決まっているから内職をする理由もないし、眠くもなかったため、なんとなく彼を見続けた。

 人の耳をこんなに見続けたのは初めてかもしれない。彼の耳は薄かった。彼自身は細身ではあるものの夏に引退はしたが数か月前まで運動部であったこともあり頼りないとは感じない体つき、筋肉つきであった。それなのに耳は薄い。福耳という言葉には縁遠く、そういう意味では薄幸そうだ。そんな耳が寒そうに赤くなっている。今は十二月。暖房の効きが悪いのか教室は冷えていた。しかし、彼は寒さなんて感じていないかのように授業に集中している。しかし、足元を見てみると、彼は自分のコートを膝にかけている。やっぱり、寒いのだろうな。あんなに寒そうな耳をしているのに本当に授業に集中できているのだろうか。気になる。彼の真似をして僕も真面目に授業を受けてみる。

「小林多喜二は蟹工船を執筆し…」

 今日の授業の内容は近現代の文化史についてであった。この内容は入試にほとんどでないのだから多くの人が聞かないのも納得であるし、先生もあくまで社会科の先生であるのだからこんな現代文の授業みたいな内容には関心が薄いのかもしれない。労働者の現状、労働者階級の訴えを小説に込めた作家。プロレタリア文学作家。その人生は特高警察に逮捕され、拷問され、人生の幕を閉じたらしい。今は拷問を受けることはないだろうが、だからこそ今この作品がどれほど指示をされるかはわからない。今彼が生きていたらこのような作品をそもそも書かないかもしれない。なんとなく彼のことが教科書に載ったのは「あのような時代に生きたから」って感じがした。まぁ、感じがしただけだ。僕は蟹工船を読んでいないのだからこんなこと思う資格はないのだ。

 この授業のどこに斜め前の少年を真面目にさせる要素があるのだろうか。彼を再び眺めてみる。彼はこの作家の話になってから先生の話にたくさんうなずきはじめた。それも、深くうなずいている。そのたびに髪は大きく揺れて赤い耳が見え隠れしている。メモを取るために首を動かしていたときよりも髪がよく揺れて、はねているとも言い換えることができる程だ。

 僕も先生の話にうなずいてみる。これだけ動けば先生もこちらをみて話すのかもしれない。僕はあなたの話を聞いていますよ。近現代の文化史、特に文学について話しているのですよね。心の中で先生の話に同調し、その気持ちを首の動きで表現してみる。しかし、やっぱり、先生と目が合わない。先生、今日やる気なさすぎだろう。先生の評価を得られるわけでもないのに真面目に授業を受ける彼はただの優等生か、自分の興味関心に忠実ということだろうか。彼はもしかしたら文学少年なのかもしれない。だから、真面目に聞いているのかもしれない。小林多喜二の思想と芸術を貫いた姿に感動しているのかもしれない。先生の話にあんなに深く頷いているが頭の中では先生の述べたことを酷評して、めっためたにしているのかもしれない。いや、教科書に対してそうだろうそうだろうと共感しているのかもしれない。彼の人柄は批評精神を兼ねた図太さを備えているのだろうか。あの耳の薄さのように作家の人生に思いを馳せて憂いを感じる儚さを備えているのだろうか。同じ教室で半年以上授業をともに受けているのに、僕は彼のことをよく知らない。

 あの赤く薄い耳が何をキャッチしているのだろうか。それをどう捉えているのだろうか。授業の残り時間すべてを費やして考えてみても僕にはわからないままだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

耳が痛い 清水霞 @kasu3kan-

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る