第42話 勇気を出して
ホックに触れかけた雫の指先が、すんでのところで動きを止めた。
「あーもううるさいな」
一度はチャイムを無視した雫が、苛立たしげに口にする。
二度、三度と立て続けに鳴らされて、気が散るどころの話ではないのだろう。
「今日配達なかったはずだよね? 誰だよこんなときに」
訪問相手については翼もまったく心当たりがなかった。
けれど今はそれよりも、雫の視線が自分から外れたことに安堵するのでいっぱいだった。
誰でもいい。
たった数秒でも、この地獄から解放されるなら。
「あ、止まった」
しかしわずかな期待も虚しく、四度目のチャイムは鳴らなかった。
「あは、翼ちゃんわかりやすいなぁ」
雫の手が頬にスっと伸びてくる。
「とにかく私に離れて欲しいって目してる」
自分が嫌悪されているという事実を、雫はまるで他人事みたいに口にした。
「いいよ。行ってあげても。最高に盛り上げるためには、焦らすことも大事だからね」
もう帰ってるだろうけどと、親指の腹で翼の唇をなぞりながら呟く。
これほどの屈辱を感じたことは今までになかった。
「逃げちゃダメだよ」
まるで恋人に言うみたいに優しい声で言って、雫は翼の顔にアイマスクを付け直す。
視界が再び暗くなったあと、パタンと部屋のドアが閉じる音がした。
「……っは」
水中から上がったように、翼は大きく息を吸い込む。
うまく呼吸ができていなかったらしい。
手足の自由もきかない状態で、酸素を貪るように口だけを動かした。
「っ……っ……」
じわりと滲んだ涙が黒いアイマスクへ染みていく。
窓を打ちつける雨の音が、呼応するように強くなっていった。
るんるんと軽い足取りで広い廊下を適当にぶらつく。
今から玄関に向かってもインターホンを鳴らした来客は帰っているだろう。五分くらい暇を潰したら、翼の部屋に戻るつもりだった。
──ほんと、増田くんにはいい子教えてもらったなー。
頭の後ろで手を組んで、雫はご機嫌な表情を浮かべる。
あんな逸材がまさか隣の高校に通っているとは思いもしなかった。もっと早く存在を知っていたら同じ高校を受験したのに、人生はそう都合よくいかないらしい。
部屋に帰ってあの顔をぐちゃぐちゃにさせるのが、今から楽しみで仕方なかった。
──翼ちゃんを抱けるなら、捕まっても全然お釣りがくるくらいだし。
それくらい日鷹翼は稀有な存在だ。もちろん心まで手に入れられたら一番理想だったが、そんなことを言ってあの吸血鬼に先を越されてしまったら後悔してもしきれない。
恋に生きて恋に死ぬ──それが自分の生き方だ。
そんなことを思いながら、一階への階段を下りているときだった。
「あれ、また?」
四度目のチャイムが、三度目から随分と時間をおいて室内に響いた。
──もしかして、まだ外にいるのかな。
来客の予定のない日に、この短時間で二人目の客とは考え辛い。インターホンを鳴らしたのはおそらく、さっきまでと同じ人物だろう。
なんとなく興味を引かれて、外向けの笑顔を貼り付けた雫は玄関へ向かった。
四度インターホンを鳴らす相手となれば、配達という線はまず消える。身内か友人か、いずれにしても翼と親しい間柄の人間のはずだ。
──もしかしたら。
一人の顔を思い浮かべながら、雫は玄関のドアを開けた。
「向こうか」
外には誰も立っていなかった。
門扉の中まで入ってこないということは、身内ではないのだろう。
雫は傘立てに入っていた傘を勝手に拝借し、雨の降る外へ出た。先刻よりも雨足は強まり、傘が煽られる程度には風もあった。
水溜まりを避けながら、雫は門扉の向こうに立つ来客の顔を見る。
「!」
そこには、傘も差さずに立つ女がいた。
短い黒髪が雨に濡れ、その端正な顔にぺたりと張り付いている。
中性的な容姿は少年のようにも見えるが、彼女が女であることを雫は知っていた。
当然だ。憎き恋敵なのだから。
──もしかしてとは思ったけど。
傘を前に傾けて、 隠した顔に雫は下卑た笑みを浮かべた。
なぜ今きたのかはわからない。だが、この状況でただ追い返すのはあまりにも勿体ないだろう。
普段見れない翼の顔を引き出すチャンスが、わざわざ向こうからやってきたのだから。
──好きな人の前で犯されたら、翼ちゃんはどんな顔するかなぁ?
楽しみで楽しみで、吊り上がった口の端を元に戻すのに苦労した。
◇ ◆ ◇
歌恋を駅まで見送ったあと。
暇を持て余し、心ここに在らずといった様子でハルはただボーッと椅子に座っていた。
夏休みも終盤。課題はとっくの昔に終わり、歌恋も帰ってしまった。家事の手伝いと琥珀の遊び相手以外に、することもしたいことも今はない。
気を紛らわすための散歩も、少し前に降り始めた雨に阻まれてしまった。
夕食前に風呂でも入ってしまおうか──そんなことを考えていた時だった。
「お姉ちゃん?」
ユウキから電話がかかってきて、何かあったかなと思いながらスマホを耳に当てる。
「もしも──」
『あーハル? ごめん急いでるから用件だけ伝える!』
ハルの声を遮り、ユウキは食い気味に言った。
声だけで伝わってくる慌てぶりに、なんだなんだと耳を傾ける。
『──翼と仲直りできるよ』
一瞬、聞き間違いを疑った。
いきなりの情報にしては、あまりに信じられないものだったから。
「……どういうこと?」
瞬きを繰り返しながら短く問う。
姉はおふざけでこんな嘘をつく人間ではない。
そうわかっているが、素直に受け入れられる話でもなかった。
会うことはおろか、メッセージのやり取りすら拒まれているこの状況で、何がどう転んだら仲直りできるというのか。
『説明してあげたい所なんだけど、急ぎの仕事が入っちゃったから詳しいことは本人に聞いて! さっき電話したら出なかったから、今すぐ聞きたいなら会いに行ったほうが確実かも!』
話しながら支度をしているのか、電話の向こうはバタバタと忙しなかった。
欲しい答えは翼に直接聞くしかないらしい。
『お節介だったらごめん。でも二人には早く仲直りして欲しいから』
本当はここまで首を突っ込むつもりはなかったのだろう。
それでもハルのためを思って、電話の時間も惜しいほど忙しいなか連絡をくれた。
『最後のひと踏ん張りだよ、ハル』
仲直りを少しも疑っていないような、不安も心配も何一つ含まない温かな声が鼓膜を撫でる。
『頑張れ』
よほど忙しいのか、電話はハルの返事を待たずに切れた。
しんと静まった部屋が再び雨音に包まれる。
「…………」
スマホを耳から離し、暗くなった画面を見なんとなく見つめた。
聞きたいことは山ほどある。
ユウキがなにを根拠に仲直りできると言っているのか、そもそもなぜそんなことをユウキが知っているのか、翼の今の気持ちはどうなのか。
けれど今することは、それらを考えることではない。
「っ!」
がた、と音を立てて椅子から立ち上がり、何も持たずに自室を飛び出す。
廊下ですれ違った琥珀が、どうしたとでも言いたげににゃーと鳴いた。
滑るように階段を降りて、甘い煮物の匂いが漂うリビングへ顔を出す。
「ばあちゃん、ちょっと出てくる!」
「え? もう夕飯できるけど」
「用事終わったらすぐ帰ってくるから!」
ここ数日で一番大きな声を出して、三津の返事も待たずにまた足を動かした。
靴を乱暴に履き、傘も持たずに外へ出る。
──この雨なら、多少派手に動いても大丈夫なはず!
雨天の中、ハルは人目も憚らず全力で走り出した。
息を切らして訪ねた三日ぶりの豪邸は、しかしインターホンを三度鳴らしても反応がなかった。
──留守、かな……。
ここまできてと、落胆する気持ちがどうしても抑えられない。
連絡もせずいきなり訪ねた自分が悪いことはわかっている。
けれど。
「……今日くらい、都合よくいってくれてもいいじゃんか」
そんな傲慢な本音が口をついて出る。
上手くいかないことだらけだ。なにもかも。
──最後にもう一回だけ……。
何度もインターホンを押すのはただの迷惑行為だ。それでも諦めきれなくて、最後にダメ押しの四回目を鳴らした。
これでダメなら今日は諦める──そう決めて、雨に濡れながら静かに待つ。
ポタポタと何度も前髪から水滴が落ちた。
「……ダメか」
音沙汰ない玄関を見つめてそう零す。
ユウキとの電話からずっと浮き足立っていた気持ちが、スっと落ちていくのを感じた。
また明日来ようと、肩を落としてくるりと門扉に背を向ける。
「望月さん?」
声がかかったのは、そのすぐあとだった。
慌ててバッと振り向けば、傘を差した家事代行の女性がこちらを見ていた。
「あ……」
三日前、あんな風に別れたあとでどんな態度を取ればいいのかわからず、言葉が詰まる。
「話をしに来たんでしょう?」
しかし女性の表情と声には、前のような怒りは感じられなかった。
むしろ引き止めるようにハルをまっすぐ見つめてくる。
「どうぞ入ってください」
そう言って、女性はハルを招くように門を開けた。
あんなに怒っていたのにどんな心境の変化だろう──そう思いつつも、拒否するという選択肢はなかった。
踵を返し、ハルは初めて日鷹家の門扉の内側へと足を踏み入れた。
「先日はすみませんでした」
広々とした玄関で少し待たされたあと。
女性が持ってきたタオルをありがたく借りて髪を拭いていたら、突然頭を下げられた。
「自分も同じような経験をしたことがあったので、つい翼さんに感情移入してしまって……強い言葉を吐いてしまいました」
「いえ、そんな」
頭を上げてください、と慌ててハルは返す。
「あなたの言ったことは何も間違ってないです。わたしが先輩に酷いことしたのは事実ですから」
たしかに、初対面の相手に吐くには強い言葉が多かった気がするが、そう言われても仕方ないことをしたのは自分だ。同じ被害に遭ったことがあるなら尚更、強い怒りも湧くだろう。
「それでも、私があそこまで言う必要はありませんでしたから」
「本当、気にしないでください」
頭を上げてもなお申し訳なさそうな女性に、こちらもいたたまれない気持ちになってくる。
怖い印象がどうしてもあったが、思ったより普通の人かもしれないとハルは認識を改めた。
「翼さんは二階の部屋にいるので。案内します」
「お願いします」
軽く髪の水分を拭き取ったあと、いよいよ靴を脱いで家の中に上がった。
こんなときでなければ、普通の一軒家とはまるで規模の違う家の広さに驚く所だが、今のハルにそんな余裕はない。
一歩、また一歩と部屋までの距離が近づくたびに緊張と不安が増していく。
家を飛び出した時の勢いはだんだん弱まり、ネガティブな気持ちがふつふつと胸の中で強まっていった。
「こちらです」
一歩前を歩いていた女性の足がふいに止まる。
目の前にあるのは、白い壁に設置された薄いベージュの木目調のドア。
「…………」
このドア一枚を隔てた先に、翼がいる。
ドッドッドッ、と鼓動が更に加速した。
喉が渇く。
冷や汗が背中を伝う。
思考が上手くまとまらない。
──日和るな。
忙しなく動く心臓を湿った服の上から押さえつけた。
自分のために動いてくれた歌恋やユウキのためにも、ここで逃げ出すなんてことはできない。
唾を飲み込み、覚悟を決める。
コンコン、とドアを二回ノックした。
「先輩、ハルです」
おそるおそる、扉の向こうに呼びかける。
透き通ったあの声が、二週間以上も聞いていないあの声が、自分の声に応えてくれるのを静かに待った。
けれど。
「…………」
どんなに待っても、扉の向こうから声が返ってくることはなかった。
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