第41話 答え合わせ

 一時間以上前に帰ったはずの雫が、自分の顔を覗き込んでいる。


「?!?!」


 脳の理解が追いついた瞬間、翼は反射的に椅子から飛び上がった。

 足がもつれて、そのまま床に臀部を強打する。

 机の端に置いていたマドレーヌの箱が落ち、白いフローリングにマドレーヌが散らばった。


「……三上さん?」


 微笑を浮かべる雫へ、なんでここにいるのかと言外に問う。

 今日のぶんのバイトを終えて、彼女はとっくに家を出ていったはずだった。


「翼ちゃんが楽しそうな電話してたから、戻ってきちゃった」

「? ……?」


 雫の発する言葉すべてに疑問符が浮かぶ。

 いつもとちがう名前の呼び方と喋り方はまだいい。

 だが。


「楽しそうな電話してたから……?」


 まるでユウキとの会話を聞いていたかのような口ぶりに、思わずこわばった声が出る。

 

「そんな怖がらないでよ」


 翼の足先まで近づいてきた雫は、目の高さを合わせるように四つん這いになった。

 固まって動けずにいる翼の下半身を跨ぐようにして手足を床につき、グッと顔を近づけてくる。


──あぁ、そういうこと。


 瞬間、翼は悟った。

 自分を見る雫の目が孕む、狂おしいほどの情欲と熱。

 この目をした人間に良い思い出はひとつもない。


「好きな人のことを全部知りたいと思うのは、当然のことでしょ?」

「……だから盗聴器を?」

「家広すぎてこの部屋しか付けられなかったけどね」


 もう隠すつもりもないのだろう。盗聴器の存在を雫はあっさり認めた。

 雫がハルのことを知っていた理由もこれで大体検討がつく。「好きな人のことを全部知りたい」の「全部」の部分に、友人関係も入るのだろう。

 ハルは恐らく、自分と仲のいい人間として調べをつけられていた。


「……私とハルを仲違いさせようとしたのも、あなたですね?」

「人聞き悪いなぁ」


 雫は心外そうに言って、宝石に触れるように優しく翼の頬に手を置いた。


「もともと二人は喧嘩中だったじゃん。それに私は、無理やり吸血するようなクソ吸血鬼を自分の好きな人から離したかっただけだよ」

「…………」


 なぜ雫は嘘をついたのか。

 ユウキとの電話で生まれた疑問の、あまりにも早すぎる答え合わせだった。


──つまり、私のせいでハルは……。


 床についた手に力がこもる。

 ハルからのメッセージだけがなぜか届かないのも、恐らくは雫がなにかしたのだろう。

 会うことを拒絶されてると聞かされ、メッセージも既読すら付かず、しまいには裏切り者扱い。


──どれだけ傷ついただろう。


 互いに仲直りの意思があったのに、自分の恋愛トラブルに巻き込んでしまったせいでハルを沢山傷つけてしまった。

 悔しくて申し訳なくて、声も出ない。


「あ、もしかしてこれ、クソ吸血鬼から貰ったお菓子?」

「!」


 俯いていた顔を振り上げれば、雫がマドレーヌの入っていた箱を手に取っていた。


「うわ、下になんか書いてある。猫?」


 中身が床に散らばり、空になった箱を顔のあたりまで持ち上げて雫は言う。


「また遊びたいです、だって!」


 雫はケタケタ笑いながら、翼に見せつけるように箱の底面を見せてきた。

 そこには、黒いペンで一生懸命描いたのだろうガタついた線の猫と、綺麗な字で書かれた短い言葉が並んでいた。


「……っ」


 目頭が熱くなる。

 今すぐハルに会って謝りたい。

 謝って、仲直りして、それから……また前のように琥珀と遊んで、三津のご飯を食べたい。


──だけど今は。

 

 他にやらなきゃいけないことがある。


「ん?」


 絵下手すぎでしょ、とまだ笑い続ける雫の腕を、翼は無言で掴んだ。


「これ以上ハルのこと悪く言うなら、私はあなたを一生許さない」


 冷たく言い放ち、雫を睨みつける。

 こんなに怒りを露わにしたことは、今までなかった気がした。


「へぇ、そんな顔もできるんだ」


 しかし雫の余裕は崩れない。


「怒ってる顔も可愛いね。やっぱ美人はどんな表情もいい」

「冗談で言ってるんじゃ──」

「泣いて苦しんでる表情もきっと最高なんだろうなぁ」


 まるでこちらの声が聞こえてないみたいに、雫は楽しそうに笑った。

 直後──。


「いっ……?!」


 右の脇腹あたりに痺れるような痛みが流れ、翼は顔を歪めた。 

 雫の腕を掴んでいた手が離れ、上半身を起こしていることもままならず背中から崩れる。


「なに、を……」


 全身の筋肉がこわばり、満足に動けない中、なんとか視線を雫へ向けた。


「……!」


 笑顔を浮かべる雫の手に、黒光りするスタンガンが握られている。

 雫は見せつけるようにバチバチとそれを放電させた。

 スタンガンには相手を気絶させるほどの威力はないと昔どこかで聞いていたが、その情報は正しかったらしい。

 けれどしばらくは、自由に身体を動かせそうになかった。


「お〜けっこうちゃんと効くじゃん」

 

 雫は感心したようにスタンガンを見つめたあと、身体を捻って背後に手を伸ばした。


「じゃ、仕上げはこれね」


 この部屋にきたとき、スタンガンと一緒に持ち込んでいたのだろう。

 雫の両手には手錠、足枷、そして黒いアイマスクが握られていた。


「っ……」


 雫の狂気を甘く見ていたと、今更思ってももう遅い。


「わ、軽っ!」


 雫は抵抗もままならない翼を抱えると、すぐそばにあったベッドへ優しく横向きに寝かせた。


「もっと太らなきゃダメだよ翼ちゃん〜」


 そんなことを言いながら、手際よく拘束具を付けていく雫。

 両手は背中側で手錠にかけられ、両足首に足枷、目元にはアイマスクをかけられた。

 手錠と足枷だけならまだ動けなくもないが、視界が真っ暗になってしまってはもう安易に動くことはできない。


「……こんなことして、どうするつもりですか」


 唯一動かせる口でなんとか抵抗を試みる。

 たとえ未成年であろうと、相応のことをすれば逮捕されることはある。それをわかっているのなら、この先の行動は雫も慎重になるはずだ。


「なにって、あんなことやそんなことしかないでしょ」


 しかし雫は、躊躇いなくそう言ってのけた。


「……れっきとした犯罪ですよ。未成年でも捕まります」

「だからやめろって?」


 はは、と翼の言葉を一蹴するように雫は笑う。


「私は今が楽しければいいの」


 背中側のベッドがグッと沈んで、雫がベッドの上に乗ってきたのがわかった。そのまま背中にぴたりとくっつかれ、互いの足が軽く触れる。


「好きな人と好きなように好きなことをする。後先のことなんて考えてたら、恋愛なんかできないでしょ?」


 それがまるで世界の常識であるかのように、雫の声には一切迷いがない。

 好きな人への好意が少しばかり強いとか、恋愛体質とか、執着が強いとか、そのレベルの話ではなかった。

 三上雫は、れっきとした狂人だ。


「……狂ってる」

「よく言われる」


 これでは、良心に訴えかけたところで無意味に終わるだろう。

 いよいよ抵抗できる手段がないとわかり、わずかに残っていた余裕も消え失せた。


「っ……!」


 背後から、みぞおちあたりに雫の手が伸びてくる。

 動きかけた手はしかし手錠に阻まれ、肩が少し揺れただけに留まった。

 服の上を、雫の手が嫌な手つきで這い回る。


──もう、いいか。


 抵抗しようとしたところで手も足も動かない。目も見えない。無理に動かそうとしても、ただ痛みを伴うだけ。

 母は当然のこと、父もまだ帰ってこない。今日は他に訪問予定もない。

 この現状を覆せる要素が、ひとつも見当たらなかった。


──雨……?


 いつから降っていたのか、ポツポツと窓に当たる雨音が聞こえた。

 大雨というほどではないが、傘が必要な程度には降っているようだ。

 いつもより音がはっきり聞こえるのは、視界が奪われたことで聴覚が冴えたからか、身体を触られている現実から少しでも目を背けたいからか。


「もっと抵抗するかと思ったけど、けっこう大人しいね」


 くびれのあたりをまさぐりながら、つまんないなぁと雫が背後でぼやいた。


「服の上だからまだ我慢できる感じかな」


 嫌な予感がした次の瞬間には、生暖かい手のひらが肌に直接触れていた。


「────!」


 トップスの下から侵入してきた手が、いやらしい手つきで触れてくる。

 その手はへそ、脇腹、肋をじっくり堪能し、胸へ到達する直前で止まった。


「んー」


 少し考えるような声を出したあと、うん、と雫は一人勝手に頷く。


「やっぱり綺麗な瞳も見たいな」


 ベッドが揺れて、服の中に入れられていた手が引っ込められた。同時に、雫の気配が背中から腹側へと移動する。

 雫は翼の耳元へ手を伸ばし、アイマスクの耳かけを外した。


「うん、やっぱ美人はどんな表情でも可愛いね」

 

 目をニンマリ細めながら、翼の両目を覗き込む。


「涙目になるほど嫌だなんてちょっと悲しいけど。でも泣きそうな翼ちゃんの顔も、美術品みたいで綺麗だよ」


 眼鏡の奥に狂気じみた熱を携えて、雫は翼の細い顎に触れた。

 

「ねぇ、いったいどんなスキンケアしたらこんな綺麗な肌になるの? なにか食べ物に気を使ってるとか? フェイスラインも理想のカタチすぎるよね。ローラーとか使ってる? それともやっぱり遺伝子が最強なのかな」

 

 答えは求めていないとでも言うように、矢継ぎ早に言葉を並べていく。


「この身体もさっ!」

「……!」

 

 ばっ、とシャツを捲り上げられ、翼の腹から鎖骨までが露わになる。

 

「どうしたらこのくびれってキープできるの? 筋トレとかしてる? 毛も全然生えてないよね。ちっちゃい頃に脱毛したとか? お金持ちだから全然ありそうだな。てか意外と腹筋あるね」


 へその上を指先でなぞられて、くすぐったさと不快感で声が出そうになった。

 かちゃ、と手錠の鎖が擦れる音が虚しく鳴る。

 そして。


「胸もさ」


 雫の手は、なんの躊躇もなく翼の胸へと伸びた。


「……ゃ」


 わずかに零れた翼の声も、雨の音に掻き消えて。

 ラベンダーの小花が散りばめられた白い下着へ、雫の手のひらが触れた。


「ちょうどいい大きさだよね。巨乳すぎず、小さすぎず、平均より少し大きいかなくらい。形も綺麗だし。どこまで完璧なら気が済むのかな」


 舐めまわすように観察しながら、雫はまんべんなく胸周りを触っていく。


「せめて貧乳とかじゃないと釣り合い取れなくない? それともこれも後付けなのかな。豊胸手術って子供でもできたり? なんかそっちのほうが現実味ある気がする。でもどうだろう。ブラの上からじゃわかんないな」


 全身から血の気が引いた。

 人として大切なものが、目の前の人間には欠落している。

 動くことも声を出すこともできないまま、雫の手がホックへ伸びていくのをただ見ていることしかできなかった。

 

「っ……」


 せめてもと、固く目を瞑る。

 その時だった。


 誰かの来訪を告げるチャイムの音が、雨音を押しのけて室内に流れたのは。

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