蝉騒

小狸

短編

 *


 しずかさや 岩にしみ入る 蝉の声    まつしょうおくほそみち』より


 *


 これは不思議なことであるが――。


 私は蝉の鳴き声を、うるさいと思ったことがない。


 夏場になると土の中からこぞって現れ、木々に留まり、その音を鳴らす。数多あまたの文学作品において、夏の代名詞として比喩表現がなされていることだろう。


 実は鳴き声を出すのはオスだけであり、メスへの求愛行動なのだと知ったのは、かなり後のことである。


 いつだったか、生物科の教員が言っていた。


 生き物が生きる理由は、子孫を残すためだと。


 幼虫の内、約5、6年を土の中で過ごし、そこから成虫になって旅立ち、配偶相手を探す。


 その期間は、わずか数週間であるという。


 生殖行動が終わろうとも終わらなくとも、その時間制限の後に成虫の命は果てる。


 蝉たちも、必死なのである。


 とはじょう


 その音が大概の人間にとって騒音、雑音となるのは、まごうことなき事実である。


 せんそうめいなどという四字熟語が世の辞典に記載されていることから、大昔――とまではいかないまでも、近代日本において蝉の鳴き声というのは、煩いものという認識がまかり通っているようだ。


 そんな中で。


 私は、蝉の鳴き声を、煩いと思ったことがない。


 種明かしをすれば、私の耳事情が特殊という訳では毛頭なく、幼少期を田舎で過ごしたがために、蝉や蛙の大合唱には慣れているというだけの話である。


 更に、こうして小説の主題にまで持ってきておいて大変恐縮なのだが、私は蝉の鳴き声について、特段詳しい訳ではない。


 どの種の蝉がどのような鳴き声を発し、どういう生態を送り、どんな一生を過ごすのか、詳らかに把握している訳ではないのだ。


 ただ。


 こんなことを言うと、令和の今である、「感覚派を気取っている」というぼうを受けることを承知の上で言うと――私にとって蝉の鳴き声とは、景色と同じなのである。


 風景と同化している、とでも言うべきか。


 それは、何処どこにいても同じである。


 例えば、私は都内から少し離れた閑静な住宅街の一角に、部屋を借りて住んでいる。職場は都内で、電車で一本のところである。


 本格的な夏に入ると、晴れた日などは、外出するとどこに居ても蝉の鳴き声が聞こえてくるものだ。


 時に自宅の裏手にある里山から、時に通勤歩道の植樹から、時に職場の最寄り駅の並木道から、至る所に蝉はる。


 生きるために――生き残るために、必死なのだ。


 子孫を残さなければ、自分の血を残すことができない。


 ひいては自分という種を、残すことができない。


 蝉に自我というものがあるのかはともかく――少なくとも惰性で鳴いている訳ではないのだろう。


 しかし私にとってそれは、日常の劇伴音楽のように聴こえるのだ。


 どんな巨大なビル群でも、シュリーレン現象が起きるような長い国道を渡る時でも、木々の隙間から殺人光線の如く熱波が飛んでくる時でも、久方ぶりの日陰に腰を休めて水分を補給する時でも。


 蝉の声は、風景と同じように感じる。


 風景と共に、蝉がるのである。


 どこにでもいるのに、探しても中々いない。


 うつせみという言葉を、何故なぜか思い出した。


 ひょっとするとそれは、幼い頃から蝉の声を聴き続けた私の――私だけの感性なのかもしれない。


 そんな風に思いながら、今日も私は、仕事へとおもむく。


 もう7月も後半である。


 今年は例年よりも梅雨明けが早かったから、彼らの声が風に慣れて聴こえてくるのも、近いかもしれない。


 彼らの命のともしが尽きるまで、鳴きしきる声を、四季の変化と共に身体に刻み込む。


 それに風情ふぜいを、おもむきを感じる、人という生き物は――私という人間は。


 ぜいたくな生き物なのかもしれない、と。


 私は思った。




(「せんそう」)――了

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蝉騒 小狸 @segen_gen

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