デジタル・シャーロック―葵の推理ファイル―
藍埜佑(あいのたすく)
第一話:「静寂の中の叫び」
朝日が窓辺からそっと差し込む。葵は目覚めると同時に、今日も変わらぬ日課を始めた。ベッドから起き上がり、ゆっくりと体を伸ばす。虚弱な体には、この小さな動作でさえ大きな負担だ。
16歳にして、葵の世界はこの部屋の中だけに限られていた。生まれつきの虚弱体質のせいで、外出はおろか家の中を自由に動き回ることさえままならない。しかし、彼女の眼差しには鋭い光が宿っていた。
朝食を終えた葵は、いつものようにパソコンの前に座った。画面には、世界中のニュースが次々と流れていく。彼女の頭脳は、それらの情報を驚異的な速さで処理していった。
「また連続窃盗事件か……犯人の行動パターンに一貫性がないわね」
葵は呟いた。
そんな彼女の思考を遮るように、玄関のチャイムが鳴った。
「葵、入るぞ」
扉が開き、刑事である叔父、健一が姿を現した。
彼の表情には、いつもの柔和さが欠けていた。
「叔父さん、珍しいわね。こんな朝早くに」
「ああ、実は相談があってな」
健一は椅子に腰掛けながら言った。
「昨晩、奇妙な殺人事件があったんだ」
葵の目が輝きを増す。
「詳しく聞かせて」
健一は小さく深呼吸をして話し始めた。
「被害者は大手IT企業の社長、40代の男性だ。自宅のホームジムで首を吊って発見された。一見すると自殺に見えるんだが……」
「でも、そうじゃないのね?」
葵が言葉を継いだ。
「ああ。現場に不自然な点がいくつかあってな。まず、遺書がない。それに、彼の性格からして自殺とは考えにくい。それに……」
健一は言葉を選びながら続けた。
「彼の口の中から、小さな紙切れが見つかったんだ」
「紙切れ? 何て書いてあったの?」
「それが奇妙なんだ。『静寂の中の叫び』とだけ書かれていてな」
葵は目を細めた。
「面白い……他に気になる点は?」
健一は首を傾げた。
「そうだな……彼のスマートフォンが見当たらないんだ。それと、彼の妻の証言によると、被害者は昨日の午後から夜にかけて、誰かと頻繁にメッセージのやり取りをしていたらしい」
葵はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「叔父さん、被害者のパソコンは調べた?」
「ああ、だが特に怪しい点は見つからなかった」
「そう……」
葵は考え込むように言った。
「叔父さん、被害者のSNSアカウントは確認した?」
健一は首を振った。
「まだだ。そこまで手が回っていなくてな」
「分かった。じゃあ、私にそのアカウント情報をくれる? 調べてみたいの」
健一は少し躊躇したが、結局は葵の要求に応じた。
彼女の洞察力を信頼していたからだ。
葵はすぐさまパソコンで作業を始めた。
指が素早くキーボードを叩く音が部屋に響く。
「……見つけた」しばらくして、葵が呟いた。
「何を?」健一が身を乗り出す。
「被害者は、死亡推定時刻の直前まで、匿名の相手とDMでやり取りをしていたわ。内容を見る限り……どうやら脅迫されていたみたい」
健一の目が見開かれた。
「なんだって? でも、どうやってDMを確認できたんだ?」
葵は画面を見ながら説明を始めた。
「実は、被害者のSNSアカウントにログインできたのよ。彼のプロフィールを見たら、パスワードのヒントが『愛犬の名前』になっていて。過去の投稿を遡ったら、愛犬の写真と名前を見つけたの。それを使ってログインしてみたら、成功したわ」
健一は驚いた様子で言った。
「そんな簡単に……」
葵は少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「セキュリティ的にはもちろん良くないわね。でも、今回はそのおかげで重要な情報にアクセスできた」
葵は画面を見ながら続けた。
「相手は被害者の会社の機密情報を持っていて、それを公開すると脅していたの。でも、被害者は応じなかった。最後のメッセージは……『静寂の中の叫び、覚えておけ』」
「紙切れの言葉と同じだ!」
健一が声を上げた。
葵は静かに頷いた。
「そう。でも、これだけじゃないわ。被害者の過去の投稿を遡ってみたら、興味深いことが分かったの」
「何だ?」
「被害者は deaf metal という音楽ジャンルの大ファンだったみたい。これ、聴覚障害者向けの重金属音楽なの。振動や視覚効果を使って、聴覚障害者にも音楽を楽しめるようにした特殊なジャンルよ」
健一は首を傾げた。
「deaf metalって、どんな音楽なんだ? 聴覚障害者が楽しめるって言っても……」
葵は淡々と説明を始めた。
「基本的には重金属音楽なの。でも、低音を強調して振動を感じやすくしたり、ライブでは光や映像を多用したりするの。それに、歌詞を手話で表現することも多いわ。聴覚障害者のコミュニティでは人気のジャンルなのよ」
健一は感心した様子で頷いた。
「なるほど。音楽の楽しみ方は一つじゃないってことか」
だが健一は首を傾げた。
「それが、この事件とどう関係があるんだ?」
葵は微笑んだ。
「『静寂の中の叫び』。これは deaf metal を表現した言葉なのよ。犯人は、被害者の趣味を知っていた誰かよ」
「なるほど……」
健一は唸った。
「だが、犯人がわざわざ被害者の口の中に紙切れを入れた理由は?」
葵は真剣な表情で続けた。
「おそらく二つの理由があると思うわ。まず、警察の注意を引くため。普通の自殺では考えられない行為だから、必ず気づかれるわ」
「確かにそうだな」
健一は頷きながら聞いていた。
「そして、もう一つは犯人の怒りや苦しみの表現かもしれないわ」
葵は続けた。
「『静寂の中の叫び』。これは何かを訴えかけようとしている犯人のメッセージなの。声なき叫びを、皮肉にも被害者の口の中に封じ込めたわけ。犯人にとっては、ある種の復讐の形なのかもしれない」
健一は唸った。
「だが、それだけで犯人は特定できないだろう」
「ええ、でももう一つ重要なことがあるわ」
葵は言った。
「被害者のプロフィールを見てみて。彼、手話通訳の資格を持っているのよ」
健一の目が再び見開かれた。
「まさか……」
葵は頷いた。
「そう、犯人は聴覚障害者だと思うわ。だから、被害者は手話で会話ができる人物を選んだの。そして、最後の脅迫も手話で行われたはず」
健一が口を挟んだ。
「だが、それだけでは……」
葵は指を折りながら説明した。
「まず、deaf metalというマイナーな音楽ジャンルに詳しいこと。次に、被害者が手話通訳の資格を持っていたこと。そして、最後のメッセージが『静寂の中の叫び』だったこと。これらを総合すると、犯人はやはり聴覚障害者である可能性が高いわ」
葵は続けた。
「それに加えて、被害者の妻の証言よ。頻繁にメッセージのやり取りをしていたって。聴覚障害者にとって、テキストでのコミュニケーションは最も自然な方法。だから、これらの状況証拠を合わせると、犯人が聴覚障害者だと考えるのが最も合理的なの」
「だが、どうやって証明する?」
健一が問いかけた。
葵は少し考え込んだ後、言った。
「被害者の家のセキュリティカメラの履歴を追って。玄関や庭を映しているはずよ。そこに写っている人物の中で、明らかに声を出さずに手話で会話している人がいないか確認して」
健一はすぐさま電話をかけ、部下に指示を出した。
しばらくして、彼の携帯が鳴った。
「葵、君の推理は正しかったよ!」
健一は興奮した様子で言った。
「被害者の会社の元従業員で、聴覚障害者の男が映っていた。今、事情聴取のため連行したところだ」
葵はほっとしたように微笑んだ。
「良かった……これで事件は解決ね」
健一は感心したように葵を見つめた。
「本当に君はすごいよ、葵。こんな狭い部屋の中からでも、事件の真相を見抜くなんて」
葵は少し寂しそうに笑った。
「でも、叔父さん。私にはこれしかできないの。世界とつながる唯一の方法なのよ」
健一は優しく葵の頭を撫でた。
「そんなことはないさ。君は今、大勢の人々の人生に関わり、正義を守っているんだ。これほど社会とつながっている人間も珍しいよ」
健一は深く息を吐いた。
「葵、君の能力は本当に素晴らしい。でも、時々心配になるよ。こんなに若いのに、殺人事件に関わることで精神的な負担はないのか?」
葵は少し考えてから答えた。
「確かに、時々怖くなることはあるわ。でも、叔父さん。私にとって、これは単なる推理ゲームじゃないの。誰かの人生を、家族の幸せを守ることができるんだって思うと、やりがいを感じるのよ」
健一は優しく微笑んだ。
「そうか。でも、無理はするなよ。君の健康が一番大事だからな」
葵はにっこりと笑った。
「ありがとう、叔父さん。私も自分の限界は分かってるつもりよ。それに……」
彼女は少し照れくさそうに続けた。
「叔父さんが来てくれるのを、いつも楽しみにしてるの。外の世界の話を聞くのが好きなの」
健一は優しく葵の肩に手を置いた。
「そうか。じゃあ、これからはもっと頻繁に来るよ。君と話すのは、私にとっても大切な時間だからな」
葵の目に、小さな涙が光った。
しかし今回は、寂しさからではなく、暖かな気持ちからだった。
その日の夕方、葵は再びパソコンの前に座っていた。画面には新しいニュースが流れている。
「IT企業社長殺害事件、元従業員の男を逮捕」
葵は静かに微笑んだ。彼女の世界は小さいかもしれない。しかし、その鋭い洞察力は、はるか遠くの事件さえも解き明かす。彼女は今日も、閉ざされた自分の部屋から、世界の謎に挑み続けるのだから。
(了)
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