約 束
吉江 和輝
遠くの寺の鐘の音が秋の風に乗って耳をかすめていった。
紫の夜空に浮かぶ冷たく白い輝きを放つ月が美しかった。
街灯に照らされた茶色の枯れ葉が誰も通らない歩道で、悲しげに踊りながら季節の変わりを告げている頃だった。
もうすぐ冬。
いずれ一面が冷たく汚れた白濁色の世界に包まれ、そして去年と同じ一年が過ぎていく。
今年も、来年も、何一つ変わらない1年が過ぎ、無機質な時が流れていく。
仕事が終わり帰宅する途中、路を急ぐいかにもサラリーマン風の人達のコートは重く、そして誰も表情がない。
誰もが昨日と同じ今日を過ごし、やがて来る死に向かってただ機械的に歩いていく。
なぜそう急ぐのか。
その日だった、仕事を終えた帰り際に会社で課長が僕に言った。
「叱られるだけ、まだありがたいと思え、さっさと帰れ、このバカ」
吐き出すように言った課長の目は僕の顔を見ていなかった。
説教もこの一言で絞められた。
そうなのだった、入社した頃は2~3分近くあった課長の説教も、
最近はこの一言で締められる様になり、課長は必ず最後にこう言ったのだった「・・・・このバカ」。
その一言は、何となく僕の気持ちを、帰路からあの店へと向かわせるのだった。
僕は会社を出ると、何時もの電車に乗り込んだ。電車は客の滅多に乗らない時間帯のガラガラに空いている寂しげな電車だった。
しかし降りる駅まで5分とかからない時間だ、僕は座らずに俯いたまま立っていた。
少しして僕がふと顔を上げてみると、何時もの若く美しい女性が椅子に座っていた。彼女は僕が乗るといつもちらりと僕を見るような気がした。
あくまでも気がしただけだったが、僕が見るから彼女も僕を見ていたのかもしれない。
鼻筋の通った高い鼻に、黒い濃いめの眉、切れ長で大きく少しきつめな瞳、若く美しい女性だった。
女性は僕が乗った次の駅ですぐに立ち上がり電車を降りて行ってしまうのだった。
僕はその次の駅で電車を降りた。
日の暮れかけた冷たい道を少し歩き、僕は結局、何も言わずに古びた店の扉に手をかけ、ゆっくりと扉を開いた。
中に入ると店のおやじも何時もの表情で、何も言わなかった。
僕は黙っていつもの席に着いた。
店はカウンターとテーブル席2つの狭い部屋で、客はテーブルにそれぞれ一人とカウンターに僕と、もう一人のなじみが座って、店はいつもだいたい満席状態だった。
僕は取り合えずビールを注文した。
誰もが何も言わずに静かに酒を飲んでいた。
店の中はそんな酒飲みの孤独で満ちていた。
しばらくし、酒に切り替え、僕の顔が赤らみ、おやじの作ったおでんの蒟蒻が僕の箸先から逃げ出し始めた。
何も言わずうつむいて酒を飲んでいた周りの連中もようやく口を開き始めた頃だった。
僕はあいかわらず何も言わずに黙って酒を飲んでいた。
店のおやじが何も言わずに酒を飲んでいる僕に向かい言った。
「おまえ、いったい会社で何やってんだ?」
「・・・・・・・」
いつもなら何とか切り返していたが、その日の僕は言葉が出てこなかった。
「ほんとに仕事してんだろうな」
「兄ちゃん、大学出てるんだもんな。きっと立派な仕事をしてるんだぜ」
周りの連中が親父に加勢した。
僕はやっぱり言葉が出てこなかった、課長の最後の一言が何となく胸中にのしかかっていた。
「おいおい、ホントに仕事してんだろうな」おやじが焼き鳥をやきながらながら僕を責め立ててきた。
そんな時、厨房の奥から突然僕に援軍が現れた。
「何言ってんのよ、仕事してるからお酒飲んでいられるんでしょ」
すず子だった。彼女はおやじの親せきで、店の手伝いに来ている35歳のオールドミスだった。
彼女はなじみの客が酔って声をかけても、決して落ちない鉄の女と言われていたが、実はナイーブな性格をしており、僕はなんとなく彼女を思っていた。
僕の年齢は25歳、じつは10歳も年上のオールドミスに僕は惚れてしまっていた。
なんとなくだった・・・。
すると、ただ黙ったまま酒を飲み続けている僕を見つめ、心配そうにおやじが言った。
「おまえ、今日はもう帰れ、そろそろ給料日まえだろう。うちじゃつけはきかさねえぞ。もちろんカードは不可だ」おやじが僕を見つめながら強く言った。
それを聞いた僕はその時、初めてそろそろ給料日前だということを自覚した。
言われるままに僕がゆっくりと立ち上がると、レジに立ったすず子が言った。
「二千五百円よ」
僕は彼女の顔も見ずに、使い古した財布の中から皺の寄った1000円札3枚を抜き取って彼女に渡すと、以外に若い彼女の掌の上に乗せた500円玉一枚を受け取り、最後にその日、初めて店で口を開いた。
俯いたまま。
「ごちそうさん」
そして開きづらい店の古い扉に静かに手をかけた。
店を出た僕は一人で街中を歩きまわった。
日が暮れて一日が終わりかけていた時、紫の重たい夜空から黒く真直ぐに落ちていた雨が突然にやみ、腐った生ごみの様な臭いがする冷え切った風が流れ始めていた。
人気のない時間が止まった街かど、車のクラクションが嫌に鮮明に鳴り響くなんとなくむなしげな空気の中、数人の古びた学生服を着ている若者がまずそうにタバコを吸っている、高校生だろうか・・・。
僕は今、真っ暗な迷路の中に居る。
何もすることもなくなり、どこに行くところもなくなった。
思考は常に細い糸の様に細かく縺れ、その糸が引きちぎれる様に行き詰った。
うまく言葉さえ操れない僕を誰も相手にはしてくれない。
毎日が孤独だった。
うなだれて歩き、路面を見つめ、あてもなく底辺を彷徨い歩いている。
手持ちの金はもうとっくになくなったが、金を貸してくれる所さえない。
その僕の中で今、何かが崩れ落ちていくような気がしていた。
何が、僕をそうしたのか、何故、僕はそうなってしまったか、今、はっきりとすべては思い起こせはしなかった。
部屋に帰ってもすることもない僕は、酔いを醒ますために、なんとなく回り道をして、近くの小さな公園で足を止めた。
誰もいないベンチに座り、風に静かに揺れるブランコを見つめながら、僕はポケットから煙草を取り出し火をつけた。
一息吸い込み大きく煙を吐いた時だった。
「コラ、公園でタバコを吸うな」突然聞きなれた女の声がした。
振り向くとそこに
すず子が立っていた。僕は驚いて言った。
「どうしたんだ」
「どうしたって・・・・。今帰るところよ、あなたこそこんなところで何してるの?」
すず子の部屋がこの変だとは知らなかったし、待ち合わせしていたわけでもない。僕は何も言えずに黙っていたが、心が少しトキメイテいた。
そんな僕を見つめて僕の座ったベンチの横に彼女はそっと座った。
ブランコが小さく揺れていた。
僕はやっぱり何も言えないでいた。
公園のコウロギの鳴き声が美しかった。
その時、彼女が突然僕に言った。
「もう、とっくに終電は行ってるわよ。どうするつもり」
僕は時計を見てみると、もう12時を過ぎていた。僕は驚き、茫然とした。そうなのだった、終電はとっくに行ってしまっていた。
「あなた、あの店のおやじといつもやりあってるわよね」
何も言わない僕に彼女は静かに言った。
「あなた本当にバカよね」彼女が横に座った僕を見て微笑んだ。
そんな彼女の言葉に僕の心は深い穴へ落ち込むようだった。
僕は言った。
「そうなんだ、俺は会社でも、あそこのおやじにも、バカ、バカ、そう言われてるダメな人間なんだ」
「あなた、本当は何か別なことがしたいんでしょ」すず子はちょっぴり意地悪そうな笑みを浮かべ僕を見つめた。
二人の間に少し薄い沈黙が流れた。
僕は何気なく夜空の星を見上げた。
小さくダイヤモンドのように輝く星々が、夜空に無数きらめいていたのだった。
僕が横に座っている彼女を見ると、彼女も空を見上げていた。僕は彼女のその顔を見た瞬間に、それ以上の思いを表す言葉を見つけることが出来なくなっていた。
突然、僕は猛然とすず子に襲い掛かかり、彼女を抱きしめた。
「ちょっとやめて・・・。何するの・・・」彼女は言ったが、少し細めの彼女の体に抵抗の力は入っていなかった。
僕はそのまま彼女をベンチの下の芝生に押し倒すと、芝生の上に転がった彼女は素早く言った。
「や、やめて・・・。私の部屋はこの近くよ、そこ行きましょ・・・」
その言葉を聞いた僕は驚き、僕の体は動きを失ってしまった。
「えっ・・・・」僕は彼女の顔をまじまじと見つめ、彼女を抱きしめていたその手の力を緩めた。
そして僕の腕の呪縛の中で彼女はもう一度こっそりと言った。
「私の部屋はこの近くなの、どうせならそこ行きましょ・・・」
すると彼女は僕の両腕の呪縛からするりと抜け出し、芝生から素早く立ち上がって僕の手を取った。
僕は訳が分からず彼女に手を引かれるまま、彼女の部屋に連れていかれた。
彼女の部屋は僕の部屋より少し狭く思えたが女性的な整った、清潔な部屋だった。
僕が部屋に突っ立って部屋の中を、あたりを見回していると
「何してるの、シャワーを浴びるわよ」
彼女がそんな僕を急き立てた。
僕らはすぐに衣服を脱ぎ捨て、バスルームへと向かった。
彼女の体は思っていたより若々しかった。
それでも何が何だか分からずに迷っている僕に、シャワーを浴びると彼女が積極的に絡みつき、そんな彼女の体に僕も絡みながら、一つになりシャワーを浴び続けた。
ベッドの上で強く僕を求める彼女のその薔薇は美しく輝いていた。
次の朝、僕が目を覚ますと、窓から薄い日差しが差し込み、彼女はすでに起きて朝食の準備をしていた。
僕はベッドの横のテーブルの上にあったたばこを吸いながら、黙ったまま上を向いていた。どこか遠くから鐘の音が聞こえ、窓から差し込んでいた日差しはゆっくりと上り始め、部屋のなかは上り始めた日差しにきらびやかに輝いていた。
素敵な部屋だと思った。
すこしすると僕はすず子を見つめた、すると彼女は静かに言った。
「まさかこれで終わりにしようっていうんじゃないでしょうね?」
僕は嬉しかったが、これからどうすればいいのか全くわからなかった。
僕らはまた、あの公園に出かけ黙ったままベンチに腰を掛けていた。僕はポケットから煙草を取り出し吸い始めたがすず子は何も言わなかった。
するとしばらくしてからすず子が僕に言った。
「あなた、会社を辞めてアルバイトをしながら作家を目指しなさい。約束よ、必ず作家になりなさい。私も店の手伝いを辞めて働く。そして私の部屋で一緒に暮らしましょ」
僕は驚いた、彼女はなぜか学生時代の僕の夢を知っていたのだ。
そう、僕は大学は文学部だった。なぜ文学部に進んだかというと、高校の頃だった、試験の問題で、「次の物語を読んでその後、彼はどうなったと思いますか、20字以内で簡潔にまとめなさい」という問題があった、僕はよくわからなかったので、「レット・イット・ビー」と書いたら、先生が丸をくれて褒めてくれた。そして、君、文学的才能があるかもしれない、そう言われたのだった。
それで僕は大学は文学部にしようと思ったのだった。そう、たったそれだけの理由だった。
文学部というからには本を 読むことが勉強だと思い込み、授業も出ず、いわんや試験も受けずに本を読み漁っていた。
日本の作家では安部公房、大江健三郎、坂口安吾・・・。海外の作家ではカミュ、カフカ、p-オースター、ドフトエフスキー・・・など。
何が書いてあるかなど理解できなかったが、ただ面白かった。読み切った本はそれほど多くはないと思ったが、結構読んだと思う。
そしてその時、僕は作家になろうと決意したのだった。
しかし、仕事もなく、能力もなく、どうやって作家になればいいのか全く分からずに結局、路頭に迷ってしまったのだった。金もなく、仲間もなく、彼女もいない。
なんの能力もない一人の男が、夢を追いながら生きていける程、世の中甘くは無かった。僕は結局その夢を捨て、何とか今の職にありついたのだった。
その僕が捨てた夢を、なぜ彼女が知っていたのか僕は知らなかった、が
「あの店の親父も知ってるわよ・・・バカ」すず子が言った。
「あなた,酔った時に自分が何しゃべってるか知ってるの?」彼女が笑いながら僕の顔を覗き込んできた。
彼女のその言葉を聞いて僕の顔は赤く蒸気を発するようだった。
その時だった。まったく思ってもみなかった事態が起こってしまったのだった。
「おい、松坂、松坂じゃねえのか?」僕は驚いた。
この場で一番聞きたくない声だった。
振り向くとそこには会社の同期の坂本が立っていた。
僕は言葉を失い、背筋は震えあがり、顔から血の気が引いてしまった様だった。
彼は僕よりも隣のすず子に興味を持ったようだった。
「よう、誰なんだその人、姉さんか?」ニヤニヤ薄汚く笑いながら彼は言った。
すると叫ぶように彼に向かいすず子が言った。
「失礼ね、彼の彼女よ」
僕は特別否定する気もおきなかった。
ただ彼に見られたということは、噂が会社中に広まることに等しかった。が、会社中で僕を知っている人はそんなにはいないと思うので、おそらく社内に知れ渡ることも無いと思った。
だから、そう思うとたいしたことでもないように思え、僕はすぐに正気を取り戻した。そして言った。
「最近、付き合い始めたんだ」
しかし、彼はそれだけでは許してはくれなかった。
「ろくに仕事もしないくせにやることはやってんだな、どこで知り合ったんだ?」
さらに僕に詰め寄り言った。
すると隣に座っていったすず子が立ち上がり、大きな声で彼に向かい怒鳴りつけるように叫んだ。
「あんたに関係ないでしょ‼」
坂本は驚いたように一歩後さった。
そして立ち上がったまますず子は、僕の手を取り言った。
「行きましょ」
僕はそのまますず子に引きずられるように手を取られ、ずるずるとすず子の部屋へと向かった。
次の日だった、会社に出社した僕は恐れていたが、取り敢えず課長は仕事の最中には何も言わなかった。
休憩時間、僕は喫煙所に行こうかどうか迷ってしまった。しかし煙草を吸わないわけにはいかなかった。
結局喫煙所に入り、僕はなるべく目立たないようにと、小さくなって煙草を吸っていたが、課長はそこに入ってくると、中をキョロキョロと見回して、僕を探していたようだった。
僕はあきらめて課長を見つめた。すると僕と目を合わせた課長は、ニヤリといやらしく笑い、ゆっくりと僕に近づいてきた。
課長は僕の向かいに立つと、僕の胸のポケットからラークの箱を取り出し、そこから僕の煙草を一本取りだし、薄汚い唇にくわえると、彼のズボンのポケットから取り出した緑の安物の100円ライターで、その煙草に火をつけた。
彼はゆっくりと大きく煙を吐き出し、もう一度いやらしくニヤリと笑うと僕に向かって言った。
「おい、お前が女なんて、え、いったいどこで見つけたんだ?」
「親戚に紹介してもらったんです」
僕は用意していた嘘をついた。内心、似たようなものだと僕は思っていた。
「女なんてのはなあ、仕事が出来る様になってから作るもんだ、お前には10年早いんだよ」
課長はそう言って、煙草をもうひといき吸い込むと、僕の顔に煙を吹き付けた。
そして僕に向かってくどくどと訳の分からぬ説教を始めた。
はいはいと言いながら話は聞いていたが、僕は他のことを考えていた。そして、いたたまれなくなった僕はその場を離れた。
そしてその日、僕の書類の編集上のミスで課長は僕をディスクに呼びつけ説教をした。そして最後にこういったのだった。
「お前に女はまだ早いんだよ、このバカ」
課長はその日から僕に説教をすると最後に必ずこう言った。
「お前に女はまだ早いんだよ、このバカ」
そして、僕は彼女に言われるままに会社を辞めたのだった。
僕らは、すず子の部屋で、一緒に暮らし始めた。僕はすず子に言われたとおりに会社を辞めて皿洗いのアルバイトをしながら、作家を目指した。
すず子は飲み屋の親父のところのアルバイトを辞めて、小さな会社だが事務職として働き始めた。驚いたことに彼女は一応大学は出ていたのだ。
飲み屋のなじみの客にはすず子の引き抜きと揶揄されたが、みんなが笑顔でいたので、僕はその言葉を祝福の印と受け取った。
親父はもちろん面白くなさそうな顔をしていた。
生活は楽なものではなかった。もちろん、炊事、掃除、洗濯は二人で手分けですることになり、僕は、自分の部屋でしていた倍近くの家事を負担することとなった。
もちろん洗濯も分担していたが、僕は彼女が平気で女物の下着、パンティーやらブラジャーというやつを僕に任せるのが嫌だった。
僕は言った。
「下着くらい自分で洗濯しろよ」
するとすず子は言うのだった。
「あんたの下着を私は洗濯してるのよ」
そんな状態で僕らの生活は続いていた。
ある日の日曜だった、僕は買い物を終えて部屋に戻るところだった。ふとすれ違いざまの男と目が合った。すると男が言った。
「あっ、おいおまえ・・・」それは学生時代の唯一の友人だった吉田だった。僕も思わず叫んでしまった。
「吉田か?・・・」
「そうだよ、お前、まだ札幌にいたのか、今何してんだ・・・」
再開時のお決まりのセリフだったが、恐らくそれ以外に言葉は無かっただろう。
僕らは取り敢えず近くの喫茶店に場所を移して話をすることにした。彼は大手の銀行に勤め、家庭を持って頑張っているようだった。
僕は彼に嘘を付く分けにはいかなかった。正直に、今の生活を、状況を話した。それを聞いて彼は言った。
「まあ確かにお前ならそうなるような気もしていたけどな・・・・」
彼は半分あきらめたように言った。
「どうなんだ、出版できそうなあてはあるのか?」
「まあな、いよいよになったら自費出版という手もある」
「そんな金があるのかよ」吉田は驚いた。
そこで僕はとんでもない嘘を彼についてしまった。
「実は女房のおじさんが資産家なんだ。金を出してもいいと言っている」
本当は彼女の叔父さんは資産家でもなんでもなかった。
田舎で貧乏農業を営んでいるはずだった。
金のあてなど全くなかった。自費出版などできるはずもなかった。
「それは、いい人を見つけたもんだな・・・」吉田は再び驚いたようだった。
その後、僕らは何気ない噂話をし、別れ、その後もたびたびあっては噂話に明け暮れた。そんな生活が数年続いていた。
そして、お袋が死んだ。
「キョウ、カアサンガシンダ、ソウギアス」メールが妹から来た。
僕は店長に言ってアルバイトを途中で引けさせてもらうことにした。
部屋に帰ると、すず子がいた。
「どうしたの?」すず子が不思議そうな顔をして言った。
「い、いや・・・」
実はすず子にはお袋がいることを話していなかったのだ。
加えて家族、親戚みんなに僕が作家を目指すことを反対されていた。お袋は幼い頃、亡くなったことにしてあったのだ。
「何があったの?」すず子が言い寄ってきた。
「じ、じつは・・・」
「実は俺、お袋がいたんだけど、お袋が亡くなったらしいんだ」
「え、知らなかった、どうして黙っていたの」
彼女は不思議そうに尋ねてきたが、今更亡くなったお袋に加えて、親戚みんなに作家を目指していることを反対されているとは言えなかった。
「いいんだ、とにかく、君は婚約者ということでまだいいんだ」
「えっ、そっ、そんなことないわ・・・」
そうして手を伸ばそうとする彼女を振り切り、僕は部屋を出てきた。
僕は実を言うというとお袋が病院に入院してから今まで1年間、見舞いに病院へは一度きりしか行ったことがなかった。
お袋の看病は妹と姉に任せきりだったのだ。
今更、何しに行くのかという気さえ起っていた。なぜなら病院はちょっと遠いのだった。おまけに僕は車の免許を持ってはいない、病院へはバスに乗って30分、そして地下鉄に乗り継いで20分、そのあと最後に電車に乗って30分はかかるのだ。
なぜあんな遠くへ入院したのかは分からなかったが、何とか準備を終えて、僕はバス停に向かっていた。
バス停に向かうのにも15分は歩いたのだった。
その途中にはきれいな紅葉の紅が揺れていた。秋の風が流れ、紅葉の紅が揺れていた。多くの紅葉の枯葉が道路に散り咲いていた。
バス停にはバス到着予定の時刻とほとんど同時に僕は着いたのだったが人はまだ並んでいる。時計を見るとまだ35分。到着予定時刻は34分だった。
僕は思い切って並んでいる人にバスの到着を聞いてみた。
「バスはまだ来ていませんか」
その人はにっこり微笑んで言った。
「どちら行きのバスですか?」
「い、いや・・・。円山行きです」僕も思わず微笑んでしまった。
「まだですよ」その人はもう一度微笑んだ。
バスは10分ほど遅れてきた。
バスは空いている時刻だと思ったが座れない程に込んでいた。
地下鉄も同様に混雑していて、座ることはできずにいた。
電車は空いていて、何とか座れた。
そして漸く僕は病院へたどり着いた。
病院へ着くと窓口でお袋の病室を聞いて、僕はお袋の病室へ向かった。
病室へついても僕はおふくろに向かい合うことは出来なかった。
「連絡はしたけど、来いとは書かなかったわ」
妹は僕に向かってそう言って病室には入れてくれなかったのだ。
僕は病室の片隅の窓際にある小さな椅子に腰を下ろし、一度だけ見舞いに来た時の事を何となく思い出していたが、それはまだ、すず子と付き合う前の頃の話だった。
そしてお袋は死んだのだった。
その後の手続きもすべて姉と妹にまかせた。
というか、僕には入り込む余地がなかった。
母は89歳だった。医師からの話だと、苦しまずに死んだそうだ。
それが何よりの幸いに僕には思えた。
最後に会った時の笑顔を思い起こすと、悔いのない人生に思えた。
僕はほっとさえしてしまっていた。
親戚は僕の今の状態を一部始終知っていたが、もちろん誰一人、それを容認しようとはしてくれてはいない。僕自身でさえ葬式には出づらかった。
とりあえず、僕はレンタルショップで喪服を借りてきた。
すず子は葬式に出ようかと言ったが、僕は遠慮しておいた。
久しぶりに親戚一同が集まったが、誰一人として僕にお悔やみをいう人間はいなかった。全て姉と妹が仕切り、僕は蚊帳の外だった。
自分としては納得のいく対応にも思えた。
会社を辞めて、どこの誰とも知れぬような女に食わせてもらって、わけの分からない文章を書いて、いまだ本も出版できずにいる・・・。
そんな長男を誰が容認しようか。
通夜でも一人でちびりちびり酒を飲んでいた。
そこへ従兄弟の文雄が高そうな喪服で僕に声をかけてきた。
「どんなんだい。調子は」
彼はコップに入れた酒を手に、僕に近づいてきた。
「えっ・・・」僕は全く違うことを考えながら酒を飲んでいた。
「頑張ってるんだろう」彼は空いていた僕の隣に腰を掛けて胡坐をかいた。
僕は彼と話をするのは10年振り位のような気がしていた。
そう、最後に話をしたのは高校を卒業するくらいの時だったはずだ。
僕は彼がそれから何をしているのか全く知らない。
「取り敢えず・・・」それ以外に答えようがなかった。
「小さい頃から本が好きだったからな、お前は」
彼が僕を「お前」と呼んだことに、少しホッとし、何となく入っていた肩の力が抜けた。
「まあ、まだまだだけどな。これからどうなるか全くわからん・・・」
正直に答えた。
「あまりいい噂は聞かんが、どうなんだ、やっていけそうなのか?」
彼が言うと
僕は口元を少し歪めて笑った。
自分でも分からない事を他人に説明できなかった。
「お前こそどうなんだ」
僕はわざと彼を「お前」と呼んで聞き返してみた。
「まあ、給料はいいよ。だけどこんなことするためにわざわざ大学まで行ったのか疑問も感じるよ」彼はコップの酒をいきよいよく煽った。そして、僕の前に置いてあった徳利から空になった自分のコップに酒を注ぐと、再び酒を飲みだした。
そんな彼の言葉に僕は何とも言いようがなかった。彼が高校を卒業してから何をしていたのか僕は全く知らなかったのだ。
二人の間を10年という歳月が流れていくような気がしていた。
僕は少し恐る恐る聞いた。
「大学では何をやってたんだ?」
「俺は情報工学を専攻したんだ。プログラミングを勉強した」文雄はどこか寂し気に俯いたまま、手に持った酒のコップを見つめ力なく笑った。
僕は思い切って聞いてみた。
「今は何してる」
「生命保険会社の外交員だ」
僕はそれがどういう仕事なのか正直わからなかったが、情報工学とは関係ない仕事だということは理解ができた。
「お前がうらやましいよ・・・。好きなことして生きてるんだからな・・・」そう言うと、彼はもう一度酒を煽った。
「・・・・・」僕は何とも答えようがなかった。
「がんばれよ、やれるだけやれるのは今のうちだぞ」そう言うと文雄は立ち上がり、振り向きもせずに席を離れていった。
文雄とはそのまま別れ、それから又、音信不通の状態だった。
僕は驚いてしまった。
自分の生き様を人に羨ましがられるとは思ってもいなかった。
社会から弾けて、邪魔者扱いされながら生きているような自分の生き様を・・・。
通夜が終了し、後片付けが始まると、僕は後片付けくらい手を貸さなければいけないと思い、立ち上がった。
すると妹が近づいてきて、非難するような鋭い目つきで僕に言った。
「お兄ちゃんはいい」
「えっ・・・。でも後片付けくらい手伝わせてくれ・・・」
僕は妹にすがるように言った。
「いい」
妹は頑なに拒んだ。そして僕に言ったのだった。
「お母さんが死んだのはお兄ちゃんのせいなんだ。仕事を辞めて、おかしな女と暮らして自分の好き勝手して!。おかしな夢ばっかり追って!」
その言葉を聞き、僕は呆然と立ち尽くしてしまった。
確かに僕は会社で仕事をしていた時は、母に送金をし、母の部屋に様子を見にも出かけていた。そして会社を辞めて、すず子と暮らし始めてからそれを辞めたのだった。まさにその頃に、母は体調を崩し、入院してしまったのだった。
その事を言われると僕の胸中は良心の呵責と言おうか、自責の念と言おうか、疚しさで満たされた。
僕はただ呆然と立ち尽くすだけだった。
僕は振り向き母の遺影を見た。
だけど遺影は僕にかすかに微笑んでいた様だった・・・。
その夜、部屋に戻っても、すず子は何も言わなかった。
次の朝、目を覚ますとすず子はすでに起きていた。僕女は忙し気に仕事へ行く準備をし、そして一言、
「朝食は自分でお願いね」そう言って部屋を出て行った。
僕が起き上がり、顔を洗って部屋に戻った時にはもうすず子は居なかった。
僕は何も考えずに牛乳を一杯飲み、昨日と同じ黒の上着をひっかけ部屋に鍵をかけると、ポケットに中身のない財布を入れて出かけた。
表に出た時、隣の庭の小さなもみじの木の紅が、いやにきれいに眼に映った。
10月も終わるのだ。
秋は終わろうとしているのだ。
そろそろ初雪の季節だった。
僕の胸中に少しの寂しさが沸き起こった。
そのまま僕はバス停に向かった。
バス停に着くと、薄めのコートを着たサラリーマンが一人、タバコを吸いながらバスを待っていた。
僕は彼の横に立ち、バスを待った。
少しして、隣のサラリーマンが時計を見た時、僕は「バスは遅れている」バスは混んでるそう思い、今日は座れない、そう感じた。
するとサラリーマンが声をかけてきた。
「遅いですね」
「ええ・・・」僕は来たばかりだったが、とりあえず答えておいた。
少しして、バスは来た。バスは空いていた・・・。
そうして何時もの1年が何もなく過ぎた。
次の年の5月の春。
目が覚めると今日も雨だった。
光のない朝。風もなく静かに雨が降っていた。
僕は少しうっとうしそうに起き上がると、横のすず子はまだ寝ている様子だった。
「彼女は今日は休みだったはずだ」僕は思い、時計に目をやると、7時に5分程前だった。
僕はいまだに、皿洗いのバイトを続けていた。
出勤の準備をしたが朝飯を食べている余裕などなく、インスタントのコーヒー一杯飲んで、何とか目を覚ますと500円のビニール傘をさし、鍵もかけずに部屋を出た。
何時もの細い裏通りの道を、何も考えずに足早に歩いた。
静かに降り続く雨が、心の中に沁み込んでくるような朝だった。
バス通りに出ると、大勢の小学生が重たそうなカバンを背負い、自分よりも大きな傘を差しながら歩いている。
誰もいないバス停に立つと珍しくバスはすぐに来た。
サラリーマンが一人、傘もささずに走ってバスを追い駆けてきたが、
無情にも、バスはそのサラリーマンを置き去りにして発車してしまった。
中の乗客は優越感を含んだ憐みの表情で持って、そのサラリーマンを見つめた。
バスは空いていたので僕は楽に席に座ることができていた。
何時もの席だった、僕の優先席だ。
席に座ると、何時ものように、色の無い窓の外を見つめた。
何となく寒く透明な朝だったが、このところ毎日がこんな流れだった。
僕はいまだ作家を目指していた。
しかし作家という職業は僕にはいささか負担が重すぎるようだ。
なかなか芽が出ず、何とかアルバイトの皿洗いをしながら、
すずこの収入で食いつないでいるのが現状だった。
去年もあらゆる賞に手をだしてみたが相手にされず、僕は何となく疲れてきていた。
その日もアルバイトの食堂に向かうバスの中だった。
次で降りようと思っていた時だった、僕の乗った何時ものバスに、
見かけたことのない一人の女性が乗ってきた。
僕は何気なく見つめていたが、心は空だった。
彼女はつり革につかまり真直ぐと前を向いていた。
ショートカットが印象的だった。
僕は女性を見つめていたが、女性は僕を見ることも無く、いつの間にか女性は視界から消えていた。
その日一日、僕は女性を思い出すことはなく過ごした。
次の朝、雨は上がっていたが、やはり寒かった。
まだ薄暗い空に数本の雲が走っていた。
そして僕はまた昨日と同じ時間のバスに乗ったのだった。
昨日のサラリーマンは、今日はバスに間に合ったようだった。
僕はいつもの席に座っていた。
その日もショートカットの女性がバスに乗って来た。
女性は昨日と同じくただつり革につかまったまま、背筋を伸ばして真直ぐと前を向いていただけだった。
するとその日、女性はゆっくりと頭を少しかしげて、斜め横に座っている僕を振り返った。
その若く美しい女性は、鼻筋の通った高い鼻に、黒い濃いめの眉、切れ長で大きく少しきつめな瞳でもって僕をじっと見つめた。
どこか懐かし気な視線、「あの頃の視線」でもって、僕のすず子でしめられた心を突然動かしかけ、女性が僕の心の中に入りこもうとしてきた。
あわてて僕は目をそらし、まだ緑のない窓の外を見つめ、何とか他のことを考え、顔をそむけ、心に入りかけてきた女性を、必死に追い出そうと抵抗した。
僕は抵抗したのだ。
しかし彼女はすず子にない、あの時の「美」を僕の心の底によみがえらせてきた。
女性は微かに微笑んだようだった。
すると女性は顔をそらした僕に、静かに近寄り、そっと紙を一枚手渡した。
受け取ることを拒むことは、その時の僕にはできなかった。僕は紙を受け取ってしまった。
紙にはこう書いてあった。
『約束です。6時、福住ヨーカ堂地下入り口で待ってます』僕はそのまま俯いた顔を上げることができなかった。
僕は終点の福住バスターミナルに着き、
恐る恐る顔を上げると、女性はもういなかった。
僕は少しホッとしながらも、淋しさを感じながらバスを降り、
手にしていた紙を丸めてゴミ箱に捨て、アルバイト先の食堂に向かった。
札幌の5月はまだまだ寒く、緑はまだまだ遠い、
その日の一日はいつもの一日に比べてどこか長く、
仕事はなかなか終わらなかった。
あの紙は捨てたはずだったのだが、
僕の頭の中からはあの短い一文が離れていなかったのだ。
『約束です。6時、福住ヨーカ堂地下入り口で待ってます』
「おい」店長が声をかけてきた。
「あ、はい」
「どうした、体調でも悪いのか」店長が僕の顔を窺う様に聞いてきた。
「え・・・」
「ほとんど手が止まってるぞ」
「あ、すいません」
その時の僕の頭の中はあの短い一文で埋まってしまい、心の中はあの女性の横顔でいっぱいだった。その時の僕の胸中にすず子はいなかった・・・。
自分を説得するのは簡単だった。それほど彼女は美しかったのだった。
バスの中であの女性の横顔を見た時の僕の胸中は空だったのだった。
仕事が終わって僕は何時もあそこを5時30分頃に通る。
僕はわざとゆっくりと着替え、
ゆっくりと歩きながらヨーカドー地下入り口を6時5分過ぎに通った。
するとそこに女が一人、薄いベージュのコートを着て憂鬱そうに立っていた。
そして彼女は顔を上げると僕を見つめ妖しげに微笑んだ。
そう、僕は若干疲れていたのだった・・・。
僕は朝目覚めてみると全く知らない部屋にいた。
しかし何とか起き上がってみると柔らかいベッドに女性と一緒に横になっていた。
昨日の事は何も頭に残っていなかった。
僕は飛び起きて、あたりをみまわした。
綺麗なカーテンのひかれた大きな窓、スーツのかかったハンガーラックに大きな机、そしてその上にはパソコンとプリンター。机の横のカラーボックスには僕の知らない作家の本が並んでいる。そして机の上の料理の本。
僕は何故か逃げるように部屋を出た。
そうして部屋を出ると、僕はもう一つの事実に気が付いた。
ここはどこなのだろう。
そう、僕はここが恐らく札幌市内だろうという事以外に、
全く何もわからなかったのだ。
部屋を出た瞬間に僕は右へ進むべきか左に進むべきか分からなくなってしまった。
僕は焦っていた。どうすればすず子のもとへ帰れるか。
スマホをポケットから取り出し「すず子」と投入し、検索した。
しかし反応があるはずもない。
目をつぶり大きく息をついて落ち着いた。
マンションを見上げると「ラークマンション」。ちょっと高級そうなマンションの気がしたが、僕はこのマンション名をスマホに入力し検索した。
すると住所は東3条1丁目でヒットし、近所の地図が出力され、
バス停は東2条1丁目と出た。
ありがたい。僕はさっそくその地図に従いバス停にたどり着くと、
30分後に福住バスターミナル行のバスが来る。
とりあえずこれで、部屋までたどり着ける。
僕はホッとしたが、静かで、新しい住宅街、彼女がこんな住宅街、
しかもあんなマンションに住んでいることが僕にとって意外だった(というより僕がこんな高級マンションに連れ込まれたのが意外だったのだ)。
少し彼女を見誤っていたのかもしれない。
僕は何となく悔しさの混じった思いでバスを待った。
人通りもなく、風のない少し霧がかった様な肌寒い朝だった。
バスを降りると市電を待った。
札幌の市電は、いつ乗っても心が何故か初恋のときのように、
ドキドキさせられた。が、その時はすず子がその日、何というか
ドキドキしてしまった。
陽の暮れかけた頃、僕がそしらぬ顔で、部屋に帰るとすず子が何食わぬ顔で洗濯ものを取り込んでいた。そこへ僕も何食わぬ顔をして入っていった。
「ただいま」それまで、僕は外泊はしたことがなかった。
僕は相変わらずそしらぬ顔で言うと、すず子がやや厳し気な表情で言った。
「どこ行ってたの?」
「吉田と飲みに出て、ちょっと飲みすぎてやつの部屋に泊めてもらった」
「電話一本くれてもよかったじゃない」すず子は横目で僕を見つめ言った。
その眼差しには薄く懐疑の色がにじんでいた。
「ああ、ゴメン。奴と飲むのも久しぶりだったから」
「・・・・」彼女は何も言わなかった。
「まあ、いいわ・・・。これから夕食の買い物に出るけど付き合ってね、約束よ」
「えっ・・・」
僕は彼女の ”約束” という言葉に少しドキリとした。
おわり
約 束 吉江 和輝 @YosieKazuki
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