約 束

k.yosie

約 束

 僕はその時、会社での課長の最後の一言を思い起こしながら家路についていた。

茶色の枯れ葉が悲しげに踊りながら季節の変わりを告げている頃だった。

 札幌の秋の夕暮れ時の空は高く遠く、黒いカラスが飛んで行くのが見える。


  もうすぐ冬。


 いずれ一面が冷たく汚れた白濁色の世界に包まれ、そして去年と同じ一年が過ぎていく。

今年も、来年も、何一つ変わらない一年が過ぎ、無機質な時が流れていく。

 仕事が終わり帰宅する途中、路を急ぐいかにもサラリーマン風の人達の色のないコートは重く、そして誰も表情がない。

誰もが昨日と同じ今日を過ごし、やがて来る死に向かってただ機械的に歩いていく。


   なぜそう急ぐのか。


その日だった、仕事を終えた帰り際に会社で課長が僕に言った。

 「叱られるだけ、まだありがたいと思え、さっさと帰れ、このバカ」

吐き出すように言った課長の目は僕の顔を見ていなかった。

 説教も2~3分で絞められた。

そうなのだった、入社した頃は10分近くあった課長の説教も、最近は2~3分で締められる様になり、課長は必ず最後にこう言ったのだった「・・・・このバカ」。

 その一言は、何となく僕の気持ちを、家路からあの店へと向かわせるのだった。

僕は会社を出ると、何時もの電車に乗り込んだ。その電車は客の滅多に乗らない時間帯で、ガラガラと空いている電車だった。

 降りる駅まで5分とかからない時間だったが僕は座らずに立っていた。

するとそこに何時もの若く美しい女性が椅子に座っていた。

 彼女は僕が乗るといつもちらりと僕を見るような気がした。

あくまでも気がしただけだったが、僕が見るから彼女も僕を見たのかもしれない。

 鼻筋の通った高い鼻に、黒い濃いめの眉、切れ長で大きく少しきつめな瞳、若く美しい女性だった。

その女性は僕が乗った次の駅ですぐに立ち上がり電車を降りて行ってしまった。

 

そして僕はその次の駅で電車を降りた。 


日の暮れかけた冷たい道を少し歩き、僕は結局その日も、何も言わずにその店の扉に手をかけ、ゆっくりと扉を開いた。

 中に入るとその店のおやじも何時もの表情で、何も言わなかった。


   僕は黙っていつもの席に着いた。


 店はカウンターとテーブル席3つの狭い部屋で、客はテーブルにそれぞれ一人とカウンターに僕と、もう一人のなじみの客が座った。


   それでおやじは店は満席状態と胸を張った。


 僕は取り合えずビールを注文した。

 誰もが何も言わずに静かに酒を飲んでいた。

 店の中はそんな酒飲みの孤独で満ちていた。


それからしばらくし、僕は酒に切り替え、顔が赤らみ、おやじの作ったおでんの蒟蒻が箸先から逃げ出し始めた。

 そんな頃うつむいて酒を飲んでいた馴染みの連中もようやく口を開き始めた。

僕はあいかわらず黙って酒を飲んでいた。

 少しして店のおやじが何も言わずに酒を飲んでいる僕に向かい言った。

「おまえ、いったい会社で何やってんだ」

 「・・・・・・・」

いつもなら何とか切り返していたが、その日の僕は言葉が出てこなかった。

 課長の言葉が胸につかえてしまっていた。

「ほんとに仕事してんだろうな」

 「兄ちゃん、大学出てるんだもんな。きっと立派な仕事をしてるんだぜ」

馴染みの連中が面白はんぶんに親父に加勢し出した。

 僕はやっぱり言葉が出てこなかった、今日の課長の最後の一言が何となく胸中に重くのしかかっていた。

そんな時、厨房の奥から突然僕に援軍が現れた。

「何言ってんのよ、仕事してるからお酒飲んでいられるんでしょ」

すず子だった。彼女はおやじの親せきで、店の手伝いに来ている35歳のオールドミスだった。

 彼女はなじみの客が酔って声をかけても、決して落ちない鉄の女と言われていたが僕はなんとなく彼女を思っていた。

僕の年齢は25歳、じつは10歳も年上のオールドミスに僕は惚れてしまっていた。


    なんとなくだった・・・。


すると、ただ黙ったまま酒を飲み続けている僕を見つめ、その日は心配そうにおやじが言った。

 「おまえ、今日はもう帰れ、そろそろ給料日まえだろう。うちじゃつけはきかさねえぞ。もちろんカードは不可だ」おやじが僕を見つめながら強く言った。

それを聞いた僕はその時始めて、そろそろ給料日前だということを自覚した。

 そして言われるままにゆっくりと立ち上がると、レジに立ったすず子が言った。

「二千五百円よ」彼女は言った。


 僕は彼女の顔も見ずに、皺の寄った1000円札3枚を渡すと、彼女の柔らかな手から 500円玉一枚を受け取り、最後にその日始めて店で口を開いた。


僕は俯いたまま「ごちそうさん」そう言うと、店の古い扉に静かに手をかけた。


    秋の風は静かで冷たい。


あの熱かった夏の陽ざしが恋しくさえもあった。


 部屋に帰ってもすることもない僕は、酔いを醒ますために、なんとなく回り道をして近くの公園で足を止めた。


誰もいないベンチに座り、風に小さく揺れるブランコを見つめながら、僕はポケットからタバコを取り出し緑の100円ライターで火をつけた。


    一息吸い込み大きく煙を吐きだしたその時だった。


「コラ、公園でタバコを吸うな」突然聞きなれた女の声がした。

 振り向くとそこにすず子が立っていた。僕は驚いて彼女に向って言った。

「どうしたんだ」

「どうしたって・・・・。今帰るところよ、あなたこそこんなところで何してるの?」


時計を見てみると、もう12時を過ぎている、僕は驚いた。


   そうなのだった、終電はとっくに行ってしまっていた。


僕はすず子の部屋がこの変だとは知らなかった。

待ち合わせしていたわけではないのだが、少し心がときめいてしまった。

何も言わない僕を見つめて彼女は僕の座ったベンチの横にそっと座った。

彼女はいつも僕が飲み屋のおやじとやりあっているのを見ながら笑っていたが、そんな僕を彼女がどう思っているのかは僕は当然知らなかった。

僕は何気なくタバコをもう一口吸った。


「公園でタバコを吸うなって言ってるでしょ」

「あなた本当にバカよね」彼女が横に座った僕を見つめ、微笑みながら言った。


 そんな彼女の言葉に、吸いかけのタバコを足元に捨てて踏みつけながら僕は言った。


「そうなんだ、俺はどこへ行ってもバカ、バカ言われるダメな人間なんだ」


 ちらりと僕をみつめると


「あなた、本当は何かしたいことがあるんでしょ?」彼女が空を見上げながら優しく言った。

僕は驚いた。

二人の間に少し薄い沈黙が流れた。


 夜空の星々を僕も見上げた。


小さくダイヤモンドのように輝く星々が、夜空に無数きらめいていたのだった。

 僕は横に座っている彼女を見た。彼女も空を見上げていた。僕は彼女のその顔を見た。


瞬間に、それ以上の思いを表す言葉を見つけることが出来なくなっていた。

 突然、僕は猛然とすず子に襲い掛かかり、彼女を抱きしめた。

「ちょっとやめて・・・。何するの・・・」彼女は言ったが、彼女のその体に抵抗の力は入っていなかった。

 僕はそのまま彼女をベンチの下の芝生に押し倒すと芝生の上に転がった彼女は素早く言った。

「や、やめて・・・。私の部屋はこの近くよ、そこ行きましょ・・・」その言葉を聞いた僕は驚き、僕の体は動きを失ってしまった。

「えっ・・・・」僕は彼女の顔をまじまじと見つめ、彼女を抱きしめていたその手の力を緩めた。

そして僕の腕の呪縛の中で彼女はもう一度こっそりと言った。


 「私の部屋はこの近くなの、どうせならそこ行きましょ・・・」


すると彼女は僕の両腕の呪縛からするりと抜け出し、芝生から素早く立ち上がって僕の手を取った。

 僕は訳が分からず彼女に手を引かれるまま、彼女の部屋に連れていかれた。

彼女の部屋は僕の部屋より少し狭く思えたが女性的な整った、清潔な部屋だった。

 僕が部屋に突っ立って部屋の中を、あたりを見回していると

「何してるの、シャワーを浴びるわよ」彼女がそんな僕を急き立てた。

 僕は何となく納得のいかない思いを胸に、すぐに衣服を脱ぎ捨て、バスルームへと向かった。

次の朝、僕が目を覚ますと、窓から薄い日差しが差し込み、彼女はすでに起きていた。

 僕がベッドの横のテーブルの上にあったたばこを吸いだすと、すず子は近くにあった空き缶を、スッと僕の手元に引き寄せて黙ったまま上を向いていた。

どこか遠くから鐘の音が聞こえ、窓から差し込んでいた日差しはゆっくりと上り始め、部屋のなかは上り始めた日差しにきらびやかに輝いていた。

 素敵な部屋だと思った。

すこしすると僕はすず子を見つめた、すると彼女は静かに言った。

 「まさかこれで終わりにしようっていうんじゃないでしょうね?」

僕は嬉しかったがこれからどうすればいいのか全くわからなかった。

 

そしてその朝、僕らはまた、あの公園に出かけ黙ったままベンチに腰を掛けていた。

僕はポケットからタバコを取り出し吸い始めたがすず子は何も言わなかった。

 するとしばらくしてからすず子が僕に言った。

「あなた、会社を辞めてアルバイトをしながら作家を目指しなさい。約束よ、必ず作家になりなさい。私も店の手伝いを辞めて働く。そしてこの部屋で一緒に暮らしましょ」

 僕は驚いた、彼女はなぜか学生時代の僕の夢を知っていたのだ。

そう、僕は大学は文学部だった。

 なぜ文学部に進んだかというと、高校の頃だった、試験の問題で、「次の物語を読んでその後、彼はどうなったと思いますか、20字以内で簡潔にまとめなさい」という問題があった、僕はよくわからなかったので、「レット・イット・ビー」と書いたら、先生が丸をくれて褒めてくれた。

そして、君、文学的才能があるかもしれない、そう言われたのだった。

 それで僕は大学は文学部にしようと思ったのだった。

そう、たったそれだけの理由だった。

 文学部というからには本を 読むことが勉強だと思い込み、授業も出ず、いわんや試験も受けずに本を読み漁っていた。

日本の作家では安部公房、大江健三郎、坂口安吾・・・。

 海外の作家ではカミュ、カフカ、p-オースター、ドフトエフスキー・・・など。

何が書いてあるかなど理解できなかったが、ただ面白かった。

 読み切った本はそれほど多くはないと思ったが、結構読んだと思う。

そんなことばかりしていたので大学は退学になったのだった。


 そしてその時、僕は作家になろうと決意したのだった。


しかし、仕事もなく、能力もなく、どうやって作家になればいいのか全く分からずに結局、路頭に迷ってしまったのだった。


 金もなく、仲間もなく、彼女もいない。


なんの能力もない一人の男が、夢を追いながら生きていける程、世の中甘くは無かった。

 僕は結局その夢を捨て、何とか今の職にありついていたのだった。

その僕が捨てた夢を、なぜ彼女が知っていたのか僕は知らなかった、が

 「あの店の親父も知ってるわよ・・・」すず子が言った。

「あなた,酔った時に自分が何しゃべってるか知ってるの?」彼女が笑いながら僕の顔を覗き込んできた。

 彼女のその言葉を聞いて僕の顔は赤く蒸気を発するようだった。

 

その時だった。まったく思ってもみなかった事態が起こってしまったのだった。


 「おい、松坂、松坂じゃねえのか?」僕は驚いた、


この場で一番聞きたくない声だった。


 振り向くとそこには会社の同期の坂本が立っていた。


僕は言葉を失い、背筋は震えあがり、顔から血の気が引いてしまった様だった。


 彼は僕よりも隣のすず子に興味を持ったようだった。


「よう、誰なんだその人、姉さんか?」ニヤニヤ薄汚く笑いながら彼は言った。


 すると叫ぶように彼に向かいすず子が言った。


「失礼ね、彼女よ」


 僕は特別否定する気もおきなかった。


ただ彼に見られたということは、噂が会社中に広まることに等しかった。


 が、会社中で僕を知っている人はそんなにはいないと思うので、おそらく全員に知れ渡ることも無いと思った。


だから、そう思うとたいしたことでもないように思え、僕はすぐに正気を取り戻した。


 そして言った。


「最近、付き合い始めたんだ」


 しかし、彼はそれだけでは許してくれなかった。


「ろくに仕事もしないくせにやることはやってんだな、どこで知り合ったんだ?」


 さらに僕に詰め寄り言った。


その時、隣に座っていったすず子が立ち上がり、大きな声で彼に向かい怒鳴りつける


 ように叫んだ。


「あんたに関係ないでしょ!」


 坂本は驚いたように一歩後ずさった。


そして立ち上がったまますず子は、僕の手を取り言った。


 「行きましょ!」


僕はそのまますず子に引きずられるように手を取られ、ずるずるとすず子の部屋、二人の部屋へと向かった。


 次の日だった、会社に出社した僕は恐れていたが、取り敢えず課長は仕事の最中には何も言わなかった。


休憩時間、僕は喫煙所に行こうかどうか迷ってしまった。


 しかしタバコを吸わないわけにはいかなかった。


結局喫煙所に入り、僕はなるべく目立たないようにと、小さくなってタバコを吸っていたが、課長はそこに入ってくると、中をキョロキョロと見回して、僕を探していたようだった。


 僕はあきらめて課長を見つめた。


すると僕と目を合わせた課長は、ニヤリといやらしく笑い、ゆっくりと僕に近づいてきた。


 そして課長は僕の向かいに立つと僕の胸のポケットからラークの箱を取り出し、そこから僕のタバコを一本取りだし、彼の薄汚い唇にくわえると、ズボンのポケットから取り出した100円ライターで、そのタバコに火をつけた。


そしてゆっくりと大きく煙を吐き出し、もう一度いやらしくニヤリと笑うと僕に向かって言った。


 「おい、お前が女なんて、え、いったいどこで見つけたんだ?」


「親戚に紹介してもらったんです」


 僕は用意していた嘘をついた。内心、似たようなものだと思っていた。


「女なんてのはなあ、仕事が出来る様になってから作るもんだ、お前には10年早いんだよ」


 課長はそう言って、煙草をひといき吸い込むと、僕の顔に煙を吹き付けた。


そしてくどくど僕に説教を始めた。


 はいはいと言いながら話は聞いていたが、僕は他のことを考えていた。


そして、いたたまれなくなった僕はその場を離れた。


 そしてその日、僕の書類の編集上のミスで課長は僕をディスクに呼びつけ説教をした。そして最後にこういったのだった。


「お前に女はまだ早いんだよ、このバカ」


 課長はその日から僕に説教をすると最後に必ずこう言った。


「お前に女はまだ早いんだよ、このバカ」

 

 そして、僕は彼女に言われるままに会社を辞めたのだった。


僕らは、すず子の部屋で、一緒に暮らし始めた。


 僕はすず子に言われたとおりに会社を辞めて皿洗いのアルバイトをしながら、今、作家を目指している。


すず子は親父のところのアルバイトを辞めて、小さな会社だが事務職として働き始めた。驚いたことに彼女は一応大学は出ていたのだ。


 飲み屋のなじみの客にはすず子の引き抜きと揶揄されたが、みんなが笑顔でいたので、僕はその言葉を祝福の印と受け取った。


親父はもちろん面白くなさそうな顔をしていた。


 生活は楽なものではなかった。


もちろん、炊事、掃除、洗濯は二人で手分けですることになり、僕は今まで、自分の部屋でしていた倍近くの家事を負担することとなった。


 もちろん洗濯も分担していたが、僕は彼女が平気で女物の下着、パンティーやらブラジャーというやつを僕に任せるのが嫌だった。僕は言った。


「下着くらい自分で洗濯しろよ」

するとすず子は言うのだった。

「あんたの下着を私は洗濯してるのよ‼」

そんな状態で僕らの生活は続いていた。


 ある日の日曜だった、僕は買い物を終えて部屋に戻るところだった。


ふとすれ違いざまの男と目が合った。すると男が言った。


 「あっ、おいおまえ・・・」それは学生時代の唯一の友人だった吉田だった。


僕も思わず叫んでしまった。


 「吉田か?・・・」


「そうだよ、お前、まだ札幌にいたのか、今何してんだ・・・」


 再開時のお決まりのセリフだったが、恐らくそれ以外に言葉は無かっただろう。


僕らは取り敢えず近くの喫茶店に場所を移して話をすることにした。


 彼は大手の銀行に勤め、家庭を持って頑張っているようだった。


僕は彼に嘘を付く分けにはいかなかった。


 正直に、今の生活を、状況を話した。それを聞いて彼は言った。


「まあ確かにお前ならそうなるような気もしていたけどな・・・・」彼は半分あきらめたように言った


 「どうなんだ、出版できそうなあてはあるのか?」


「まあな、いよいよになったら自費出版という手もある」  


 「そんな金があるのかよ」吉田は驚いた。


そこで僕はとんでもない大嘘を彼についてしまった。


 「実は彼女のおじさんが資産家なんだ。金を出してもいいと言っている」


すず子の叔父さんは資産家でもなんでもなかった。


 どこかの田舎で貧乏農家を営んでいるはずだった。


金のあてなど全くなかった。自費出版などできるはずもなかった。


 「それは、いい人を見つけたもんだな・・・」吉田は再び驚いたようだった。


その後、僕らは何気ない噂話をして別れた。


 そしてその後もたびたびあっては噂話に明け暮れた。


そんな生活が数年続いていた。


 そんなある日。今日だった、お袋が死んだ。


それは間違いなく今日だった。


 「キョウ、カアサンガシンダ、ソウギアス」。


このメールが妹から来たのは今日だった。


 僕は店長に言ってアルバイトを途中で引けさせてもらうことにした。


部屋に帰ると、今日は会社が休日だったすず子が洗濯をしていた。


 「どうしたの?」すず子が不思議そうな顔をして言った。


「い、いや・・・」僕は言葉に詰まった。


 実はすず子にはお袋がいることを話していなかったのだ。


お袋は幼い頃、亡くなったことにしてあったのだ。


 加えて家族、親戚みんなに僕が作家を目指すことを反対されていた。


当然すず子といずれ結婚するつもりでいることも反対されていた。


 当然僕と親族の関係をすず子は知らない。


「何があったの?」すず子が言い寄ってきた。

「じ、じつは・・・」

「実は俺、お袋がいたんだけど、お袋が亡くなったらしいんだ」

「え、知らなかった、どうして黙っていたの」


 彼女は不思議そうに尋ねてきたが、今更亡くなったお袋に加えて、親戚みんなに作家を目指していることを反対されているとは言えなかった。


「いいんだ、とにかく、君は婚約者ということでまだいいんだ」


 「えっ、そっ、そんなことないわ・・・」


そうして手を伸ばそうとする彼女を振り切り、僕は部屋を出てきた。


 僕は実を言うというとお袋が病院に入院してから今まで1年間、見舞いに病院へは一度きりしか行ったことがなかった。


お袋の看病は妹と姉に任せきりだったのだ。


 今更、何しに行くのかという気さえ起っていた。


なぜなら病院はちょっと遠いのだった。


 おまけに僕は車の免許を持ってはいない、病院へはバスに乗って30分、そして地下鉄に乗り継いで20分、そのあと最後に電車に乗って30分はかかるのだ。


なぜあんな遠くへ入院したのかは分からなかったが、何とか準備を終えて、僕はバス停に向かっていた。

 

 バス停に向かうのにも15分は歩いたのだった。


秋の風が流れ、紅葉の紅が揺れていた。多くの枯葉が道路に散り咲いていた。


 バス停にはバス到着予定の時刻と同時に僕は着いたのだったが人はまだ並んでいる。


少しして時計を見てみるともう40分になっていた。到着予定時刻は34分だった。


 僕は思い切って並んでいる人にバスの到着に関して聞いてみた。


「バスはまだ来ていませんか」


 その人はにっこり微笑んで言った。


「どちら行きのバスですか?」


 「い、いや・・・。札幌行きです」僕も思わず微笑んでしまった。


「まだですよ」その人はもう一度微笑んだ。


 バスはなかなか来なかったが、10分ほど遅れてきた。


バスは空いている時刻だと思ったが座れない程に込んでいた。


 地下鉄も同様に混雑していて、座ることはできずにいた。


電車もやはり混んでいたが、僕は何とか病院へ着いた。


 病院へ着くと窓口でお袋の病室を聞いて、僕はお袋の病室へ向かった。


病室へついても僕はおふくろに向かい合うことは出来なかった。


 「連絡はしたけど、来いとは書かなかったわ」


妹は僕に向かってそうとさえ言った。


 僕は病室の片隅の窓際にある小さな椅子に腰を下ろし、一度だけ見舞いに来た時の事を何となく思い出していたが、それはまだ、すず子と付き合う前の頃の話だった。


そして今日だった。


 母が死んだのだった。


その後の手続きもすべて姉と妹にまかせた。


 というか、僕には入り込む余地がなかった。


母は89歳だった。


 医師からの話だと、苦しまずに死んだそうだ。


それが何よりの幸いに僕には思えた。


 最後に会った時の笑顔を思い起こすと、悔いのない人生に思えた。


僕はほっとさえしてしまっていた。

 

 親戚は僕の今の状態を一部始終知っていたが、もちろん誰一人、それを容認しようとはしてくれてはいない。


僕自身でさえ葬式には出づらかった。


 とりあえず、僕はレンタルショップで喪服を借りてきた。


すず子は葬式に出ようかと言ったが、僕は遠慮しておいた。


 久しぶりに親戚一同が集まったが、誰一人として僕にお悔やみをいう人間はいなかった。


全て姉と妹が仕切り、僕は蚊帳の外だった。


 自分としては納得のいく対応にも思えた。


会社を辞めて、どこの誰とも知れぬような女に食わせてもらって、わけの分からない文章を書いて、いまだ本も出版できずにいる・・・。


 そんな長男を誰が容認しようか。


僕は通夜でも一人でちびちび酒を飲んでいた。


 そこへ従妹の文雄が声をかけてきた。


「どんなんだい。調子は」彼はコップに入れた酒を手に近づいてきた。

「えっ・・・」僕は全く違うことを考えながら酒を飲んでいた。

「頑張ってるんだろう」彼は空いていた僕の隣に腰を掛けて胡坐をかいた。


 僕は彼と話をするのは10年振り位のような気がしていた。


そう、最後に話をしたのは高校を卒業するくらいの時だったはずだ。


 僕は彼がそれから何をしているのか全く知らない。


「取り敢えず・・・」僕はそれ以外に答えようがなかった。


 「小さい頃から本が好きだったからな、お前は」


彼が僕を「お前」と呼んだことに、少しホッとし、何となく入っていた肩の力が抜け


 「まあ、まだまだだけどな。これからどうなるか全くわからん・・・」正直に答えた。


「あまりいい噂は聞かんが、どうなんだ、やっていけそうなのか?」彼が言うと

 僕は口元を少し歪めて笑った。


  自分でも分からない事を他人に説明できなかった。


「お前こそどうなんだ」


  僕はわざと彼を「お前」と呼んで聞き返してみた。


「まあ、給料はいいよ。だけどこんなことするためにわざわざ大学まで行ったのか疑問も感じるよ」彼はコップの酒をいきよいよく煽った。


 そして、僕の前に置いてあった徳利から空になった自分のコップに酒を注ぐと、再び酒を飲みだした。


そんな僕の言葉に僕は何とも言いようがなかった。


 僕が高校を卒業してから何をしていたのか僕は全く知らないのだ。


僕らの間を10年という歳月が流れていくような気がした。


 僕は少し恐る恐る聞いた。


「大学では何をやってたんだ?」


 「俺は情報工学を専攻したんだ。プログラミングを勉強した」文雄はどこか寂し気に俯いたまま、手に持った酒のコップを見つめ力なく笑った。


僕は思い切って聞いてみた。


 「今は何してる」


「生命保険会社の外交員だ」


 僕はそれがどういう仕事なのか正直わからなかったが、情報工学とは関係ない仕事だということは理解ができた。


「お前がうらやましいよ・・・。好きなことして生きてるんだからな・・・」そう言うと、彼はもう一度酒を煽った。


 「・・・・・」僕は何とも答えようがなかった。


「がんばれよ、やれるだけやれるのは今のうちだぞ」そう言うと文雄は立ち上がり、振り向きもせずに席を離れていった。


 文雄とはそのまま別れ、又、音信不通の状態だった。

 

僕は驚いてしまった。


 自分の今の生き様を人に羨ましがられるとは思ってもいなかった。


社会から弾け、邪魔者扱いされながら生きている今の自分の生き様を・・・。


 通夜が終了し、後片付けが始まった。


僕は後片付けくらい、手を貸さなければいけないと思い、立ち上がった。


 すると妹が近づいてきて、非難するような鋭い目つきで僕に言った。


「お兄ちゃんはいい」


 「えっ・・・。でも後片付けくらい手伝わせてくれ・・・」


僕は妹にすがるように言った。


 「いい」


妹は頑なに拒んだ。そして僕に言ったのだった。


 「お母さんが死んだのはお兄ちゃんのせいなんだ。仕事を辞めて、おかしな女と暮らして自分の好き勝手して!。おかしな夢ばっかり追って!どんなにお母さんが苦労してたか!・・・・」


その言葉を聞き、僕は呆然と立ち尽くしてしまった。


 確かに僕は会社で仕事をしていた時は、母に送金をし、母の部屋に様子を見にも出かけていた。


そして会社を辞めて、すず子と暮らし始めてからそれを辞めたのだった。


 まさにその頃に、母は体調を崩し、入院してしまったのだった。


その事を言われると僕の胸中は良心の呵責と言おうか、自責の念と言おうか、疚しさで満たされた。


 僕はただ呆然と立ち尽くすだけだった。


僕は振り向き母の遺影を見た。


 しかしその遺影は僕に微笑んでいた・・・。


その夜、部屋に戻っても、すず子は何も言わなかった。


 次の朝、目を覚ますとすず子はすでに起きていた。


僕女は忙し気に仕事へ行く準備をし、そして一言、

「朝食は自分でお願いね」そう言って部屋を出て行った。


 僕が起き上がり顔を洗って部屋に戻った時には、もうすず子は居なかった。


僕は何も考えずに牛乳を一杯飲み、昨日と同じ黒の上着をひっかけ部屋に鍵をかけると、ポケットに財布を入れて出かけた。


 表に出た時、隣の庭の小さなもみじの木の赤が、いやにきれいに眼に映った。


10月も終わるのだ。秋は終わろうとしているのだ。そろそろ初雪の季節だった。


 僕の胸中に少しの寂しさが沸き起こった。


そのまま僕はバス停に向かった。


 バス停に着くと、薄めのコートを着たサラリーマンが一人、タバコを吸いながらバスを待っていた。


僕は彼の横に立ち、バスを待った。


 少しして、隣のサラリーマンが時計を見た時、僕は「バスは遅れている」。


バスは混んでる。


 そう思い、今日は座れない、そう感じた。


するとサラリーマンが声をかけてきた。

「遅いですね」

「ええ・・・」僕はバス停に着いたばかりだったが、とりあえず答えておいた。

 少しして、バスは来た。バスは空いていた・・・。


 

 5月の木曜の朝。目が覚めると今日も雨だった。光のない朝。風もなく静かに雨が降っていた。僕は少しうっとうしそうに起き上がると、横のすず子はまだ寝ている様子だった。


彼女は今日は休みだったはずだ。時計に目をやると、7時に5分程前だった。

僕はいまだに、皿洗いのバイトを続けていた。

 

 出勤の準備をしたが朝飯を食べている余裕などなく、インスタントのコーヒー一杯飲んで、何とか目を覚ますと500円のビニール傘をさし、鍵もかけずに部屋を出た。


何時もの細い裏通りの道を、何も考えずに足早に歩いた。


 静かに降り続く雨が、何もない心の中に沁み込んでくるような朝だった。


バス通りに出ると、大勢の小学生が重たそうなカバンを背負い、自分よりも大きな傘を差しながら歩いている。


 誰もいないバス停に立つと珍しくバスはすぐに来た。


サラリーマンが一人、傘もささずに走ってバスを追い駆けてきたが、バスは無情にもそのサラリーマンを置き去りにして発車してしまった。


 中の乗客は優越感を含んだ憐みの表情で持って、そのサラリーマンを見つめた。


今日も電車は空いていたので僕は楽に席に座ることができていた。


 何時もの席だった、僕の優先席だ。


席に座ると、何時ものように、何となく色の無い窓の外を見つめた。


 何となく寒く透明な朝だったが、このところ毎日がこんな流れだった。


僕はいまだ作家を目指していた、しかし作家という職業は僕にはいささか負担が重すぎるようだ。


 なかなか芽が出ず、何とかアルバイトの皿洗いをしながら、すずこの収入で食いつないでいるのが現状だった。


今日もアルバイトの食堂に向かう朝だった。


 次の次で降りようと思っていた時だった、僕の乗った何時もの電車に、見かけたことのない一人の女性が乗ってきた。


電車の窓の外を無意識に見つめていた僕は何となく彼女を見つめた。

    

 鼻筋の通った高い鼻に、黒く濃いめの眉。

ショートカットの印象的な美しい女性だった・・・・。

すると女性も、切れ長で少しきつめな瞳でもってして僕を見つめた。

僕は彼女の視線に何か懐かしさを感じた。


そしてそのどこか懐かし気な視線でもって、すず子でしめられた僕の心を突然動かしかけ、女性が僕の心の中に入りこもうとしてきた。


 僕は慌てて目を逸らした。

 

彼女はすず子の持たない ” 美 ”でもってして僕の心を攻め立ててきた。

 

 僕は抵抗しようとまだ色付かない窓の外を見つめ、何とか他のことを考え、顔をそらし、心に入りかけてきた女性を必死に追い出そうとしたのだった。


その日は何とか彼は何事もなく過ごしたが、しかし彼女はすず子にない「美」でもってすでに僕の心に入り込んできてしまっていたのだ。


 そして次の日、女性は今度は顔をそらした僕に突然近寄り、紙を一枚手渡した。


その紙にはこう書いてあったのだ。


 「”約束” 今日の6時、福住ヨーカ堂地下入り口で待ってます」僕はそのまま俯いて顔を上げることができなかった。


そうして僕は終点の福住バスターミナルに着き、恐る恐る顔を上げると、女性はもういなかった。


 僕はホッとしながらも少し淋しさを感じながらバスを降り、手にしていた紙を丸めてゴミ箱に捨てアルバイト先の食堂に向かった。


札幌の5月はまだまだ寒く、緑はまだまだ遠い、そしてこの季節の一日は夏の一日に比べてどこか長く、仕事はなかなか終わらなかった。


 そしてあの紙は捨てたはずだったのだがあの短い一文が頭から離れなかった。


「”約束” 6時、福住ヨーカ堂地下入り口で待ってます」


「おい」店長が声をかけてきた

「あ、はい」

「どうした、体調でも悪いのか」店長が僕の顔を窺う様に聞いてきた。

「え・・・」

「ほとんど手が止まってるぞ」

「あ、すいません」


その時の僕の頭の中はあの短い一文、”約束”という言葉で埋まってしまい、心の中はあの女性の横顔でいっぱいだった。


 僕の心中にその時、すず子はいなかった・・・。


そう、それほど彼女は美しかったのだった。


 仕事が終わって僕は何時もあそこを5時30分頃に通る。


僕はわざとゆっくりと着替え、ゆっくりと歩きながらヨーカドー地下入り口を6時5分過ぎに通った。


 するとそこに女が一人、薄いベージュのコートを着て憂鬱そうに立っていた。


そして彼女は顔を上げると僕を見つめ妖しげに微笑んだ。


 朝目覚めてみると全く知らない部屋にいた。


しかし何とか起き上がってみると柔らかいベッドに女性と一緒に横になっていた。


 しかしその朝、僕の心にはすず子が戻っていた。


若干気まずい・・・。


 綺麗なカーテンのひかれた大きな窓、スーツのかかったハンガーラックに大きな机、そしてその上にはパソコンとプリンター。


机の横のカラーボックスには僕の知らない作家の本が並んでいる。


 そして机の上の料理の本。    


僕は何故か逃げるように部屋を出た。


 そうして部屋を出ると、僕はもう一つの事実に気が付いた。


ここはどこなのだろう。


 そう、僕はここが札幌市内だろうという事以外に、全く何も知らなかったのだ。


部屋を出た瞬間に僕は右へ進むべきか左に進むべきか分からなくなってしまった。


 マンションを見上げると「ラークマンション」ちょっと高級そうなマンションの気がしたが僕はこのマンション名をスマホに入力し検索した。


すると住所は東3条1丁目でヒットし、近所の地図が出力され、バス停は東2条1丁目と出た。


 ありがたい。


僕はさっそくその地図に従いバス停にたどり着くと、30分後に福住バスターミナル行のバスが来る。


 とりあえずこれで部屋までたどり着ける。


僕はホッとしたが、静かで、新しい住宅街、彼女がこんな住宅街、しかもあんなマンションに住んでいることが僕にとって意外だった(というより僕がこんな高級マンションに連れ込まれたのが意外だったのだ)。


 少し彼女を見誤っていたのかもしれない。


僕は何となく悔しさの混じった思いでバスを待った。


 人通りもなく、風のない少し霧がかった様な肌寒い朝だった。

 

今日はアルバイトは休みだった。


 だからと言って部屋に帰って寝転がっているわけにもいかない。      

 

 すず子への言い訳は部屋に帰ってから考えればいい・・・・・。

 そう、僕は作家を目指している。

 ネタを探して外に出かけなければならない。

 と言っても札幌市内の喫茶店をぶらつく程度だが。


今日は、市電に乗って気になる街中を訪ねることにした。


 市電はいつ乗っても、心が何故か初恋のときのあの時のようにドキドキさせられた。が、今日は昨日のあの時の様に、ドキドキしてしまったのだった。

 

そして陽の暮れかけた頃、僕がそしらぬ顔で、部屋に帰るとすず子が何食わぬ顔で洗濯ものを取り込んでいた。


 そこへ僕も何食わぬ顔をして入っていった。


しかしその時の僕のこころはドキドキだった。


 「ただいま」今までも外泊は何度かあった。


僕はそしらぬ顔で言うと、すず子がやや厳し気な表情で言った。


 「どこ行ってたの?」


彼女の顔を見る僕の心臓はのどから飛び出しそうだった。


 「よ、吉田と飲みに出て、ち、ちょっと、の、飲みすぎて、や、やつの部屋に泊めてもらった」


” ばれたらどうしようか " そう思う僕の心の中はすず子でいっぱいだった。


 「電話一本くれてもよかったじゃない」すず子は横目で僕を見つめ言った。


その眼差しには薄く懐疑の色がにじんでいた。


 「ああ、ゴメン。奴と飲むのも久しぶりだったから」


「・・・・」それ以上彼女は何も言わなかった。


 「まあ、いいわ・・・。これから夕食の買い物に出るけど付き合ってね、約束よ・・・」


「えっ・・・」


  彼女の約束という言葉に僕は一瞬とまどった。


 それから20年近い時が流れ、僕は何とか書くことですず子を養えるようになっていた。

 親戚からの年賀状にも、宛名にすず子の名前が入るようになった。

 そんなある日の日曜だった。すず子が夕食の準備の買い物に付き合えと、僕を街まで引っ張り出した。電車を降りようとした時だった、僕は一瞬嗅いだことのあるような匂いがして振り向いた。が、そこには、40過ぎのおばさんが立ってただけだった。

「降りるわよ、速く」すず子に引っ張られて僕は電車を降りた。

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約 束 k.yosie @YosieKazuki

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