彼女の翼を捥ぐ話
楸
前編
◆
目の前にいる存在を疑うこともできるけれど、結局そんなことをしないのは、まぎれもなく彼女が天使だからだと思う。比喩的表現とか、誇張的表現ではなく、確かな天使だ。
神話における神様の眷属、人間を救う存在。俺は宗教に関して詳しくは知らないけれど、きっとそんな存在だと思う。だから、彼女は確かな天使なんだ。
それでも目の前にいる彼女の存在が少しおかしく思えたのだけれど。
きっと、天使という存在は光り輝くものだと思っていたから、暗闇に溶け込んでいるのが不自然だと考えてしまったからかもしれない。どことなく現実感が漂う目の前の光景、俺は──。
◆
夜景に溶け込むように存在する鉄塔のそれぞれは奇妙にも人の目のように光を散らす。それは星ともいえるような綺麗な輝きかもしれない。それは赤色、黄色ばかり。そこに青色でもあれば、なんとなく世界が彩にあふれたものだったと捉えることができるのかもしれないけれど、どうしても見つからないそんな色を、俺は溜息とともに流した。
世界が広がる感覚がする。冷たい風が頬を撫でる。気持ちがいいと思った。体は熱いからプラスマイナスゼロだと思う。だから俺はきっと温度的には無に近い存在なのかもしれない。この思考さえも無にできてしまえば、俺は完全なゼロへとたどり着くことができる。俺が完全なる無になることができれば、いつの日かヨグソトースとして時間を無視する世界観の神様になることもありえるだろう。
全能者になることは望まないから、過去に戻ってやり直すくらいのことはさせてほしいと思う。体という時間支配に縛られる存在よりかは、魂という抜け殻になって次元さえも超えてしまえば楽かもしれない。そんなことをぼーっと考えている。
世界は都合のいいようにできている。引き寄せの法則だってそうなのだから、ここから無に帰してしまっても、俺は都合のいい世界を引き寄せることができると思う。
頭の中にある快楽の線が震えっぱなしだ。エレキギターをコードでストロークを繰り返すみたいに楽しい気分がいっぱいだ!きっとここまでもこれからもまともな思考ではないのかもしれないが、俺の無意識はそれをすべて無視して、行動に移そうとしている。
死への恐怖は何かと問われれば、それは現世へと帰れぬ喜びからなるものだと思う。転じてそれは人間の本能として帰巣し、恐怖を演出する。だから、それを感じるかどうかで自分自身が人間かどうか値するのかもしれない。
暗闇の中、微かに月光に照らされている屋上、その奥にあるフェンスは俺を拒むようにして聳え立っている。上れないほどではない。手を受け入れるような穴が沢山ある、その全てが沢山の眼球に見えて気持ちがいい。粘液をたらせばシャボンの膜が完成するかもしれない。童心に戻って息を吹きかけたくなった。
そんな誘惑を無視して、フェンスを上る、場所が少し異なるだけでも風の強さは段違いにも思えた。少し埃っぽく、滑りやすい。気を付ける必要もないけれど、意識的に足元に注目しながら、ゆっくりと降りてみる。
風に足元をふらつかせながら、世界を見下ろしてやる。そこそこに高いし、そこそこに高くないかもしれないけれど、投げ捨てるなら場所としてはちょうどいいかもしれない。
今の俺は気がおかしい、触れている、狂っている。デフォルトになっている。俺のすべてがフラットだから、世界の全てはあらゆるものがトゲとなるのだ。
前世を思い出すように死を連想して楽しくなる。 見た覚えのない景色に心が彩られてノスタルジーに浸りたくなる。帰りたい過去など存在しないけれど、なんならそのノスタルジーでさえもフィクションだけれど、あらゆるものに回帰したくなった、母胎帰りとはこういうことを言うのかもしれない。
投げ出すなら、今だ。
失えるものはもう既に命しか残っていない。あらゆるものはたくさんのものに吸われ尽くしたのだから、手元になにかが残るということはなかった。それを悲しいと数刻前は思えていないのに、今はいつまでだって世界が広がっていく感覚だけが冴えていく!今なら人の首も斬り落とすことが出来るかもしれない。
歌が聞こえる。ランランラン、子供が歌うような適当な歌が、俺の全てを祝福してくれているようで楽しい気がする。その歌に絆されて、本当に郷愁が記憶に戻ってくる感覚がする、俺はそれを無視した。
意気込む必要があるかもしれない。けれど、どれだけラリっていたとしても、人間の本能を上書きできるほどの便利さはそこには存在しないようだ。楽しい気分は楽しいままで、それを俯瞰で見つめている俺がそこにはいる。死に恐怖を演出する自分がいる。それは楽しくないかもしれない。
脳みそを弄りたくなった。痒い気がする。髪をむしれば、きっと脳髄にたどり着くかも。脳に這い回る虫が気持ち悪くて吐きそうで、とても痒い。手では届かない。フェンスに頭をうちつけてやりたい、頭にフェンスをさしてやりたい。頭に頭が
食い込む感覚を覚えた。
ガンガンガンガンガンガンガンガン。ガンガンガンガンガンガンガンガン。ガンガンガンガンガンガンガンガン。
久しぶりの痛みを思い出して、俺は叫んでみる。痛いかもしれない。痛いんだと思う。あまりにも痛みが遠くて臭いようにも眩しいようにも感じた。
いいや、もう落ちてしまおう。こんな痛みを味わうくらいなら、さっさと落ちてしまえば楽になるさ。
これまでの人生なんて存在しなかったんだ。ここまで堕ちたものに人生なんて存在してはいけないんだ。
俯瞰で見つめている俺が笑っているのだから、きっとそれは死に対する肯定なのだ。だから俺は、世界を仰ぎ見る。せめて夜空を見ながら死ぬことができたのなら、それはとてもドラマチックなことなのかもしれない。
力を抜く感覚。ふわっとした、本能がおぼつかなくなるほどの非現実的な三半規管的感覚の浮遊。それは次第に落下へと変化し、そうして夜空が遠くなるのを感じる。
痛いかな、痛くなければいい。
そんなことを呆然と考えながら、本能で加速する意識的時間の流れの遅さに楽観しながら、空を見ている。
──ああ、なんて奇麗な流れ星だろう。
……流れ星?
それは止まらない速度で狙撃銃から放たれた銀弾のようにこちらにくる。一点にそれは流れ星のような星光を帯びるようなものではなく、ただ点としてそれは大きくなっていくのだから、確実に俺に向かってやってきている。もしかしたら落下死という結果ではなく、もっと違う馬鹿みたいな死に方になるかもしれない。
加速する世界で、音さえ歪んで、感覚さえが何もかもがラリっている世界で、そんなものを見るのは、きっと薬物の幻覚か何かなのかもしれない。
幻覚が、こんなにも幻覚だとわかっているのも、初めてだなぁ。
そんなことを思いながら、もうすぐ終わる人生に俺は目を閉じた。
……。
……?
……終わりが来ない。
どれだけ本能的恐怖によって意識が加速して時間感覚が伸びに伸びているとしても、ここまでの引き伸ばしは、ありえない気がする。
ここに来て、目を開けるというのも嫌な話だなぁ、と考えている。目を開けた瞬間に、ぐちゃ、というのが想像できて気持ちが悪い。落ちるなら落ちてくれ、とそんな気持ちを抱きながら、目を開ける。
……。
「……翼?」
目の前はほとんどが見えないけれど、確かに視界の端に見えるのは、鳥みたいな翼と、ほつれた羽根の数々。いつの間にか落ちていた俺の身体は、しっかりと形を残していて、街燈のそれぞれが、翼を明るく照らしている。
雫が額に垂れる感覚がする。気づけば、俺は誰かに抱きかかえられていて、ずっとその腕は震えている。翼は大きく音を響かせて、これがどこかの奇跡じゃなければ、きっとこれは夢なんだと、錯覚しそうなほどに、世界は綺麗に満ち溢れていた。
◇
「あの人間、飛び降りちゃうね」
「飛び降りちゃうね」
見習いたちは、下界を天窓から見下ろしながら、未だにずっとその光景を見ている。ただひたすらに、一人の言葉をもう一人が繰り返しているから、認識しなくても、その状況が頭の中で理解できてしまうのがどうしようもない。
「昔だったらねぇ」
友人のクラリスは語る。
「神の使いとして、それこそ人間を救う、なんていうことが出来たわけだけれど、そのせいで結局救った人間以上の人数が戦争でなくなってしまったからねぇ。私たちにはどうしようもないんだよ」
クラリスの、言うとおりだ。
神の使いとして私が下界に下りていた天使的業務を行っていた時期は確かにある。だけれども、そんな天使たちの行いが人間の価値観を変えてしまったようで、救えない何かはそれ以上に増えて、世界は滅びの一途をたどることになってしまっている。今でこそ落ち着いてはいるけれど、それでも神様は下界に降りることを許してはくれない。悪魔共でさえも下界に行かないのだから、きっと天界で定められた一つの規則として、それは絶対だ。
「それにしても、今の人間は悪魔じみてるよ」
「じみてる!じみてる!」
悪魔のことなんて、言伝でしか知らないだろうに、見習いたちは悪魔を揶揄している。
「一人の人間にここまでのことをするなんて」
「ひどい話だ」
「ね。ひどいよね」
クスクスと笑いながら、話している。私は嫌気がさした。
一人の人間。私は、ずっとその人間の生活を見ていたから知っている。
心根は際限がないほどに優しかったはずだ。優しすぎる故に、見習いたちに、こうあるべきだと話したこともあるくらいに。だけれど、優しすぎることは、きっと下界ではなんの意味を持たない。そんなことをきっと私はずっと昔から知っていたはずなのに、どうしてそれを考えもしなかったのだろう。
娯楽というものが存在せず、誰かを助けるという使命も封印されている今、この子たちの娯楽なんてものは、これからもずっと下界を見つめることなのだろう。あの人間についての話なんかするんじゃなかった、という後悔が心臓に刺さるみたいだ。
「優しすぎる、という顛末がこれかぁ」
クラリスは語る。
「そうさね。どうしても存在が違う私たちにとっては、それが正解にはなりはしないものだわね」
そうだな、と思う、けれど。
それにしたって、もっと報われる結末があってもいいはずじゃないか。
「あ、いよいよ本当に落ちるよ!」
「落ちる落ちる!」
邪悪にも感じる見習いたちの声を聞いて、かねてから考えていたことを、いよいよ決断する時が来る。クラリスに陰で相談した時にも止められていたけれど、それにしたって、彼の結末がこんなもので終わっていいはずもない。
私のすべてを犠牲にしても、私は。
──堕天をなぞる。
◆
「やってしまった、本当にやってしまいました……」
金色の髪、天使と言われて想像すれば、そのままの姿の彼女が震えている声で呟いている。
翼の音も小さくなって、次第にすべてを震わせる彼女の存在に俺はようやく頭がはっきりして、そうしても状況がよくわからないままで、どうすればいいのかわからないまま、呆然としている。
「……ええと、大丈夫、ですか」
埒があかないから、とりあえず思いつく言葉をかけてみる。そして。
「……ええ、きっとこれでいいんです」
と彼女は震える声で、そう答えたのだ。
・・・
家というものがあって、そこに帰るということができればよかったのだけれど、あいにくそんな贅沢なものはすべて手のひらから零れ落ちている。だから、思いつく限りの人気のない路地裏を探して、そうして、彼女をそんな場所に連れていくことしかできなかった。
会話はなかった。俺の手は、彼女の震える手で握りしめられていて、手を離すことはできなかった。どこか冷たく感じるその手の温度は、俺の目の前に起きている現実を確かなものだと認識させるように演出している。
銀色みたいな、白い翼。天使、というやつかもしれない。宗教とかは詳しくはないけれど、悪魔の翼がこういうような翼だったら、俺はげんなりすると思う。
「……ここらへんでいいかな」
おおよそ入ったこともない場所にたどり着いて、周囲を見渡す。悪臭がするけれど、そのおかげで人は絶対に寄り付かない、という自信がある。
座ることが出来たのならよかったけれど、目が覚めてしまった俯瞰に映る自分が嫌悪感を持ってしまうから、そういうこともできない。右ポケットの中に、確かまだクリスタルメスは入っていたけれど、人前というか、天使の面前でそんな行為をするわけにもいかない。
「ええ、と」
……何から話せばいいのだろうな。助けてくれてありがとうございます、とか、なんで助けたんだよ、とか、そんな話?
でも、おそらく天使である彼女になんで助けたのか、なんて言いようもないだろう。だって彼女は善性の天使なのだろうから。
でも、ありがとうなんて言葉は吐けない。こんな状況で出す言葉は嘘にしかならないから、そして嘘をつくのは自分の性にあってない気がするから。
だから、言葉もなく沈黙だけが耳元で騒ぐ。俺の呼吸だけが嫌に空間に響いて、いたたまれない気持ちになる。
「……ごめんなさい」
だから、出てきた言葉は、そんな子どもみたいな謝罪だった。
「きっと、天使様は命を無駄にするな、っていうことで助けてくれたんでしょう?……だから、ごめんなさい」
素直な謝罪。心の底から出てくるその言葉は、曇りもなく、すとんと納得できる気持ちとともに落ちていく。
「……本当に、素直な人なんですね」
天使様は、そんなことを言って笑う。
「でも、私のことを天使様、だなんて言わないでください。……私はもう」
俯きながら、自嘲気味に。
「──堕天したのだから」
◇
彼を目の前にすると、今となっては死んでいた天使の権能が嫌でも働く。それは、人の心を見透かすという、嘘を暴いて悪に加担しないだけの権能。その権能は、彼の心を私の心に映して、そうして映した心と同じような言葉を彼は呟いてくれた。
よかった。
堕天をなぞったことに後悔が生まれることがなくて、本当に良かった。
人間には、数ある種類の人間がいる。彼のように正直な人。もしくは裏腹を抱えている人、たまに嘘をつく人。そのどれもが全部、悪性につながっている訳ではないけれど、その裏を更に返すように、悪性を持った人間は確かに存在している。
私が見習いだった頃に教えられたこと。天使の権能がある理由。それは、人間を純粋に信じたことで堕天をなぞってしまった天使がいたから。そんなことを教えられて、そんなことがあるはずはない、そんな人間なんて存在しないと思っていたけれど、遠い昔に下界へ下りたとき見た人間には、多くはなけれども、確かに悪性を持ってこちらをたぶらかそうとする人間もいたものだ。
私は、失望した。
信じていたものを、たたき壊される感覚がした。だから、神様が下界に降りることを禁則としたときにも、正直ほっとしている自分がいたのだ。
人間なんて、もう信じない。だって、信じれば裏切られるのだから、信じなければ裏切られることもないのだ。
だから、みんなの中に混じって、娯楽に下界を見下ろした時に、驚いた。
──こんなにも、綺麗な人間が存在していいのだろうか。
彼はすべてに嘘をつくことがなく、自分にも嘘をつくことはなく、あらゆる上で潔白であり続けた。天使たちも彼のことを噂にしているくらいには、彼は本当に純粋に心が白色だったと思わせる。
彼は人のために努力をして、人のために行動をして、人のために自分を犠牲にして。
そんな人間がいることが私には信じられなくて、だから、疑いを背にして彼の行動をずっと見続けていた。天使たちが飽きても、私だけは繰り返し、繰り返し。
次第にそれは、彼の善性の証明にもなって、疑心は応援に変わって、そうして彼を見続ける生活がこれからも続く、とそう思っていたのに。
──やはり、人間なんて。
人はそんな彼を利用して、人はそんな彼に嘘をついて、人はそんな彼をあらゆるまでに搾取して。
だから、私は彼が報われる世界をずっと待っていたのに。
◆
そうして、俺は汚い路地裏で彼女の話を聞く。天使だとかそういう話はよくわからないけれど、目の前にいるのは、俺の頭がおかしくなっていない限りは、確かな天使だ。
「……堕天したら、どうなるんですか」
俺のために堕天したという彼女の存在がどうなるかが気になる。宗教には詳しくない。だから、堕天したら地獄に落ちるとか、そういう想像しかできない。地獄という存在が仏教以外にもあるのかどうかよくわからないけれど。
「……それが、わからないんです」
「……わからない?」
彼女は、俯いたまま答えた。
「今までに堕天した天使はいると聞きますが、その結末がどういったものだったのか、どんなものになったのかは教えられていません。ここ最近になっては、堕天をなぞる天使なんていなかったから……」
それは、彼女がどれだけの思いで俺を助けてくれたのかを証明するものだと思う。前例がないことを行動することに、どれだけの勇気がいるものだろうか。
こんな程度の命に、それほどの重みはあるのだろうか。
「そんなことはありませんよ、あなたはそれだけの人なんですから」
彼女は俺に向き直ってそう答えた。俺はそれに対して目をそらしてしまった。
・・・
しかし、これからどうすればいいのだろう。行動しようにも、俺の手元にはクリスタルメスしかないし、それ以上のものは、価値あるものは存在しない。だからこそ、もう死んでしまおうと薬物の力を借りて恐怖を相殺しようとしたのだけれど、結局は行くところなんて、俺には存在しないのだ。
そして、どう行動しようにも……。
「……そうですね、この翼はどうしたって目立ってしまいますね」
俺が翼に視線を向けたことが伝わったのか、彼女は翼に手を触れながらそんなことを言った。
彼女の翼はどうしようにも目立ってしまう。今のところ人がいないことが幸いして、特に何かがあるわけではないけれど、彼女の存在はあまりにも異質すぎる。素面に目覚めた頭で彼女を見つめれば見つめるほど、無意識に自分の心が正しいかどうかを確かめてしまう作用が働く。そんな存在が、往来を歩けばどうなってしまうだろうか。
それでなくとも、俺はあらゆるものを失って、失ってでも生きようとした結果、負債というものが高くついている。それを裏の世界に生きる人間に見られでもしたら、彼女はどうなってしまうのだろうか。
……想像もしたくない。こんな俺を助けてくれた彼女を、そんな風にすれば、きっと俺は自ら地獄に赴いてしまうだろう。
だから、どう行動しようかを考えて、そうして思いついたことは、せめて彼女だけでも……。
「……もう、元のいた世界には戻れません」
見透かしたように彼女は笑う。
「そして、帰れたとしても無責任じゃないですか。あなたは命を投げ出す覚悟をして飛び降りたのに、それを蔑ろにして、たださよならなんて、そんなのは非道じゃないですか」
「……でも、これからどうしろって」
どうしようもない。こんな場所にいたとして、結局はどうしようもないんだ。失うものがないからこその行動だった。失うものは命しかないからこその。
「……だったら、遠くにでも行っちゃいましょうか」
「……え?」
「あなたのことを誰も知らない、どこか遠い場所に一緒に飛んでいけばいいのです」
……まあ、翼、ありますもんね。
・・・
そこからの行動は早かった。主に俺ではなく、彼女が。
え、え、と俺が動揺している間に、彼女は俺の身体を抱き上げて、そうして夜空を飛ぶ。ものすごいスピードで加速して、寒さが身体にしみるほどに。その寒さの中で、先ほど感じた彼女の肌の冷たさが、今はどこか温かかった。
「それで、どこに行くんですか」
俺はそう言ったけれど、声は風の音にかき消されて、彼女には聞こえていない気がする。それでも彼女は「大丈夫です、あてはありますから」と返してくれた。
確かに慈愛に満ちたその声に、安心して、俺は……。
◇
彼の身体は思う以上に軽かった。人間の重さとはこんなものだっただろうか、と過去を思い出しても、そんなはずはないと振り切る。
「……こんな身体になるまで」
私の声は、彼には聞こえていない。彼からは、すやすやと寝息を感じて、そして彼の心に映る夢が私にも映し出される。
温かい夢を見ている。家族がいて、友達がいて、そのどれもと仲睦まじい姿を描いている。
その夢が本当だったらよかったのに。それほどまでに彼の現実は裏返しで非情でしかない。ここまで彼が堕ちたのは、人間がどうしようもないほどに救えないから。でも、そんな人間の中で彼だけは救える存在なはずだ。だから、私は堕天をなぞったのだから。
・・・
宛てのある場所にたどり着く。昔、下界に降りた時、人間に作ってもらった家屋が山奥にそのまま存在している。作った人間は、もっと人里あるような場所に作りたい、という心を持っていたけれど、その時には私は人間に失望していたから、人とあまり関わることのない山奥に作ってもらった。結局、それから数週間ほどして、下界に行くこと、いることを禁じられたわけだけれど。
それにしても、ちゃんと残っていてよかったと思う。少し蔦が木造りである家に絡みついてはいるが、寝床としては申し分ない。家の中身は誰かがいるみたいに生活感がある。定期的に拠り所をなくした人間が、ここに住み着いていたのかもしれない。
とりあえず、今は寝息を立てている彼を、私が昔使っていたベッドに寝かせる。穏やかな表情をしている。彼の顔はすごく久しぶりに見たような気がする。
……なにか、準備しなきゃいけない。まともに食事をとることすらできていなかったのだから、彼のために準備しなければ。
そうして私は、準備をしようとキッチンに向かったのだけれど……。
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