最終日

 それは、初めから決めていたことだった。

 いずれそうなる運命だということも分かっていたし、事実その日は来た。

 だけど私としては全く現実味がなくて、いつものようにここに来るその足取りはもう自分の生活の一部のようになっている。だからこそ実感が無いのかもしれない。

「おっはよー」

 みんなが私を見る。一瞥するだけで作業に戻ってしまうなんて冷たいなぁ。

「こんにちはですよ、先輩」

 その言葉に今一度安心感を覚えて私は部室に入った。

 昨日の今日で部活内の関係性はめっきり変わってしまうんじゃないか、なんて思っていた心配は徒労に終わりそうだ。

「そうだったそうだった。それで、どう?売り上げめちゃくちゃ良かったりする?」

 あれ以降、なんだか気まずくなって部活に顔を出していない。

 こんな自分勝手なことをしたのに気にせずに接してくれてるのには感謝しかなかった。

「聞きますか?」

 え、もしかして本当に良い感じ?

 彼は机の上に置かれていた布を取り払う。そこには私史上見たことのない量の文集があった。

「……何これ」

「先輩の原罪です」

「そんな重いことある?!」

 そう言うと篠原は隣の部屋からさらに文集を抱えて置いた。

「これを見てもそんなことが言えますか」

 計上をしていた小此木によると、10部しか売れていなかったらしい。そこから部員が一人一つ買い取ったけれどその程度で全部が無くなるわけじゃなくこの通り残ったということだった。

「もしかして……私のせい?」

「別にそういうわけじゃないです」

「私たちも悪かったと思ってるよ。でも、ね」

 小此木もフォローを入れようとしているけれども、それ以上に落ち込んでいるのが顔に出ていた。昨日何があったんだろう。

 ちょうど部室に入ってきた二人に聞いてみる。

「おはようございます」

「おはよう二人とも。昨日はどうだった?」

「昨日、ですか?」

 二人とも気まずそうに目を逸らす。

 え、昨日一体何があったの?

 一人であたふたしていると、周りでクスクスと笑っているような声が聞こえてくる。でも誰も笑っていない。

 だが一人だけ、それを我慢できていない人物が一人。

「ふ、ふふっ」

 手で口を押さえていたのは小此木だ。

 そしてそれにみんなが釣られるようにして笑いが伝播する。普段は笑顔なんて見せたことのない篠原でさえ笑っている。

 一人取り残された日野田先輩はただその場であたふたしていた。

「先輩、嘘ですよ嘘」

 涙を拭きながら篠原が日野田先輩に説明する。

「今日で引退ですよね。だから、最後に何か先輩をだましてみようって思ったんですよ」

 先輩の見せたことのない一面を自分も一つくらいは知っておきたい。

 そんな篠原にとって些細な思いにみんなが乗ってくれた。

 見せたこともないようなその表情を見れて笹原は満足だった。だってその顔は部長ですら知らないものだから。

「な、なんだぁ。びっくりさせないでよね」

 日野田先輩は本当に自分のせいで全然買われなかったんじゃないかと思っていたらしい。

 だけどそんなわけがない。あの小説はあまりにも思いがありすぎた。

 読んだ人の心を動かさない道理がない。だから、もし売れないなんてことがあるならそれはただ単に、運がなかったんだ。

「文集はまぁ、それなりにしか売れてないですけど去年とあんまり変わらないんで心配しないでください。隣の部屋がいっぱいになるのは当分先ですよ」

 全員がそろう最後の部活だというのに、その日はまるでいつもと変わらないようだった。日野田先輩は相変わらずごろごろしていて、全員が全員好きなように本を読んだり課題をしたり。

 たまに来ていた時に見たあの光景が戻ってきたかのようだと誰もが思った。

「ねぇ春くん、これって何て読むの?」

「あぁこれは」

 この部活に入ってから朱莉も本を読むようになった。

 とは言ってもとっつきやすいものから読んでいくということで、図書館の司書さんがおすすめしている本を毎月一冊読んでいる程度だが。


 クーラーの風の音が静かな部室に響いている。

 他の部員は全員篠原のことを伺っていた。このまま終わってしまうのだろうか。彼が言っていた”驚かせること”はこれじゃない。

 まだお別れの挨拶を済ませていないのだから。

「……先輩」

 意を決した合図のように本を閉じる音がする。

 声をかけられた当人はゆっくりと目を開けて、その声のする方へと顔を向けた。

「ん、どうしたの篠原。まだ何か私にドッキリ仕掛けてたりする?」

 まるで見透かしたかのようなその言葉に篠原は諦めの笑顔を見せた。

「知ってたんですか」

「え、ほんとに?何かあるの?」

 すると全員がポケットに隠し持っていたクラッカーを日野田先輩目がけて放つ。

「「「三年間、お疲れ様!」」」

 パンッ!パンッ!

 鳴り響くクラッカーに、鼻を通る火薬の匂い。

 何より、さっき以上に驚いた先輩の顔。

「お疲れ様会、今からしましょう」

 困惑している先輩なんて置いてけぼりにして、隣の部屋から隠していたお菓子やらジュースやらを机に並べていく。小此木や朱莉によって先輩には帽子とタスキがかけられてどうぞどうぞと部屋で一番良い椅子に座らされる。

「ということで、改めて。先輩三年間お疲れさまでした」

 色んな思い出も、事件も、そんな楽しい思い出は詳しく語る必要もないでしょう。

 語らう時間は流れる水のよう。過ぎ去る時間には気づけない。

「そろそろ終わりだな」

 篠原先輩が呟いた。

 笑っていた先輩の顔は少しづつ曇って、笑いは消えてしまった。

「終わりなんだね」

 みんな、それを口にしたくなかった。

 でもそういう時に限ってしっかりと口にするのが篠原先輩なんだ。

 彼も日野田先輩との時間が口惜しいに決まっている。だけど時間は有限、過ぎ去っていくものを知っていた。

「先輩、最後に何か言うことはありますか?」

 篠原先輩は下を向いていた。それを見て遂には日野田先輩は涙を流す。

 そうなってしまって彼女は篠原先輩の顔を見る。上げた顔は日野田先輩にしか見えない。

「なに、やっぱり泣いてるんだ」

「……俺のことはいいんです。いいから早く何か言ってくださいよ」

 泣き笑いしながら、彼女は後輩に向けて一言。

「でも何も言うことないからなぁ」

 そう言いながらも彼女は言葉を用意していた。

「私は先輩らしからぬ先輩で通ってるからね。最後もそれで突き通すよ。私からは一言だけ。ちゃんと私のいない部活でも頑張ってね」

 知ってますよ。と言った声が飛んでみんなが笑ったのはちょっとした笑い話。

 僕らにとって先輩はきっと唯一だったからこそ特別だったのかもしれない。

「さて、みんな帰ろう」

 片付けが始まってあんなに盛り上がっていたん部室は片付けの音と共に少しづつ静かになっていく。ゴミ袋に楽しさが詰められて、思い出は心にしまう。

 部室の電気を消すと、あたりはもう真っ暗。

 気づいていなかったけれど生徒のほとんどはもう帰っていて、時折部活動で残っていた生徒が自転車を押す音が開けられた窓から聞こえてくる。

「それじゃ、またね」

 日野田先輩は一人先に帰る。

 その背中を追いかけたのはもちろん彼だった。

 今生の別れではないことは分かっている。どうせ先輩は数日もすればフラッと現れるんだろうなとみんあ心のどこかで思っている。

 だけど、先輩が、この部活の先輩でいるのは今日で最後なんだ。

 だからこそ篠原先輩は一緒に帰ろうとしたんだろう。たとえその恋が実らなかったとしても、一番寄り添った後輩として。

「僕たちも帰ろう、朱莉」

「そうだね」

 最終日。こんなに楽しかった部活は無いと、翌日日野田先輩は部室でみんなに語って見せた。

 

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