無題
石ころ
第1話
私は親父の顔を思い出す事ができない。18年も一緒に過ごしてきて、こんな顔だった、こんなふうに笑い、こんなふうに怒る、そんな事が思い出せない。
また、私は親からの問いかけには答えられない人間になっていた。
小学4年生の時、私は勉強の事で嫌な気分になる事を親父に言われた。私はそれまで通り言いたいことを言い返した。言い返した言葉が悪かったのだろうか。私は親父からその10倍言葉を投げつけられ、怒鳴られた。その一方的な"会話"は突然止まった。私の教科書を机に叩きつけた事が原因だった。私は恐怖心のあまり泣きだした。それまで沈黙を貫いていた母親は耐えかねて私を抱き抱え、逃げるように寝室まで連れて行った。その時の音と怒声は今になってもフラッシュバックしてくる。その時から、私は親父の顔を直視出来なくなっていた。
また、私はあることを学んだ。親父には言い返さないようにしよう。何もこちらから言わなければ何も倍返しに返ってこない。こうして、私は親からの問いかけには答えられなくなった。私の思うことは全て、あの音と共に心を閉ざすようになった。
親からの問いかけに答えられなければ、親は答えられるまで待ってくる。私が答えようと、声に出そうとしても動かない。声が掠れる。形にならない。出てくるのは恐怖心と悔しさからくる嗚咽のみ。親は諦めて私を自室に戻すが常であった。
私は小学4年生の一件から、母親に対して心を許すようになった。母親は大雑把な人間だった。親父がいる前では体裁を保っているが、親父が出張で居なくなると、途端にめんどくさがりになる。私はその人間味のあるところが好きだった。中学生までは、親父の愚痴を話してくれるような関係であった。愚痴の中で特に印象に残っているのは、私の両親の結婚は望まれたものではなかった話である。親父は懇意にしている女性がいたが、祖母がその人との結婚に反対し、今の母親を連れてきて親父と結婚させた。そんな事もあり、母親は冷遇されていたらしい。親父の姉からはお手伝いさんとしか見られていなかったほどだ。最初の母親と親父との関係は、親父のお前と結婚しなければよかったの一言が全てを物語っている。この様な関係なのによく20年も連れ添うたなと思う。昔ながらの価値観というのは恐ろしいものである。
何となく母親は私と似ていると思っていた。だが高校生くらいになってからは、親父に似ていると感じるようになった。親父の愚痴を聞かなくなった。親父と2人して私を責めるようになった。
外での私はよく喋る方だと思っている。話せない人間はいなければ、大人に対する恐怖心もない。これが本当の私であると信じている。私の家の中での私は、私ではない。人と面と向かって話すことが出来ないような私が私であるはずがない。
私は親父の背中ばかりを見てきた。"おもて"は怖いから"裏"をと言う感じだろうか。子供ながらにとても大きい背中であった。幼稚園から見てきたが、小学4年生からは見る頻度が増えた。最近はその背中すら見れなくなってきた。疎ましいと思うようになったからだろうか。反抗期だからだろうか。ある時親父の背中を見たが、明らかに小さくなっていた。
私は長男であり、初孫である。そのためか、祖母は私のことをとても可愛がった。私の基本的な人格はこの時につくられたと思うほど、影響を受けていると感じる。私が何をしても、祖母は全てを受け入れてくれた。口癖は、僕君は優しいなぁである。
祖母の言葉が私の全てであった。私は穏やかになり、また大人しくもなっていた。祖母は私の大人しさを大層喜んだ。人間誰かに喜ばれるほど心地の良いものは無い。私をその様にした要因の一つであろう。ときに、私には祖父との記憶が殆ど無い。幼いころに死んでしまった。母方の方はと言うと酒の飲み過ぎで肝臓を悪くして若くにころっと逝った。そんな訳で私は祖父というものを知らない。完全におばあちゃん子がしみついた。祖母はいつも、私と祖母で祖父に流動食を運んだんだよと話してくれた。私はそうなのかと曖昧な返事をしていた。
そんな私にも唯一祖父に関して残っているぼやけた記憶がある。ピカピカに光っていた床と高い天井の建物に、お坊さんが沢山出入りしていたような記憶である。その建物の中にはエレベーターの様な扉もあった。何となく夢の中の様な感じでもあった。
親父は長男と姉がいる3人兄弟の末っ子だった。祖父は脳卒中で倒れ左半身不随となり、家で介護するような状況であった。それまで家計を支えていた祖父の会社は一旦当時の部長が担当することになったが、その部長は会社の金をポケットに入れ、夜の街で豪遊するような人であった。親父は祖父の会社が懇意にしていた銀行と共に部長を辞めさせ、会社を長男に継がせるようにした。だが継いだ後すぐに、長男は骨髄に癌を患った。癌の転移を防ぐことができず、若くして亡くなった。親父は長男から祖母を頼むと言われたそうだ。親父は長男亡き後、右も左も分からぬまま会社を継ぐことになった。会社を継いだ親父には自由がなかった。会社が潰れたら一家が食えなくなるという強迫観念にかられ、やりたい事がやれないでいた。右も左も分かるようになった頃には、やりたい事が出来ない年齢になっていた。
姉は東京に婚約者がいるが、祖母を手伝うためたまに実家に帰っていた。祖母が不自由になってくると、姉は実家を手放して東京に一緒に移り住もうと提案した。祖母は了承し、実家を手放す準備を始めた。実家にあるものほとんどは祖父や親父が集めたアンティーク品であり、使えるものもあったが、親父の確認なく二束三文で売り捌いた。あとは家を売るのみという所まできたが、これもまた二束三文で売った。ここで恐ろしいのが、現金で受け取った点である。わざわざ祖母と姉と不動産屋の3人で現金を目の前で数えて手渡したのである。そこに親父が入る隙間は無かった。
程なくして、祖母は東京へ移り住んだのだが、これまでの姉と婚約者のマンションの居住スペースに祖母が入るには少し狭いとの事で、一階下の部屋を購入する事になった。姉は祖母を見るのは私であるから、部屋を購入する金を払ってくれないかと頼みにきた。親父は了承し、4000万のローンを組み祖母のための部屋を買った。
数年後、祖母がうちに来ることになった。理由は足の骨を折ったからだと聞かされた。少し前まで祖母は元気であったが、急に動かなくなり、ただ事ではないと察した婚約者が病院に連れて行き、腸に穴が空いている事が発覚した。即入院となったが、コロナの時期である。見舞いに行けず、看護師が祖母に何か特別なことをしてくれる訳もなく、1ヶ月が過ぎた。退院後、祖母は認知症と不安症になって帰ってきた。その後祖母が転倒し、足の骨を折ったが、姉と婚約者はその骨折を親父に隠した。バレたのはうちに来ることになる1,2週間前のことだった。姉がもう祖母を見れないと言い始めた。様子を見に、そして話をしに親父が行くと、半分寝たきり状態の祖母がいた。こんなことになっているとは思わなかったであろう。祖母を姉に任せてはいけないと感じた親父は、うちに連れて帰ってきた。
連れて帰ってきた初日、私が学校から帰宅すると衝撃を受ける光景がそこにあった。親父は尿バックを付けている祖母に向かって怒鳴っていた。まず、私は祖母が尿バックを付けていることに衝撃を受けた。私の知っている祖母は、腰を曲げながらもいつも立って歩いており、ニコニコしていた。私の見ている祖母は、2度と立つことが出来ない状態になってしまったため、尿バックを付けたようだ。あの元気な祖母はどこに行ったのだろうか。
怒鳴っている内容は2つ。祖母の銀行口座にあった金が一切合切引き抜かれていた事と、祖母がこれからうちで生活することを一切理解してくれない事である。
銀行口座に関しては、約2年間かけて、全ての金が姉によって引き抜かれていた。その金は祖母の介護費に使うものだと認識していた親父は、祖母に向かって怒鳴っていた。どうして止めなかったんだ。祖母は引き抜かれていた事自体あまりよく分かっていなかった。姉に全てを任せていたから、姉に好きなように使いなさいと言ったとかなんとか。私でも分かるこのやるせなさ。この怒りはどうすればいいか、私もよく分からない。
祖母がこれからうちで生活することを一切理解してくれない事もまた、深刻な問題であった。祖母の認識として、親父が無理矢理東京から連れてきたものだと言う日もあれば、ここはホテルで、数日後にはここを出ないといけないと言う日もあった。私は認知症の恐ろしさを知った。よくテレビで見た光景がいま目の前に広がっており、それをさらに煮詰めた悲惨な状況になっていた。
祖母が来て数日後のある夜中、私は親父の怒声を聞いて起きた。リビングに向かうと、既に私以外の家族は揃って親父と祖母を見ていた。親父は祖母に向かって怒鳴っていた。こっちも大変なんだ。夜中に頻繁にトイレに行きたいと言われても、起きて連れて行く俺らの身にもなってくれ。
私はこれが姉がもう見れないと言った理由かと痛感した。実際近くに設置したポータブルトイレに介護用ベッドから起こして移動させても、尿は尿バックに流れて行くだけである。便のほうであれば良かったのだが、その時はそうでは無かった。親父は怒鳴りつかれて、ポータブルトイレに座った祖母から離れた。私はゆっくり祖母の近くに行って、右手を繋いで満足したか尋ねた。それまで萎れた顔の祖母は、笑顔になって満足したよ。と返してくれた。こちらに来てから祖母との初めての会話だったかと思う。ある意味私の全てである、あまりイライラしない人間性が役に立った。少し離れてそれを見ていた親父は、何か分かったようだった。その日からは祖母に向かって怒鳴るようなことをしなくなった。
その日からは、祖母と私はよく右手を繋ぐようになった。私は祖母を介護ベッドからポータブルトイレまで持ち上げて運ぶのと、飯を食わせる役割を担った。それからの生活が苦に感じた事はなかった。祖母は飯を食べるし、大人しくなっていった。大人しくなっていったから、私たちも祖母と積極的に話す事が無くなっていった。私は祖母の顔を見て用を足したいかどうかまで判断が付くようになってしまった。必ず私からトイレに行くかと尋ねて、祖母はそれに相槌をうつだけになってしまった。だんだん少食になった時も、祖母のいらんの一言しか喋らなくなった。最期の方で喋らなくなったのは私のせいである。
祖母と生活をしていくうちに、ある事に気づいた。祖母は私の名前しか覚えていないという事だ。初孫かつ長男であるから、認知症の祖母であっても忘れなかったんだろう。言葉を話さなくても、私の名前だけは覚えて、呼んでいた。私だけである。親父や母親、妹の名前はさっぱりであった。祖母にあれだけ尽くした親父は、ヘルパーさんだと間違われていた。母親も妹も同じくである。親父に言われた、妹があまりにも可哀想だの一言は私の目を覚まさせた。私に言われてもという話ではあるが、親父も妹と同じ気持ちである事は確かであった。
1度だけ祖母と外出した。これから冬に入るから寒くなる前にということであった。駅前のDOUTORにいき、祖母は何も食べなかったが、一緒に時を過ごした。また春にでも行こうと言う話をして帰ってきた。大変幸せであった。
冬明けて春めいた頃に、もう一度一緒に外に出ようという話をしていた。私と両親の予定が中々合わず、時が過ぎた。そんなに先は長く無いからということで、次の日曜日無理矢理予定をこじ開けた。決まった日の午後、祖母は発熱し始めた。風邪でも怖いなと家族で話をしていた。そこから3日間祖母の熱は下がる事が無かった。尋常ではなくなった。3日目には心拍数が一気に低下しはじめた。予断を許さぬ状況になり、夜に雨の中救急車で運ばれた。私と親父が救急車に乗った。初めての救急車がこんな事になろうとは夢にも思わなかった。山の上の病院に着き、入院が決まった。医師からは今死んでも驚かない数値だと言われた。震えが止まらなかった。一旦は容体が落ち着いたとの事で、病院から帰ってきた。帰ってきた瞬間、祖母との思い出がフラッシュバックしてきて、崩れ落ちた。親父からはよく尽くしてくれた。後は医者に任せないとどうにもならないと慰められたが、そういう話ではなかった。あまりにも私には重過ぎた。祖母の存在は、いつの間にか私にとってとてつもなく巨大なものになっていた。入院すれば、まだコロナが跡を引いていた時であったため、見舞う事が難しい。いつ死ぬか分からないなんて言われて気が動転しない方がおかしい。
祖母の入院後すぐに見舞う日が決まった。学校は休みだった。昼から見舞いに行った。母親と親父と3人で行った。面会は30分のみ1日1回2人までの説明を受け、親父と共に病室に入った。祖母は2回りほど小さくなっていた。祖母は目を閉じ、口をめいいっぱい明けて苦しそうに息をしていた。口内を乾燥させないためにワセリンが厚く塗られていた。口を聞ける状況ではないのは明らかであった。親父は祖母の顔の近くで語りかけた。元気になるんだ。こっから出ないと。途切れ途切れになりながらも語りかけていた。私は祖母の右手を握る事しかできなかった。面会時間残りわずかで、祖母は少しだけ目を開けた。親父は驚き、声を掠れさせながら私を呼び、祖母の顔の近くまで寄せさせた。祖母は目に涙を浮かべていた。私は右手を握り嗚咽を上げるばかりであった。何もしてやれなかった。何もできなかった。そんな悔恨を今更祖母に伝えても伝えられない所まで来てしまった。
面会時間が終わった。私は看護婦に連れられて病室の外に出された。見かねた看護婦はもう1度面会してもいいと言ってくれた。親父は看護婦に感謝を伝え、母親と私で行ってこいと言ってきた。私はもう十分だから母親と行ってきてとだけ伝えて、その病棟から離れた。私は結局何も話せなかった、と意味もないことを考えながら椅子に座り1人俯いていた。親父と母親の面会時間も終わり、共に家に帰った。
入院して1週間経ったが、病院で心拍数を上げる薬を投与して命を繋いでいるだけであった。改善が見られる事はなかった。歳も歳だから仕方ない。親父は主治医と相談して、家に連れて帰る事になった。病院で先に死なれて看取れないよりかは良いだろうという判断だった。
祖母を迎えに病院に向かった。親父だけ病室に通され、私ら家族は病棟につながるスロープで待っていた。少しして、ストレッチャーに乗せられた祖母が、親父と医者に押されてスロープまで出てきた。親父はやっと家に戻れるでと笑いながら話しかけていた。
そのまま外に出て、私と親父は医者と共に、救急車とはまた違った、ストレッチャーを搬入出来る専用の車に乗った。母親と妹は病院に来た車で、後ろから付いてくる形を取った。
家に着き、ストレッチャーから祖母が前まで寝ていた介護用ベッドに移し替えた。若い医者が5分ほど様子を見て、安静である事を確認した後、祖母の袖を捲った。私はそれまで気づいていなかったが、そこには注射器と機械があった。その機械は注射器に入ってある薬を一定時間にゆっくり注入するためのものだった。医者はこの薬は心拍数を上げる薬なのだが、家での使用はできない為、ここで外す旨を伝えた。親父は再度家での使用は不可能である事を確認した後、お願いしますとだけ言った。医者は慣れた手つきで針を抜いた。血が滴る前に小さな絆創膏を貼った。そこから30分ほど、医者は家に滞在した。急激な容態の悪化に備えての事であろう。世間話をした。内容は家で看取れる事についてであった。今では家の畳の上でなんて難しい話だ。祖母は家に帰れてさぞ幸せだろう。そんな話だった。
そうこう言っている内に時間が過ぎた。医者が去り、家族だけになった。祖母は前見た時より楽そうだった。大きく口を開けて呼吸しておらず、ワセリンも不要だった。それでも息はしているので、定期的に耳かきサイズの棒で、その先端にスポンジのついたもので口に水を含ませてあげた。祖母はここから2週間ほど息をして、心臓を動かしていた。訪問医にも驚かれた。なんとなく回復しているような雰囲気であった。だがそれは1日2日程で終わり、目を閉じる時間も日に日に長くなっていった。また、祖母の腕は点滴によってパンパンに膨れ上がり、体液らしきものが染み出していた。この時から祖母からは明らかになんとも言えない臭いを漂わせていた。
ある夜、いつものように口を開けてもらい水を含ませていたが、突然強い力で噛み始めた。驚いて口を開けてと言っても聞かず、ついには唇から血が出てきた。数分後、口を開けてくれて収まったがこんな事は初めてだった。後で訪問医に聞くともう力の加減がままならなくなっているとの事だった。
死の2日前、祖母は尋常では無かった。介護ベッドの上で体が震え、目をガッと見開き、瞳孔をギョロギョロ動かしていた。何かを探しているようにも思えた。落ち着かせようと家族総出でさすり、言葉を投げかけた。震えは止まったが、目はまだ落ち着かない。息が荒くなり出した。どうして良いか分からないため、さするしか無かった。いつしか疲れたのか、落ち着いて目を閉じた。何となく、もう最期なんだなと思った。
祖母が死んだのは朝4時ごろだった。親父はその間際の少し前に介護ベッドから離れた時に1人で逝ったそうだ。誰にも心配をかけたく無かったからだろうか、誰にも見られていないところで逝った。5時に私と妹は親父から祖母が死んだ旨を伝えられ起こされた。もう既に死亡判定をされており、湯灌のためすでに介護士が来ていた。祖母は少し不満そうな表情をしていた。私はいつもの様に祖母の右手に触れた。温もりなんて無かった。介護士と共に私ら家族は祖母の体を温かい濡れたタオルで拭き取った。その途中、祖母の鼻から黄土色の個体が流れ出てきた。介護士はそれを吸引機で吸い取り、湯灌は終わったと告げて、私と妹をその場から離れさせた。その後、私は準備を済ませ、学校にいった。意外にも泣かなかった。祖母は死んだんだなぁと考えながら授業を受けていた。考えている内に授業はすぐに終わり、帰宅した。家に着くと介護ベッドの上の祖母の顔には白い布が掛かっていた。母親から火葬場が一杯で、体を焼く日がまだ決まっていないから、とりあえず家に置いとく事になったと言われた。本当は遺体安置所に置くのだが、最後の最後まで家に置いておきたかったのだろう。体には保冷剤が沢山つけられていた。私はしばらく立ち尽くした。私はふと気になり、母親の目を盗んで祖母の顔近くまで近づいた。そして顔の布を半分だけ捲り、祖母の顔を見た。鼻には白い詰め物が詰めてあった。表情は変わらず不満そうだった。私は手を祖母の瞼まで持っていき、瞼をこじ開けた。祖母の目は半透明になっていたが、その瞳孔は天井を見据えていた。私は安心し、瞼を閉ざした。そして元通りに顔に布を被せて何事もなかった様にその場を離れた。
火葬日が決まった。その1日前に葬式を行った。式場に入ると、祖母の笑っている遺影が目に飛び込んできた。駅前のDOUTORにいった時の写真だった。その瞬間、私は過去の祖母との思い出が涙と共に溢れんばかりに流れ落ちた。死の直後はあんなに何とも無かったのに。それほどにその写真は輝いて見えた。
遺影の前には真っ白な棺が置かれていた。棺に蓋はなされていなかったが、中を見る気にはなれなかった。葬式には母親の姉とその叔父さん、親父の姉と婚約者が来た。小さな葬式だった。葬式中は1度焼香をするために立つくらいで、それ以外は座って読経を聞くのみだった。読経をよく聞くと、漢文の書き下し文を読んでいる時とサンスクリット語を漢文体のままで読んでいる時があることが分かった。葬式は当事者にとっては辛いものだった。ふと前を向けば、我慢が効かなくなるほど心が揺さぶられる写真があり、音に至っては意味が分からないのだから。
葬式が終わり、母親の姉と叔父さんは帰ることになった。妹は久方ぶりの叔母さんに出会えて嬉しそうに話していた。私は式が終わった後、またあの写真によって動けないでいた。叔父さんは私に気を利かせて、後ろから肩を叩いて、またこいよとだけ言ってくれた。私は声も出せず頷くのみであった。
葬式の次の日、出棺する前に、最後のお別れの時間が設けられた。棺の中を初めて見ることになった。2,3日ぶりの祖母の顔を見ると、笑っていた。血のこびりついた前歯がチラリと見えた。写真と同じ優しい表情になっていた。今にも起きてきそうであった。その体の周りに、花を添える様に促された。体には花束を敷き詰め、顔まわりには赤いツツジの花を添えた。すっかり物語に出てくる様な花嫁姿になった。後は蓋をするのみとなった。蓋をすれば、2度とあの顔は見れなくなる。脳裏に焼きつく祖母と、目の前に横たわる祖母とが重なり、ぼやけて見えた。
祖母の棺に蓋がなされた。お坊さんがおりんを鳴らし棺を先導して出棺となる。この日も雨が降っていた。霊柩車には親父とお坊さんが乗り、私と母親、親父の姉と婚約者は車で後ろから付いて行くことになった。助手席に座った私は、前の霊柩車が出るのを待っていると、外から親父が窓を叩いてきた。何事かと思うと、遺影と位牌を渡してきた。これを抱えて座っとけと言われた。あの式場の写真と全く一緒だったが、今回は何とも無かった。親父が霊柩車に乗り込み、出発した。火葬場まで20分ほどあったが、後ろに座っている人たちは一切喋りかけてこなかった。
火葬場に着いた。またお坊さんがおりんを鳴らし棺を先導した。火葬場は初めてのはずだった。何か既視感があった。火葬場は嫌に黒光りした床で、ガラス張りの高い天井があり、ずっしりとしたエレベーターの様な扉が横に5つほどあった。棺はその扉の中に入れられて、焼かれるそうだ。火葬室からは常に重々しい音が火葬場内に響いていた。焼く準備は万端であることを示していた。棺が火葬室に入って行く。最後のおりんを叩く音が鳴り響いた。その音が壁に染み付き聞こえなくなったぐらいの時に、火葬室の扉がゆっくりと動き出した。最後まで棺を片時も見離さなかったが、何も起こらなかった。やがて扉が閉まった。この世とあの世との境目を見た様な感覚に陥った。
私が読む本のストーリー上の葬式では、大抵葬式に来た人が集まって、故人を偲びながら飯を食うイベントがある。精進落としは普通火葬して骨上げの後にする様だが、私の場合は火葬して焼き上がる最中に精進落としをした。形式に乗っ取るよりも故人を思う心の方が重要だともっともらしい理由をつけておこうと思う。
母親の姉とその叔父さんは、祖母と面識が無い以上精進落としの場で話すことが無いので、帰るのは分かる。親父の姉と婚約者に関しては話す事、積もる話があるだろう。彼らは何故か親父の飯の誘いを断り、2人でどこかに行ってしまった。私も子供ながらに思う事はあるのだが、確かに祖母の骨折の事を隠して悪かったなんて話にもなれば、それこそ飯と機嫌がまずくなる。祖母の話が聞きたかったが、むしろ断ってくれてありがたいかと思うことにした。
そんなわけで、精進落としは家族3人で行った。と言っても、ただの外食だった。骨上げには帰ってくるという約束で、妹のみ学校に行ってしまった。私はせめて形だけでもと思い、天麩羅がメインの和食定食を選んだ。両親は訝しんだ。天麩羅だけでいいのかと聞かれた。まるで坊ちゃんにでもなったかの様だった。私はこれでいいとだけ答え、注文した。料理が来て、会話は親父の姉と婚約者の話になった。いくら気まずいからと言って、飯を一緒に食わない神経がわからん。そんなつまらない話よりかは、私は昔の祖母の話が聞きたかったが、大体知っている話しか出てこなかった。知っている話でも、あの式場の写真が脳裏にちらつくのもあってか、胸をいっぱいにするには十分であった。寂しくなるなと改めて感じた。
店を出て、学校から帰ってきた妹を迎えいれ、火葬場に向かった。既に親父の姉と婚約者は火葬場に着いていた。6人での骨上げが始まる。長さが揃っていない違い箸を持たされ、あの世の扉がゆっくりと開かれた。真っ白な棺の姿は無く、元から入っていた可動式の台が引き出された。6人の前に台が運ばれた。どうにか人体の形を模した白骨があった。火葬場の人から大体の体の骨の位置の説明を受けながら骨を上げていった。喪主の親父が最初につま先と踵の骨を違い箸で骨壷に入れた。次に母親が脛骨を骨壷に入れた。その後、私は運命の悪戯を目の当たりにした。親父の姉と婚約者が、骨折した大腿骨を違い箸で摘むことになった。骨は2,3センチほど上がった所でほろほろと崩れ落ちた。骨折していない方の大腿骨の方に回って骨上げをした。その後骨盤と背骨の一部を入れた後、私が右手の骨を、妹が左手の骨を上げた。意外と骨は硬かった。最後に歯のついた顎の骨と、頭蓋骨になるが、頭蓋骨の目の位置にピンク色の色素が着いていた。火葬場の人からはツツジの花の色素がこべりついたものだと解説してくれた。それと、この様に歯が綺麗に並んでいることは珍しい。歯を大切になさった証左ですと伝えられた。頭蓋骨丸々入れることはできない様だった。なので火葬場の人が頭蓋骨の天辺をかち割ってくれた。その中でできるだけ平べったい頭蓋骨の一部を、今まで入れた骨の上から被せる様に骨壷に入れた。骨壷は蓋をして、白い荘厳な布巾着に入れられた。骨上げが終わった。白い布巾着は私が持つことになった。見かけによらず重たかった。親父の姉と婚約者は、タクシーで帰ると言い張り、火葬場に残して私ら家族は帰った。家に着いて骨壷をとりあえず棚の上に置いた。骨壷は墓がないので未だに棚の上に置いてある。ある意味身近にあった方が安心であるような気がしている。
それから少しの間、私は穴が空いた様な感覚に囚われていた。何とか慰めたく思い、祖母の残したものは無いか探した。祖母のカバンがあった。私はカバンには全く興味が無いので、何か無いか中を漁った。私の興味があるもので唯一残っていたのは、ハンカチだった。まだ祖母の匂いがした。私はその匂いで穴を埋めようとした。その匂いはいつしか薄れて、ある時ふっと消えてしまった。この世から完全に祖母を形作るものが無くなったと感じたのは、祖母が死んでから1ヶ月半後くらいであった。
祖母が逝った後の事である。学校での国語の授業で短歌を作る事になった。和歌は人の死を悼むためにも詠まれるものなので、私もそれに倣うことにした。とりあえず赴くままに一つ。左様なら/風吹き碧天/桜舞う。字余りはあまりよろしくないので、左様なら/吹く風に乗る/桜かな。これに満足し、続きを考えたが全く思いつかなかった。さてどうするかと悩んだ結果、もう一つ作ることにした。季節は梅雨明けくらいであったため、梅雨明けど/いまだ村雨/我が心。さらに、理由をつけたかったため、老いたる木々の/枯れたる姿。私は心の中で何回か唱えなかなかいい出来じゃないかと自画自賛し、これを提出した。教師はこれを読んで漢人の某とかにそっくりだ。何だ彼の作品を知っていたりするのか。それでも良いじゃないかと褒めてくれた。私は自尊心が満ちるのを実感した。その後、級友の秀逸な短歌を集めて掲載したプリントが配られた。ある者は明日に期待する、別の者は部活終わりの夕焼けを望んで、といった青春を詠んだものだった。だが、私の短歌だけあまりにも陰湿で、暗いものであった。一通り短歌の解説が行われたが、私のは私が教師から説明を受けたことと全く同じ解説が皆の前でなされた。本当にうちの級友が書いたのかと疑われた。何となくぞくっとした。突然今感じた様な前から感じていた様な疎外感に苛まれた。どうやらかなり自尊心が傷つけられたらしい。それ以降自己表現をしなくなったとさ。
無題 石ころ @deep-osakana
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