そして桜の樹の下で眠る

楠木夢路

第1話

 昨日までいつもと変わらない日常だった。

 今日も何一つ変わりない日常のはずだった。今朝も康介はいつも通りに出勤して、いつも通りに仕事をしていた。

 変わらない日常に綻びをもたらしたのは、妻の静江がかけてきた一本の電話だった。昼休み前になる少し前、電話をかけてきた静江の声は緊張感を含んでいた。

「お義母さんの様子がおかしいの。救急車を呼んだから、搬送先の病院が決まったらすぐにまた連絡します」

 電話口から静江の動揺が伝わってきたが、康介はたいしたことはないだろうと高を括っていた。

 康介の母である正子は年の割に足腰もしっかりしていたし、大きな病気をしたこともない。週に三、四回はデイサービスに行っていたが、本人は「暇つぶしだ」と言っていたし、身の回りのことも自分でほとんどこなしているようだった。

 それでも静江は「放っておけないから」と事あるごとに正子の家に出かけては、食事を作ったり、掃除したりと正子の世話を焼きたがり、挙句に「いっそのことうちに来てもらえばいいじゃない、子供たちも自立して部屋だって空いているんだし」と言い出した。

 せっかく「スープの冷めない距離」でいい関係を保っているのにと康介は内心思っていたが、静江が熱心に勧めることもあり、正子に同居の提案をしてみた。

 しかし、案の定、正子は頑として首を縦に振らなかった。

「嫌ですよ、同居なんか。一人でいるほうが気楽でいいに決まっているでしょ」

 取り付く島なく、そう云い張る正子の強情さに康介はすっかり辟易していたが、同時に一人住まいを楽しんでいられるほど正子が元気なことに安堵していた。

 つい二日前の日曜日も康介夫婦は正子を誘って買い物に出かけたばかりだった。

 買い物ついでに外食しようということになり、正子のリクエストでウナギを食べに行った。正子はぺろりとウナギを平らげて愉悦に浸っていた。

 その時も正子はすこぶる元気そうだったから、今頃はきっと静江の心配性を笑っているだろうと康介は悠長に構えていたのだ。

 いつも通りに昼食をとるつもりで康介が社内食堂に足を踏み入れた時、再び電話が鳴った。

「かなり危ないそうよ。すぐに来てください」

 とりあえず食事を諦め、午後は休暇を取ることにして康介は病院に向かった。静江の緊迫した声を聞いても、康介はまだ心の中ではどこか楽観的に構えていた。

 だが、病院に着いた康介は愕然とした。

 意識のない正子の口元には酸素マスクがつけられており、胸元につけられた何本かの線が心電図のモニターにつながっている。顔面は蒼白で血の気もない。

「あなた……」

 枕元に座って、正子の手を握っていた静江が康介に気がついて振り返った刹那、心電図のモニターが警告音を発した。

 びくりと体を揺らした静江が立ち上がると同時に、数名の看護師と医師が部屋に飛び込んできた。看護師が静江に離れるように指示すると、すぐに医師が心臓マッサージを始めた。

 康介は為すすべもなくただ立ち尽くすばかりだった。

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