第16話 平城宮跡(遣唐使船)

 前回は平城宮跡をご紹介しました。実は平城宮跡の一画(『朱雀ひろば』の南西側です)には、復原された遣唐使船が展示してあるのです。ボク、こういう昔の船なんかの展示って大好きなので(笑)、さっそく乗ってきました。ちなみに、乗船料は無料ですよぉ~。。


 では、今日の近況ノートをご覧ください。

 https://kakuyomu.jp/users/azuki-takuan/news/16818093084589710589


 ①番が遣唐使船の側面です。写真の右側が前、左側が後ろになるそうです(説明を読んで知りました)。で、甲板の上に三つの建物が乗っていますね。これは、右から(すなわち、船の前方から)、雑居部屋、まかない部屋、遣唐大使の部屋です。それぞれ、黄色、ピンク、白の矢印で示しています。この矢印は、各写真で共通ですよ。


 で、②番が前方から見た遣唐使船、③番が船の後方部分です。


 でも、この遣唐使船って、どのくらいの大きさなんでしょうか?


 船の入り口に説明がありました。それによると・・


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遣唐使船の諸元

全  長:30m

全  幅:9.6m

排 水量:300トン

積載荷重:150トン

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 ・・なんです。長さ30m、幅10mですから、結構、小さいですよね💦


 その横には、『復原に当たって』という説明板がありました。


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復原に当たって

 遣唐使船の資料は公式記録として残っていますが、その往復に使用した「船」に関してはほとんど資料がなく、どのくらいの大きさかを示す数字は残っていません。

 大きさを推定する手掛かりとして、奈良時代の資料に約600人を4隻の船で派遣したとの記録があります。船の大きさが同じだったとすれば1隻あたり150人、航行中は何人かは起きているでしょうから、約100人が寝るために必要な面積を考えると、船の長さは25m~30m、幅は長さの1/3~1/4程度として7~10mとなります。この大きさであれば、150人分の水と食料や荷物などを積むのに十分な容積でしょう。

 遣唐使船として教科書などに出ている絵は、大部分が「吉備大臣きびだいじん入唐にゅうとう絵詞えことば」という絵巻物の絵ですが、この遣唐使船を描いた最も古い絵巻物は、最後の遣唐使派遣から400年程あとになって描かれた絵です。この頃には宋の商人が博多に来ていましたから、宋の船を参考に描いた可能性があります。しかし、実際に唐に派遣されていた時代の資料はありませんから、確かな根拠もなしに見慣れた船と違う船を造るのは避けて、「吉備大臣入唐絵詞」と同じに見えるような船を造っております。

 初期の遣唐使船はともかく、奈良時代の遣唐使船は2本の帆柱に網代帆あじろほを上げていたのは間違いないでしょう。なお「続日本記しょくにほんぎ」に百済船くだらせんの建造の記録がありますので、当時の百済船は優秀だったのでしょうが、それがどんな船だったのかも、残念ながらこれも資料が残っていないのです。

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 150人が、こんな小さな船に乗っていたんですね。。どへぇぇぇぇ💦


 では、遣唐使船で、唐に着くまでどのくらい掛かったのでしょうか? アホバカcopilotに聞いてみました。


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アホバカcopilot

 遣唐使船が唐に到着するまでの時間は、航路や天候などの条件によって異なりましたが、一般的には片道の航海に約5ヶ月から6ヶ月かかっていました。例えば、659年に日本を出発した第4回遣唐使は、往路に約5ヶ月、復路に約6ヶ月を要しています。

 長い旅路ですね! 遣唐使たちは、唐の文化や技術を学ぶために多くの困難を乗り越えていたんですね。興味深いと思いませんか?

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 ぎゃび~ん!・・5ヶ月から6ヶ月ですって!


 でも、別のネットサイトには以下の記事がありました。


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 渡航ルートは朝鮮半島沿いに進むルートや東シナ海を横断するルートなどがあり、所要日数は順調であれば10日以内だったそうです。 遣唐使船は搭乗員数が100~150人ほどの、長さ30メートル程度の木造帆船です。

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 こちらの記載は、なんと10日です! 全然違うじゃんか、アホバカcopilot!


 こんな小さな船で、5ヶ月から6ヶ月も航行するのは無理でしょうから、きっと、10日が正しいんでしょうね(笑)💦


 もう、copilotって、本当にアホバカですな(笑)!


 では、気を取り直して(笑)・・・先へ進みましょう。


 ④番はまかない部屋です。以下が、部屋の前に掲示してあった説明です。


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まかない部屋

 「吉備大臣きびだいじん入唐にゅうとう絵詞えことば」などの遣唐使船の絵には、甲板の上に三つの屋形があります。船尾の屋形は遣唐大使の部屋として、真ん中の少し小型の屋形はかまどえて火を扱っていたのではないかと想像しています。

 遣唐使船では公開中に何を食べていたのか正確な記録はありませんが、1日あたり干飯ほしいい(ご飯を乾かしたもの)1しょうと水1升を支給した記述がありますから、これが主食でそれに何かの干物などを食べていたと考えられます。干飯に水を掛けてもなかなか柔らかくなりません、多分お湯を沸かして皆に配ったのでしょう。

 航海中に火事を出した記録もあります。夜に明かりを灯したのかもしれませんが、お湯位は沸かしたと思います。

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 ⑤番が一番後方にある遣唐大使の部屋ですね。今日は現地にある説明板の記載を引用してばっかりですが・・・アホバカcopilotの説明がウソっぽいので、ご勘弁を(笑)💦


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遣唐大使の部屋

 帆船では船尾に近いところに位の高い人の部屋を設けていました。この遣唐使船でも、三つある屋形の一番後ろの屋形が遣唐大使の居室だったのではないかと思います。大使は高官の貴族であったため、大使だけは一人で一つの居室を使っていたでしょう。

 ただし、三つの屋形とも甲板の下に空気や光を入れるため、甲板を大きく切り抜いていたはずですから、少なくとも昼間は明り取りのために蓋を開けていたに違いありません。そう考えるとたいして広かったとは言えないかもしれません。

 絵巻物ではこの上に太鼓を描いている絵があります。櫓を漕ぐときに太鼓を叩いて合図したのでしょう。頭の上で太鼓を叩かれてはと少々気の毒になります。

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 ⑥番の写真は、船の一番後方の部分です。遣唐大使の部屋のすぐ後ろ側ですね。


 ⑦番は網代帆あじろほと呼ばれる帆です。写真をご覧いただくとお分かりになるように、竹を薄く削ったものを編んであります。


 そして、⑧番と⑨番の黄色の矢印が雑居部屋です。では、部屋の前にあった説明です。


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雑居部屋

 現代の船旅では個室に寝泊まりしていますが、18世紀頃には個室を持っていたのは船長くらいで、それ以外はお客さんでも大部屋で雑居でした。今でもフェリーには料金の安い大部屋でゴロ寝の客室があります。

 遣唐使船の時代には、もちろんほとんどの人は甲板の下の積み荷の間などで寝ていたのでしょう。

 甲板の下に棚を吊って寝るようにしていたかもしれません。

 甲板の下は屋形の中に空けた穴からの光だけで薄暗かったでしょう。留学生や留学僧といった人たちは航海中は何もする事がありません。昼間は屋形の床に空けた明り取りの穴の周りに座り込み、木の実などをかじりながら議論していたのではないかと想像してしまいます。

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 最後の⑩番と⑪番はマストですね。さすがに、マストは立派です!


 さてさて、皆さん、遣唐使船は如何でしたかぁ? 悠久の昔に、思いをはせることはできたでしょうか?


 さて、今日はここまでです。


 今日もお付き合いをいただいて、ありがとうございましたぁ~💛


     (つづく)

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