第4話 ジャンの推理

 貴族学校の廊下に西陽にしびが差し込む、夕方。


 数学の講義を終えたジャンが、使用した教室の扉の鍵を閉める。先ほどまでの、やる気のない男子生徒たちが終業のベルとともに歓喜の声を上げてゾロゾロと帰っていった光景に、ジャンは胸中で何度もため息を吐いていた。


 多くの男子生徒にとって数学は必須科目でありながら苦手分野であり、落第の原因となることも少なくない。ジャンはカンニング対策で定期試験を口述にしたため、不真面目な生徒たちからの評判は最悪だった。そのせいで、貴族の子弟は貴族ではないジャンをあからさまに見下し、直接公言はしないもののジャンがド・ヴィシャ侯爵の愛人の子だと陰口を叩いていることも、ジャンは知っている。


 それが成績に関係のあることならともかく、あいにくと何ら関係なく、貴族学校の多くの講師と同じくジャンには賄賂が一切効かない。当たり前だが、定期試験の点数が足りなければ単位は与えられず、やむなくジャンは三回までの追試開催を受け入れたが、それでも嘆かわしいことにダメな生徒は一定数いた。


(家庭教師が付けられる貴族には、基礎科目の数学くらい簡単だろうと思っていたが……あんなに出来の悪い貴族の子どもたちが野放しにされていいのか? まったく、将来に何の希望もない)


 果たして自分の勉強や研究の時間を割いてまで貴族学校の講師を務める意味はあるのか、とさえジャンは考えてしまうが、当初の目的を思い出して冷静になる。イースティス王国に革命を起こすような『鬼才スター』の存在、その人物を探す目的は、ジャンが革命を望んでいるだけではなく、会って話をしてみたいからだ。


 この幻滅するような貴族社会を変えてしまう、燦然と輝くであろう『鬼才スター』は、一体全体どのような人物なのか。想像もつかないような人となりなのか、人智を超えたような存在なのか。すでに大半の人間が自分よりもはるかに劣ることを知ってしまった天才にとって、それは一度ならず失ってしまった未来への希望たりえた。


 侯爵の婚外子、という身分を嘲られて育ってきたジャンは、実力で見返すほかに生きる道はなかった。幸いにして数学をはじめとする才能に恵まれ、実父の目に留まったことで国立大学校へ進学できたものの、それでもなおジャンの実力以外のところで足を引っ張ってくる有象無象はいる。その中には、身分社会の頂点にいる王族さえもジャンの生まれを馬鹿にして、どれほど実績を挙げても存在を無視する人間がいるというのだから、どうしようもない。相手は理屈や理論で倒せず、ジャンの手の届かないところから石代わりに権力で障害物を投げつけてくるし、止める術はない。


 それが嫌なら、この国と社会を変えるしかないのだ。もしくはジャンは独り、理想的で住みやすいどこかの国を求めて去っていくしかない。


 そのどちらも、常人には手の届かない夢のようなことだ。才能だけでは人を率いることはできず、理想郷はどこにもないと相場が決まっている。


 であれば、どうすべきか。迷った挙句、ジャンは貴族たちの中にいる、イースティス王国を変革することを望む『改革派』という人々に辿り着いた。正確には、改革派の中心人物であるエールヴェ伯爵が「同志にならないか」とジャンへ声をかけてきたのだ。改革派の思惑はさまざまだろうが、ジャンは現状を変化させる最初の一歩として、とりあえず手を取ったのだ。


 正直に言えば、ジャンは誰かの手先になることを好まないが、自分が才能以外無力な人間だということは分かりきっている。金も身分も権力もなく、まだただの学生に過ぎない。ド・ヴィシャ侯爵家預かりという身分は瑣末さまつなもので、侯爵家の一員と認められているわけではないし、問題を起こせばすぐに剥奪されるものだ。エールヴェ伯爵にしたって、今はいい顔をしていても、ジャンが使えないと分かれば即座に手を切るだろう。


 そんな現況を、ジャンが憂えずにいられるわけがなかった。夕日のあかさが寂しく、年相応に家に帰りたいと願っても、もう母のいた家はない。ジャンの母は療養のためとしてド・ヴィシャ侯爵領に送られてから年に一、二度手紙のやり取りをするだけで、国立大学校の寄宿舎にある狭い自室は周囲が騒がしすぎて夜もまともに眠れない。あまりの騒々しさに嫌気が差して、宿屋に比べて料金の安い娼館に間借りしたこともある。もっとも、宿屋の宿泊費に比べて下層の売春婦を買うほうが圧倒的に手頃だからであり、ジャンは買った売春婦を追い出して娼館の部屋のベッドだけを使っていた有様だが。


 ジャンが教室の鍵を校舎の管理人へ渡しにいこうとした、そのときだった。


 背後から、声がかけられたのだ。


「ジャン=ジャック・マードックか?」


 ジャンが振り返る暇もなく、いつのまにか目前に一人の男がいた。背後にも一人、さらに少し離れたところに周囲を警戒するもう一人がいる。どの男たちも上背があり、鍛えていることは一目瞭然だ。同じ錆色のトレンチコートを着て、同じ黒のフェルトの山高帽を目深に被っている。


 目の前の男が、短くこう言った。


「同行願おう」


 身動きが取れないジャンは、その頭脳を回転させはじめる。


「何だ、君たちは……どこの兵士だ?」


 目の前の男の容姿から判断できるのは、ではなく、、だ。


「近衛兵でもなく、どこかの騎士団というわけでもない。だが、熟練の兵であることは確かで、拉致誘拐に長けているわけではなさそうだ。同行を求める理由を話してもらえれば、協力もやぶさかではないが」


 素早く目線を動かし、ジャンは取り囲む男たちの素性をできるかぎり推量する。だが、それだけでは決め手に欠ける。


 ところが、この緊迫した雰囲気を、男たちが自ら壊した。


「どうする?」

「どこから話す?」

「うーん、困るな」


 三人の男たちは、何とも困った様子で首を傾げ、素直にジャンの提案に従って理由を説明しようとしはじめたのだ。


 目の前の男が、考えながらしゃべる。


「えー……ある少女がいて」

「少女?」

「馬鹿、もう少女という年齢じゃないだろう。立派なレディだ!」

「いや、俺たちの中ではいつまでも出会ったころのままだ!」

「そういう問題じゃない!」


 まだ始まったばかりなのに、ジャンを放って、あっという間に話が飛んでいった。少女、立派なレディという単語しか分からない。


 しばし待っていると話がひと段落したのか、あるいは諦めたのか、男たちは気取ることをやめて話を端折った。


「とにかく、その少女が貴様と話をしたいものの、話しかけるきっかけがなくて困っていると聞いた」

「は?」

「もういい、無理矢理連れてこいとは言われていない。なあ、今日は時間はあるか?」

「明日の講義の準備がある」

「なら、終わったあとでいい、大通りの乗合馬車でこの住所まで来てくれ。少し遠いが、帰りは送ろう」


 謎の男三人は、結局フランクなおじさんに変化しつつ、ジャンへメモを渡した。廊下の先から足音がしたため、瞬く間に去っていく。


 すっかりジャン以外誰もいなくなった廊下で、ぽつねんとジャンはつぶやく。


「何だったんだ……?」


 ジャンの手にはちゃんと走り書きのメモが残っており、先ほどの出来事が現実だったことを証明している。


 夕方のひとけのない廊下で、謎の男三人に取り囲まれ、要領を得ない話をされた挙句にメモを残された。この奇妙な出来事は一体、とジャンが悩んでいると、足音が近づく。ヒールの音だ。


 顔を上げてみれば、見知った顔のユーギットだった。女子寮の監督生をしているユーギットは、一日の講義終了後の校舎の見回りも担当している。まだ残っているジャンを見つけて、ユーギットは意外そうだ。


「ジャン、どうしたの? 早く帰らないと門が閉まるわよ」

「ああ。準備をしてくる」


 さすがに、今さっき不審者たちに囲まれて、などとユーギットに話してもしょうがない。ユーギットに見られないようメモを手のひらの中に咄嗟に握って隠したジャンは、まだ悩みが尾を引いていたが——ユーギットの「ああ、そうだった」という声に、意識が現実へ帰ってくる。


「ねえ、ジャン。お父様が手紙の返事はまだか、とおっしゃっていたのだけれど。私は手紙の内容までは分からないし、なるべく早くお返事を出してあげてちょうだいな」


 それだけを言い残し、ユーギットは校舎の見回りに戻っていった。


 数日前に受け取ったエールヴェ伯爵からの手紙は、改革派貴族の集会に来ないか、というお誘いだった。さすがにそこまで深入りすることは躊躇われ、当日になってもまだジャンは返事を出していない。


 ジャンはわずかに頭を横に振り、選択を迫られていることに苛つきつつ——その隙を見越したように近くの教室の扉が開いて、山高帽の男の一人がひょこっと顔を出した。


「言い忘れたが」

「うわ!?」

「すまんすまん。夕食は抜きで頼む、用意してあるんだ」


 どうやら伝え忘れたその一言のために、戻ってきたらしい。


 驚かされたジャンは、少し苛立って突っかかる。


「僕をどうしたいんだ?」

「招きたいんだ」

「ならもっと情報を開示してくれ。状況がさっぱり分からない」

「それは無理だ。俺たちだってどこまでどうしていいか分からん。だが、何もしないでいられるほど情のない間抜けじゃないんだ」


 いい加減、ジャンも腹に据えかねてきた。言いたいことがあるなら……というよりも、何かをするつもりがあるなら、まずはいつWhen誰がWho何のためにWhatどこでWhereどうやってHowをきちんと伝えるべきだ。所詮は原理原則論だが、ジャンはそう考え、閃いた。


 相手が言わないのなら、与えられた情報で推測するまでだ。


 ジャンは手のひらのメモを広げ、そこに書かれた住所だけでをすぐに突き止めた。それだけではない、男たちの言動、行動、心情、そのすべてから、招待主まで見当をつける。


「住所は郊外の大兵営、僕や侯爵家とはまったく関係がない。おそらく年頃の少女が僕と話したがっていて、周囲の誰かが気を利かせて僕を招こうとしている。夕食に招き、家に帰すつもりはある。となると……大体見当はつく」


 自分と何らかの関係のある有力な家出身の年若い異性は、ユーギットのほかには一人しかいない。いや、正確には関係が築かれる前だが、それでも繋がりはある。


 ド・ヴィシャ侯爵家から勧められていた、まだ進展のない婚約話。その相手の名前くらいは憶えていた。


「彼女……セレネ・サンレイへ伝えてくれ。招きには応じるが、僕は君と婚約するつもりはない、話は断るつもりだ、と。それから、君に迷惑をかけたくない、とも付け足して」


 それだけを言い残し、ジャンは踵を返した。


 さっさと明日の講義の準備をして、大通りで待合馬車に乗って大兵営へ行って——セレネとは婚約しないことを伝えなくてはならないのだから。

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