第2話 絵の中の人魚
「出て行け」私が叫ぶと妻は悲しそうに私を見つめた。
そして次の瞬間、妻は私を哀れんでいるようにも見えた。
私は、切り裂かれた人魚の絵を額ごと抱えると、その場に座り込んだ。
その喪失感は、妻なのか、絵の中の人魚なのか分からなかった。
私の家は古く、そして大きかった。
子供のころの私はかなり内向的な子供で、家の中を探検するのが私の日課だった。
友達もほとんどいなくて、家にはたまにしかいない父と、私の世話だけをする使用人がいるだけで、遊び相手にもなってくれなかった。
そんな中で父の書斎は古く、骨董品のような文具が飾られていた。
そうなのだ、まさに飾ると言うのが正しい。
実際父がここで何かをしていたことを見ることはなかった。
そのおかげで、ここは私のお気に入りの遊び場になった。
父がどういう意図でこの書斎を作ったか分からなかったが、そのおかげで、私が何をしても、父が私を叱責することはなかった。
父の書斎に裸婦のブロンズ像があり、孤独な私は、その像に名前をつけて、勝手な想像で会話をして遊んでいた。
会話をする相手は、複数存在していて、書斎の像、玄関の虎の屏風。
中でも私は人魚の絵に強い執着をした。
階段を降りたたところに、古い人魚の絵がかかっていた。
その絵の価値は分からなかった。
でもその人魚が私にとって最も大事な物になった。
私に母はいなかった。
イヤ家族という者もいなかった。
父さえも、家族とは思えなかった。
母は父の妾で、私を産むと、この家を追い出されてしまった。
兄はいたが、病弱で案の定、早いうちに他界してしまった。
おかげで冷遇されていた私は、この家の跡取りということにはなったが、父から愛情を注がれることはなかった。
初めから孤独だと、孤独という感覚は生まれない。
いや、ないと思っていただけだった。
その証拠に、私は階段の下にかかる人魚の絵を、心の拠り所にした。
夜明け前から、夜明けに掛けてちょうど朝日が当たり、絵の中の人魚は怪しく浮き出ていた。
子供のころはその人魚は母だった。
そして成長するにしたがって、それは母ではなく、姉になった。
そして幼なじみとなる。
そのころになると私は人魚に恋をしたから、小さい私は、踏み台を絵の前に持ってきて、人魚に口づけをした。
人魚は美しく。
気高く。
それでいて、慈愛に満ちた目をしていて、何があっても、決して私を裏切らない。
私に友人は必要なかった。
私には人魚がいさえすれば良い。
毎朝夜明けに、人魚におはようと言う。
そうすれば人魚は、私におはようと言ってくれる。
そしておはようのキスをする。
そして学校に行けば、何も考えていないような子供ばかり。
たまに話しかけられても、会話がつながらない。
そして自然と離れていく。
でも私は孤独であったが、孤独を感じることはなかった。
家に帰れば人魚がいるから。
「だだいま」そう言えば
「おかえりなさい」と人魚は答える。
「今日はまた。教室の人間が僕から離れていった。あんなやつら子供で、何も考えていない、くだらない奴ら。あんなやつらと接触するなんてこっちから願い下げだ」私は人魚に吐き捨てるように言う。
すると絵の中の人魚は私に話しかけてくる。
「そうよ、あなたは選ばれた人なの。そんなくだらない子供たちと、あえて友達になんてならなくていいのよ。あなたにはわたしがいる。今までだって、これからだって、ふたりでこの家で暮らしていけば良いのよ」そうやって私は人魚とだけ会話をして成長していった。
人魚は恋人から妻になっていた。
相変わらず私は人魚となら、何でも話せた。
なのに私は現実の妻を、この家に迎え入れなければならなくなった。
妻は私に本当に良くしてくれた。
でも私には絵の中の人魚がいた。
そこでの会話は本当の妻との会話とは比べようが無いほどなめらかで、従順で、甘美だった。
妻との会話は、ただでさえ、なめらかとは言えなかったのに、さらにぎこちなくなり、隙間が空くようになっていった。
そもそも妻との間には、大きな溝が存在していて、それを妻だけが埋めようとしてくれていた。
なのに、私は何の努力もしなかった。
人魚の方ばかりを見て、本当の妻を見ようとしていなかった。
そして事件は起こった。
妻がカッターで人魚の絵を切り裂いた。
それは人魚への嫉妬だった事に、切り裂かれて初めて私は気付いた。
妻はこんな私を愛してくれていた。
でもそれに気付いても、私は人魚を切り裂いた妻を許せなかった。
妻が切り裂いた人魚が、恋人だったはずなのに、その時の人魚は、夜明けと共に泡になって、私の思いと共に消えて行った。
残ったのは抜け殻となった、綺麗な絵だけだった。
私はその時、最も大事な物を失った事に気付いた。
それが妻だということが驚きであり最大の恐怖になった。
私はその大きな喪失感でそこから動けなくなった。
そして朝日で、妻すらも、泡になって、消えてしまったことに気付いた。
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